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NO334_2・・・・魏志倭人伝 文法構造で解読する

女王国・九州編ロケーションブロックを通して見る

 会稽ブロックのつづく九州_女王国のブロックついて、これから解説します。

 つぎのブロックは、どう変化するのでしょうか。つぎのブロックは、「其」がないフレーズから始まります。「出真珠靑玉」というのです。
その後段はJ'からR'まで其其構造です。出真珠靑玉ですが、真珠やヒスイの勾玉が産出する倭地が主格に変わります。
会稽編は倭人、人称が主格でしたが、ここからは倭地、地域、属性としては場所がが主格になります。
      九州=女王国
    出真珠靑玉
   
J'
山有丹
   
K'
木有枏杼豫樟楺櫪投橿烏號楓香
  
L'
竹蓧簳桃支有薑橘椒蘘荷不知以爲滋味有獮猴黒雉
  
M'
俗擧事行來有所云爲輒灼骨而卜以占吉凶先告所卜其辭如令龜法視火坼占兆
 
N'
會同坐起父子男女無別人性嗜酒【注:魏略曰其俗不知正歳四節但計春耕秋収為年紀】
見大人所敬但摶手以當跪拝
  
O'
人壽考或百年或八九十年
  
P'
國大人皆四五婦下戸或二三婦婦人不淫不妬忌不盗竊少諍訟
  
Q'
犯法輕者没其妻子重者滅其門戸及宗族尊卑各有差序足相臣服、収租賦有邸閣國國有市交易有無使大倭監之 自女王國以北特置一大率檢察諸國諸國畏憚之常治伊都國,於國中有如刺史、王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯、下戸與大人相逢道路逡巡入草,傳辭説事或蹲或跪兩手據地爲之恭敬對應聲曰噫比如然諾
  
R'
本亦以男子爲王住七八十年
 上は、構造を見るためにあえて原文を其の前で改行し、並べ替えています。其の、其のが連続していることを確認してください。
以下、読み下しをお読みください。
出真珠靑玉から始まり、其の其のでつながっているR'までは女王国の領域、九州北部がロケーションです。
会稽のブロックと女王のブロックと分割できるのは、真珠と青玉(ひすい)の特産物を書いたフレーズからです。それは、大きな意味段落が、出真珠青玉の行から変わるのです。ここから、女王国=九州のブロックに入ります。このブロックのエリアは「女王國以北」です。

さて、女王国の地域=九州のブロックの行頭は、初出の「出真珠青玉」です。
通読は、「真珠と青玉を産出する。」と、さらりと訳しています。では、其の主格は何でしょうか。
つぎの、「其山丹有」のそのを「倭の山には丹がある。」と通訳では、訳しています。
つまり、後続の其のに主語があると解釈して、通例、「倭」を代入しています。
 では、主語を補足すると、「倭地は真珠と青玉を産出する」とほかの説では訳します。
これは、正しくありません。

では、主語を何にしたらいいでしょうか。後続のQ’ブロックには女王国が出てまいります。わたしは、「女王国以て北」を主語に代入します。補足して訳すと、「女王国以北出真珠青玉」となります。なぜ、以北まで主語に加えるのかといいますと、女王国は地点ですから、「女王国以て北」まで拡張しないとエリア、地域にはならないからです。
「女王国の北の領域は真珠と青玉を産出する」と訳します。以下、其は「女王国の北の領域」のうけになります。

 ここは、どっこい大きな意味が残ります。女王の支配が及ぶ地域は、奴国の緯線の北に限られているのです。それは、曹魏が封ずる国々は、九州の北半分、佐賀県、福岡県、大分県の部分で、おおよそ久留米市より東ラインの北側だけだったのです。
 こう考えると、九州山脈の南、現在の熊本県、宮崎県にあった国々は帯方に服属していません。魏志倭人伝は女王国の南側は全く触れていないと言えるのですが、九州の地域学が有効で、日本の考古学の情報がが役立つ唯一のブロックです。
  
出真珠靑玉
    
その地は真珠や青玉(ヒスイ)を産出する。

J'
山有丹
その地の山には朱丹がある。  
   
K'
木有枏杼豫樟楺櫪投橿烏號楓香
楠木(クスノキ)、栃(トチ)、樟(クス)、櫪(クヌギ)、橿(カシ)、桑(クワ)、楓(カエデ)などの樹木がある。
  
L'
竹蓧簳桃支有薑橘椒蘘荷不知以爲滋味有獮猴黒雉
その地には竹篠(シノダケ)、桃支(メダケ)がある。生姜(ショウガ)、橘(タチバナ)、椒(サンショウ)、茗荷(ミョウガ)などがあり、食料として滋味なることこの上ない。猿や黒い雉(きじ)がいる。
M'
俗擧事行來有所云爲輒灼骨而卜以占吉凶先告所卜其辭如令龜法視火坼占兆
  そこの風習は、事を起して行動に移るときには、亀の骨を焼いて吉凶を占うが、初めに占うことを告げる、その礼句は中国の亀卜法に似ている。骨に生じた裂け目の方角を観て兆(きざし)を占う。
N'
會同坐起父子男女無別人性嗜酒【注:魏略曰其俗不知正歳四節但計春耕秋収為年紀】
見大人所敬但摶手以當跪拝
  そこでは卜占を行う祭祈堂は座席の順序や男女や親子など立ち居を区別することなく、一同に会している。人々の性質は酒好きである。人々は大人(高貴な者)への敬意を表すには手を合わせてひざまずいて礼をする。

