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NO336_2・・・・魏志倭人伝 文法構造で解読する

卑彌呼と公孫氏と尉仇台


一大率とは?
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自女王國以北特置一大率檢察諸國諸國畏憚之常治伊都國、於國中有如刺史、王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使>倭國皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯、下戸與大人相逢道路逡巡入草、傳辭説事或蹲或跪兩手據地爲之恭敬對應聲曰噫比如然諾
 
大率とは官名です。いったいどこの国がどの時代に大率という呼び名を用いていたのでしょうか?随書の百済傳に大率という官名がありました。南に新羅、北に高句麗とありますから、この国は漢城百済で、その官名です。

隋書卷八十一列傳第四十六東夷百濟
百濟之先,出自高麗國。其國王有一侍婢,忽懷孕,王欲殺之,婢云:「有物狀如雞子,來感於我,故有娠也。」王舍之。後遂生一男,棄之廁溷,久而不死,以爲神,命養之,名曰東明。及長,高麗王忌之,東明懼,逃至淹水,夫餘人共奉之。東明之後,有仇台者,篤於仁信,始立其國于帶方故地。漢遼東太守公孫度以女妻之,漸以昌盛,爲東夷強國。初以百家濟海,因號百濟。曆十餘代,代臣中國,前史載之詳矣。開皇初,其王餘昌遣使貢方物,拜昌爲上開府、帶方郡公、百濟王。其國東西四百五十里,南北九百余里,南接新羅,北拒高麗。其都曰居拔城。官有十六品:長曰左平,次大率,次恩率,次德率,次杆率,次奈率,次將德,服紫帶;次施德,皁帶;次固德,赤帶;次李德,青帶;次對德以下,皆黃帶;次文督,次武督,次佐軍,次振武,次克虞,皆用白帶。

百済の前身は高麗國(稾離国)から出ている。その国に側室をもつ王(金蛙王)がおり、あっという間に妊娠した。王は自分の子ではないと思いこの子を殺そうと思った。その側室は「わたしは鶏子のような物がわたしのなかに飛び込んできたのを感じました。それは妊娠の証のようです。」 王はこの河伯神女の産んだ子を殺さずに捨てることにした。豚小屋に捨てさせたがとうとう死ななかった。それを見た王はその子を神となし、養育するよう王は命じた。この男子の名を東明といい、長じると、稾離王(金蛙王)はこの子を忌み嫌うようになり、東明(朱蒙)は恐れて淹水まで逃げた。扶余人はこの東明を共に奉じることにした。東明のあと、仇台というものがいて仁信が篤く、初めて帯方の故地において国をつくった。漢の遼東太守公孫度は娘を妻となし、だんだん隆盛となり、東夷の強国となった。はじめて百家をもって海を渡り、それにちなんで百済と号した。十余代が中国の臣として仕え、百済の前史を詳らかに載せることができた。隋の開皇の始め(581年)餘昌(第27代百済昌王・在位554-598年)という王が貢献してきた。餘昌は上開府帯方郡公・百済王に除された。
その百済国は東西450里、南北900余理で、南に新羅に接し、北は高麗(高句麗)が拒んでいる。都は居拔城といい、十六品の官位制があり、曰く、「左平、その次に大率,次に恩率,次に德率,次に杆率,次に奈率,次に將德,以上の官服の帯は紫色である。次に施德、この官の帯の色は皁色(黒);次に固德,これは赤帶;次に李德,これは青帶;次に對德以下,皆黃帶である;次に文督,次に武督,次に佐軍,次に振武,次に克虞,これらは皆白帶を用いる。

*稾離国(こうりこく)わらという意味。通称東扶余城のこと。 
*朱蒙の天光受胎、日精に感じて生まれた伝説を書いているが、金蛙王は卵を犬や豚の傍に捨てさせるが、共にこれを食べなかった。路上へ捨てると牛馬がこれを避け、野原へ捨てると鳥が卵を抱いて守った。自ら割ろうとしても割れず、遂に母へ返した。柳花が暖め続けると卵が割れ、男の子が生まれた。それが朱蒙である。こうした伝説では鶏の卵から産まれたことになっている。
*開皇 隋の文帝楊堅の治世に行われた年号。 隋朝最初の年号。581年 - 600年。 元年は581年。
*餘昌 第27代昌王554-599年/別名威徳王、(使持節・侍中・車騎大将軍・帯方郡王・百済王)/三国史記正史による。

尉仇台が高句麗の東明王、朱蒙の後だとしています。尉仇台が朱蒙と同じく稾離国=東扶余に遠祖があるということです。総じて、百済の王の14代昌王が尉仇台の後継であることを述べていることが重要でしょう。そして、尉仇台の王統の内官制度に大率という官名があることが判明したのです。

*三国史記 卷四十 雜志 第九:職官 下 武官 「北史云,百濟官有十六品,佐平五人一品,達率三十人二品,恩率三品,德率四品,扞率五品,奈率六品,將德七品,施德八品,固德九品,季德十品,對德十一品,文督十二品,武督十三品,佐軍十四品,振武十五品,剋虞十六品,
北史によると第二品は達率となっているという文例。大率が達率と違いがみられる。


