HOME-TOPへ

NO338_3・・・・
ー主な内容ー
《七支刀》
1.近九首王こと倭王讃が西暦379年に作り物部氏に贈ったもの
1.七支刀銘文
1..荒田別(あらたわけ);遠祖は上毛野氏(かみつけのうじ)
1.神功皇后紀、谷那の鉄山とは
《稲荷山古墳から出土した鉄剣》
1..獲加多支鹵(ワカタケル)大王は蓋鹵王。
1.上祖意冨比垝(オオヒコ)は太祖・尉仇台
1.杖刀人首は余都、後の文周王
《江田船山古墳出土大刀》

1.大刀銘の主体者は蓋鹵王
1.歴史公園鞠智城は百済式山城
1.江田船山古墳の横口式家形石棺と八女古墳群の一つ、石人山古墳の妻入横口式家形石棺は同型。
1.筑紫君磐井は大伴磐(いわ)大伴大連金村の子で嫡男・甲斐国伴(とも)氏の始祖。
1松浦佐用姫(まつらさよひめ)伝説の狭手彦(さてひこ)は大伴大連金村の子で次男.
1.毛野臣は物部連、物部大連麁鹿火(あらかひ)の子
《国宝「隅田八幡神社人物画像鏡」(すだはちまんじんじゃ)》
1.銘文は503年に百済・武寧王が斯麻(しま)として日本にいたこと証拠づける。鏡は、527年に日本に朝貢された。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
石上神宮の七支刀(チルジド"しちしとう")

 下図の刀は、奈良県天理市の石上神宮(いそのかみじんぐう)の神宝剣(国宝)、百済から贈られた七支刀(しちしとう)です。この刀にある中国の年号・泰和4年(369年)説が歴史をひもとくことにきわめて重要な情報を与えてくれます。しかも、この銘文は我が国古代史上の絶対年代を明確にする最古の史料なのです。日本書紀の七枝刀(ななつさやのたち)の記述の考古学的な傍証となるのです。この七支刀の銘文は『日本書紀』の紀年を再検証し、その伝承を史実として裏付けることになります。銘文には七支刀と刻まれていますが、「支」の字は「枝」の字が減筆(げんぴつ)されたものと推測します。類例をあげますと銅鏡においては鏡が竟と減筆されます。したがって、日本書紀のとおり、七枝刀が本字だと考えます。

ナナツサヤノタチ
表面四年五月十六日丙午正陽造百練七支刀出辟百兵宜供供侯王永年大吉祥

《表面》泰■4年5月16日の丙午正陽に、百回くりかえし鍛え抜いた七枝刀を造った。おびただしい軍兵をしりぞけるに足りる霊力をもつ。これは侯王に供にふさわしいものである。永年にわたって大きな吉祥をうるでしょう。 某々作。

裏面先世以来未有此刀百済王世奇生聖音故為倭王旨造傳示後世

《裏面》先の世以来、かつてこのような刀はなかった。百済王とその世子は、聖音の生を寄りどころに(この刀を)造った。故に倭王はこの刀を造った趣旨を後世にひろく伝え示めさん。

「冒頭の「泰■」の2字目は、現在僅かに禾偏(のぎへん)を思わせる線が残っているのみで、旁(つくり)にあたる所にはこの文字を探究した人がつけたと思われる傷痕があって、年号の文字は詳らかではありません。しかし、「泰和(たいわ)」として東晋(とうしん)の年号「太和」(西暦366~371)の音の仮借とみる説があり、それによるとこの七支刀は西暦369年に製作されたと考えられていiます。」・・・引用《石上神宮公式サイト》
*太和(たいわ)は、東晋廃帝司馬奕の治世で、大和4年は369年(己巳)になります。この宝剣がつくられたのはいったい西暦の何年になるのでしょうか。また、百済王とその世子とは誰なのでしょう。これから深堀してみます。(わたしは、大和4年・379年説を支持します。)
その前後の東晋の年号は以下の通り、
永昌(えいしょう)は、東晋の元帝司馬睿が皇帝となって2番目に行われた元号。322年 - 323年。
太寧(たいねい)は、東晋の明帝司馬紹の治世に行われた元号。323年 - 326年。
咸和(かんわ)は、南北朝時代、東晋成帝司馬衍の治世に行われた最初の元号。326年 - 334年。
咸康(かんこう)は、南北朝時代、東晋成帝司馬衍の治世に行われた2番目の元号。335年 - 342年。
咸康(かんこう)は、南北朝時代、東晋成帝司馬衍の治世に行われた2番目の元号。335年 - 342年。
建元(けんげん)は、南北朝時代、東晋康帝司馬岳の治世に行われた元号。343年 - 344年。
永和(えいわ)は、南北朝時代、東晋穆帝司馬聃の治世に行われた元号。345年 - 356年。
升平(しょうへい)は、東晋穆帝司馬聃の治世に行われた2番目の年号。357年 - 361年。
隆和(りゅうわ)は、東晋哀帝司馬丕の治世に行われた最初の元号。362年 - 363年。
興寧(こうねい)は、東晋哀帝司馬丕の治世に行われた2番目の年号。363年 - 365年。
太和(たいわ)は、東晋廃帝司馬奕の治世に行われた元号。366年 - 371年。大和4年は369年(己巳)になります。
咸安(かんあん)は、東晋簡文帝司馬昱の治世に行われた元号。371年 - 372年。
寧康(ねいこう)は、東晋孝武帝司馬曜の治世に行われた最初の元号。373年 - 375年。
太元(たいげん)は、東晋孝武帝司馬曜の治世に行われた2番目の元号。376年 - 396年。
隆安(りゅうあん)は、東晋の安帝司馬徳宗の治世に行われた最初の元号。397年 - 401年。


