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NO963_3・・・・魏志倭人伝 文法構造で解読する

会稽編のブロック

 会稽についての段落です。この大ブロックの中に書かれている倭人の風習などはすべて会稽の倭人のことで、わが九州の倭人、日本の原倭人のことではありません。大ブロックの中に、子ブロックを9つに分けました。 会稽の子ブロックには「其」が連続しています。其の其の構文という文法用語はありませんが、其ので連続している限り、その文字列は会稽の倭人を主語として共有します。其のが連続している範囲は一つの意味段落になっています。倭人は黥面文身しています。その概念からみると会稽にも倭人がいました。まだ、会稽の倭人という表現にぴんと来ない人も多いでしょうが、黥面文身している輩、言い換えれば委面の人を倭人というのです。したがって、アジア太平洋に多くの倭種がいたのです。しばらくお付き合いください。
内田吟風は、古代中国人は、朝鮮半島から東南アジアの熱帯の島々までにいた海洋民族を「倭」と呼んでいたのだ、とします。
「倭」が、日本列島のことをさすようになったのは『隋書』以降のことである、というのです。
また、次のように述べています。
「邪馬台国に関する熱帯南洋記述を無視または等閑視して、邪馬台国を、無批判的に日本乃至日本内の一地に速断比定し、従ってまた更に中国史籍の邪馬台国記事を以て我国上古の皇統・神道・庶民生活の史料とし、さらにこれによって日本書紀等の所述を批判改変、否定するが如き従来の学説に対しては根本的な再検討が必要と信ずる。」 (引用:『邪馬臺・耶婆提・Yavadvipa考という論文抜粋)
さて、内田吟風がすでに気付いているように、随書になって初めて日本列島の倭が地理的に正しく認識されたのです。楽浪大海中の島々にあった倭がはじめて倭国ではなかったと結論づけられたのです。それ以前の倭国は倭とは一致していないのです。卑弥呼の生存していた時代から唐の初期にいたるまで遡ると倭国は倭ではなかったということなのです。
 ここからは、日本のデータベースから中国のデータベースに換えて分析することにします。魏志倭人伝は三国志と中国史書のカテゴリーで迫ってみるということです。わたしは、古代中国人の考える倭人が東アジアに広範囲に分布していたということを明らかにするわけですが、その前に、会稽倭人、儋耳珠崖の倭人、九州の倭人、四国の倭人、屋久島の倭人、韓半島の倭人などという新しい概念を含んだ言葉を使います。ですが、その理解にいきつくまで、ごぜひご辛抱ください。これに対して、みなさんが違和感を感じるとしたら、それは日本教的先入観(洗脳)があなたに残っているのかも知れません。教科書から歴史年表まで、「邪馬台国の女王卑彌呼」と記されています。ありとあらゆる情報源がまちがっているのですからそこから脱するのは難しいわけです。新井白石は手紙のなかで、「魏志は実録に候、日本紀などは、はるか後にこしらえたて候事ゆえに、おおかた一事も尤もらしき事はなき事に候」と、日本紀には、真実らしいことは一つもないと言い放っています。古事記や日本書紀から邪馬台国を論じるのは根本的な視点がずれています。その誤解を解くためには、古代中国語もどる必要があります。中国語の用語をアプローチ編で解説し、そのうえでこの章では、現在、一般に流布されているの誤訳、誤解を説いたうえで日本列島の倭人と会稽の倭人の区別がつくように順次話していきます。
*内田吟風
東京にドイツ語学者・内田新也の次男として生まれる。1931年京都帝国大学文学部東洋史学科卒。同助手、東方文化研究所研究嘱託。神宮皇學館大學助教授、(旧制)姫路高等学校教授、1949年神戸大学文学部教授。文学部長、1956年「古代アジア遊牧民族史の研究」で京都大学文学博士。1971年神戸大を定年退官、名誉教授、佛教大学教授、龍谷大学教授。1978年勲三等旭日中綬章受勲。


■会稽の親ブロックに子ブロックをつけてみます。”其の其の書式構文”を確認しましょう。A’からI’まで其のが連続しています。

其:ピンインqí ⇒ [異読音] jī
1.代詞 (常に兼語として人・事物について用い)彼,彼女,それ,彼ら,彼女ら,それら.
2代詞 (人・事物・時間を指し)彼の,彼女の,その,彼らの,それらの.

中国語では代詞、 日本語の文法では代名詞です。:
[連体]《代名詞「そ」+格助詞「の」から》
1 空間的、心理的に聞き手に近い人や物をさす。「其の男は何者だ」「其の服はどこで買いましたか」
2 聞き手が当面している事柄や場面をさす。今の。「其の仕事が終わったら、次を頼むよ」「其の調子で進めてください」
3 現在、話に出ている、または、話に出たばかりの事柄をさす。「其の日はとても暑かった」「其の話はもうやめよう」
4 全体をいくつかに分けた中の、ある部分をさす。「其の一、其の二」
[感]すらすら言えないときなどに、つなぎに発する語。「まあ、其の、何て言うか」「ほら、其の、例の件ですが」
1.は人称代名詞 わたし、あなた、彼、彼女
1.指示代名詞 こそあど、の4パターン

 近称 …話し手に近い物事などを指す。これ、

 中称 …聞き手に近い物事などを指す。それ

 遠称 …どちらからも遠い物事などを指す。あれ

 不定称 …不特定の物事などを指す。 どれ


2.は所有代名詞 この、その、あの、どの、場所を示す場合>ここの、そこの、あそこの、どこの


以下のA~Iまで文頭に所有代名詞が連続していることを確認してください。
    
 男子無大小皆黥面文身自古以來
A’

*黥面文身している輩=主格=倭水人
使詣中國皆自穪大夫夏后少康之子封於會稽斷髪丈身以避蛟龍之害今倭水人好沉没捕魚蛤丈身亦以厭大魚水禽後稍以爲飾諸國丈身各異或左或右或大或小尊卑有差計
B’
道里當在會稽東治之東

*道里は人跡経由之路にを示し、路程(陸行)であり、すなわち船山列島が会稽の東端で、そこから先は太平洋です。すなわち、船山列島が倭粋人の居住地です。
C’
風俗不淫男子皆露紒以木緜招頭
D’
衣横幅但結束相連略無縫婦人被髪屈紒作衣如單被穿

*無縫 縫製することがなかった。
*単被 一枚の布。
E’
中央貫頭衣之種禾稻紵麻蠺桑緝績出細紵縑緜
F’
地無牛馬虎豹羊鵲兵用矛楯木弓木弓短下長上竹箭或鐵鏃或骨鏃所有無與擔耳朱崖同倭地温暖冬夏食生菜皆徒跣有屋室父母兄弟臥息異處以朱丹塗其身體如中國用粉也食飲用籩豆手食
G’
死有棺無槨封土作冢始死停喪十餘日當時不食肉喪主哭泣他人就歌舞飲酒已葬擧家詣水中澡浴以如練沐
H’
行來渡海詣中國恒使一人不梳頭不去蟣蝨衣服垢汚不食肉不近婦人如喪人名之爲持衰