 上のブロックに随書百済伝を載せています。大率に赤くマーキングしました。さて、大率とは佐平に次ぐ官名です。十六品の官制とは百済の内官制度です。ここで言えることは、伊都国にいた大率とは、扶余から派遣された役人だという可能性がでてまいります。
大率が官名なら、一大率の一は単なる数詞にすぎないことになります「大率一大率」なのですが、こう書くところを文頭の大率を省略したのです。すると、伊都国に遣使された大率という役人は一人であったのです。一人の大率が伊都国にいて、伊都国より北の諸国を監察していると意訳できます。そして中国の勅使のように振舞っていたと書かれていますよね。大率が中国、曹魏の官名ではないということです。ですから、「國中有如刺史」、国の中では(中国の)勅史のようだと客観的な感想をかけるわけです。一方、大夫というのは会稽の倭人の官名です。この大夫というのは、中国ではごくありふれた官職で下級の外交使節のような役柄だったと思われます。東夷の使節史が大夫と名乗っていることが不思議がられただけです。

そんなことがありうるのか・・・
 前段に遼東太守公孫度が女(娘)を尉仇台に嫁がせて帯方という故地に国を作らせたとあります。帯方郡とは中国の行政区分名ですが、その地域は西暦30年ごろ楽浪国という国がありました。この地域に楽浪国という独立国を作ったは(30年)遼東の豪族王氏です。西暦37年、高句麗大武神王が侵略し高句麗が占有しましたが、44年後漢の光武帝が憐れんで、船で兵を送って奪還しました。帯方地域はこうした争乱があったのです。楽浪国は短い間でしたが、その地域は楽浪郡内の中国の植民地のような有様で、独特の風習と風俗をもっていました。楽浪塼室墓はそれを物語っています。仮に楽浪国が楽浪郡に収斂され、次に帯方郡に置き換わっただけとみることができます。帯方郡の創設は公孫淵が楽浪郡に反旗を翻したともいえます。この地域に楽浪郡の郡県制の下で70~80年王がいなかったとしましょう。卑弥呼が女王になって曹魏の冊封体制がはじめて確立し、その下に倭国が生まれたということになります。こうして後漢が公孫氏を太守に置いて倭韓を支配していました経緯が転換したとみることができます。
公孫淵が孫呉に通行したり、燕王を自称したり独立の機運をみせたため曹魏は司馬懿を送って公孫氏を討伐しました。ようするに宗主国が公孫から曹魏とってかわったにすぎません。卑弥呼が帯方の女王になったのですから必然的に倭韓の王となるわけです。
 公孫度が娘を尉仇台と結婚させたのが西暦200年のことですから、卑弥呼が結婚した年齢は26歳です。当時とすれば晩婚なのです。卑彌呼の履歴は生誕174年~没年274年です。(卑彌呼XファイルP222より)
西暦200年に尉仇台に従って帯方に渡った卑弥呼が、扶余六畜から女王に共立され、倭国大乱(楽浪郡の乱)が収まったと考えます。そうすると、なんと卑弥呼の後ろ盾は公孫と同盟を結んでいた尉仇台だったわけですね。知ってか知らずか明帝が卑弥呼の遣使に歓喜したのは事実です。卑弥呼が公孫の娘なら敵側になるから明帝が受け入れるはずはない。・・・こう考えるのは一つの見方にすぎません。むしろ、尉仇台扶余を公孫から寝返らせ、従臣にすることの実益は大きいのです。なにしろ扶余軍は即戦力になりますから。これが、黄幢が渡った伏線なのです。卑弥呼の背後には実質的な権力をも扶余の王(尉仇台を太祖とする王朝)がいます。

梁書/卷54
< 『梁書』
卷五十四 列傳第四十八 諸夷

百濟
 百濟者,其先東夷有三韓國,一曰馬韓,二曰辰韓,三曰弁韓。弁韓、辰韓各十二國,馬韓有五十四國。大國萬餘家,小國數千家,總十餘萬戶,百濟卽其一也。後漸強大,兼諸小國。其國本與句驪在遼東之東,晉世句驪旣略有遼東,百濟亦據有遼西、晉平二郡地矣,自置百濟郡。

百濟がある以前は東夷は三韓國といわれ、一に馬韓、二に辰韓、三に弁韓、弁韓と辰韓はそれぞれ十二か国、馬韓は五十四國あった。三韓には大きな国は万余家、小さな国は数千家で、総人口は十万余戸である。百済はその馬韓の中の一つの国(伯濟國)であったが、のちに、諸小国を合併してだんだん強大となった。その国はもとは高句麗の遼東の東にあった。晋の時代になって高句麗が遼東を侵略して一時、占有したが、百済もまた遼西に依拠し占有した。遼西の晋平二郡がの地なり。百済郡と自ら称して置いていた。




*百済の実態は、もともと夫餘だった。後漢の終了後、晋が立国されたころも遼西に陣取っていたようです。

維基 -> 周書 -> 卷四十九 列傳第四十一
《周書 卷四十九 列傳第四十一》房玄齢編 628年完
5 高麗者,其先出於夫餘。自言始祖曰朱蒙,河伯女感日影所孕也。朱蒙長而有材略,夫餘人惡而逐之。土于紇斗骨城,自號曰高句麗,仍以高為氏。其孫莫來漸盛,擊夫餘而臣之。莫來裔孫璉,始通使於後魏。
6 其地,東至新羅,西渡遼水二千里,南接百濟,北鄰靺鞨千餘里。治平壤城。其城,東西六里,南臨浿水。城內唯積倉儲器備,寇賊至日,方入固守。王則別為宅於其側,不常居之。其外有國內城及漢城,亦別都也,復有遼東、玄菟等數十城,皆置官司,以相統攝。