■この剣は誰から誰に渡されたのか?製造年、369年は正しいのか?
《梁書》倭王讃が朝貢したのは、晉太元中(376年-396年)および晉安帝時(397-418年)であり、376年にはすでに百済王は近仇首王(在位375-396年)が立っていました。銘文の百済王とその世子、とある世子のほうに該当します。したがって、石上神宮説369年を採用すると、369年には余須(百済近近仇首王)は、まだ東晋に朝貢をはたして侯王になっていないと考えられるのです。
この剣は明治六年(1873)に発見されたとされています。日本書紀学者の紀年による定説では百済の肖古王が372年に倭王に渡したものであるとされています。肖古王とは三国史記でいう近肖古王(在位346-375)です。「この剣は侯王が持つにふさわしいものである」、と銘文を直訳し、それを理解するなら、侯王とは中国からみて従属国の封王のことを指します。ですから、歳々朝貢をしていなければなりません。したがって、この剣を造ったのは376年以後で、侯王となった以後の近九首王でなければなりませんね。わたしは倭国王讃は余須こと近仇首王としています。倭の五王で詳述。日本書紀では、貴須王(くぃすおう)の名で【神功皇后49・55・56・64年】に記される王と同一人物です。
《梁書》では、「自置百濟郡。晉太元中(376年-396年),王須;義熙中(376年-396年),王餘映;宋元嘉中(424年 - 453年)王餘毘;並遣獻生口。餘毘死,立子慶。慶死,子牟都立。都死,立子牟太。」梁書には、はっきりと、「晉太元中(376年-396年),王須;」が朝貢してきたことを記しています。
ちょうど銘文の泰の次の文字が欠損しています。太和の年号は太元の可能性がでてまいります。太元四年とみると、379年です。なんであれ、太元中でなければ、侯王に叙されていません。めでたく倭国王になった後、つまり376年以降ですから、剣の銘文は太元四年とわたしは判断します。わたしは、七枝刀が作られたのは379年であるという説をとることにします。《2020/04/30記》