*行來 行き来すること。しばしば往来していることを暗示する。
I’
若行者吉善共顧生口財物,若有疾病遭暴害便欲殺之謂其持衰

 とくに、このブロックの中が、いわゆる南倭といわれる江南の倭人の描写になります。H’の子ブロックに、「其行来渡海詣中国」とあります。「中国に詣でるため海を渡って往来する」、と訳します。行来とは「ゆききする」、「往来する」という意味です。其の字が会稽の倭人を主格としているなら、中国の河内と往来しているということは不自然ではありません。しかし、日本列島の倭人だったら、はてな?がつきます。

このブロックには倭が一か所、倭地が一か所ありますが、倭国、女王国は一つもありません。倭、および倭地はより広い概念で汎用的です。わたしは、倭人とは「入れ墨をしている輩」と定義しています。

また、このブロックの特徴は「其」が連続していることです。
「其」が文節の文頭に来るようにすると、配列された構造文だということが分かります。「其」が連続しているのですよ。よく、見てくださいね。其のがA'~"I"'ブロックまで切れていません。意味小段落(子ブロック)の其は代名詞です。「男子無大小皆黥面」が代入できます。したがって、小段落(A’~I’)まで、皆黥面しているところの会稽の倭人を主語として訳していけるのです。
 衣服、髪型、織物、鳥獣、武器、衣食、葬祭、持衰(じさい)・占い・飲食・寿命・婚姻
といった地誌と政治機構、刑罰、身分秩序などと地理が書かれますが、全部、会稽の倭人のことを書いています。言い換えると、南倭の倭人のことです。この地域の倭人のことについては、鳥越憲三郎著、『古代中国と倭族』が、とても参考になります。また、禹帝に関する書物も重要ですよ。会稽とは禹帝に因む地名なのです。

 この大段落は、全体に会稽がロケーションですから、九州の倭人、つまり、女王国の倭人のこと書いたのではありません。いままで、こうした分析をした論者はみあたりません。間違いなく、初説だと思います。
 倭地の地誌を書いたものというのは真ですが、「倭国の地誌と政治体制」と書いたもの、「女王國の地誌と政治体制」と書いたものというのは、いずれも偽です。そろそろ、倭国、女王國、倭地の3つの定義が、おぼろげながらも区分できるようになられた方がもいらっしゃると思います。いままでの魏志倭人伝論者は、この3つの用語をすべて大和に膠着してしまっていたのです。大和とは8世紀後半に作られた王朝です。大和王権の正統性を中国に認めてもらうために、いわば忖度して作られたのが日本紀だったのです。邪馬台国が大和というスウィッチが仕込まれてしまったのです。さあ、中国側もすっかり騙されたようですね。新唐書を読めば分かります。(2018/08)

もう、必要がないと思われますが、一応現代語訳をしてみましょう。
    
    男子無大小皆黥面丈身自古以來

    
古くから、今までずっと、(会稽の人々は)男性は身分が高かろうが低かろうが、皆顔や体に入れ墨をしている。
黥面丈身は漢書地理志(逸失)の如墨委面と同意です。入れ墨をした輩という含意になります。委が倭になったのです。委ににんべんをつけるというアイディアで倭という文字が作られたのです。(如墨委面は顔師古の漢書の注に初出)

A’
其使詣中國皆自穪大夫夏后少康之子封於會稽斷髪丈身以避蛟龍之害今倭水人好沉没捕魚蛤丈身亦以厭大魚水禽後稍以爲飾諸國丈身各異或左或右或大或小尊卑有差

 中国を詣でる(会稽の其の)遣使はみな大夫と自称している。(一体どうしてだろうか?)
夏王朝の六代目の少康の庶子(無余)が会稽の王に封じられた際、髪を切って文身した。竜蛇に噛まれる被害を防ぐために短髪にして体に入れ墨をしたという。
 今の倭の水人(海女)たちは潜って上手に魚や蛤を採取する。
かつて入れ墨は大魚や水鳥の害を避けるためのものだったが、後に次第に装飾となっている。倭人の諸国の入れ墨の施し方は国によって各々異なっており、また、左右、大小、その身分の尊卑が分かるように差がある。

*小康は、禹帝の孫にあたる。その庶子は麻余とされる。よって、禹帝から四世代あとのことである。
B’
計其道里當在會稽東、治之東

倭水人が住むところの道里を計るとちょうど会稽の東[392里に当たり、この(会稽の)東(の土地)を治めています。
「道里を測るに」、と書いているにも関わらず、道里が欠落している。わたしが禹廟のある紹興市から船山市まで計測すると157kmだった。これは392漢里になる。脱落を復元すると、計其道里當在會稽東[392里]、治之東となる。船山市=舟山市(しゅうざん-し)、中国語:チュアンシャン

*洛陽の河内からみて会稽は東夷と称されていた。
*前文の水人の生活している場所を示したものです。述部にある「治」の字は生活するという意味がある。
*道里とはある地点から彼の地点までの長さを里数でいいあらわすこと。地図制作の専門用語。道里とは・・・「道里者 人跡経由之路 彼里数若干之謂也」・・・(訳)道里は人跡経由の路のことにて、此処より彼処までの里数がどのくらいなのかを謂うなり。すなわち、道里は路(道路)のある陸上の距離である。すなわち、海上に道里は適用できない。会稽の東、100kmは太平洋にぶつかる。道里が表せるのは、船山群島の手前までである。駅伝制(えきでんせい)は、戦国時代(B.C 403~B.C.221)に始まり、秦帝国や漢帝国で発達し、国の中央から辺境にのびる道路に沿って適切な間隔で人・馬・(馬)車などを常備した施設を置き、施設から施設へと行き来することで逓送(リレー)し情報を伝え、また使者が旅行する交通・通信の制度を指す。駅伝の「駅」は馬を指し、「伝」は馬車を乗り継ぐ場所のことで、十里ごとに亭(休憩所)、三十里ごとに驛を設置していた。また、集落ごとに郵があった。あわせて、郵驛亭という。そこで、中国はターミナルとサテライトが整っており、容易に里数を知ることができた。倭人は里数を知らず。日数をもってこれを測った、(裴世清)のいうのは具体的には駅伝がなかったことをいうのだろう。日本に駅伝制度ができたのは孝徳天皇の代であり、難波大道など各地に大道がつくられたのは郭務悰ら中国人集団が技術指導したと私は考えている。
郵驛亭:とは、「郵驛亭置如中國。從安息繞海北到其國,人民相屬,十里一亭,三十里一置」 出典:《魏書三十》《倭人傳》《西域》
(倭人傳:の後ろに付け足された西域伝)
後漢書は譯所を驛所に替えたが、三世紀後半、郵驛亭は日本になかったのだから、驛所は范曄の完全なトチリである。