「5:高句麗の者はその先夫餘から出ている。始祖は朱蒙であると言う。河伯の女が日の精に感じて孕んだと。朱蒙は長じて有力な人材になったが夫餘人は嫌って朱蒙を追放した。フルスンゴルの位置に城をもち高句麗と自ら号し、同時に高を氏となした。その孫の莫(無恤(ムヒュル)・第三代大武神王)になって勢いが盛んになり、先の夫餘を撃ってこれを従属させた。無恤の孫の璉(れん)になって始めて後魏と通行するようになった。
6:その地は東に新羅まで達し、西に遼水)を超えて二千里であり、南に百済と接し、北に靺鞨と千余里の所で隣接する。平壤城で治め、その城は東西六里、南に浿水(渾江)に隣接している。城の中は穀物倉庫(唯積;ジョクチャン)や武器倉庫を備え、賊が襲ってきた時だけ城に入って固く守る。平時、王はその傍に住み、常に城(丸都城)にいるわけではない。外に国内城(クンネソン)と漢城(ハンソン)と、別な都を有する。また、遼東や玄菟に数十の城を官司を置いて統攝(とうせつ)している。」

7 大官有大對盧,次有太大兄、大兄、小兄、意俟奢、烏拙、太大使者、大使者、小使者、褥奢、翳屬、仙人并褥薩凡十三等,分掌內外事焉。其大對盧,則以彊弱相陵,奪而自為之,不由王之署置也。其刑法:謀反及叛者,先以火焚爇,然後斬首,籍沒其家。盜者,十餘倍徵贓。若貧不能備,及負公私債者,皆聽評其子女為奴婢以償之。

「統括者は大對盧(テデロ)といい、太大兄(テデヒョン)、大兄、小兄、意俟奢、烏拙、太大使者(テデサシ)、大使者、小使者、褥奢、翳屬、仙人并褥薩(ヨクサル)など、おおよそ十三等の官制をなしている。謀反や反乱を起こした者は火あぶりにしてから首を切る。その家と財をすべて没収する。盗みを働いた者は奪ったものの十倍を返済し、もし貧しくて払えないものは公私併せた負債者となり、皆が評判を裁量して、その子女は奴婢となって償う。」

8 丈夫衣同袖衫、大口褲、白韋帶、黃革履。其冠曰骨蘇,多以紫羅為之,雜以金銀為飾。其有官品者,又插二鳥羽於其上,以顯異之。婦人服裙襦,裾袖皆為袂。書籍有五經、三史、三國志、晉陽秋。兵器有甲弩弓箭戟捎矛鋋。賦稅則絹布及粟,隨其所有,量貧富差等輸之。土田塉薄,居處節儉。然尚容止。多詐偽,言辭鄙穢,不簡親疏,乃至同川而浴,共室而寢。風俗好淫,不以為愧。有遊女者,夫無。常人。婚娶之禮,略無財幣,若受財者,謂之賣婢,俗甚恥之。父母及夫喪,其服制同於華夏。兄弟則限以三月。敬信佛法,尤好淫祀。

「大夫は同じ袖衫(チョゴリ)で、幅広のはかま、白い皮ベルト(チャミョ)、黄色の革靴を履く。その冠を骨蘇(ゴルソ)といい、多く紫色の薄い網で作り、金銀を混ぜて飾りとしている。その官が高い品の地位にある者は、さらに二本の鳥の羽をその上に差し込んで飾りとし、一般の人よりも目立つようにしている。婦人はチョマとはパンツでたもとにしている。
書籍は五経、三史、三国志、晉陽秋など。兵器には甲(よろい)、弩弓、矛などがある。
詐欺が多く、言辞は卑猥で、。賦税は絹布と粟で、その所有する量と、貧富の差を量って納める。遊女が多く、遊女には夫がない。常人の婚礼では財物を渡さない。もし財物を受け取ると、子女の売買とみなされ、はなはだ恥となるからである。父母および夫が亡くなると、中国と同じ喪服を用い、兄弟は三か月を以て喪に服する。仏法を敬い、とりわけ淫らな祭祀を好んで行う。
又有神廟二所:一曰夫餘神,刻木作婦人之象;一曰登高神,云是其始祖夫餘神之子。並置官司,遣人守護。蓋河伯女與朱蒙云。9 璉五世孫成,大統十二年(546年),遣使獻其方物。成死,子湯立。建德六年,湯又遣使來貢。高祖拜湯為上開府儀同大將軍、遼東郡開國公、遼東王。10 百濟者,其先蓋馬韓之屬國,夫餘之別種。有仇台者,始國於帶方。故其地界東極新羅,北接高句麗,西南俱限大海。東西四百五十里,南北九百餘里。治固麻城。其外更有五方:中方曰古沙城,東方曰得安城,南方曰久知下城,西方曰刀先城,北方曰熊津城。11 王姓夫餘氏,號於羅瑕,民呼為鞬吉支,夏言並王也。妻號於陸,夏言妃也。』