日本書紀巻第九 氣長足姬尊 神功皇后
四九年春三月、以荒田別・鹿我別爲將軍、則與久氐等共勒兵而度之、至卓淳國、將襲新羅。時或曰「兵衆少之、不可破新羅。更復、奉上沙白・蓋盧、請増軍士。」 卽命木羅斤資・沙々奴跪是二人不知其姓人也、但木羅斤資者百濟將也、領精兵、與沙白・蓋盧共遣之、倶集于卓淳、擊新羅而破之、
 因以平定比自㶱・南加羅・㖨國・安羅・多羅・卓淳・加羅七國。仍移兵西𢌞、至古爰津、屠南蠻忱彌多禮、以賜百濟。於是、其王肖古及王子貴須、亦領軍來會、時比利・辟中・布彌支・半古四邑自然降服。是以、百濟王父子及荒田別・木羅斤資等、共會意流村今云州流須祇、相見欣感、厚禮送遣之。唯千熊長彥與百濟王、至百濟國登辟支山、盟之。復登古沙山共居磐石上、時百濟王盟之曰「若敷草爲坐恐見火燒、且取木爲坐恐爲水流、故居磐石而盟者示長遠之不朽者也。是以、自今以後、千秋萬歲、無絶無窮、常稱西蕃、春秋朝貢。」則將千熊長彥至都下、厚加禮遇、亦副久氐等而送之。
現代語訳:
「四十九年春三月、荒田別(わらたわけ)と鹿我別(かがわけ)を以て将軍とした。すなわち久氐(くてい)等と共に兵を整えて(海を)渡って卓淳國に着いた。将軍らが新羅を襲撃しようとした時、襲うのもいいが、あるいは「兵衆少なくては新羅を破ることはできないだろう。また沙白(さはく)・蓋盧(こうろ)を派遣して軍兵を増強するように奏上したらどうだろうか」という者がいた。そこで、木羅斤資(もくらこんし)、沙々奴跪(ささなこ)に精鋭の兵と沙白・蓋盧らを共に率いるよう皇后は命じた。木羅斤資沙々奴跪の二人は百済には無い姓だが、木羅斤資という者は百濟の將軍である。卓淳國に共に結集後、(進撃して)新羅を打ち破った。よって比自㶱・南加羅・㖨國・安羅・多羅・卓淳・加羅の七か国を平定した。兵を西の方面に展開し、古爰津(こけいのつ)、南蛮・忱彌多禮(とむたれ)まで滅ぼした。忱彌多禮は百済に割譲した。ここに、その王肖古および王子貴須は自軍をやって来させて合流した。この時、比利(ひり)・辟中(へちゅう)・布彌支(ほむき)・半古(はんこ)の四邑は自然と降服した。これを以て、百済王父子および荒田別・木羅斤資は共に意流村(おるすき)、今に云える州流須祇(つるすき)で会見して相い喜び合った。礼を厚くして荒田別・木羅斤資は送り還した。ただ、千熊長彥と百濟王は、于百濟國(かんくだらこく)の辟支山(へきのやま)に昇って盟友を誓った。次に古沙山に登り共に磐石(いわ)上に座り、時に百濟王が盟じて言った。「若し草を敷いて火でやかれようと、且木の上に座らされて水に流されようとも、磐石に共に居ることは長遠で不朽の誓いを示すものだ。これを以て、今から以て後まで、千秋万歳まで絶えることなく、また極まることも無く、常に西蛮として春秋に朝貢をします。」、これを聞いた千熊長彥は王都にいたり、厚く礼遇を加え、また副官の久氐等を(倭地に)送った。
氣長足姬尊 神功皇后六十二年
「新羅不朝。卽年、遣襲津彥擊新羅。
引用文:百濟記云、壬午年、新羅不奉貴國。貴國遣沙至比跪令討之。新羅人莊飾美女二人、迎誘於津。沙至比跪、受其美女、反伐加羅國。加羅國王己本旱岐・及兒百久至・阿首至・國沙利・伊羅麻酒・爾汶至等、將其人民、來奔百濟。百濟厚遇之。加羅國王妹既殿至、向大倭啓云「天皇遣沙至比跪、以討新羅。而納新羅美女、捨而不討、反滅我國。兄弟人民、皆爲流沈、不任憂思。故、以來啓。」天皇大怒、卽遣木羅斤資、領兵衆來集加羅、復其社稷。
神功皇后62年に書かれる百済記の引用文に壬午年という干支年があります。
西暦年を60で割って22が余る年が壬午の年となりますので362年でしょう。近肖古王余句・346-375 )と近仇首王((余須・375-384)と重ならなければなりませんからね。また、七支刀(しちしとう)です。七支刀にある中国の年号・太元4年(379年)ともおおむね整合性があります。
「沙至比跪(さちひこ)」は、通説では襲津彦のことです。そして葛城襲津彥は武内宿禰の子とされます。新羅を討伐するために出兵したのですが、新羅のしかけたハニートラップにはまって、新羅ではなく、反対に加羅の己本王(旱岐)を攻撃してしまった大バカ者で、天皇をひどく怒らせました。木羅斤資に命じて加羅を原状復帰させます。子の犯した失策を繕ったのは父の武内宿禰だと思われます。
武内宿禰の系譜に関して『日本書紀』に記載はありませんが、『古事記』孝元天皇段では、葛城襲津彥は建内宿禰(武内宿禰)の子7男2女のうちの第八子として記載されています。
こうして武内宿禰は襲津彥(沙至比跪)の父ですから、木羅斤資とその生年と没年は重なります。

日本書紀 巻第九 神功皇后紀 五十二年秋九月丁卯朔丙子、久氐等從千熊長彥詣之、則獻七枝刀一口・七子鏡一面・及種々重寶、仍啓曰「臣國以西有水、源出自谷那鐵山、其邈七日行之不及、當飲是水、便取是山鐵、以永奉聖朝。」
百済の遣使である久氐(くて)らが千熊長彥に随って本朝に詣で、七枝刀一口、七子鏡一面、おおび種々の宝物を献じた。なお、敬って言うのには、「臣國(百済)は西に向かって流れる川があり、その水は谷那の鉄山から流れ出ています。この鉄山は七日行ってもその源の水を飲むのことができないほど遠くにありますが、この山の鉄を取って長く聖朝に捧げます。」
神功皇后紀49年、忱彌多禮(ちんみたれ)を百済に割譲した答礼として、百済が贈ったのが七支刀だったのです。
日本書紀 巻第十 応神天皇二十五年
召之。百濟記云「木滿致者、是木羅斤資討新羅時、娶其國婦而所生也。以其父功、專於任那、來入我國。往還貴國、承制天朝、執我國政、權重當世。然天朝聞其暴召之。」廿八年秋九月、高麗王遣使朝貢、因以上表。其表曰「高麗王、教日本國也。」
「百済記引用;木滿致という者は、これ木羅斤資で新羅を撃つときに新羅の婦人を妻として生まれた。父の功績で任那を占有する。百済に来て日本と行き来している。天皇の威光をかさにして百済の国政を執り行い、今の世に権力をふるっている。しかるに天皇はその横暴なることを聞いて、日本に引き帰させた。」
 木滿致というは蘇我満智(蘇我石川の子、蘇賀滿智宿禰)のことです。百済八大姓の中に木氏はあります。日本書紀では荒、安羅の羅と木氏の木の字を結合して木羅としたと推測します。その父が新羅攻めの時ハニートラップに引っかかって生まれた子供でです。
応神25年とは西暦では405年 - 427年中にあたります。『日本書紀』応神天皇8年春に王子直支、および25年に直支王(ときおう)と書かれ、『三国遺事』王暦では眞攴王と記されます。『三国史記』でのおくり名は百済の第18代の腆支王(在位:405年 - 427年です。蘇我満智の全盛期はこのころです。ここでひとり言(つぶやき)を入れておきます。応神天皇が代15代、皇紀930年即位、西暦270年とするのが正史?のようですが、わたしの鑑定からはだいぶかけ離れていますね。HOW OLD IS IT?雄略天皇紀では蘇我満智をして斎蔵いみくら・内蔵うちのくら・大蔵おおくらの三蔵(みつくら)を検校するとあります。蘇我氏の全盛期と雄略天皇の御代が重なるわけではありません。雄略天皇は5世紀前半とされますが、大悪天皇の異名があり、兄王を殺害して王についた百済の辰斯王をモデルにした物語にすぎません。