O'
人壽考或百年或八九十年
そこの人々は長生きする者が多く、百年、あるいは八、九十年を生きる。


P'
俗國大人皆四五婦下戸或二三婦婦人不淫不妬忌不盗竊少諍訟
そこの風俗は、国の部族長(有力者)は皆、四、五人の妻を持ち、庶民でも中には二、三人の妻を持つ者がある。その妻たちは貞節で互いに嫉妬をしない。
Q'
犯法輕者没其妻子重者滅其門戸及宗族尊卑各有差序足相臣服、収租賦有邸閣、國國有市交易有無使大倭監之。 自女王國以北特置一大率檢察諸國、諸國畏憚之常治伊都國、於國中有如刺史、王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯、下戸與大人相逢道路逡巡入草、傳辭説事或蹲或跪兩手據地爲之恭敬對應聲曰噫比如然諾
そこの地では窃盗をしないので、訴訟は少ない。法を犯せば、軽い罪は妻子の没収、重罪はその家族あるいは一族を処罰する。身分の尊卑は階級の序列があり、互いに臣服の秩序が整っている。租賦を収める役所は高床式倉庫で、また国々にそれぞれ市場があり、人々は出かけて行って双方物資を交易しあっているが、諸国の王は各々管轄官を任命して交易の有無やその多寡を監理している。
女王国から北には、特別に大率を置き、諸国を検察しており、他の諸国はこの大率を畏れ憚(はばか)っている。大率は常に伊都国で治め、国の中での立場は中国における皇帝の刺史のようである。女王国の王が使いを出して京都(洛陽)・帯方郡・諸韓国に使者を送るとき、および、その地の郡の役人が倭国に使いをだすとき、皆波止場に臨んで、奏上書や貢献品を点検している。詣でた際に女王が誤解(くい違うこと)を受けないようにしている。庶民が国の有力者に道で出会った際は、後ずさりして草むらに入り、道をあける。有力者に対面して話たり、何か事情を説明するときは敬意を表すため、蹲(うずくま)るか、跪(ひざまず)いて、両手を常に地面に着けておくしきたりである。返事をする声は噫(yī)と言い、これで承諾を示すようである。

*噫:人の声で、【オノマトペ】に類する。普通は嗚呼と読み替えて「ああ」と訓読します。日本語では呼びかけ・要請に対する応答として、「はい,ええ,ああ,おう,そう」などが慣用表現なので、「ああ」と訳すのは間違いとはいえません。日本語の感覚では、もっともそれらしい響きですが、声音の元は漢字であり、音借文字です。中国語一音ではとなります。「ああ」の場合二音節で、発音は長母音となり、「アー」となります。中国語のような複合母音は一音節であるのとは異なります。「ああ」というのは言語学上ありえません。史書中では噫は感嘆詞としての用例が多く、哎(嗳)āi、唉 āi と置き換えができます。著者は当時の日本語が現在のようなアルタイ語系のような語尾変化をしていなかったのではないか、と思っています。方言での語尾をあげてみます。「~ばい」「~たい」「~けん」「~だら」「~ずら」「~べ」「~にゃあも」「~や」「~じゃ」「~て」など方言がさまざまであることからある程度の語幹があって、語尾は付属語として規則性なしに分岐していったプロセスがあると考えています。つまり、古代はもっと単語を並べるだけの言語に近かく、語順は柔軟だったと思われます。
R'
本亦以男子爲王住七八十年
その国はもともと男子が王となって七、八十年在位していた。

其の構成、連続している最後の其がR'です。この其が倭地の女王国または伊都国を受けていることが重要で、倭国大乱は否定されます。ここにおいて、新説に転換する意義を持ちます。
通説のように倭国大乱が70,80年続いたとするのは全くの誤訳です。「其」構文を無視しているからです。

注:亦(本亦以=以前から現在までずっと)
注:往【zhù】動詞 住む,滞在する,宿泊する,入院する.住居

《九州の地域学》
「其山有丹」を探る


中央構造線の延長線は、愛媛県松山市から大分県の佐賀関半島に延び[松山-伊万里線(別府湾・玖珠盆地・日田盆地・筑後・肥前)]、佐賀関半島と国東半島の間を通っているのは確実視されています。辰砂鉱はこの松山-伊万里線にそっていると考えられます。九州では別府にある辰砂鉱としては別府金山(閉鉱)が有力です。玖珠盆地・日田盆地・筑後・肥前に帯状に金鉱が多いのです。丹は「に」と言われて、丹生は「にう」といいます。地名や神社の名前にもわずかながら残っています。
九州西部水銀鉱床群とその東部に注目したいと思います。下図の4と6が水銀鉱床の遺跡のようです。この鉱山は伊都国に近く、いわゆる筑紫文化圏にあることで無視できないのです。また、7,8は丹生神社ですが、伊勢から招来されたとは思えませんが、郷土史にあたるほかありませんが目下調査中です。