また、神廟が二か所ある。一つは夫餘神(ふよしん)といい、婦人の木像である。一つには常高神(とこしん)といい、高句麗の始祖夫餘神の子だと伝える。二神は並べて置かれて、宮司が派遣され守護している。けだし、河伯の女と朱蒙だと云う。璉の五世子孫である成が大統十二年(546年)遣使を送り地方の産物を献上した。成が死に、子の湯が立った。建德六年(577年)、湯はまた遣使を送って来て貢献した。高祖は湯に上開府儀同大將軍、遼東郡開國公、遼東王と為す拝假をした。百濟はその先はけだし馬韓の属国であった。夫餘の別種であり、仇台という者が帯方に始め国を立てた。帯方の地は東の境には新羅、北には高句麗と接し、西南に臨んで大海があり、東西四百五十里、南北九百余里、固麻城で治めている。その外にはさらに五方に藩をもち、中間に古沙城、東に得安城、南に乆知下城、西に刀先城、北に熊津城がある。王の姓は夫餘氏と号し、民は鞬吉支夏言竝王と呼んでいる。妻は陸夏言妃という。

官有十六品。左平五人,一品;達率三十人,二品;恩率三品;德率四品;扞率五品;柰率六品。六品已上,冠飾銀華。將德七品,紫帶;施德八品,皂帶;固德九品,赤帶;(李)〔季〕德十品,青帶;對德十一品,文督十二品,皆黃帶;武督十三品,佐軍十四品,振武十五品,克虞十六品,皆白帶。自恩率以下,官無常員,各有部司,分掌眾務。內官有前內部、穀部、肉部、內掠部、外掠部、馬部、刀部、功德部、藥部、木部、法部、後官部。外官有司軍部、司徒部、司空部、司寇部、點口部、客部、外舍部、綢部、日官部、都市部。都下有萬家,分為五部,曰上部、前部、中部、下部、後部,統兵五百人。五方各有方領一人,以達率為之;郡將三人,以德率為之。方統兵一千二百人以下,七百人以上。城之內外民庶及餘小城,咸分(肄)〔隸〕焉。

官は十六位ある。<工事中>

周書/卷49
又有神廟二所:一曰夫餘神,刻木作婦人之象;一曰登高神,云是其始祖夫餘神之子。竝置官司,遣人守護。蓋河伯女與朱蒙云。 璉五世孫成,大統十二年,遣使獻其方物。成死,子湯立。建德六年,湯又遣使來貢。高祖拜湯為上開府儀同大將軍、遼東郡開國公、遼東王。 百濟者,其先蓋馬韓之屬國,夫餘之別種。有仇台者,始國於帶方。故其地界東極新羅北接髙句麗西南俱限大海東西四百五十里南北九百餘里治固麻城其外更有五方中方曰古沙城東方曰得安城南方曰乆知下城西方曰刀先城北方曰熊津城王姓夫餘氏號於羅瑕民呼為鞬吉支夏言竝王也妻號於陸夏言妃也官有十六・・・。

また、神廟が二か所ある。一つは夫餘神(ふよしん)といい、婦人の木像である。一つには常高神(とこしん)といい、高句麗の始祖夫餘神の子だと伝える。二神は並べて置かれて、宮司が派遣され守護している。けだし、河伯の女と朱蒙だと云う。璉の五世子孫である成が大統十二年(546年)遣使を送り地方の産物を献上した。成が死に、子の湯が立った。建德六年(577年)、湯はまた遣使を送って来て貢献した。高祖は湯に上開府儀同大將軍、遼東郡開國公、遼東王と為す拝假をした。百濟はその先はけだし馬韓の属国であった。夫餘の別種であり、仇台という者が帯方に始め国を立てた。帯方の地は東の境には新羅、北には高句麗と接し、西南に臨んで大海があり、東西四百五十里、南北九百余里、固麻城で治めている。その外にはさらに五方に藩をもち、中間に古沙城、東に得安城、南に乆知下城、西に刀先城、北に熊津城がある。王の姓は夫餘氏と号し、民は鞬吉支夏言竝王と呼んでいる。妻は陸夏言妃といい、官は十六位ある。

大統(だいとう)は、南北朝時代の西魏において、文帝の治世に使用された元号。535年正月 - 551年12月。大統十二年は546年。
*建徳(572年-578年):北周の元号:建徳十二年は577年。鮮卑の氏族の王朝。
* 成とは、高句麗の24代王、陽原王 545-559;姓名は高平成。安原王の長男。陽崗上好王、陽崗王とも言う。
*湯とは:高句麗の25代平原王 559-590; 姓名は高陽成。陽原王の長男。平崗上好王とも言う。
*蓋(けだし)=確信をもって思うに
*鞬吉支夏言竝王;第27代百濟王・晶王(余昌・554-598)に対して民が呼ぶ尊称の音読み
*陸夏言妃;晶王の妃の尊称