武内宿禰の七男二女が、上の図だろう。、羽多氏、巨勢氏、蘇我氏、平群氏(へぐりうじ)、紀氏、葛城氏の六氏族に別かれた。
武内宿禰は神功皇后13年に太子応神に随行して角鹿の笥飯大神(けひのおおかみ)に参拝しています。わたしが思うのには木羅斤資はこの時に皇后から姓が武内、かばねが宿禰と名前を与えられた思われます。*笥飯大神:(福井県敦賀市、越前国一宮気比神宮;四社の宮の西殿宮に武内宿禰命(たけのうちのすくねのみこと)が祀られています。

森岡宏作成図転載。
蘇我満智の父は蘇我石川となるはずです。蘇我石川は斤資の弟とする王系図があり、これがなんと金官伽耶の王系図です。実の父は木羅斤資の弟だったいうのが真相ということのようです。

用語;
*荒田別(あらたわけ);遠祖は上毛野氏(かみつけのうじ);第10代崇神天皇皇子の豊城入彦命を祖とする皇別氏(こうべつうじ=皇室の分流)族で、「上毛野君(公)」は後に「上毛野朝臣」姓を称した。上毛野氏を氏神とする赤城神社(群馬県前橋市)から推測するに荒田別は東国武将と見ることが可能です。
*久氐(くて)、氐(て)は朝鮮で作られた音借文字です。名前にこの特殊文字を使う人物は異例です。ここから、加羅の遣使で道案内をした副将と推測します。

要約すると、神功皇后が派遣した二将軍に副将久氐等を加え海を渡って卓淳國に駐屯し、百濟将軍・木羅斤資・沙々奴跪をあとから加えて新羅を攻撃した。そこで七か国を平定した。その後、百済王父子(13近肖古王(346-375)と14近仇首王)が軍を率いて合流した。彼らは四邑を降した。この新羅を破った勝利に百済王は千熊長彥に対して西蛮となり永久に朝貢をすることを山の磐の上で誓う。
*久氐(くて);百濟の官人で日本に使者として来ていたと考えられる。加羅の使人で通訳兼参謀といった役割だったろう。
*千熊長彥(ちくまながひこ)卌七年夏四月;千熊長彥:令武內宿禰行議。因以千熊長彥爲使者、當如所願。」千熊長彥者、分明不知其姓人。一云「武藏國人、今是額田部槻本首等之始祖也。」 百濟記云「職麻那々加比跪」者、蓋是歟也。於是、遣千熊長彥于新羅、責以濫百濟之獻物。」:百済が新羅の貢物を盗んで天朝に朝貢した罪を問うために武内宿禰に使者に任じられた人物。武蔵国の額田部槻本首(ぬがだべのつきもとのおびと)等の始祖であると伝える。百濟記では、職麻那々加比跪(ちくまななかひこ)のことだろうか?としている。武內宿禰に従属する武人。
百済王父子:近肖古王(346-375)と近九首王が太子の時で須。




日本書紀 神功皇后 摂政52年治世51年春3月、百済王はまた久氐氏を遣わして朝貢した。そして皇太后は皇太子と武内宿禰に語って言った。 「わが親交する百済国は天の賜り物です。人為によるものではない。見た事もない珍しい物などを、時をおかずに献上 してくれます。私はこの誠を見て常に喜んで用いている。私と同じように後々までも恩恵を加えるようにお願う。」 この年、千熊長彦を久氏らにつけて百済国に遣わし言った。 「私は神のお示しに従って往き来の道を開いてきた。海の西を平定して(定海西)百済に与えた。いま誼を結んで長く寵賞しよ う。」 これを聞いた百済王父子は共に額を地にすりつけて拝み言った。 「貴い国の大恩は天地より重く、いつの日までも忘れる事はないでしょう。聖王が上においでになり、日月のごとく明か です。今私は下に侍って堅固なことは山岳のようで西蕃となってどこまでも二心を持つ事はないでしょう。」

神功皇后治世52年秋9月10日、千熊長彦は久氐氏と伴だって百済にやって 来た。そして七枝刀一口(ななつさやのたち-ひとくち)、七子鏡(ななつこのかがみ)一 面、及び種々の重宝を受け取った。
 「我が国の西に河があり水源は谷那(こくな)の鉄山から出ています。その遠いことは七日間行っても行き着きません。 まさに、この河の水を飲み、この山の鉄を取り、ひたすら聖朝に奉ります。」
  そして孫の枕流王((余暉・在位384-385))に語って言った。 「今、我が通うところの海の東の貴い国は、天の啓かれた国である。だから天恩を垂れて海の西の地を賜った。これに よって国の基は固まった。お前もまた誼を修め、産物を集めて献上する事を絶やさなければ死んでも悔いはない。」
 