 参考資料=九州の鉱山一覧 
地域学として鉱山の数を見るのも重要な視点を開いてくれます。日田市に金山が多いのは幕府時代天領になったいきさつでしょう。筑後川の最奥地で、九州のへそともいえる物流の要地というだけでは日田市の重要度は語れません。
うっちゃん先生の「古代史はおもろいで」ブログ;豊前は水銀朱の産地でもあった
このブログをみると、豊前には大小さまざまな鉱山の試し掘りした洞穴があるようです。
邪馬台国は九州東海岸にあります。宇佐説、大分説が有力地に比定されていますが、別府を唱える人はいません。わたしは、杵築も有力だと思っていましたが、別府も有力です。別府の扇山遺跡(おおぎやまいせき)が興味深いのでリンクしておきます。ただ、邪馬台国は戸数が七万余と多いので、大分からの七万戸の人口を支える食糧供給地を含ませないとなりませんから、単独で別府が邪馬台国というには無理がありそうです。宇佐説を唱える人が多いのですが、宇佐には鉱山が一つしかありません。金山などがある地域は一山当てようと多くの人が集まります。また、天然の辰砂は大量の岩石からわずかしか採取できません。石臼で小粒にして抽出する作業を行う関連の労働者もいたことでしょう。かなりの生産者人口が必要です。たとえば四国松山を例にとると忌部氏などの鉱業技術者集団の存在がとうぜんながらいるわけです。
宇佐神宮が日本神話では巨大な存在ですが、おおよそ八世紀ごろ発祥したと考えられます。3世紀に多くの人が集まっていた地域とは考えにくいところがあります。邪馬台国はどこかという問題は考古学に目を向けるだけでなく、広く地域学として考えていくべきでしょう。その場合、魏志倭人伝では「その山丹あり」と言っているのですから、九州において水銀鉱山に注目するのはとうぜんのアプローチです。

四国では若杉山遺跡(徳島県阿南市永井町:遺跡は県南部の那賀川の支流若杉谷川の西側に広がる山腹) が脚光をあびています。水銀朱の原料、辰砂(丹砂)と坑道跡が発見され、1世紀から3世紀(弥生後期~古墳前期)のものと確認されました。2019年3月1日 NHKなどで報道され、若杉山遺跡では、石臼は40点以上、石杵は300点以上出土しています。徳島県阿南市の加茂宮ノ前遺跡で、古代の赤色顔料「水銀朱」を生産したとみられる。共同通信社 2019/02/18>文時代後期(約4千~3千年前)の石臼や石きね300点以上のほか、朱が塗られた耳飾りが出土し、県教育委員会が18日、発表した。
辰砂の採掘は縄文時代から行われており、なかでも伊勢水銀として古くから知られている。三重県勢和(せいわ)村丹生(にう)付近では、縄文時代後期の度会(わたらい)町森添(もりぞえ)、嬉野(うれしの)町天白(てんぱく)の両遺跡から、辰砂の付着した石皿、磨石や朱容器と考えられる土器が数多く出土しており、このころから辰砂の精製が行われていたことがわかります。三重県度会町の森添遺跡などでも縄文後期の朱の原石や朱が付着した土器が見つかっているが、水銀朱に関連した遺物の出土量としては国内最多としている。原料となる石も出土しており、朱を生産していた可能性がある。朱が塗られた土器も見つかり、当時の具体的な使用状況が分かるという。徳島市国府町の矢野遺跡においても縄文時代後期から辰砂の精製が行われていたようです。古墳からの出土品には、福井県丹生郡の朝日古墳群中条4号墳から出土したものや大阪府の野中古墳の出土品のように、きれいに整形されているものが多く見受けられます。
近畿では、大和水銀鉱山(やまとすいぎんこうざん)は、奈良県宇陀郡菟田野町(現・宇陀市菟田野)があり、



[松山-伊万里線(別府湾・玖珠盆地・日田盆地・筑後・肥前)]


伊都国と津(しん)の研究





*中国の邸閣のイメージは高楼の形式をもった食料倉庫となります。食料の貿易ハブ、価格が高騰したとき市場のバランスをとるための放出、また、自然災害や城郭が包囲されたときの備蓄などに使用されていました。
当時の人口を調べることはとても難しいことです。基本的には、お墓の数や住居の数などから推察していきますが、当時の燃料が薪だったことを考えると、周辺の森林の伐採等による環境のことも考えなくてはいけません。また、当時の人々が1 日どれくらいの食物を食べていたのか、それを満たす食糧の確保が可能だったのか、など、考えなくてはならないことはたくさんあります。吉野ヶ里では、こうした様々なことについても調査研究を行い、現時点で最盛期には、外環壕の内部におよそ1,200人、吉野ヶ里を中心とするクニ全体では、5,400人くらいの人々が住んでいたのではないかと考えられています。(吉野ヶ里公園公式サイト)。
交易も盛んだったと推定されます。吉野ヶ里遺跡での高床倉庫群は市場の機能を併せ持っていた区域と考えられます。また、倭人伝には「人々は出かけて行って双方物資を交易しあっている」・・・とありますので、交易のため、津(港・波止場)がこの倉庫群に隣接していた可能性があります。食料など大量の交易には必ず船が必要です。

吉野ヶ里の高床式倉庫群のある位置は、弥生時代には船積みできる環境にあったと考えられます。弥生時代には現在の田手川の本流は西側を流れていたと伝えられています。赤い丸の中の左、細めの川は現在の流れです。弥生時代は太い川で、吉野ヶ里は船で高床式倉庫群から積荷を船に載せ、筑後川を経由して外洋に出て諸国と交易ができたのです。

吉野ヶ里は現在、海岸からは約20kmですが、弥生時代の中頃には、地質調査や有明海沿岸の遺跡分布から、4、6kmくらいだと言われています。
ただし弥生時代中期、湾の奥では約2kmまで海岸が迫っていたと考えられます。また、弥生時代の終わり頃は約10kmくらいまで後退したという説があります。上の図では湿地とあるエリアは海だったと考えられます。こうして、240年頃吉野ヶ里は海にずっと近接していたのです。【吉野ヶ里】が物流のための港を持っていないはずはないと考えられるのです。吉野ヶ里から城原川の黒井八本松には環濠集落遺跡がありますが、ほぼ吉野ヶ里から西南4~5kmです。現在、湿地とある区域は海だったと想定できますよね。現在の城原川は治水工事で昔の川の流れとは異なっていることも射程にいれる必要があります。
弥生時代の港は、ほとんど河口から1~2km奥に作られています。海に面したところに船着き場は作っていません。埠頭のような港湾施設はありません。海の干満の影響を避けるためと、海が荒れたときに船を守るために、どうしても、湾や潟のさらに奥にある河の奥である必要があったのです。その例として壱岐島の原の辻遺跡の津の復元図をご覧ください。