晋書に卑弥呼が公孫氏だと書いているところがあります。
晉書 卷九十七 列傳第六十七 四夷傳 倭人
 倭人在帶方東南大海中,依山島爲國,地多山林,無良田,食海物。舊有百餘小國相接,至魏時,有三十國通好。戶有七萬。男子無大小,悉黥面文身。自謂太伯之後,又言上古使詣中國,皆自稱大夫。昔夏少康之子封於會稽,繼發文身以避蛟龍之害,今倭人好沈沒取魚,亦文身以厭水禽。計其道里,當會稽東冶之東。其男子衣以橫幅,但結束相連,略無縫綴。婦人衣如單被,穿其中央以貫頭,而皆被髮徒跣。其地溫暖,俗種禾稻糸甯麻而蠶桑織績。土無牛馬,有刀楯弓箭,以鐵爲鏃。有屋宇,父母兄弟臥息異處。食飲用俎豆。嫁娶不持錢帛,以衣迎之。死有棺無槨,封土爲塚。初喪,哭泣,不食肉。已葬,舉家入水澡浴自潔,以除不祥。其舉大事,輒灼骨以占吉凶。不知正歲四節,但計秋收之時以爲年紀。人多壽百年,或八九十。國多婦女,不淫不妒。無爭訟,犯輕罪者沒其妻孥,重者族滅其家。舊以男子爲主。
漢末,倭人亂,攻伐不定,乃立女子爲王,名曰卑彌呼,宣帝之平公孫氏也,其女王遣使至帶方朝見,其後貢聘不絕。及文帝作相,又數至。泰始初,遣使重譯入貢。

「卑彌呼は 宣帝(司馬懿、司馬仲達のこと)が討ち取った公孫氏なり。その女王が使者を帯方郡に派遣し、その使者は朝見に至った。その後も朝貢が絶えなかった。文帝(司馬昭のこと)が相国に就任すると(西暦263年)、またしばしば朝貢にやってきた。泰始(西暦265年〜西暦274年)の初めごろ、使者を決まったように繰り返し入貢してきた。」

*相国(しょうこく)は漢代に於ける廷臣の最高職。後漢の末に董卓が相国に就任。文帝は晋王。次の司馬炎(しば えん)は、咸熙2年(265年)8月に司馬昭が没すると、晋王・相国の位を継ぎ、12月には、元帝に禅譲を迫って初代皇帝に即位、新王朝を「晋」と名付け、元号を泰始と改めた。諡号は武帝。

《太平御覽》
[北宋] 977年-984年
《四夷部二·東夷二》
《百濟》
1 打開字典顯示相似段落 百濟:
《北史》曰:百濟之國者,其先蓋馬韓之屬也,出自夫餘王東明之後有仇臺,篤於仁信,始立國于帶方故地。漢遼東太守公孫度以女妻之,遂為東夷強國。初以百家濟,因號「百濟」。其國東極新羅,北接高句麗,西、南俱限大海,東西四百五十里,南北九百里。其都曰居拔城,亦曰固麻城。其外更有五方:中方曰古沙城,東方曰得安城,南方曰久知下城,西方曰刀先城,北方曰熊津城。

百済の国王は、その先は盖馬馬韓に属していた。扶余王の出自は東明王(高句麗初代王)の後裔で尉仇台というものがいた。仁信に篤があり、はじめ帯方の故地に国于(王)に立った。漢の遼東太守の公孫度は子女を尉仇台の妻となし、とうとう東夷の強国となった。はじめ百家をもって海を渡ったので百済と号するようになった。その国は東の端てに新羅と接し、北に高句麗と接し、西は大海に臨んでいる。東西四百五十里、南北九百里であり、その都城は居拔城といい、またの名を固麻という。その他に五方に城をもち、中ほどに古沙城、東方に得安城、南方に久知下城、西方に刀先城、北方に熊津城を持っている。



 ->  ->  ->  -> 夫餘傳( 中国電子化計画)

『三国志』魏書 三十 扶余傳

夫餘本屬玄菟。漢末,公孫度雄張海東,威服外夷,夫餘王尉仇台更屬遼東。時句麗、鮮卑彊,度以夫餘在二虜之間,妻以宗女。尉仇台死,簡位居立。無適子,有孽子麻余。位居死,諸加共立麻余。牛加兄子名位居,為大使,輕財善施,國人附之,歲歲遣使詣京都貢獻。正始中,幽州刺史毌丘儉討句麗,遣玄菟太守王頎詣夫餘,位居遣大加郊迎,供軍糧。季父牛加有二心,位居殺季父父子,籍沒財物,遣使簿斂送官。舊夫餘俗,水旱不調,五糓不熟,輙歸咎於王,或言當易,或言當殺。麻余死,其子依慮年六歲,立以為王。漢時,夫餘王葬用玉匣,常豫以付玄菟郡,王死則迎取以葬。公孫淵伏誅

扶余はもともと玄莬に属していた。漢の末、公孫度は海東に雄を張り、外夷を征服し、扶余王の尉仇台はさらに遼東に属した。その時、句麗(高句麗)・鮮卑が強勢で公孫度は扶余が二虜の間にあるので、宗女をもって妻とした。尉仇台死に、简位居が立った、简位居に嫡子がなく、麻余という庶子がいた。简位居が死ぬと、諸加(六畜部族)は麻余を共立して王となした。