C’
其風俗不淫男子皆露紒以木緜招頭

(会稽の倭人)の風俗は淫乱ではなく、男性は皆、(衣冠や幘さくなど)頭に何も被らないで、髷(まげ)を結ったまま露出させ、木綿(きわた)の布で頭を巻いている。
*幘(さく)官帽はかぶらないで頭にはちまきをしている。官職にあるもが被る冠。公的に階級別に決められたデザインがある。(アプローチ編に詳細)
D’
其衣横幅但結束相連略無縫婦人被髪屈紒作衣如單被穿

(会稽の倭人)の衣服は、幅広い一枚の布を結び束ねているだけで縫うことはない。婦人は髮を結わずに曲げて束ねる。衣服は単被(ひとえ)のように作る。
*貫頭衣は縫い目がない、縫製されないことが特徴です。したがって、二枚の布をつかわず、幅広の一枚の布で、その布の幅は頭がとおる以上の幅となります。したがって、【吉野ヶ里】で見つかる布の幅は30㎝です。これでは縫製しないとなりません。すくなくても70㎝ぐらいないと頭が通る穴はあけることができません。ちなみに、儋耳、珠崖の風俗として面白いことが書かれています。「民はみな中央に穴をあけて頭に通しているl被るだけの一枚の布を服としている。」(出典:漢書地理志地理志下 武帝元封元年/紀元前110年)
E’
其中央貫頭衣之種禾稻紵麻蠺桑緝績出細紵縑緜

その中央に穴を開け、これに頭に通して着ている。稲や紵麻(ちょま=カラムシ)を栽培し、養蚕して絹織物を紡いでいる。細い紵麻(ちょま)や薄い絹織物を作っている。
*日本語では苧麻(ちょま)と書きます。
*《漢書地理志》地理志下:「武帝元封元年略以為儋耳、珠崖郡。民皆服布如單被,穿中央為貫頭。男子耕農,種禾稻紵麻,女子桑織績。
F’
其地無牛馬虎豹羊鵲兵用矛楯木弓木弓短下長上竹箭或鐵鏃或骨鏃所有無與擔耳朱崖同倭地温暖冬夏食生菜皆徒跣有屋室父母兄弟臥息異處以朱丹塗其身體如中國用粉也食飲用籩豆手食

その会稽の地には、牛・馬・虎・豹・羊・鵲(カササギ)がいない。矛、楯、木弓を用いている。木弓は下が短く上が長い、竹の矢には鉄の鏃(やじり)、あるいは骨の鏃(やじり)を付けている。その物産や習俗など、あることないこと全部が(海南島の)儋耳(たんじ)と朱崖(しゅがい)の倭人と同じである。倭の地は温暖で、冬や夏も四季を通して生野菜を食べ、皆が裸足である。家には室があり、父母・兄弟は寝転がって寝るが、子供は別の部屋に寝かせる。朱丹のおしろいを身体にも塗り、中国で白粉を用いて化粧をするように身体にも塗っている。飲食には竹や木で作った杯器に盛って、手で食べる。
G’
其死有棺無槨封土作冢始死停喪十餘日當時不食肉喪主哭泣他人就歌舞飲酒已葬擧家詣水中澡浴以如練沐

人が死ねば、棺(かんおけ)を用いるが槨(かく)(外棺=そとばこ)はなく、土を盛って塚を造る。死去から十日あまりは喪に服し、その間は肉を食べず、喪主は大声で泣き、他の人々は歌い舞ったり酒を飲んだりする。埋葬が終われば、家人は皆が水中に入って禊(みそぎ)をする。中国で言っている練沐(練り絹を着ての沐浴)のようである。

*石質棺槨イメージ(明代)

石造りの棺槨、槨は「そとばこ」と直訳していいでしょう。石のそとこばの中に木製の棺が内装されています。

この葬式における歌舞飲食や禊(みそぎ)の風習は九州の倭人のものではありません。中国の長江の南の一般人の風習とみます。そとばこはなく、土を盛って塚をつくって棺をつくるのは埋葬です。土まんじゅうのような封土(盛り土)を九州倭人というより、朝鮮式の墓制です。甕棺墓は地下にそのまま埋められます。吉野ヶ里遺跡や広田遺跡をみれば分かります。会稽のいわば中国倭人と、九州倭人を区別しないのが今までの邪馬台国論者なのです。塚をつくるのは4世紀後半以降、朝鮮の墓制が入ってきてからだと思われます。
H’
行來渡海詣中國恒使一人不梳頭不去蟣蝨衣服垢汚不食肉不近婦人如喪人名之爲持衰

(会稽の倭人が)海を渡って中国に朝見にするために行来(ゆきき)する時は、海難を避けるために,いつでも一人の人間を供儀者として乗船させる。航行の最中は、髪を梳かさず、シラミをとらず、衣服は垢で汚れたままとし、肉を食わず、女性を近づけず、喪中のようにさせる。この人間を持衰(じさい)という。
I’
若行者吉善共顧生口財物若有疾病遭暴害便欲殺之謂其持衰

もし航海が吉祥で無事に済めば、共に訪れる者たちが、その奴隷に財産を与えその労にて報いる。
もし、航行中に病人が出るなり、海が荒れるような災難に会った時は、人々はその持衰を殺してしまう。(犠牲にしようとする。)それはその持衰の清めが足らず、その不謹慎が災いを招いたというのだ。

生口とは捕虜のことです。以前は敵であった人物で、以前の身分を奴隷に落とされた者と考えます。はじめから奴隷なら「奴婢」という語を使うでしょう。持衰は喪中とほぼ同じ状態に置いておくようです。清めが足りないと海が静まらない、こうした考え方は海神(わだつめ)のような存在を想定しないと理解できません。この供儀をだせば海が静まると信じていたのでしょう。持衰という風習は、会稽倭人のものであって、九州の倭人の風習ではありませんが、参考ということで日本の昔話をお読みください。
古事記には「弟橘比売命の入水(じゅすい)」という神話があります。

古事記からの引用
「弟橘比売命の入水
そこで后の弟橘比売命(オトタチバナヒメノミコト)が
「わたしが皇子(=ヤマトタケル)の代わりに海に身を投げましょう。皇子は東国を平定するという任務をどうか成し遂げて、大和にお帰りください」
と言いました。
弟橘比売命は海に入るときに、菅畳・皮畳・絹畳を重ねて波の上に敷き、その上に乗りました。