原の辻遺跡(はるのつじいせき)は弥生時代の環濠集落で、『魏志』倭人伝に記された「一支国(いきこく)」の王都に特定された遺跡です。これまでの発掘調査で、日本最古の船着き場の跡や当時の「一支国」が交易と交流によって栄えていたことを示す住居跡などが確認されています。図版は日本最古の船着き場の復元模型です。


上のように、この内海を有明海に置き換えてみますと、吉野ヶ里東南4~5kmは筑後川です。

       続くQ'はロケーションがことなります。女王国=伊都国から郡=倭国に転換します。大きな段落、ブロックが変わります。
帯方=倭国

Q'
倭國亂相攻伐歷年乃共立一女子爲王名曰卑彌呼事鬼道能惑衆年已長大無夫婿有男弟佐治國自爲王以來少有見者以婢千人自侍唯有男子一人給飲食傳辭出入居處宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衞

倭国は乱れ、互いの攻伐が繰り返され数年も続いたので、一人の女子を王(共立王)と為した。その名を卑彌呼といい、鬼道(卜占の法)を執り行い、その宣託は、よく人々を魅了した。年齢は高齢のため夫はすでに無く、(夫の)庶子弟がいて国の統治を補佐していた。
その弟が王を自称して以来、卑彌呼を見かける者は少なくなった。官女(宮廷で務める婢)が千人も側に侍り、ただ一人の男子が食事を給仕し、伝辞のため出入する。居住する宮殿や楼観に城柵が厳重に設けられ、常に護衛兵が配置されている。

*歷年=年(一年)が順々に積み重ねられたことをいい、数年来~何か~が続いた状態をいう。
*攻伐 敵の正体がはっきりしない戦いをいう。



九州=女王国のブロックを検証する

その後ろには、P’ブロックまで其で文をつないでいます。どうでしょうか。
この後ろはすべてP'の直前まで、即ち、J'からp''まで其、其、其、其、とつながっていきます。切れ目がありませんよね。ブロックをよく見て確認してください。かなり簡単に判別できるでしょう。
「其の」が尽きる行が意味段落の切れ目です。そこまで、女王国=九州のエリアの特産物、産物、宗教、趣向、政治機構、刑罰、身分秩序などの地誌が連続して書かれているのです。ここでは会稽編での風俗習慣と違うことが書かれていることにも注目してください。会稽の倭人と九州の倭人が同じではないということを知らねばなりません。ブロックごとに切っているのも文法的なセオリーに則っています。

O'
女王國以北特置一大率檢察諸國諸國畏憚之常治伊都國、於國中有如刺史、王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯、下戸與大人相逢道路逡巡入草、傳辭説事或蹲或跪兩手據地爲之恭敬對應聲曰噫比如然諾
P'
其國本亦以男子爲王住七八十年
Q'
倭國亂相攻伐歷年乃共立一女子爲王名曰卑彌呼事鬼道能惑衆年已長大無夫婿有男弟佐治國自爲王以來少有見者以婢千人自侍唯有男子一人給飲食傳辭出入居處宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衞


P’には「其」が冒頭フレーズです。

そこで、九州=女王国編として、ロケーションで一つのカテゴリーとなります。
P’とQ'は、とてもトリッキーです。


Q'は「倭国」という文字が初出になります。文頭に「其」がありませんので、切れ目とみなします。
また、この後ろの文脈からは、女王国、伊都国が出てまいりません。

本題を続けましょう。
そこで、Qの行頭の国は、倭国となります。ロケーションの区分では、P'までは女王国、Qからは帯方郡となります。
Q'は帯方太守である卑彌呼がいるところです。卑弥呼もここが初出になります。
ですから、帯方郡の歴史、政治、卑弥呼の様子などが書かれているブロックなのです。


O'.では「郡使倭國皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯」とあり、伊都国には津(港)があって、郡の役人が倭国に使いをだすとき、皆波止場に出て行って、奏上書や貢献品を点検して、女王に詣でる」と解釈します。
<郡>とは、伊都国にいる魏の役人です。使いをだすのは本国に向かってなのですよ。
「郡使倭國」、この倭国は港を出て海を渡った外地です。港に揃って出向いて荷を点検するのは女王国の人々、九州内地の人です。倭国は詣でる先にあり、そこに、女王がいるのです。女王国と倭国は、こうして、海を隔てたところにある別々の国なのですよ。そのうえで、Q'ブロックにつながるのです。

 こうして、港から出航した先に倭国があり、かつ、女王がいるのです。そこで、帯方や韓国に出発する起点が伊都国にあるということがはっきりします。このルートを仮に、伊都国ルートと名付けます。伊都国の津(港)のことは、帯方~九州の第一ブロックに詳述しました。伊都国の津は、久留米市の筑後川と接するところにありました。吉野ヶ里から東南6kmほどの所です。

「歳歳遣使詣京都貢獻」(扶余伝)とあるように「京都」と書いています。「京都」は、皇帝の直轄の領地です。(後述)ところで、魏志倭人伝にも、「京都」という文字がありますよ。都(ど)の真の意味は、中国皇帝が邪馬台国に都護を置くのではなく、代わりに女王が都護を置いている」、ということなのです。その都督は大率という呼称だったのですよ。そうすると、女王は中国皇帝の命令によって倭韓を封じていたことになるのです。