《三國志》
[西晉] 265年-300年 電子圖書館
《魏書三十》
《鮮卑傳》
2 打開字典顯示相似段落 鮮卑傳:
魏書曰:鮮卑亦東胡之餘也,別保鮮卑山,因號焉。其言語習俗與烏丸同。其地東接遼水,西當西城。・・・・檀石槐拒不肯受,寇鈔滋甚。乃分其地為中東西三部。從右北平以東至遼,東接夫餘、濊貊為東部,二十餘邑,其大人曰彌加、闕機、素利、槐頭。從右北平以西至上谷為中部,十餘邑,其大人曰柯最、闕居、慕容等,為大帥。從上谷以西至燉煌,西接烏孫為西部,二十餘邑,其大人曰置鞬落羅、曰律推演、宴荔游等,皆為大帥,而制屬檀石槐。

鮮卑は東胡の余種なり。鮮卑山に篭り因って別に焉と号している。その言語は習俗は烏丸と同じである。その地は東に遼江に接し、西は西域に当たる。・・・檀石槐は服属することを拒み、強奪することをはなはだ好んだ。その地は東西に三部あり、右北平から東は遼まであり、東に夫餘に接する。濊狛(高句麗五部)は東部をなす。二十余の邑に邑長がおり、彌加、闕機、素利、槐頭という。右北平から西に上谷までが中部をなす。十余邑あり、部族長は柯最、闕居、慕容等で大師となしている。上谷から西に敦煌、西に烏孫に接して西部と為す。二十余邑あり、その部族長は置鞬落羅、曰律推演、宴荔游等で皆大師となっている。しかして檀石槐に制属している。

解説;夫餘が鮮卑の東部に接していたことの文証となる。これが、「、句麗(高句麗)・鮮卑が強勢で公孫度は扶余が二虜の間にあるので、宗女をもって妻とした。」を読むとき、夫餘が遼西を占有し、鮮卑と濊狛(わいはく)に挟まれていたことを表している。


《漢代之後》
《隋唐》
《通典》[唐] 801年 杜佑著
《邊防一》
《百濟》
1 打開字典 百濟:
百濟,即後漢末夫餘王尉仇台之後,後魏時百濟王上表云:「臣與高麗先出夫餘。」初以百家濟海,因號百濟。晉時句麗既略有遼東,百濟亦據有遼西、晉平二郡。今柳城、北平之間。自晉以後,吞并諸國,據有馬韓故地。其國東西四百里,南北九百里,南接新羅,北拒高麗千餘里,西限大海,處小海之南。國西南海中有三島,出黃漆樹,似小榎樹而大。六月取汁,漆器物若黃金,其光奪目。自晉代受蕃爵,自置百濟郡。義熙中,以百濟王夫餘腆佗典反為使持節、都督百濟諸軍事。宋、齊並遣使朝貢,授官


 百濟とは後漢末の扶余王のあとである。後魏のとき、百済王は上表して曰く、「臣(尉仇台)は高句麗の先の夫餘が出自である。はじめ百家をもって海を渡ったので百済と号する。晋の時代に高句麗は遼東を寇略したが百済はまた遼西の晉平二郡を拠有した。今の柳城と北平の間である。晋から以後、諸国を併呑し、馬韓の故地を拠有した。その国は東西四百里、南北九百里で、南に新羅と接し、北千里で高句麗を防いている。西は大海で限られ、小海の南にある。国は西南海に三島を持ち、小は黄漆の木、大は榎木があり、六月に樹液を取る。漆器は黄金のごとく、その輝きは目を奪うばかりである。晋朝の代から蕃爵を授かり、自ら百済郡(中国から見た郡に擬して)を置いた。義熙(ぎき)中(405年 - 418年)、以て百済王、夫餘・腆佗・典反を使特節・都督百済初軍事。宗朝と斉朝にわたり遣使を朝貢させ官を授かった。

*義熙(ぎき)中(405年 - 418年)の百済王は第18代・腆支王 (余映・405-420)著者は倭国王珍(梁書では餘映)に比定しています。



①尉仇台は高句麗の末裔である。
②玄菟に属していたが、やがて遼西を占有し後漢の遼東郡(公孫)に属した。
②次にはじめて帯方に国をつくり、干(王)となった。
③公孫度の子女(宗女)を娶り次第に強国となった。
④尉仇台の死後、简位居が王に立った。简位居は嫡子で宗女との子供。
⑤简位居が死ぬと嫡子なく、尉仇台の庶子麻余(简位居の弟)が立った。
⑥百家をもって渡海し固麻(漢城)に百済を建国した。
⑦東西27km、南北54kmで五方向に城をもっている。



公孫氏を平定したのは宣帝です。宣帝とは西晋が建国したあとに司馬懿仲達にあたえられた追号です。さて、「卑彌呼は司馬懿が平らげた公孫氏なり。」・・・こうもストレートに書いてあるので、解説をしたくても、その余地がありません。これはもう尉仇台の妻が公孫氏であると言っているに等しいのですが・・・。公孫度が尉仇台に娘(嫡女)を与えましたが、わたしは、尉仇台を夫に嫁いだのが卑彌呼だと考えます。公孫度は204年に78歳で亡くなりました。生年は126年になります。娘を尉仇台に与えた年は174年ごろ、公孫度が52歳となります。尉仇台と公孫氏の間に生まれたのが卑彌呼だとすると、卑彌呼の生年はちょうど174年です。では、卑彌呼が死亡したのが247年ですから、73歳で亡くなったことになります。
父の公孫度は卑彌呼が30歳のとき、夫尉仇台をなくしたのが40歳です。(214年)
卑彌呼に宗女と冠したばあい、公孫氏の宗廟を守護していたということになりますが、公孫度は亡くなる10年ぐらい前、190年頃漢の二祖(高祖と光武帝)の廟を建立してみずから天子の儀礼を踏襲していました。したがって卑彌呼が祀るのは前漢と後漢の太祖だったとも考えられます。
文帝:司馬 昭(しば しょう)は、三国時代の魏の晋王・相国・政治家。晋の武帝司馬炎の父。晋代に文帝の諡号と太祖の廟号を追贈された。泰始(たいし)は、西晋の武帝司馬炎の治世に使われた元号。265年 - 274年。卑彌呼は公孫康と恭と姉弟となります。