弟橘比売命の歌
弟橘比売命が畳のイカダに乗ると、荒波は穏やかになって、ヤマトタケルの船は進むことが出来た。
そのとき弟橘比売命が歌った歌が
さねさし 相武の小野に 燃ゆる火の 火中(ホナカ)に立ちて 問ひし君はも
それから七日後。
弟橘比売命の櫛が海岸に流れ着きました。
ヤマトタケルはその櫛を手にとって、墓を作りました。

ヤマトタケルの子孫・系譜
また海に身を投げてヤマトタケルを救った弟橘比売命(オトタチバナヒメ)を娶って生んだ子が若建王(ワカタケル)です。

日本書紀からの引用
景行天皇(三十三)馳水の地名説話
[
すぐに海中(ワタナカ=海の沖の方)へと到着すると、暴風(アラキカゼ)がたちまち起き、王船(ミフネ)は漂い、渡れませんでした。そのときに王に従う妾(オミナ)がいました。弟橘媛(オトタチバナヒメ)といいます。穂積氏忍山宿禰(ホヅミノウジノオシヤマノスクネ)の女(ムスメ)です。(弟橘媛が)王(=ヤマトタケル)に言いました。
「今、風が起き波が速くて、王船(ミフネ)が沈みそうになっています。これは必ず、海神(わたつみ)の心(シワザ)です。願わくは賤(イヤ)しい妾(ヤッコ)の身を王の命に代えて海に入りましょう」
言葉が終わり、すぐに波を押し分けて入りました。暴風はすぐに泊まりました。船は岸に着きました。それでその時代の人はその海を馳水(ハシルミズ=現在の東京湾の浦賀水道)と呼んでいました。

景行天皇(三十六)東国の地名説話
日本武尊は毎日、弟橘媛(オトタチバナヒメ)を偲ぶ心がありました。それで碓日嶺(ウスヒノミネ)に登って、東南(タツミノカタ)を見て、三回嘆いて言いました。
「吾嬬はや(アズマハヤ)」
それで山の東の諸国を「吾嬬国(アズマノクニ)」といいます。

景行天皇(四十五)日本武尊の妃と子女
次の妃の穗積氏忍山宿禰(ホヅミノウジノオシヤマノスクネ)の娘の弟橘媛(オトタチバナヒメ)は稚武彦王(ワカタケヒコノミコ)を生みました。」


似たような話が筑前風土記にあります。そこでは新羅
征伐に向かう大伴狭手彦(オオトモノサデヒコ)の話が残されています。書紀には佐弖彦・佐提比古郎ともありますが、(テ)という文字は日本、中国にもない朝鮮固有の文字です。朝鮮の民話にも、こんな話があります。おおむね、こんな話でした。「父の病に薬を求めましたが、あまりにも高価だったので娘は父を助けたい一心で身を売って薬を買います。娘は売られて船に乗せられました。海が荒れて娘は海に投げ込まれてしまいす。海の底まで沈んでいくと、海の神が現れこの親孝行な娘を憐れに思い、命を助けます。やがて、海神は王に変身し、娘を后にします。王宮で暮らすようになった娘は父のことがいまだに心残りでした。やがて、アイゴーアイゴーと嘆きながら娘を探していた父が都にやってきます。王妃は父の姿をみつけ、再会することができます。涙で抱き合って喜びあいました。めでたし、めでたし。」といった話です。


禹帝について
A'ブロックでは夏后とありますが、夏王朝を夏后と言います。小康は代6代になります。
/ 啓 / 太康 / 中康 / 相 / 少康 / / 槐 / 芒 / 洩 / 不降 / 扃 / 廑 / 孔甲 / 皐 / 発 / 桀
禹帝 姓は姒(じ)氏、字は文明(ぶんみん)、
河南省禹州市は紀元前1世紀になっても夏人の町として有名だった。『史記・貨殖列伝』では、潁川(えいせん)と南陽は夏人の居。潁川は秦末期に、一部の民を南陽に移した。南陽は西は武関に通じ、東南は漢江、長江、淮河を受ける。宛(えん・南陽市)は亦都会で、その風俗は奇矯、職業は商人が多く、彼等は任侠で潁川と交通するので、夏人と呼ばれていると記されている。
1)杞国
杞県に在ったとされる。杞(き)は、古代中国の殷代から戦国時代にかけて存在した国。国姓は姒であり、禹の末裔と称した。殷末周初に一時滅亡するが、周初に再興され、史料では東楼公より20代の君主が記録されている。紀元前445年、楚によって滅ぼされた。

2)越国
福建省、広東省、広西省からベトナム北部にかけて活動していた越人は夏后の末裔を自称していた。また禹の墓があると伝承される会稽山は越人の聖地でもある。紀元前333年、越国は楚に滅ぼされ越人は四散した。
百越 百越(ひゃくえつ)または越族(えつぞく)は、古代中国大陸の南方、主に江南と呼ばれる長江以南から現在のベトナム北部にいたる広大な地域に住んでいた、越諸族の総称。越、越人、粤(えつ)とも呼ぶ。
倭:ヰ、ウェイ(中国南方音)、ゥオー(中国北方音)):
倭人・倭族は百越の一族ともされ、また越人の一部は倭国に渡来したとされる。史書に現れる中国南東部にいたと思われる倭人=越人と雑居していたと考えられる。
3)匈奴
『史記』『漢書』「匈奴列伝」に依れば、匈奴の先祖は夏后氏であり、この夏后氏は夏王朝の一族である。名を淳維といい、夏后淳維といった。

注:H’ブロックでは、「倭人がいつも海を渡って中国に朝見にするために往来する時は、」と訳しました。さて、九州の王が中国に往来(ゆきき)していたでしょうか?
一世紀に奴国の王が中国に朝貢した記録が一回だけあります。それは、『後漢書』巻85 列伝巻75 東夷伝に書かれた「建武中元二年、倭奴国、貢を奉じて朝貢す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南の境なり、光武、印綬を以て賜う」の一回だけです。その年は西暦の57年です。
57年、倭奴国は、倭国の極南の境界にあった国と読むのです。倭奴国は倭国の南の端にあったのです。これが、漢の認識なのです。
倭奴国は九州にあり、楽浪郡の管轄にあったのです。倭国は、倭韓を支配する楽浪郡にあった宗主国です。
そして、ここで、はっきり言えることは、このブロックの倭人は、いつも朝見して中国と往来していたのですから、九州の倭奴国の王とは言えません。このブロックの既定のとおり、会稽の倭、倭人の国々の記録なのです。このブロックには、倭国という文字はありません。あるのは、倭と倭人が、それぞれ一か所しかありませんよ。


冀州(きしゅう)、青州、豫州、楊州、徐州、梁州りょうしゅう)、雍州、兖州(えんしゅう)、荊州(けいしゅう)、等九州。
楊州は粤(おつ・えつ)=粤とは、広東省に当たります。越いうばあい、呉越同舟から越になったのでしょうが、粤が本字でしょう。南越は文字通り南側、いまのベトナムと国境を接する地域です。

大夫ってどんな身分?