都は封建制下における名称です。郡県制になると行政機関としての都護という名称に変わったのです。

「遼西烏丸都督」、「鮮卑大都護校尉」、「張騫使西域、窮河源、經歴諸國、遂置都護以總領之」などは、みな、東夷伝にある表現です。
都督、都護などの用語として都は、辺境の直轄の監察機関の意味になります。辺境の封地の場合には中国と主従関係を結んだ王が食する(支配する)ところとなります。
都とは中国の行政区分でした。たいがい中国の首都からみれば辺地(田舎_いなか)にありました。その行政官を都督といい、前漢時代に直轄支配が始って以来、設置され、本来は監督、統轄の意味で、軍司令官のことを言いました。複数の州に跨る管轄領域を持った都督は長官である刺史を兼ね、都督府を置いて府官を任じ軍事だけでなく民政(租庸調)をも掌握する様になったのです。郡は州の下の行政区分であり、その長官を郡太守と称しました。さらに古く周王朝時代には都とは、辺境の采地(封國)であり、王子などが任じられると廟をつくったので、邑と区別されていました。


 「王遣使詣京都帶方郡諸韓國/及郡使倭國・・・女王不得差錯」は倭人伝にありますよ。 上の二つの用例を見比べてください。京都に上る場合は、「遣使」と「詣」がドッキングしています。対の構文です。京都は、京都帶方郡と読むと、帯方郡が京都になります。ですから「詣でる」という敬語があります。

京都はいったい何処?

郡は州のなかの行政区分ですから、帯方郡に対比してその上位の行政機関のあるところです。
ここでの京都は、公孫氏が帯方郡を支配していた時期なら、遼東の襄平になります。
明帝以後ならば、旧燕国・幽州の首都、薊(けい)、現在の北京にあたります。(燕都・薊城の遺蹟は北京市房山区に所在する。)

京都(けいと)の【用例】
《先秦兩漢》 《史書》 《後漢書》 [南北朝] 420年-445年
《志》
《五行四》

27 打開字典顯示相似段落 五行四:
順帝永建三年正月丙子,京都漢陽地震。漢陽屋壞殺人,地坼涌水出。是時順帝阿母宋娥及中常侍張昉等用權。
訳:
順帝永建三年正月丙子(128年)京都漢陽に地震があった。漢陽の家屋は倒壊し死者がでた。地は裂け、水が湧き出た。この時、順帝は阿母宋娥と中常侍張昉らと用權(ようけん)に居た。

解説:
順帝(じゅんてい)は、後漢の第8代皇帝。永建年間は(126年 - 131年)です。
この後漢王朝の首都は洛陽城でした。朝雒陽は2カ所、都雒陽は17カ所もあり、後漢以後では遷都洛陽など、用例が多数あります。順帝(じゅんてい)の首都は洛陽でした。
しかし、漢陽は中国、後漢時代の天水郡(現在の天水市)の別名。漢陽郡。74年(永平17年)、天水郡は漢陽郡と改称された。
ですから、漢陽は順帝のいわゆる”みやこ”ではありませんね。


”京都”が漢陽なのですから、京都は天子の居る所と定義できません。京都(けいと)の【用例】は5世紀ごろ後漢書で現れてくる熟語ですが、どう訳したらいいのでしょうか。やはり、大きな都(ど)、首都ではなく、微妙ですが副都と意味付けした方がいいでしょう。

では魏志倭人伝:「 王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯」
上記の魏志倭人伝よりの抜粋に京都という語があります。
現在の紹興本などの魏志倭人伝が後世に修正加筆されている可能性がおおいにあることは否定できませんが、それはさておいて、京都は天子の居る所ではないと判断してよさそうです。

*武漢市 中華人民共和国の中部、湖北省の東部にも漢陽がありますが、隋の時代に、武漢地区で江夏県と漢陽県が置かれ、それぞれ武昌、漢陽をもって治所にするとあり、武漢市の漢陽は後漢の時代にはないと看做しました。
したがって、”京都漢陽”とおなじく、”京都帯方郡”とワンワードで解釈することも考えられますが、京都・帶方郡・諸韓國と、区切りをいれたばあい、京都とは朝洛陽からみて、帯方郡を管轄する公孫の都城、襄平城をさすとも考えられます。

用語:
*(地坼涌水出=地割れと液状化現象
*漢水(かんすい)と長江の合流点、漢水の右岸、長江の北岸に位置する。中国,湖北省東部の重要都市。漢水が長江(揚子江)に流入する南岸にあり,いわゆる武漢三鎮の一つ。現在の武漢市。
*順帝 劉保,後漢,第8代皇帝,在位期間 125年12月16日 - 144年9月20日,永建3年(128年)、相次ぐ天災(頻発する地震と蝗害(こうがい);いなごの大量発生による災害)を受けて巡察や救貧政策が採られた。9月、鮮卑が漁陽に侵攻した。12月、太傅の桓焉が免職となった。この年に車騎将軍の来歴が罷免された。
*中国の蝗害は日本では想像できないほどその規模はすさまじく、大災害として農民に恐れられていた。イナゴの大群は数百万匹に達し真っ黒な雨雲のように太陽を覆って飛来し、広大な草原や耕地を荒れ地に化してしまう。かつて南京攻略の日本軍を蝗軍と揶揄した例がある。

《史書》
《史記》
[西漢] 公元前109年-公元前91年 司馬遷著
《列傳》《黥布列傳》
12 打開字典顯示相似段落 黥布列傳:
七年,陳。八年,雒陽。九年,長安。


《漢書》
[新 - 東漢] 36年-111年 提到《漢書》的書籍 電子圖書館
《傳》
49 打開字典顯示相似段落 韓彭英盧... :
六年,朝陳。七年,朝雒陽。九年,朝長安。

