『狗奴国解明早わかりガイド』 なんと二か国ありました。 本文へジャンプ
      卑弥呼Xファイル・メイキング
黒澤一功の
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Symbols are language that can help us understand our past.」 シンボルは言語であり、過去を理解する助けとなる。(ダビンチ・コード)

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『漢書地里志西域傳』の里数解明は左タブ下。

魏志倭人傳の一里を数式で解く!「余」の字を実数化する。
地域固有の一里の単位実数を計算します。(東夷里)
Stip1>魏志倭人伝の里はすべて点と点を結んだ直線距離です。(自~至~構文のの法則)
Stip2>魏志倭人伝の里数についている「余」の字を数式化します。
【定義】
α=”余”(プロパティ数値)
x=”郡から末盧國まで”==10000(余を除いた合計値)
b="末盧國から伊都国まで"=500
y==12000
上記の定義より次の数式を立て、α=余の割合を求めます。
【一次関数】 @Ikko Kurosawa 2020/05/13
α=(y-b)/x
【余の乗数】
α=1.15
αの値が分かれば魏志倭人伝の区間とその合計の値を数式で割り出すことができます。
郡から加羅韓国(金海)まで483km(Googleでの測定値) 里数は7000α=8050 
483÷8050=0.06
一里は0.06kmとなります。この値は「東夷里」と呼ぶことにします。検証は次章の「里程論」で詳しく説明します。東夷里は倭韓、楽浪郡、帯方郡の領域で適用でき、一般的に再現性をもつ定数です。

倭里論-以下論理式

1.~余里の余をαと定義します。"余"=α
2.α=1.15
3.("帯方":"狗邪韓国","余里")=7000*αと式にします。
4.a=("帯方":"狗邪韓国","余里")=7000*α=〔7000x1.15〕=8050
5.b=("狗邪韓国":"末盧國","余里")=3000*α=3450
6.a+b=("帯方":"狗邪韓国","余里")+("狗邪韓国":"末盧國",余里")=8050+3450=11500
7.c=("末盧國":"伊都国"",里")=500
8.("帯方":"伊都国","里")=a+b+c=12000
9.("帯方":"女王国","里")=("帯方:伊都国","里")=12000
10.x=("帯方":"狗邪韓国")〔,GPSの距離〕≒483km/a(8050)=0.06m

*()内の式中に,里だけとあり余なしの場合はそのまま実数値となります。
*9.総距離は区間距離の合計と一致するという定義が成立します。
*10 .xの値は一里のメートル換算値です。倭人伝では一里60メートルとなります。
前提となるαの規定値はタグ「狗奴国を暴く」で地図上で検証しています。


卑弥呼の墓は直径23m!
魏尺では一歩は六尺で144.72cm、卑弥呼の塚は、100歩+余歩で直径約144mと考えられています。ですが、西域には西域の、東夷には東夷の、それぞれ地域ごとに異なった長さの単位が用いられています。卑弥呼の墓は中国本土にはないのですよ。みなさん、こうして中国の度(長さ)をメートル数値で換算するのは間違いだと気づきませんか。倭人伝の一里は60m(既説)で、一里は300歩、300で逆算すると一歩は20cm、100余歩は余を15%として、なんと卑弥呼の塚は23mにすぎないことになります。@2019/11/18 公開

倭里論-以下論理式

1.~余里の余をαと定義します。"余"=α
2.αを1.15に設定します。α=1.15
3.("帯方":"狗邪韓国",余里)=7000*αと式にします。
4.a=("帯方":"狗邪韓国",余里)=7000*α=〔7000x1.15〕=8050
5.b=("狗邪韓国":"末盧國",余里)=3000*α=3450
6.a+b=("帯方":"狗邪韓国",余里)+("狗邪韓国":"末盧國",余里)=8050+3450=11500
7.c=("末盧國":"伊都国",里)=500
8.("帯方":"伊都国",里)=a+b+c=12000
9.("帯方":"女王国",里)=(帯方:伊都国,里)=12000
10.x=("帯方":"狗邪韓国",GPSの距離)≒483km/a(8050)=0.06km
11  1里=300歩
12.(卑弥呼の塚,径100余歩)=x/300x100α=23m
<End>