 ただ、A'ブロックで、遣使が「大夫」と自称していたということだけは特筆すべきでしょう。中国の春秋戦国時代に韓、魏・趙など三晋にも大夫という官名はあり、中原にあった王朝ではごくありふれた官名です。

《孟子》《儒家》
《禮記》 [戰國] 公元前340年-公元前250年
《萬章下》
 孟子曰:「其詳不可得聞也。諸侯惡其害己也,而皆去其籍。然而軻也,嘗聞其略也。天子一位,公一位,侯一位,伯一位,子、男同一位,凡五等也。君一位,卿一位,大夫一位,上士一位,中士一位,下士一位,凡六等。
打開字典顯示相似段落顯示更多訊息
「天子之制,地方千里,公侯皆方百里,伯七十里,子、男五十里,凡四等。不能五十里,不達於天子,附於諸侯,曰附庸。天子之卿受地視侯,大夫受地視伯,元士受地視子、男。
打開字典顯示相似段落顯示更多訊息
「大國地方百里,君十卿祿,卿祿四大夫,大夫倍上士,上士倍中士,中士倍下士,下士與庶人在官者同祿,祿足以代其耕也。

次國地方七十里,君十卿祿,卿祿三大夫,大夫倍上士,上士倍中士,中士倍下士,下士與庶人在官者同祿,祿足以代其耕也。

小國地方五十里,君十卿祿,卿祿二大夫,大夫倍上士,上士倍中士,中士倍下士,下士與庶人在官者同祿,祿足以代其耕也。耕者之所獲,一夫百畝。百畝之糞,上農夫食九人,上次食八人,中食七人,中次食六人,下食五人。庶人在官者,其祿以是為差。」


*軻(カ)物事がうまく進まない様
*嘗(ショウ)ためしに

以上を参照すると、わたしの想像では五等天子から子男までは王族でしょう。五等以下は官僚で、大夫は凡六等の中でも大三位で中位にあります。君>卿>大夫>上士>中士>下士・・・大夫はその君子の身近に出入りできる(仕える)官吏ですから、上層階級だと考えられます。君は卿の十倍の禄が与えられ、卿は大夫の二倍、大夫は上士の二倍、・・・以下倍々となっています。これによると、役職ではなく、俸禄に準じた身分階級のようですね。・・・の次に、「天子之制,地方千里,公侯皆方百里,伯七十里,子、男同五十里,凡四等。不能五十里」、とあり、大夫は六等の中位ですから方五十里(20km)以下の土地を禄に配分されていたのでしょう。

いずれにせよ、《禮記》だけでなく、史書にも数えきれないほど「大夫」という語は記されています。
また、釈喪制という葬儀の儀典では、天子は崩、諸侯は薨、大夫は卒、士は不祿、庶人は死、とされ、大夫は死ではなく、卒という用語を使っていたというのです。天子の祭祀にさいしては廟に天子の後ろに卿に続いて序列を配して入場しますから、貴人の扱いを受けているのです。

「すると、卑彌呼以て死す」という表現は、きわめて無礼なことになりますね。卑彌呼が薨ずると記されたならいざ知らず、死すとは、いったいどうしたわけでしょう。貴人とみなされていないといってもいいのです。
すでに倭国女王といっても東夷、つまり蛮族だからでしょうか、鮮卑など、その王には死を使う例がいっぱいありますが、少なくても卑弥呼は「親魏倭王」だったんですから、庶人と同じ死ではなく、諸侯と同じ薨を用いるが筋というものです。「ばかにしないでよ~」といっても始まりませんかね。


それを踏まえると、蛮夷の国でも官僚制があったのだろうか・・・と、疑問を投げかけているのです。東夷族の特使が大夫と名のることは奇異なことです。返して、東夷の国にも官僚制度(天子の内官制)があったのだろうか」という、疑問導入文になるわけです。大夫と自称している理由は、次に書かれます。夏王朝の禹帝の末裔、小康の子が会稽倭人王朝の始祖だったからということです。禹帝はBC2000年の夏王朝です。中国全土を九州と定めたのは、禹帝ですよ。禹帝の治水の神で、妻は、白狐をトーテムとする倭族の族長の娘で、九尾狐だったのです。九尾狐は倭人にとっては、実にめでたいシンデレラストーリーなのですが、このあたりは、伝説の世界ですから、ここでは触れておくだけにします。ただ、禹帝の廟が会稽にあり、会稽とう地名そのものが禹帝に由来するということだけは記憶しておいてください。現在の紹興市です。
Tuit:会稽の倭人の使いを大夫といっているのですが、倭女王の使いだと誤解すると、「卑弥呼が太伯の描なり」ということになるんでしょうね。

このブロックが会稽の倭人をテーマにして一貫していることを確認してください。

 男子無大小皆黥面文身(体に施す入れ墨)。自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫。夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害。今倭水人好沈沒捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、後稍以為飾。諸國文身各異、或左或右、或大或小、尊卑有差。計其道里當在會稽東、治之東。

 男性は長幼の別無く、顔と身体に刺青を施している。古より、そこの遣使が中国を詣でると皆が大夫を自称した。夏后(夏王朝)の少康(第六代皇帝)の子(庶子の無余)が会稽に封じられ、蛟龍(伝説上の怪物)の被害を避けるため、短髪にして身体に刺青をした。
 今の倭の水人は潜って上手に魚や蛤を採取する。入れ墨は大魚や水鳥が厭うからである。後にやや装飾となった。諸国の入れ墨は各自に異なり、左や右、大や小、身分の尊卑で差がある。倭の水人はちょうど会稽の東にあたる場所に暮らしています。