京都(けいと)は中国皇帝のいる処

「歳歳遣使詣京都貢獻」(三国志魏書扶余伝)にも京都とあります。扶余王は毎年遣使を出して、京都に貢献しています。・・・これは見落とせない重要な記録です。
では、京都と書かれれる用例を見てみましょう。
189年 - 十常侍、董卓、相次いで乱を起こします。
漢代之後 -> 魏晉南北朝 -> 三國志 -> 魏書三 -> 明帝紀
明帝紀: 二年春二月乙未:・・・「俾逆臣董卓,播厥凶虐,焚滅京都」
董卓が火を付けたのは献帝の宮・洛陽であるので、戦国時代には天子のいる宮処を京都といっていたことに間違いがないだろう。そこで、京都はこの時、曹操が築いた許都だっただろう。

明帝紀:
二年春正月,詔太尉司馬宣王帥衆討遼東。
明帝紀:
丙寅,司馬宣王圍公孫淵於襄平,大破之,傳淵首于京都,海東諸郡平。冬十一月,錄討淵功,太尉宣王以下增邑封爵各有差。

「司馬懿仲達は京都に公孫淵の首を取ったことを京都に知らせた。海東諸郡を平定した。

*海東諸郡=遼東郡・楽浪郡・帯方郡の三郡。玄菟郡は攻撃の拠点なので含まれない。
京都が理解できたうえで、Qを読んでみます。
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女王國以北特置一大率檢察諸國諸國畏憚之常治伊都國、於國中有如刺史、王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯、下戸與大人相逢道路逡巡入草、傳辭説事或蹲或跪兩手據地爲之恭敬對應聲曰噫比如然諾

 倭地には伊都国に郡使が往来しているのですから、中心は伊都国で、邪馬台国じゃありません。曹魏の郡使者のほかに、女王卑弥呼が大率を派遣して伊都国で統括しています。大率という官位は扶余の内官制で、佐平につぐ高級官僚です。(随書) 大率は二品です(後述)ですから、魏の文帝が定めた九品官人法では大将軍にあたります。その大率がいたところは、伊都国になります。伊都国で諸国を監察していたのです。ですから、他の国々(邪馬台国も含む)はみな伊都国に従属していたことになります。
 ここにおいて、江戸時代の漢学者が都を「みやこ」と読み下したのが間違いのもとだったのです。中国でも清の時代には、都を宮と字義を同じにしています。「女王の都を置くところ」というの「みやこ」という和義を宛てたことが、大きな落とし穴だったのです。スタートから都をみやこと読み下してしまったのです。この間違いをもとに邪馬台国論を構築してしまったのです。すると、ボタンのかけ違いのようにどんどん真実から遠ざかります。日本のことが書かれているのだから、日本書紀のほうが詳しいだろうという思い込みがあるのです。一か所であろうと、その間違いの上塗りに上塗りを重ねてしまったのです。ある本などは、「邪馬台国の卑弥呼の謎」というタイトルから始まるのです。それほど、蔓延してしまったのですが、騙されてはいけませんよ。大方の考古学者でさえ、卑弥呼が邪馬台国にいると疑っていません。巻向遺跡に大きな大殿跡が出てきましたが、土器編年を100年ちかく変えてまで卑弥呼の時代に合わせようとしています。おかしいですね。印象操作なのでしょうか。女王卑弥呼は邪馬台国にいません。伊都国にもいません。それどころか、日本にいなかったのです。

烏丸鮮卑東夷傳第三十の序文からは帯方郡が倭韓を従属させていたのですから、南海中にある邪馬台国が倭韓を支配していたというのはありえないのです。逆に、従属国の一国にすぎないという見方が大事なのです。

 さて、以上のQの次には下のE.ブロックが続きます。九州から出航するもう一つのルートがあります。それが、次に書かれる九州の外のブロックです。こちらの起点は、女王国東です。港は九州の東北海岸にあります。すなわち、邪馬台国ルート、伊都国ルートに、これを加えて、海上航路三大ルートということになります。

京都に貢献していた上手の国があった。

《魏書三十》
《夫餘傳》
3 打開字典顯示相似段落 夫餘傳:
夫餘本屬玄菟。漢末,公孫度雄張海東,威服外夷,夫餘王尉仇台更屬遼東。時句麗、鮮卑彊,度以夫餘在二虜之間,妻以宗女。尉仇台死,簡位居立。無適子,有孽子麻余。位居死,諸加共立麻余。牛加兄子名位居,為大使,輕財善施,國人附之歲歲遣使詣京都貢獻。正始中,幽州刺史毌丘儉討句麗,


漢代之後 -> 魏晉南北朝 -> 三國志 -> 魏書三十 -> 倭人傳
其八年・・・
更立男王,國中不服,更相誅殺,當時殺千餘人。復立卑彌呼宗女壹與,年十三為王,國中遂定

毎年京都に貢献していたのは扶余です。女王国は貢献品を扶余に献上していたのでしょう。この場合、卑彌呼に伊都国から送っていた品々は、帯方の扶余に渡っていたことになります。
では、ここでの扶余はどこにあったのでしょうか。「漢末,公孫度雄張海東,威服外夷,夫餘王尉仇台更屬遼東」・・・扶余は遼東と帯方の両方にあったことになります。実は、遼東ではなく、遼西にあったのです。相誅殺當時殺千餘人は男王麻余に対する牛加の兄子の謀反だったのです。
卑弥呼は倭国女王ですが、その地は帯方であり、扶余の占有地だったのです。扶余の王は尉仇台です。
わたしは、卑彌呼は公孫度の嫡女で、尉仇台の正妃だったと思っています。公孫度が尉仇台に嫁がせた宗女が卑彌呼です。だとしたら、简位居は仇台の嫡男ですから卑彌呼が生んだ子になります。
「夫餘王尉仇台更屬遼東。時句麗、鮮卑彊,度以夫餘在二虜之間,妻以宗女。尉仇台死,簡位居立。無適子,有孽子麻余。位居死,諸加共立麻余。位居死,諸加共立麻余。牛加兄子名位居,為大使,輕財善施,國人附之,歲歲遣使詣京都。
简位居には嫡嗣がいなかったのです。ですから、庶子の弟が卑彌呼を補佐して王を自称するようになり、卑彌呼は見かけることがなくなった・・・息子を亡くしたのですから皇后の地位を失ったのです。