  それ以降毎年相次いで朝貢した。ここに谷那の鉄を聖朝(倭国)に奉じると言っているのですが、百済はなぜ谷那(クンナ)の鉄を倭国に供給する約束をしたのでしょうか。そこは、ことさら重要な点です。谷那(の鉄が最良質で、鉄資源としてこの地の戦略的重要度が高いことは当然です。この鉄山が月支国(馬韓の辰王の一国・クシャーナ朝の月支との関係は微妙なところがあります。)の領地にあったのを、百済・近消古王が侵略したため、倭国は任那の鉄を絶たれるのを恐れたと考えらます。世子(sejaせじゃ)とは次に王となる予定の太子、嗣子のことです。この父子とは、13代.近肖古王(346-375)と14代.近九首王(375-384)のことで、孫の15.枕流王(余暉・384-385)につながります。上記の神功皇后紀の内容にぴったり当てはまるのは、この三代の王に限られます。

三国遺事 倭人伝には七支刀銘文について次のような記述があります。『三国史記倭人伝他六編』岩波文庫より。

〔140〕七支刀銘文
表面四年五月十六日丙午正陽造百練七支刀出辟百兵宜供供侯王永年大吉祥
裏面先世以来未有此刀百済王世奇生聖音故為倭王旨造傳示後世
「泰和四年五月十六日丙牛正陽、百錬の鉄の七支刀を造る。出(すす)見て百兵を避く。供供たる侯王に宜し。□□□□の作なり。先世以来、未だ此のごとき刀有らず。百済王の世子奇生聖音、ことさらに倭王旨の為に造りて、後世に伝え示さん。」
上の現代語訳:「泰和四年(369年)五月十六日の丙牛正陽に、百たび鍛えた七支刀を造った。すすんで百たびの戦いを避け、恭しい侯王が帯びるにふさわしい。先の王からこのかた、まだこのような刀はない。」百済王の世子貴須は、特別に倭王のために造って、後の世に伝え示すものである。」
*世子(せじゃ・正式に立太子した世継ぎのこと、日本では皇太子に当てはまる)、世子奇生聖音を世子貴須と解したのは著者の佐伯有清。
*日本にいる王は遠祖が百済の王族で、東国の物部氏と解される。
*侯王からは倭王は百済の王族であることが判明します。倭王は、近九首王の伯父であると私は判断しています。その理由の一つには神功皇后紀などでは近仇首王が倭王に向かってへりくだった表現を使っていること、このため、第一に年齢が上で、かつ、尊敬語をつかわなければならない身内の上位者と考えられるからです。

 倭国王  三国史記  三国史記  三国遺事 中国史  宋書  梁書  宋書 日本書紀   
 賛   375-396年 近仇首王   奇  晉太元中
(376年-396年)
晉安帝時(397-418年)
  倭王贊
 須  
永初二年(421年)
元嘉二年
(425年)
 貴須王
(くぃすおう)
【神功皇后
49・55・56
・64年】
倭王は百済の蕃王になる。

さて、「倭王」が四世紀のどの天皇に当たるか、との疑問が残ります。「四世紀に在位したとみられる天皇を年代別に列記して、「漢風諡号」、「中国名」、「和風諡号」、「諱」とを照合すると、「倭王」は崇神天皇に違いなかろう。」(武田昌暉著『日本書紀の謎』と七支刀)・・・
・・・違いなかろうという言い回しが微妙に断定を避けています。なぜでしょう?日本書紀の紀年体年号と西暦年の不整合が解決されていないことを物語っているのです。

①王権の象徴であり、神器である。
②七枝刀は谷那(こくな)の鉄で造られている。
③孫の枕流王(チムニュアン375-385)に語った当の王は近肖古王(クンチョゴワン)である。したがって、第 13代王/近肖古王、その子・第14代/近仇首王、その孫・第 15代王/枕流王に該当する。
上記3点から、七枝刀を送ってきたのは近仇首で、受け取ったのは、日本にいる倭王となる。
④宮崎市定著「謎の七支刀」では、宋の泰始四年(468年)の解釈をしたが、誰が贈ったのかまで割り出せば、これは、369年としなければならない。
⑤定海西を加羅の4国譲渡だと見る。倭王はもともと権益をもっていたので譲渡できたと考えられる。
⑥この刀はいわゆる倭王賛こと貴須王が造ったものである。

驚くことに、書記によれば、神功皇后が馬韓全域を百済に与えたお礼に、近肖古王とその太子は谷那(クンナ)の鉄山で造った七枝刀を贈り、西蕃となって倭王に忠誠を誓ったと云う内容になるのです。

*趙(ちょう)は、戦国時代に存在した国(紀元前403年 - 紀元前228年)で、戦国七雄の一つに数えられる。国姓は趙。首府は邯鄲。もともとは、晋の臣下(卿)であった。紀元前228年に秦に滅ぼされた。