会稽の東とは船山列島だ。

其道里當在會稽東;治之東
A;其道里當在會稽東/ B;治之東
計(倭水人)道里當在會稽東 /(倭水人)治之東

道里とは道行き、路順のことです。其は、前文の「倭水人」をかかりうけしています。在は存在詞、また、治も動詞と見立てますと、このように、A;とB;の2つに文節に分割すればいいのです。治という動詞に主語が重複のため省略されています。そのフレーズは「其道里當在会稽東」で、区切ります。前文は、倭水人の道里を計るに会稽の東に当たる地点です。後文は倭水人はこの東を治めていますと、訳すことができます。之は「会稽」を示す(近称)指示代名詞です。主語+治めるは、国や家ばかりでなく、川や山、土地などにも使う動詞です。人称+治+目的語の語順になります。したがって、中国語では倭人+治める+東という順列となります。
*「在」は「有」よりも現実的です。たとえば、「この村には郵便局が在る」この例文では、郵便局があることは村のみんなが知っているので、「在」を使い、「有」は使わないのです。参考になるのは、魏志倭人伝/女王國東渡海千餘里復有國皆倭種・・・の文型です。女王国+有+倭種の国・・・・この文型では有が、ある意味、伝聞的なニュアンスがあります。なぜなら、誰もが知っている事実ではないからです。一般の魏志倭人伝の日本語訳では、こうした在と有の相違を区別することができません。しかし、中国語ではこうした違いがあることも考える必要があります。
そこで、裸國・黒歯国には在が使われています。なぜでしょうか?陳寿は裸國・黒歯国の存在を日本の島々よりもよく知っていたことになります。
「又有裸國黒齒國復其東南船行一年可至參問倭地絶在海中洲㠀之上或絶或連周旋可五千餘里」船行して一年ぐらいですから、そうとう遠いはずですが、なぜ在が使われているのでしょう? 中国と往来があったのでしょうか?漢書地理志に「商賈車船行旁國」とあり、前後を含めて和訳すると、「安息國はその最大の国である。媯水(カスピ海)に面しており、その傍らにある国々に商品を載せた車を船に乗せて船で(船行)往来している。」・・・船は、荷車ごと乗船させる大型船で、あたかもフェリーボートのようです。このような船に帆がないはずはありません。常識です。裸國・黒歯國にいく船は中国の大型ジャンク船に限られるのです。したがって、ここに日本列島の倭地の船が入り込む余地はありません。

現代語に翻訳すると:
「倭水人が住む道里はちょうど会稽の東にあり、この(会稽の)東(の土地)を治めています。」

会稽東/治之東と区切りを入れると、会稽の東にある地点で区切られます。この東を治めていると読むことができます。後漢書は治を東冶(とうや)に変えていますが、後漢書独自の新解釈です。続きは、次の、「後漢書 倭伝はお笑いの傑作ですよ」で、詳述しています。
以上の説明を図式化しますと以下のようになります。

入れ墨をして、蛤を採っていた倭水人が居た場所は船山列島。会稽東の倭人の居住地だ!

 其風俗不淫、男子皆露紒、以木綿招頭。其衣横幅、但結束相連略無縫。婦人被髮屈紒、作衣如單被、穿其中央、貫頭衣之。

 会稽倭粋人の風俗は淫乱ではない、男性は皆が露紒(ろしょう=頭に何も被らない)で、木綿を頭に巻いている(鉢巻き)。そこの衣は横幅があり、互いを結束して連ね、簡単な縫製もない。婦人は髮を曲げて結び、衣は単被(ひとえ)のように作り、その中央に穴を開け、これに頭を突き出す(これがいわゆる貫頭衣ですが、儋耳珠崖の民はみな中央に穴をあけて頭に通して被るだけの一枚の布を衣服としている。と全く同じです。縫い目がなく、広い布を、ひもかおびで体にまとっていたというのが重要なことです。会稽と儋耳珠崖の民の衣服は無縫だったのです。したがって、吉野ヶ里の民は貫頭衣ではなかったのです。なんと、30センチ幅の布を二枚つかい、縫い合わせていたのです。後節で証明します。)


 種禾稻、紵麻、蠶桑緝績。出細紵、縑綿。其地無牛馬虎豹羊鵲。兵用矛、楯、木弓。木弓短下長上、竹箭或鐵鏃或骨鏃、所有無與儋耳、朱崖同。


 水稲、紵麻(カラムシ)の種をまき、養蚕して絹織物を紡ぐ。細い紵(チョマ=木綿の代用品)、薄絹、綿を産出する。その地には、牛・馬・虎・豹・羊・鵲(カササギ)がいない。矛、楯、木弓を用いて戦う。木弓は下が短く上が長い、竹の箭(矢柄)あるいは鉄の鏃(やじり)、あるいは骨の鏃(やじり)、所有る無しと儋耳と朱崖に同じである。

*『儋耳』と『朱崖』は、海南島の郡名。陳壽が、会稽から東治、さらに南の海南島まで海沿いに倭人が居住していたとの認識が確認できる。


 倭地溫暖、冬夏食生菜、皆徒跣。有屋室、父母兄弟臥息異處、以朱丹塗其身體、如中國用粉也。食飲用籩豆、手食。其死、有棺無槨、封土作家。始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飲酒。已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐。


 倭の地は温暖、冬や夏も生野菜を食べ、皆が裸足で歩いている。屋室があるが、父母兄弟は寝室を別とする。朱丹を身体に塗り、中国の白粉を用いるが如きである。飲食には御膳を用い、手で食べる。死ねば、棺(かんおけ)はあるが槨(かく=墓室)はなく、土で密封して塚を作る。死去から十余日で喪は終わるが、服喪の時は肉を食べず、喪主は哭泣(こくきゅう)し、他の人々は歌舞や飲酒をする。葬儀が終われば、家人は皆が水中で禊(みそぎ)をする。練沐(練り絹を着ての沐浴)のようである。


 其行來渡海詣中國、恆使一人、不梳頭、不去蟣蝨、衣服垢污、不食肉、不近婦人、如喪人、名之為持衰。若行者吉善、共顧其生口財物;若有疾病、遭暴害、便欲殺之、謂其持衰不謹。


 そこの行き来では、海を渡って中国を訪れるが、常に一人を頭髪を櫛で梳(けず)らず、蚤(ノミ)や蝨(シラミ)を去らせず、衣服を垢で汚し、肉を食べず、婦女子を近づけず、喪中の人のようにさせる。これを持衰(じさい)と呼んでいる。もし航行が吉祥に恵まれれば、共に訪れる(者)が生口(奴隷)に財物を与え、もし疾病が生じたり、暴風の災害などに遭ったりすれば、これを殺す、その持衰の不謹慎が(災いを招いた)というのだ。

 

何が儋耳、珠崖と同じなのか?




「交趾,本漢初南越之地,漢武平南越,分其地為儋耳、珠崖、南海、蒼梧、合蒲、交趾、九真、日南,凡九郡,置交趾刺史領之」
交趾はもと、漢の初めに南越の地にありました。漢武帝が初めて南越を平定し、その地を儋耳、珠崖、南海、蒼梧、合蒲、交趾、九真、日南の九郡に分けました。南越九郡の勅史を交趾に置いてこれを領有しました。

漢書地理志に儋耳、珠崖の記述があった!