E.九州の外

女王國東渡海千餘里復有國皆倭種
又有侏儒國有其南人長三四尺去女王四千餘里
又有裸國黒齒國復在其東南船行一年可至參問倭地絶在海中洲㠀之上或絶或連周
  旋可五千餘里

 九州の外、卑弥呼Xファイルでは九州番外編というインデックスにしてあります。女王国東の地点を起点に渡海する目的地が放射状に表記されています。
九州の東海岸に大きな港があったことが分かります。ここでは、大分にあった港から出発する侏儒国・裸国・黒歯國について説明します。

ただ、帯方に触れたところで、また、九州の外地が挿入されのは非常に難解なレトリックに感じます。そこで、この九州外のブロックを消去すると、Q.ブロックとF.ブロックが連結します。「帯方=倭国編」が、実は2つに分かれているわけではないのです。漢文のミミズ書きは、このように文節を分ける(ブロック化)ことによって、きれいに訓読訳に適した文脈を見ることができるのです。

F.帯方=倭国

景初二年六月倭女王遣大夫難升米等詣郡求詣天子朝獻太守劉夏遣吏將送詣京都

年十二月詔書報倭女王曰制詔親魏倭王卑彌呼帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米次使都市牛利奉汝所獻男生口四人女生口六人班布二匹二丈以到汝所在踰遠乃遣使貢獻是汝之忠孝我甚哀汝今以汝爲親魏倭王假金印紫綬装封付帶方太守假授汝其綏撫種人勉爲孝順汝來使難升米牛利渉遠道路勤勞今以難升米爲率善中郎將牛利爲率善校尉假銀印靑綬引見勞賜遣還今以絳地交龍錦五匹; 絳地縐粟罽十張蒨絳五十匹紺青五十匹荅汝所獻貢直又特賜汝紺地句文錦三匹細班華罽五張白絹五十匹金八兩五尺刀二口銅鏡百枚真珠鈆丹各五十斤皆裝封付難升米牛利還到録受悉可以示汝國中人使知國家哀汝故鄭重賜汝好物也

正始元年太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國拝假倭王并齎詔賜金帛錦罽刀鏡釆物倭王因使上表荅謝詔恩

四年倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪狗等八人上獻生口倭錦絳靑 縑緜衣帛布丹木𤝔短弓矢掖邪狗等壹拝率善中郎將印綬

六年詔賜倭難升米黄幢付郡假授

八年太守王頎到官倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和遣倭載斯烏越等詣郡説相攻撃状遣塞曹掾史張政等因齎詔書黄幢拝假難升米爲檄告喩之卑彌呼以死大作冢徑百餘歩徇葬者奴婢百餘人更立男王國中不服更相誅殺當時殺千餘人復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王國中遂定政等以檄告喩壹與壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還因詣臺獻上男女生口三十人貢白珠五千孔 靑大句珠二枚異丈親錦二十匹



以下、基本を踏まえて、帯方倭国編は、Q.とF.をつなげて解説することにます。次のページに移ってください。

一大率 解明

一大率とは?
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自女王國以北特置一大率檢察諸國諸國畏憚之常治伊都國、於國中有如刺史、王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使>倭國皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯、下戸與大人相逢道路逡巡入草、傳辭説事或蹲或跪兩手據地爲之恭敬對應聲曰噫比如然諾
 
大率とは官名です。いったいどこの国がどの時代に大率という呼び名を用いていたのでしょうか?随書の百済傳に大率という官名がありました。南に新羅、北に高句麗とありますから、この国は漢城百済で、その官名です。
隋書卷八十一列傳第四十六東夷百濟
  百濟之先,出自高麗國。其國王有一侍婢,忽懷孕,王欲殺之,婢云:「有物狀如雞子,來感於我,故有娠也。」王舍之。後遂生一男,棄之廁溷,久而不死,以爲神,命養之,名曰東明。及長,高麗王忌之,東明懼,逃至淹水,夫餘人共奉之。東明之後,有仇台者,篤於仁信,始立其國于帶方故地。漢遼東太守公孫度以女妻之,漸以昌盛,爲東夷強國。初以百家濟海,因號百濟。曆十餘代,代臣中國,前史載之詳矣。開皇初,其王餘昌遣使貢方物,拜昌爲上開府、帶方郡公、百濟王。其國東西四百五十里,南北九百余里,南接新羅,北拒高麗。其都曰居拔城。官有十六品:長曰左平,次大率,次恩率,次德率,次杆率,次奈率,次將德,服紫帶;次施德,皁帶;次固德,赤帶;次李德,青帶;次對德以下,皆黃帶;次文督,次武督,次佐軍,次振武,次克虞,皆用白帶。