 尉仇台が高句麗・鮮卑の間に挟まれている地勢が見えます。これは、遼西晋平県のことです。幽州の東、中ほどのところです。
したがって、海東とは渤海のことです。そして、要点は公孫度の宗女といっていることです。宗女とは家門を守る、宗廟を継ぐものですから親族であることを意味するでしょう。一歩譲っても、養女となります。尉仇台に嫁いだわけですが、尉仇台は214年に亡くなります。この年は景初元年よりも前ですから、景初2年に朝貢した遣使者の難升米は尉仇台の庶子の麻余になります。なぜなら、尉仇台の嫡男が简位居、その弟が麻余となりますが、卑彌呼を佐治していたのが弟とかかれています。卑彌呼との関係では简位居が実の子供、麻余は別な女が生んだ子です。
 卑弥呼を佐治していた弟とは、卑彌呼の実の弟(公孫康)ではなく、尉仇台の子、简位居の異母弟となります。さて、壹與は13歳で即位したのですが、同じく宗女でした。卑弥呼がなくなったのは73歳ですから、13歳の壹與は孫にあたるでしょう。では、尉仇台には嫡子がないというのは世継になる男子がなかっただけで女子がいたということでしょうか。壹與も宗女ですから、卑彌呼と同じ宗廟を守護する者です。そうすると、壹與は扶余の太祖である尉仇台を始祖にした宗廟に仕えていたと考えられます。

卑彌呼の代と壹與の代で護持する宗廟の祖神が変わった?

メインのページに書いたことを採録します。
随書 俀國傳 俀王姓阿每,字多利思北孤,號阿輩雞彌、随書俀國傳の有名なアメノ.タリシヒコの姓名です。王名は阿輩・雞彌ですが、この雞は家禽(家鸡)、ニワトリという意味です。彌は「あまねし」、どうしたことか卑彌呼にかさなってきます。転ずれば、文型から、鳥から生まれた一族のということになります。いろいろと候補はあるでしょうが、雞彌の雛(ひなzhī)と、卑の文字は同意とみることができます。鹎(ひなどり)の省略文字が卑なのです。
卑弥呼→鹎彌居
鹎〔bēi〕ひなどり、と訳します。しかし、どういう意味でしょう?随書 百済伝で、「婢云:「有物狀如雞子,來感於我,故有娠也。」王舍之。」とあります。これは、河伯の女の言葉です。「雞子(ひよこ)のような形をしたものが入ってきました。それに感じてわたしは妊娠したのです。」、王に伝えます。これが受胎の原因ということですが、雞子とは直訳すればニワトリの子です。この短い神話は高句麗建国開祖の朱蒙の誕生神話で、いわゆる天光受胎神話と呼ばれています。卵生神話の一つです。日本でも平安時代までは常識的な物語でした。続日本紀には和氏の上奏文、「それ百済の遠祖、都慕王は河伯の女日精に感じて生めるところなり。皇太后(高野朝臣新笠)はその後なり」・・・日精に感じて生まれたのは都慕王、高句麗の太祖です。都慕王とは別名、東明聖王、古事記では大国主、またの名を葦原色許男神(あしはらしこおのかみ)と言います。これらは高朱蒙の別称です。なんと、記紀・神代の物語の主役中の主役です。
さて、随書の続きですが、「棄之廁溷,久而不死,以爲神」、豚小屋に捨てたが死ななかったので、王は以て神となした。」、八千矛神が日神の子だと認めたのですね。実は、日精または日神が三本足の烏(カラス)なのです。 鹎〔bēi〕は中国辞書では、黒褐色の羽と白い腹をもつ鳥です。

どうやら、卑彌呼と卑彌弓呼の奉じる遠祖(太祖)が共に都慕王(東明聖王)すなわち高朱蒙だったということになります。これだと、卑彌呼に敵対する男王が卑彌弓呼と、一字しか違わなくても納得のゆく説明がつくのです。百済も高句麗も扶余から派生した国です。卑彌呼が扶余女王、卑彌弓呼が高句麗王です。遼西扶余は公孫氏の配下で高句麗と果敢に戦いました。高句麗とは敵同士です。そして、タラシヒコも、雞彌です。だいたい330年ほど卑彌呼より後の時代ですが、朱蒙を太祖とする末裔だったという驚くべきことが暗示されます。
鹎彌は雞彌と同じで2文字2音ですが、「呼」は「居」の変体で、末尾語。あえて訳せば「自任する」と直訳できますが、転じて自称王と訳します。
あなた、「鹎彌居」が元字だったのです。発音ではベミさんだったのですが、私たちがヒミコと通称してもまったく問題はありません。
「鹎彌居」の末尾の「居」とは、次のような意味です。
三国志魏書《夫餘傳》に4カ所、高句麗傳に一カ所、位居という語があります。高句麗傳の例:「今古雛加駮位居是也」、いま古雛加の駮(ハク)が位居なり。また、卑彌弓呼は東川王ですが、姓は高、諱は憂位居でした。居という文字は、こうして外せない一文字です。位居は王を指す人称代名詞です。三国史記でのおくりなは東川王ですが、中国側からは高句麗の憂王となりますが、王と書かず位居と書いた理由は、中国朝廷の敵になったのですから、王の称号は剥奪していたからです。かってに自分で王といっているやつだということです。
辞書では:
居:付属形態素 (身を)置く,任じる.【거・コ】
用例
身居要职=要職に身を置く.
以功臣自居=功臣をもって自任する.