狗奴国は句麗國の別称です。狗奴国には南北に二か国ありました
魏志倭人伝に2か所書かれている狗奴国(くなこく)が句麗國(くれこく)であると分かったら、邪馬台国についての数々の学説が、根本的に違っていたということになります。あなた、倭国が戦っていた相手が高句麗なのですよ。敵国の正体が露呈したら、さあ、たいへん!歴史がひっくりかえります。
しかも、狗奴国は二か国ありました。
 二か国のうち、第一の狗奴国は高句麗で、王は第11代の東川王です。第二の狗奴国は伯濟国(百済)で王は第8代古爾王です。玄菟太守の王頎に参軍して卑弥呼が戦ったのは高句麗の東川王でした。後漢書では句驪國と書かれています。
「狗奴国が二か国ある」ということ、そして史上の人物名まで完全解明したのは、わたしが初めてです。また倭の五王は日本の天皇ではありません。倭王を名のって東晋に朝貢していたのは百済王でした。「倭の五王は百済王」のタグの章に詳述しています。小著、『卑弥呼Xファイル』は、日本の『ダビンチ・コード』になるはずなんですが・・・?
伯濟国


卑弥呼の卑は鹎だった!ベミといいます。
随書 俀國傳 俀王姓阿每,字多利思北孤,號阿輩雞彌、随書俀國傳の有名なアメノ.タリシヒコの姓名です。王名は阿輩・彌ですが、この雞は家禽(家鸡)、ニワトリという意味です。彌は「あまねし」、どうしたことか卑彌呼にかさなってきます。転ずれば、文型から、鳥から生まれた一族のということになります。いろいろと候補はあるでしょうが、雞彌の雛(ひなzhī)と、卑の文字は同意とみることができます。鹎(ひなどり)の省略文字が卑なのです。
卑弥呼→鹎彌句
bēi〕ひなどり、と訳します。しかし、どういう意味でしょう?随書 百済伝で、「婢云:「有物狀如雞子,來感於我,故有娠也。」王舍之。」とあります。これは、河伯の女の言葉です。「雞子(ひよこ)のような形をしたものが入ってきました。それに感じてわたしは妊娠したのです。」、王に伝えます。これが受胎の原因ということですが、雞子とは直訳すればニワトリの子です。この短い神話は高句麗建国開祖の朱蒙の誕生神話で、いわゆる天光受胎神話と呼ばれています。卵生神話の一つです。日本でも平安時代までは常識的な物語でした。続日本紀には和氏の上奏文、「それ百済の遠祖、都慕王は河伯の女日精に感じて生めるところなり。皇太后(高野朝臣新笠)はその後なり」・・・日精に感じて生まれたのは都慕王、高句麗の太祖です。都慕王とは別名、東明聖王、古事記では大国主、またの名を葦原色許男神(あしはらしこおのかみ)と言います。これらは高朱蒙の別称です。なんと、記紀・神代の物語の主役中の主役です。
さて、随書の続きですが、「棄之*廁溷,久而不死,以爲神」、豚小屋に捨てたが死ななかったので、王は以て神となした。」、この王の名を随書では扶余王の嘗[しょう・じょう」と記しています。「新嘗祭(にいなめサイ)のなめの字で国学者は”なめ”と訓読します。後裔の師升、升米の升[ショウ]につながるものとわたしは思います。書紀では八千矛神ですが日神の子だと認めたのですね。実は、日精または日神が三本足の烏(カラス)なのです。 鹎bēi〕は中国辞書では、黒褐色の羽と白い腹をもつ鳥です。