百済の前身は高麗國(稾離国)から出ている。その国に側室をもつ王(金蛙王)がおり、あっという間に妊娠した。王は自分の子ではないと思いこの子を殺そうと思った。その側室は「わたしは鶏子のような物がわたしのなかに飛び込んできたのを感じました。それは妊娠の証のようです。」 王はこの河伯神女の産んだ子を殺さずに捨てることにした。豚小屋に捨てさせたがとうとう死ななかった。それを見た王はその子を神となし、養育するよう王は命じた。この男子の名を東明といい、長じると、稾離王(金蛙王)はこの子を忌み嫌うようになり、東明(朱蒙)は恐れて淹水まで逃げた。扶余人はこの東明を共に奉じることにした。東明のあと、仇台というものがいて仁信が篤く、初めて帯方の故地において国をつくった。漢の遼東太守公孫度は娘を妻となし、だんだん隆盛となり、東夷の強国となった。はじめて百家をもって海を渡り、それにちなんで百済と号した。十余代が中国の臣として仕え、百済の前史を詳らかに載せることができた。隋の開皇の始め(581年)餘昌(第27代百済昌王・在位554-598年)という王が貢献してきた。餘昌は上開府帯方郡公・百済王に除された。
その百済国は東西450里、南北900余理で、南に新羅に接し、北は高麗(高句麗)が拒んでいる。都は居拔城といい、十六品の官位制があり、曰く、「左平、その次に大率,次に恩率,次に德率,次に杆率,次に奈率,次に將德,以上の官服の帯は紫色である。次に施德、この官の帯の色は皁色(黒);次に固德,これは赤帶;次に李德,これは青帶;次に對德以下,皆黃帶である;次に文督,次に武督,次に佐軍,次に振武,次に克虞,これらは皆用白帶である。

*稾離国(こうりこく)わらという意味。通称東扶余城のこと。 
*朱蒙の天光受胎、日精に感じて生まれた伝説を書いているが、金蛙王は卵を犬や豚の傍に捨てさせるが、共にこれを食べなかった。路上へ捨てると牛馬がこれを避け、野原へ捨てると鳥が卵を抱いて守った。自ら割ろうとしても割れず、遂に母へ返した。柳花が暖め続けると卵が割れ、男の子が生まれた。それが朱蒙である。こうした伝説では鶏の卵から産まれたことになっている。
*開皇 隋の文帝楊堅の治世に行われた年号。 隋朝最初の年号。581年 - 600年。 元年は581年。
*餘昌 第27代昌王554-599年/別名威徳王、(使持節・侍中・車騎大将軍・帯方郡王・百済王)/三国史記正史による。

尉仇台が高句麗の東明王、朱蒙の後だとしています。尉仇台が朱蒙と同じく稾離国=東扶余に遠祖があるということです。総じて、百済の王の14代昌王が尉仇台の後継であることを述べていることが重要でしょう。そして、尉仇台の王統の内官制度に大率という官名があることが判明したのです。

*三国史記 卷四十 雜志 第九:職官 下 武官 「北史云,百濟官有十六品,佐平五人一品,達率三十人二品,恩率三品,德率四品,扞率五品,奈率六品,將德七品,施德八品,固德九品,季德十品,對德十一品,文督十二品,武督十三品,佐軍十四品,振武十五品,虞十六品,」
北史によると第二品は達率となっているという文例。大率が達率と違いがみられる。

 上のブロックに随書百済伝を載せています。大率に赤くマーキングしました。さて、大率とは佐平に次ぐ官名です。十六品の官制とは百済の内官制度です。ここで言えることは、伊都国にいた大率とは、扶余から派遣された役人だという可能性がでてまいります。
大率が官名なら、一大率の一は単なる数詞にすぎないことになります「大率一大率」なのですが、こう書くところを文頭の大率を省略したのです。すると、複数人のうち一人の大率が伊都国にいて、伊都国より北の諸国を監察していると意訳できます。そして中国の勅使のように振舞っていたと書かれていますよね。大率が中国、曹魏の官名ではないということです。ですから、「國中有如刺史」、国の中では(中国の)勅史のようだと客観的な感想をかけるわけです。一方、大夫というのは会稽の倭人が往来するところの使者の官名です。この大夫というのは、中国ではごくありふれた官職で下級の外交使節のような役柄だったと思われます。東夷の使節史が大夫と名乗っていることが不思議がられただけです。倭人伝では大倭という官名がでてまいります。大倭とは三国志には倭人伝だけにでるローカル色のつよい官名です。おそらく大夫と同等の役人とみればいいでしょう。ただ、大人となると鮮卑の諸部族の王のことになります。干は匈奴、モンゴル諸部族の王のことと言えます。
 百済の官名に達率があります。達率と大率は同じ佐平の下にある位ですから同じだといえます。そう考えると、大率は派遣されて来た渡来人ということになります。帯方が倭地を支配していたのですが、このことは日本の国家起源を論ずるときに、あまり主張されません。さて、百済の十六品制とは、同時に国家の仕組みが完成していたと見なければなりません。日本では聖徳太子の冠位十二階が有名です。冠位十二階(かんいじゅうにかい)は、日本で603年に制定され、605年から648年まで行われた冠位であり、このときはじめて内官制度ができたのです。そうみると、239年(卑弥呼晩年)ごろに国家制度として成立している官名をもつ人物が伊都国に駐在していたという記載は、はなはだ不都合な真実となるのです。なぜなら、このころ九州倭地は弥生時代から古墳時代への移行期となっていますから、国家形成の過渡期なわけです。それを踏まえますと、大率とい文字は、いったいどこぞの国の”制度”だったのか?という疑問がでてまいります。答えは『隋書卷八十一列傳第四十六東夷百濟』にあったわけですが、百済はこの239年のころ第八代古爾王が在位しています。大率は夫餘の二品の官で、伊都国にいた人物は渡来人だということです。


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