136 打開字典顯示相似段落 《漢書地理志》地理志下:
「武帝元封元年略以為儋耳、珠崖郡。民皆服布如單被,穿中央為貫頭。男子耕農,種禾稻紵麻,女子桑蠶織績。亡馬與虎,民有五畜,山多麈嗷。兵則矛、盾、刀,木弓弩,竹矢,或骨為鏃」

武帝の元封元年に略式の命令を以て儋耳(たんじ)、珠崖(しゅがい)を郡になした。民はみな中央に穴をあけて頭に通して被るだけの一枚の布を衣服としている。男子はの稲やカラムシのなど穀物の種を植えて農耕し、女子は桑蠶(かいこ)から糸を紡いで織りなしている。馬とトラはいない。みな、五種類の家畜を飼っており、山には鹿のなく声が多い。兵は矛、盾、刀、木弓弩を身に着けている。矢は竹で、骨の矢じりのあるものもある。

元封の元号は 前漢の武帝劉徹の元号で、紀元前110年-紀元前105年です。元封元年は紀元前110年です。その時の記録になります。そこに書かれた儋耳、珠崖の風俗として面白いことが書かれています。「民はみな中央に穴をあけて頭に通しているl被るだけの一枚の布を服としている。」、中国南方の原始的な衣服であったことが推定できます。この衣服は日本の倭人のことではありませんよ。儋耳、珠崖なのです。ですから、魏志倭人伝は会稽と儋耳、珠崖の倭人の風習が同じだいっているのです。「所有無與儋耳、朱崖同。」 漢書地理志のほうが古い文献ですから、儋耳、珠崖の記録が先です。陳寿は、この漢書地理志をベースにして会稽の倭人を書き上げた可能性もあります。そこで、日本の倭人の風俗が書かれていると考えているみなさん、すこしは疑問を感じてください。いわゆる貫頭衣は九州の弥生時代のご婦人の衣服ではなかったのです。ほんとうにNHKさんも出版各社のみなさんも目覚めてくださいね。前1世紀から2世紀、弥生中期の九州のご婦人は縫い目があり、袖のある衣服を着ていたのですよ。(吉野ヶ里遺跡で縫い目のある絹布が出土、再現衣装も展示されています。

*元封とは中国、前漢代の元号。武帝の第6番目に施行された元号で紀元前110年 - 紀元前105年
*麈 zhǔ シカの一種
*嗷 áo ワーワー、ガーガー、ピーピーなどの【オノマトペ=擬態音】
*鹿の鳴き声 『播磨国風土記』によると、応神天皇が狩に出かけた際に、鹿が比々(ひひ)と鳴いたことを哀れに思って、狩を中止したことが記されている。「ひひ」という音を、殺されるものの悲しみの声と感じたのである。・・・『万葉集』には68首も鹿を詠んだ歌があるそうです。
*禾(か) hé 付属形態素1(植物)アワ.2稲.3(総称的に)穀物.
*稻 dào 稲 付属形態素 (一般に水稲を指し)稲.⇒水稻 shuǐdào ,旱稻 hàndào ,早稻 zǎodào ,晚稻 wǎndào
*蠶=蚕 cán かいこ
*種禾稻とは稻谷と同義で米を植えること。紵麻(ちょま)は縄文時代から生き残っているイラクサ科の多年草、カラムシのことで、その茎の繊維を取出して撚り、糸を紡いで布を作っていました。カラムシは夏場に刈り取って、その皮から繊維を取り出します。成長が非常に早く、2か月で背丈が150センチほどになります。

①《越後上布(えちごじょうふ);画像をクリックすると動画再生できます》
②カラムシの刈り取り(福島県昭和村)「福島県昭和村の「600年の伝統を守るからしし織の里
「紵麻を種え、蚕桑緝績し、細紵・ケンメンを出だす」、この魏志倭人伝と比べてみますと、漢書地理志とほぼ同じですが、漢書地理志では農耕種禾稻紵麻が男子、蠶(カイコ)桑緝績(つむぐ)が女子の仕事としています。わたしには、男性が米とカラムシを栽培し、女性は絹糸をつむぎ、機織り(はたおり)をしていると読めるのですが、これは男耕女織の生活パターンになっています。日本の皇室行事、天皇の「お田植え」、皇后の「ご養蚕」の儀式も中國古代の生活様式が踏襲されているようです。日本語では苧(からむし)=苧麻(ちょま)=学術語ではラミー(Ramie、学名:B. nivea var. candicans)

大麻(おおあさ)。和名アサ(麻、英名Cannabis)は、学名カンナビス・サティバ (Cannabis sativa)といい、中央アジア原産とされるアサ科アサ属で大麻草(たいまそう)とも呼ばれ、薬用型あるいは「マリファナ」とも呼ばれる。
ヘンプ (hemp) は、繊維型とされ、繊維利用のために品種改良した麻の呼称で、繊維利用の研究が進んだ欧米諸国でそう呼ばれ、規制法で表記される植物名のカンナビスと区別している。ディーゼルエンジンなどに使用できる化石燃料よりも低公害の油をとることもでき、近年その茎から採れる丈夫な麻繊維はエコロジーの観点から再認識されている。産業用へンプのTHC含有量は0.3%未満であり、摂取しても陶酔作用はない。
2016年前後の産業用ヘンプの生産面積(単位:ヘクタール)
カナダ 34000
アメリカ合衆国 3905
ドイツ 1501
フランス 14500
オランダ 2443
スペイン 300
イタリア 2300
ロシア 3800
中国 26800
日本 6
(日本が少ないのは戦後GHQから栽培を禁止されたからです。)
広義には、アサは麻繊維を採る植物の総称であり、亜麻や苧麻(カラムシ)、黄麻(ジュート)、マニラ麻、サイザル麻を指すことがあります。

リネンとは(linen 亜麻 あま) =アマ(亜麻、学名:Linum usitatissimum)は、アマ科の一年草。ヌメゴマ(滑胡麻)、一年亜麻、アカゴマなどの異称もある。その栽培の歴史は古い(リネン#歴史も参照)。日本では江戸時代に種を薬として使うために限られた範囲で栽培され、明治から昭和初期にかけて繊維用に北海道で広く生産された。
茎の繊維は、衣類などリネン製品となる。種子からは亜麻仁油(あまにゆ、リンシードオイル、フラックスシードオイル)が採れ、これは食用や塗料、油彩に用いられる。
原産地はカフカス地方から中東にかけての一帯とされる。古代から中東やユーラシア大陸西域で栽培され、現在は各大陸で栽培される。日本では冷涼な気候の北海道のみが栽培適地である。


《『魏志』倭人伝は服装について其衣横幅但結束相連略無縫婦人被髪屈紒作衣如單被穿:「その衣は横幅、但結束して相連ね略縫うこと無し。婦人は被髪屈し、衣を作ること単被の如く、その中央を穿ち、頭を貫きてこれを衣る。」と記述しています。ところが、【吉野ヶ里】の婦人服には縫い合わせがあるのです。また、機織り機からは布は30cmの横幅しかなかったので、頭をくり抜くことはできません。
男子の衣服の形態については高橋健自氏の「袈裟式説」と猪熊兼繋氏の「織った布を横糸の広さのまま並べ合わせて綴くった布」とする説が著名です。女子については「一幅の布の真ん中に縦の裁ち目を作って、これから頭を貫き、両ワキを綴くり合わせて、その合わせ目の上をあけて両腕を出した」とする説が一般的です。高橋氏の説での注意点は一枚の布でつくったワンピースで、両腕は合わせ目(布)から出ています。ですから袖がないことになります。