 神功皇后紀にはこの七枝刀は谷那で作られたという。この「谷那鉄山」(こくな)とはどこだろう。「神功皇后紀」46年条で、百済の肖古王が斯摩宿禰(しまのすくね)の従者である爾波移(にはや)に「鉄鋋(ねりがね)40枚を与えた」とある。また、神功皇后摂政52年に9月に「七枝刀一口・七子鏡一面」が送られている。この時、日本から来た千熊長彦に賜った。「源は谷那(こくな)の鉄山で、その河口は徒歩で7日かかるほど長い川となっている。この水を飲み、この山の鉄をとって、倭王に献じる」これは、百済が谷那(こくな)の鉄山を馬韓から略奪したという時期と重なることになります。

谷那の鉄山はかなり大きな河(郁里河=現・南漢江)の水源にあたるソベク山脈の月山岳の周辺にありました。この地域は馬韓の国の一つであり、百済という小国が馬韓の数国との戦争に勝利してこの谷那の鉄山と鍛冶場を占領した、その経緯から、戦勝記念として、谷那の鉄で七枝刀を作った可能性が高いのです。さらに、日本との鉄を交易とその権益を独占するとの宣告だったようにも思えます。要するに鉄の交易を日本に保証する意味をこめて、七枝刀や鉄鋋を贈ったのでしょう。また、百済近肖古王が谷那の鉄山に侵攻した混乱で、伽耶は鉄の入手が困難になり、危機に陥ったことは確かでしょう。
伽耶からみれば、洛東江の上流にもあたる谷那の鉄が遮断されると、金官伽耶盟主国の王は交易できず、財力を失い、伽耶の連合自体が脅かされます。肖古王から(166-214)近肖古王(346-375)の南征で馬韓がしだいに追い詰められ、枕弥多礼国(チンミタレグ)現・全羅南道の光州まで逃げ込むことになり、およそ120年間、馬韓の辰王統は続いていましたが、このとき滅亡したのです。と、同時に伽耶が窮地に陥ったのです。


上記、谷那の鉄山のあった場所。弾琴台土城(だんきんだいどじょう・忠清北道忠州市)

ここは、加耶琴(かやきん)の名手がいました。加耶から新羅に亡命して国原(こくげん)に安置された于勒(ウロク)が、新羅の真興王12(551年)に召し出されて王の前で演奏したという伝承が残る場所です。この真興王(チヌンワン)は新羅が大拡張した時代であり、ここが最後には新羅領になったのです。



(西日本新聞 2011年3月24日 朝刊)

《第2節
埼玉県行田市稲荷山古墳から出土した鉄の剣は百済製

埼玉(さきたま)稲荷山古墳から出土した鉄剣は百済製・獲加多支鹵大王(わかたけろ)は百済の第21代蓋鹵王(けいろわん)だった!




埼玉県行田市にある埼玉稲荷山古墳(さきたま・いなりやま・こふん)から出土した鉄の剣(つるぎ)。115文字からなる金象嵌(きんぞうがん)」の銘文は次のように刻まれていました。

表)
辛亥年七月中記、乎獲居臣、上祖名意富比垝、其児多加利足尼、其児名弖已加利獲居、其児名多加披次獲居、其児名多沙鬼獲居、其児名半弖比
裏)
其児名加差披余、其児名乎獲居臣、世々為杖刀人首、奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時、吾左治天下、令作此百練利刀、記吾奉事根原也


 この象嵌が記されたのは辛亥年七月中とあり、この干支年は411年、471年、531年に該当しますが、そのうちの471年です。(干支年は60年周期。)古代史上の絶対年代が特定できるうえで、七支刀と並んで重要な考古学的資料です。
上祖・意富比垝(おほひき)とは、上祖と書かれています。百済の始祖・尉仇台のことです。

*辛亥年は60の倍数の上限の剰余が51の年。西暦末尾が1年になる60年周期の年。

 百済の始祖は、尉仇台になのですよ。随書から例証します。
『随書』 百濟伝 「每以四仲之月,王祭天及五帝之神。立其始祖仇台廟于國城,歳四祠之。國西南人島居者十五所、皆有城邑。」(抜粋)
四仲の月ごとに王は天神や五帝の神を祭る。並びに、そこの始祖である仇台の廟を于国城で年に四回祭祀する。国の西南人の住む島が十五カ所、いずれも城邑を有している。

 獲加多支鹵大王(ワカタケル大王)が斯鬼宮で天下に号していたという王は蓋鹵(けろ)王です。鹵(ろ)の文字が含まれています。鹵の文字はかなりレアな文字ですよ。
 「斯鬼宮」は古事記には「師木島大宮」、日本書紀では「磯城嶋金刺宮」に似ているので欽明の宮に比定されていますが、斯鬼宮は漢城の中の王宮殿でしょう。斯鬼宮は、ワカタシロ大王が、(蓋鹵王)がいた漢城の王宮殿、「寺」の意味する所は、政務を行うところですから、主に朝議を開く大殿のことです。
 この鉄剣を奉じたのは第七子の乎獲居臣(オワケ)であり、世子として大王を佐治していた余都、後の文周王のことです。居臣は、中国に服属する(扶余)王の称号とみることができます。

なんと、ワカタケル大王が、(蓋鹵王)が倭国王済、この剣を作ったのは牟都こと、倭国王興だったのです。
文周王は477年9月に亡くなっています。これを根拠に、この剣がつくられたのが531年ということはありえないのです。また、475年9月に蓋鹵王が無惨に殺されましたが、471年はまだ王として健在でした。であれば蓋鹵王こと獲加多支鹵大王が斯鬼宮で天下に号していた時、というテンスがクリアーされます。