位居:位する【”위거イゴ】
ある地位につく
英語での説明:
"grade to assume a particular social position"

位居:自称王と訳したほうが適切です。





楽浪人=(卑弥呼Xファイル54p) 旧民がだんだん出てきた、旧民とは楽浪人、 阿残のことです。
メインドメイン 幻の楽浪国と倭国のタブで解説しています。
「魏志」韓伝 建安中、公孫康分屯有縣以南荒地為帶方郡、遣公孫模、張敞等收集遺民、興兵伐韓濊、舊民稍出、是後倭韓遂屬帶方。

 建安年間(196年~220年)、公孫康は屯有県(とんゆうけん)以南の荒野を分けて帯方郡とし、公孫摸や張敞などを派遣して(後漢の)遺民を収集するため、兵を挙げて韓と濊を討伐したが、旧民はだんだんでてきた。この後、倭と韓を帯方郡に属させた。
倭韓を征服したのは公孫模、張敞ら、武将です。兵は集めた元楽浪郡の旧民です。皮肉なことに倭国が文身國(日本)を滅ぼしたことになるのです。

この旧民は阿人であることを例証してみましょう。

《魏書三十》
《辰韓傳》
1 打開字典顯示相似段落 辰韓傳:
辰韓在馬韓之東,其耆老傳世,自言古之亡人避秦役來適韓國,馬韓割其東界地與之。有城柵。其言語不與馬韓同,名國為邦,弓為弧,賊為寇,行酒為行觴。相呼皆為徒,有似秦人,非但燕、齊之名物也。名樂浪人為阿殘;東方人名我為阿,謂樂浪人本其殘餘人。今有名之為秦韓者。始有六國,稍分為十二國。

辰韓は馬韓の東にあり、その耆老が昔から代々伝えることによると、秦の苦役を避けて亡人が韓国にやって来た。馬韓は東の界を割いて土地を与えた。城柵があり、言語は馬韓と同じではなかった。國を邦といい、弓を弧といい、族を寇、行酒を行觴と言っていた。集団でともに呼び合うのに徒といい、秦人のようであり、燕ではない。齊の名をもつものなり。名を楽浪人を阿残とし、東方人の名は我を阿とし、いわゆる楽浪人をその残余の人だという。今、秦韓者といい、初め六國、枝分かれして12国になっている。



1)阿人(阿残)は燕や斉ではなく、楽浪にいた。
2)阿人も馬韓人も入れ墨をしていた。
3)阿人の男子は髪が長く、馬韓人は坊主頭が多かった。
4)阿人と馬韓人とは言葉が違っていた。
5)阿人と違って馬韓人は頭が皆扁平だった。「兒生、便以石厭其頭、欲其褊。今辰韓人皆褊頭」『三国志魏書』弁辰伝
6)阿人には城郭があり、馬韓人は城郭がなかった。
7)阿人は馬韓人よりも礼節があった


1)楽浪郡の阿人が馬韓に侵入した。馬韓はこれを嫌って東に土地を割譲した。弁辰と辰韓と別れた。
4)馬韓人はみな扁平な頭をしていた。これは人為的な習慣でつくられる扁平頭蓋で、日本には広田遺跡以外あまり例がない。
5)馬韓人は中国人のように城郭の中で生活していなかった。


阿残について、楽浪国の旧民です。阿人とは倭種でもちょっと違います。中国系渡来人、それが新羅を建国したということです。初め6国、別れて12国になった国は、当初は「斯蘆(、さろ)、後の新羅(しるら)です。日本においては、秦氏や鴨氏の租なのだろうと思われます。ただ2)を見ると刺青をしていたということが重要です。阿人にも馬韓人と同じように入れ墨をしていたようです。
入れ墨をしていれば倭人です。わたしの倭人の定義は、刺青をした輩でしたね。でも、楽浪人はみやびやかな風流を好む、気品のある中華系の人々でしたが、刺青をしていたのです。別に不思議なことではありません。かの呉の太伯も夏の小康も中華人でありながら入れ墨をしたのですから。
伽耶が新羅に降って新羅で一応王族の仲間になっています。ひとつには馬韓人や扶余人のような礼節を知らないところの国、つまり百済には投降せず、新羅や日本にみな逃亡したのです。逃亡先は九州の志賀島です。それが安曇氏=阿曇氏です。阿曇氏は海神、辰国の大王です。船をたくさん主有していました。海に接していない長野県の諏訪神社の祭りでも、船が神輿がわりなのは阿人だからです。


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