どうやら、卑彌呼と卑彌弓呼の奉じる遠祖(太祖)が共に都慕王(東明聖王)すなわち高朱蒙だったということになります。これだと、卑彌呼に敵対する男王が卑彌弓呼と、弓の一字しか違わなくても納得のゆく説明がつくのです。卑彌呼も卑彌弓呼も河孫(河伯の女から生まれた子孫)だったのです。卑彌呼が扶余女王、卑彌弓呼が高句麗王です。元扶余は公孫氏の配下で高句麗と果敢に戦いました。高句麗とは昔から敵同士です。そして、タラシヒコも、雞彌です。だいたい330年ほど卑彌呼より後の時代ですが、朱蒙を太祖とする末裔だったという驚くべきことが暗示されます。

鹎彌は雞彌と同じで2文字2音ですが、「呼」は「句」の変体文字です。
あなた、「鹎彌句」が元字だったのです。
私たちがヒミコと通称してもまったく問題はありませんが元字は意味を取らねばなりません。
百済も高句麗も扶余から派生した国です。狗古智卑狗の卑も同じです。南の狗奴国も句麗國から分離した国だったのです。変換すると「句臣智鹎句」とすると意味が通ります。



の本字は

bēiの漢字は雛(ひな)で、日本の辞書にはありません。
新華辞典 鹎(鹎)bēi
1.主に黒褐色の羽と白い腹、短くて細い脚を持ち、果物や昆虫を食べる鳥の属。
(鳥類的一屬,羽毛大部為黑褐色,腹白,腿短而細弱,食果實和昆蟲
ーーーーー

東明聖王(とうめいせいおう、トンミョンソンワン、朝鮮語: 동명성왕)は、高句麗の初代とされる王(在位:紀元前37年 - 紀元前19年)であり、東明王、都慕王(つぼ→転化→日向國一之宮 都農神社)とも呼ばれる。姓は高、諱は朱蒙(しゅもう、朝鮮語주몽チュモン)または鄒牟(すうむ転化→水無・飛騨一宮水無神社)、チュモ、朝鮮語: 추모)、衆解(しゅうかい、チュンゲー、朝鮮語: 중해)とされる。
『ウィキペディア(Wikipedia)』

広開土王碑=鄒牟(チュム)

高句麗本紀=東明聖王、姓は高氏名は朱蒙、別称 鄒牟、象解

新撰姓氏録=鄒牟(すむ)、須牟祁(すむき)王の後なり。須牟祁王が第一番目の須佐之男=初代東明聖王

新撰姓氏録=都慕王(つぼおう)

続日本紀=仲牟王、都慕王
古事記神代=五人いる大国主命の一人
古事記神代=葦原色許男

河伯(ハベク)の女、名を柳花(ゆふぁ유화)という。(三国史記)河伯族の王の娘。

河伯の女=古事記では沼河比賣(ぬなかはひめ)のお名前で歌を一首詠っています。


简位居(かんいご)=简は姓、位居は”王”。すなわち、简王です。(尉仇台の嫡子。魏志倭人伝・景初2年の難升米の実名?
居:付属形態素 (身を)置く,任じる.【거・コ】
用例
身居要职=要職に身を置く.
以功臣自居=功臣をもって自任する.

位居:位する【”위거イゴ】
ある地位につく

*廁溷(しこん)=廁所
(人糞を豚に食わせていたので厠と豚小屋は同じ構造物になっていた。)=便所のこと


3世紀にあった方位磁石「指南魚」
 右の写真は「指南魚」と呼ばれ、一種の羅針盤でした。なんと2500年前、最初に磁石にN極とS極があることに気づいたのは中国人だったのです。戦国時代にはすでに、実用化されていたのです。3世紀頃より中国で使われた、コンパスの元祖とも言える道具が「指南魚」(しなんぎょ)です。魚をかたどって彫られた木片に磁石を埋め込み、水に浮かべると魚の頭が常に南を向く仕組みになっています。南の方角を指す魚なので、指南魚と呼ばれました。
こうしたことで、中国の後漢、それに次ぐ魏・晋の官吏は、今日でいうコンパスのような「指南魚」で方位を測っていたのです。
 「指南魚」が使われていたのは三世紀。これは卑彌呼(174-249)の時代ではありませんか。あなた、古代中国の科学知識をあまり馬鹿にしてはいけませんよ。