以下箇条書きで、この銘文を解析してみよう。

辛亥年七月中記乎獲居臣・・・・・辛亥年七月中(471年)オワケノオミがこの銘文を書きました。
祖王:上祖名意冨比垝(オオヒコ)・・・・・・上祖は太祖・尉仇台。(意冨比垝(おほひき)が百済で呼称)
(次に、獲加多支鹵(ワカタケル)大王(蓋鹵王)の王子が7人、名前で列挙されています。オホヒコ初代から歴代、即ち代々の王名ではありません。通説は漢文の訓読文を、まま棒読みして誤訳しています。)
1:其児多加利足尼・・・・・・・・・・其の児名は其児多加利足尼(タカリノスクネ)
2:其児名弖巳加利獲居・・・・・・其の児名は弖已加利獲居(テヨカリワケ)
3:其児名多加披次獲居・・・・・・其の児名は多加披次獲居(タカヒジノワケ)
4:其児名多沙鬼獲居・・・・・・・・其の児名は多沙鬼獲居(タサキワケ)
5:其児名半弖比・・・・・・・・・・・・其の児名は半弖比(ハテヒ)
6:其児名加差披余・・・・・・・・・・其の児名は加差披余(カサヒヨ)
7:其児名乎獲居臣・・・・・・・・・・其の児名は乎獲居臣(オワケノオミ)(銘文を記した本人)
世々為杖刀人首奉事・・・・代々杖刀人(刀剣を作る鍛冶部)の首(おびと)として奉事を為し、今、獲加多支鹵(ワカタケル)大王が、(蓋鹵王)斯鬼宮の政所に居られる時に、吾(オワケノオミ)が天下に号し治むるを佐治(補佐)する。此の百練の利刀を作り、吾(系譜と事跡の)根原を奉りて記すなり。

其が連続します。其のは、獲加多支鹵(ワカタケル)大王を主語に共有します。なぜなら、オワケノオミ自身がワカタケル大王を補佐する王子になります。
 蓋鹵王( - 475年)は、ある注では近蓋婁百済の第21代の王(在位:455年 - 475年)。先代の毗有王の長子であり、『三国史記』によれば、諱は慶司。また、ある注では近蓋婁(ガイル)王とも記され、『日本書紀』には加須利君(かすりのきみ),または加須利君(かすりのきし)(雄略五年に記事)、『梁書』には余慶(徐慶)の名で現れます。朝鮮正史では455年9月に先王の死去に伴い、王位についたといいます。

443年=「元嘉20年、倭国王済が宋に遣使して奉献す。宋・文帝に朝献して、安東将軍倭国王とされる。復(また)以て、安東将軍・倭国王と為す」(「元嘉二十年、倭国王済遣使奉献。復以為安東将軍倭国王」(宋書列伝倭国条、宋書倭国伝)と、ありますので、蓋鹵王が即位した年は、443年に遡ります。中国の史書を採用すればの話ですが、朝鮮正史の在位年数((在位:455年 - 475年))とは12年違います。前王と前々王は架空か後に追号されたのでしょう。百済三書は逸失しています。ですから、三国史記の干支年より、中国正史のほうが正しいと見ます。


 蓋鹵王は即位後、早い時期に宋に遣いを送り、自身の身内や高官十一人への爵号授与を願い出ました。十一人の内訳は余紀、余昆(昆支)、余暈、余都、余乂、沐衿、余爵、余流、麋貴、于西、余婁でした。銘文の7王子と一致する王族は、余の姓を持つ者だけで、一、余紀、二、余昆(昆支)、三、余暈、四、余都、五、余乂、六、余爵、七、余流、八、余婁と八人になります。このうち、余都が後の文周王ですが、上佐平として蓋鹵王を補佐していました。上佐平とは宰相に相当します。つまり、蓋鹵王が即位直後から摂政のような実権をもっていたと考えられます。「462年 大明六年三月壬寅、以倭国王世子為安東将軍」(宋書本紀 孝武帝記)/大明六年、宋・孝武帝が、済の世子の興を安東将軍倭国王とする。」、この462年に、倭国王の太子の興を安東将軍倭国王とした・・・のです。この人物こそが余都です。中国では、太子、朝鮮では世子(せじゃ)は、次の王になる日嗣(継承者)のことです。その他の王子、王女は公主と言いました。
(王子の名が列挙され、次に後半の帰結文が続きます。後出の其は最初の其の主格を共有する・定義)
余紀、余昆(昆支)、余暈、余都、余乂、沐衿、余爵、余流、麋貴、于西、余婁、以上の者が矢印の右に入ると推定するが、音や文字からは比定できないのが残念です。
1.多加利足尼→?
2.弖巳加利獲居→?
3.多加披次獲居→?
4.多沙鬼獲居→?
5.半弖比→?
6.加差披余→?
7.乎獲居臣→上佐平、太子