大麻、春に植え、夏には2~3メートルの高さまで成長します。現在は法律で栽培することは制限されています。
大麻は湿地帯では生育しません。山間部のほうが成長に適しています。大麻は(おおぬさ)と読まれていました。
吉野ヶ里の麻布の材料は大麻(おおあさ)とされています。大麻(おおぬさ)。古代より神道の祭祀において修祓(しゅはつ、祓い)という祓具(はらえぐ)として、左右左と振って不浄を祓い清め、国家、国民の安寧を祈るため用いられてきました。別名大幣(おおぬさ)また、大嘗祭に麁玉(あらたま)は歴代天皇のご即位に阿波の三木家(徳島県美馬市木屋平字貢)が調進していました。麁玉は、大麻(おおぬさ)から織り出す反物です。阿波忌部(あわいんべ)直系の三木信夫さん(82)が2019年11月に予定されている代替わりの皇室行事「大嘗祭(だいじょうさい)」で自身2度目となる「麁服(あらたえ)」調進に向けて準備を進めています。

三木家住宅の前の大麻。


吉野ヶ里の貴族の衣服には袖がある。したがって、縫い合わせがある。
無縫では袖をつけることはできません。常識です。


Vネックは、くり抜かれたものではありませんし、スカートに当たるとこrは縫い合わせているのでしょう。

◇庶民(下戸層)の日常着(吉野ヶ里歴史公園公式サイトより抜粋)
庶民の衣服:紫色は貝紫染色か?

上の写真は、吉野ヶ里歴史公園展示室の弥生人の左男女二体が上層人が右の男女が下層人です。袖付けには縫製が施されています。「縫うことあり」なのですから、これを貫頭衣に分類することは間違っています。

これに対して、本基本設計の委員でもある武田佐知子氏は「男子の服(横幅衣)と女子の服(貫頭衣)は着装状態から言えばほぼ同一の形状を示すことになり、二種の異なった形態の衣服を指すのではなく、男女に共通して着用された衣服の、一つは製法上から出た、また今ひとつは着装法上から出た名称であり、同一の実体を指すものであったと考えてみたい」と述べています。
そして、それを根拠として、【吉野ヶ里】では復元のプロセスを次のように考えました。弥生時代の織布の幅は30センチ前後であったと考えられ、一幅で身幅を覆うことの出来る布幅を持ち、その中央に穴を開けて頭を通して着用するという貫頭衣は、製作することが難しかったと考察しています。」 男女とも布を二枚、頭と腕の出る部分を残して脇で綴くりあわせる形態の衣服を検討しました。また人物埴輪や高松塚古墳に見られるようにその後の古代日本の衣服が一貫して前合わせであることや同時代の中国の衣服も前合わせであることなどから、前合わせで腰紐を使用する形態を考えました。なお、こうした形態の衣服は最も一般的であり、庶民(下戸層)の日常着であったと考えられます。》

全員白色ー>染色技術がなかった誤解、タートルネックばかりで、頭が入るだけの寸法を布をくり抜くが、袖がなく、縫製の技術がなかった印象をあたえる。綿ではなく、藍染の大麻やカラムシの繊維、毛皮を着用していたイメージに変更すべきであろう。
吉野ヶ里の農耕夫はVネックであった。このイメージはほぼ教科書初期からかわらない。すでに解説したとおり、紀元前後の中国南方の一般服だった。現代の考古学の進歩に遅れた古いこの図版は、改訂されるべきだろう。

*『魏志』倭人伝は倭人の服装について「男子は皆露し、木緜を以て頭に招く。その衣は横幅、但結束して相連ね略縫うこと無し。婦人は被髪屈し、衣を作ること単被の如く、その中央を穿ち、頭を貫きてこれを衣る。」と記述しています。・・・・ここでの要点は「縫うことなし」です。男女とも縫い合わせのない服だったということですから、貫頭衣には袖(そで)がないということになります。ここが一般的解釈には漏れているのです。東大阪市立郷土博物館の酒井晶子女史による、弥生時代の貫頭衣(チュニック形状)の製作法として、幅30〜33ピッチの2枚の布を首と両手を通す穴を残して縫い合わせたとする説がありますが、酒井女子は縫い合わせがあっても、それが貫頭衣だとします。一般の服飾学の専門家は形状(スタイル)だけに着目して貫頭衣としているのです。貫頭衣は、縫い目がなく袖がないことをもって定義されるべきだ、というのがわたしの主張です。
ほぼ、半世紀にわたって日本の弥生中期〜後期の農耕の開花期における小中学校の教科書での衣服の図版は間違っています。






この節のあとがき

 婦人は髮を曲げて結び、衣は単被(ひとえ)のように作り、その中央に穴を開け、これに頭を突き出す(貫頭衣)。これは儋耳、珠崖の倭人の風俗だったのです。「その物産や習俗など、あることないこと全部が(海南島の)儋耳(たんじ)と朱崖(しゅがい)の倭人と同じである。」と魏志倭人傳が書くように儋耳、珠崖は会稽と同じだということなのですよ。引き延ばすと、倭人のいる地域は一つの地域に括ることはできないのです。ところが、九州の倭人も貫頭衣を着ていると誤解されてしましました。弥生時代の環濠集落の情景でのご婦人は、すっかりこの貫頭衣のスタイルで挿絵や漫画になっているのをみなさん、目にしているでしょう。残念でしたね。イメージがぜんぜん違うのです。
弥生時代から日本の婦人は中国と同じ長い袖を持った服だったのですよ。領巾が長く、和服はその発展形といっていいでしょう。染色(高度な貝紫の染色技術がありました。(有明海産のアカニシ貝・千個の貝からわずか数グラムの分泌液しか採取できない顔料。)色彩も豊かで、ずっと中華風で華麗だったのです。
『古代国家の形成と衣服制―袴と貫頭衣』武田佐知子著 (吉川弘文館<戊午叢書>参考文献;

中国古代木弓弩のイメージ

木弓弩

儋耳、珠崖では木弓弩、会稽倭人は木弓を使います。木弓は下が短く上が長いとあり、儋耳珠崖の木弓弩ではありません。また、匈奴や胡人の使う弓は短弓ですが上下の幅は同じです。弓に関しては、会稽で使われていた弓は和弓にているのです。竹の箭(矢)で、鉄の鏃(やじり)、あるいは骨の鏃(やじり)を使っていることは同じようですが、あることないこと会稽倭人が儋耳、珠崖の倭人と同じであるとされますが、会稽倭人が木弓弩を使っていないと考えられます。

*箭(せん) 矢のこと



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