移動式コンパスは紀元前にすでに軍用に使われていました。
中国の戦国末期、指南車という「移動式の方位測定器」がありました。指南針を埋め込んだ人形の手がいつも南を指し示すのです。2600年前、紀元前500年ごろから軍事的に使用されていました。王充の論衡には、「司南之杓,投之於地,其柢南指。」と書かれ、指南針の使用がそうとうに普及していたことを伺わせます。
 因みに、「指南する」という日本語表現は、この指南針からきているのです。諸葛亮は兵器にいろいろと工夫をした人物ですが、諸葛亮が好きそうな軍事品ですね。

卑弥呼の時代、東北アジアでは磁方位は東に傾いていました。
磁石の指す方向は、N極が北をさすということは知っていても、真北を指していないということを知ってましたか? 真北というのは、「しんぼく」と読み、地球の地軸の先にある北極星の方向のことです。磁石の方位は真北から西に傾いています。現在東京では平均、約7度ほど西に傾いています。これを、西偏しているといいます。方位偏差というのですが、7度も違うのですから、あなた、磁石だけを頼りに遠くへ行くほど、目的地からは離れてします。
 卑弥呼の時代は、方位偏差が東偏だった事実が磁気考古学で判明しています。現代は西偏ですが、AD200年ごろは、東に10度近く東偏していました。魏志倭人伝の頃の帯方郡の磁方位は、方位偏差を加えて修正しなくてはなりません。仮に3世紀初頭のGPSの地図を想定しますと、東南135度の方位角に、8度ぐらい足して、143度が当時の磁方位・東南になります。方位143度というのが陳寿の描いていた東南なのです。そこで、143度にチューニングしてGPSシミレーションしなくてはならないのです。やってみてください。

 驚くべき結果が得られました。方位角143度ラインに、帯方郡・ソウル・釜山(金海)・対馬(上島)・糸島(筑前前原)・吉野ヶ里が一直線上に並ぶのです。郡ー狗邪韓国ー對馬―末盧国ー伊都国とは、この143度ラインに並んでいたのです。これはGoogle Map 距離測定で再現できるという意味で科学的証明なのですよ。次に、下のコラムをご覧ください。

過去2000年の磁気方位角推移グラフ

東北アジア史を知らなくては、あなたの頭は鎖国時代と同じですよ。
あなた、郡より倭まで、そして、郡から女王国まで東南12000余里と魏志倭人伝に書かれているのですよ。郡は出発点で、伊都国(女王国)を終点とする直線なのです。出発地である郡とはどこでしょうか?
 帯方郡です。著名な邪馬台国論者は、帯方郡がソウル周辺だというんですが、ソウルには、伯濟国という国が西暦55年からあったのです。卑彌呼と同年代の王は古爾王です。なんと、あなた、この王は正始7年に魏の帯方太守弓遵(きゅうじゅん)を戦死させてしまったのですよ。
ゆえに、女王に服属していない国が現ソウル一帯にあったのです。

GPS_時代になっても鎖国時代の説を鵜呑みにしますか?
そうですね。江戸時代の新井白石先生がどんなに知識がある人でも、やっぱり鎖国時代に生涯を過ごした人なので、世界観には限界がありますよね。
わたしは、[Google Map]で地名を総当たりしました。[Google Map]という武器を使わない手はありません。とくに、末盧国、伊都国、奴国までは学会に異論がないというけれど、発端が名前が似ているということが優先してますから、方位や距離については、つじつまを合わせるのが困難になるのはあたりまえです。
伊都国から奴国まで奴国は筑紫川の港だった