「大明六年(462年)、詔曰、倭王世子興、奕嗣辺業。宜授爵号、可安東将軍倭国王」〔宋書列伝 倭国条〕で、はっきりします。

 ところで、乎獲居臣(オワケノオミ)が、金象嵌刀剣を作った本人となりますね。
銘文には、こう書かれていました。「今、ワカタケル大王が、(蓋鹵王)斯鬼宮の政所に居られる時に、吾(オワケノオミ)が天下に号し治むるを補佐する。此の百練の利刀を作り、吾(系譜と事跡の)根原を奉りて記すなり。」、どうですか? 「吾(オワケノオミ)が天下に号し治むるを補佐する。」、この文言は、上佐平牟都、中国からは倭国王と認めれていた人物として矛盾していません。
 「記吾奉根原也」からは、王統の正当な血統をもつ世継ぎ(世子)であることを公にするために余都=文周王=(オワケノオミ)が自ら象嵌したものでしょう。相応しい表現じゃありませんか。
 その刀剣がなぜ、日本に持ち込まれたのでしょうね。
 金象嵌刀剣の干支年は、471年でした。蓋鹵王の時世で、牟都が太子として国を佐治していた時のことです。牟都は462年に、倭国王に除綬されています。つまり、牟都が、政治力を内外に誇示するために象嵌したのだろう・・・と推測します。

 この刀の作られた翌年(472年)、蓋鹵王は北魏に高句麗を相挟撃する戦略状を届けています。471年ごろは、国庫が疲弊していましたから、軍費を集めていた時期に重なります。北魏は高句麗にもおもねって蓋鹵王の申し出を懇ろに断りました。蓋鹵王はこの後、北魏への貢献を止めてしまいました。

 高句麗は、僧侶道琳を密偵として送り込んでいました。碁を好む蓋鹵王は碁の名手であった道琳を側近として身近に置き、道琳の勧めるままに大規模な土木事業を進め、国庫を疲弊させることとなりました。細作(セジャク)とは密偵のことで、敵情を探り、報告する任務を持って敵国に入るスパイなのですが、蓋鹵王は高句麗僧が内通者(スパイ)であったことに気がつかなかったようです。

472年北魏に高句麗征伐を要請、北方(遼西百済)と南方(伯済・河南百済)と南北同時戦線の戦術を申し出たのが、いけなかったようです。北魏からは、高句麗も朝貢をしており今のところ高句麗は誠実である、とつれない返事でした。その翌年から蓋鹵王は北魏への朝貢をやめてしまいます。これが高句麗に漏れて475年高句麗長寿王(チャンスワン広開土王の長子)に3万の兵を率いて急襲されてしまいます。高句麗の僧侶道琳が内通したに違いありません。
 南漢城は陥落して蓋鹵王は阿且城(ソウル特別市城東区康壮洞)で処刑されてしまいます。このとき、この時の蓋鹵王以下、大后・王子、一族郎党、ともども殺されたと伝わります。「二十一年九月、高句麗王巨璉と師兵三万が王都漢城を囲んだ。王は城門を閉じ、城外に出て戦うことができなかった。高句麗は兵を四道に分けて攻め込んだ。・・・・・・中略・・・・吾が社稷(くに)のために死ぬのは当然だが、汝がここに在りて倶(とも)に死ぬのは無益である。難を避けて国系を継いでほしい。文周王と木劦滿致(もくらまち)・祖彌桀取(そみけっしゅ)等は、とともに南に行った。高句麗の對盧(てろ)齊再曾桀婁(けつる)・古尒萬年再曾(古尒皆複姓)等の師兵は北城を七日間で抜き、南城に攻撃を移した。城中は畏れ脅えて王は逃げ出したが、高句麗の将軍・桀婁(けつる)等が王を見つけ馬から下ろし王に拝すると顔に唾を三度吐きかけた。桀婁(けつる)は元百済の國人だったと伝わる。」分周と木劦滿致(もくらまち)、祖彌桀取(そみけっしゅ)は城外に逃れ、南に向かったことが三国史記には記されています。ただ、加えるに 漢山城を囲まれて、王は分周の弟・軍君(崑攴君なり)に側室を娶らせ日本に来たことが日本書紀に書かれてます。生き残ったのは余都、余昆(昆支)のみで、ほかは木劦滿致(もくらまち)となるのですが、木劦滿致(もくらまち)が日本での名が蘇我満智です。余昆(昆支)は日本に逃れてきて、河内で倭の援軍を得て、南漢城に自ら進軍しましたが、すでに高句麗に攻略された後でした。
 雄略20年の記事では「百済国は日本国の官家(みやけ)として、ありくること久し。また、その王(こしき)、入りて天皇に仕えす。四隣の共に識るところなり。」、と高句麗王が言ったので、百済を全滅させることを止めたという記事があります。官家とは貢納国です。百済には日本が後ろについているので、国を全滅させてはならない・・・と長寿王が述べたと伝えているのです。この雄略20年の冬の記事は、475年9月に起きた事件です。

 475年九月に蓋鹵王が無惨に殺されたあと、文周は直ちに王位につきましたが王都、漢山を捨て熊津に遷都を余儀なくされました。熊津(忠清南道公州市)に遷宮しました。476年春に南宋に貢献を果たしました。『日本書紀』 雄略天皇二十一年(477年)春三月条に「天皇聞。百済為高麗所破、以久麻那利賜汶洲王、救興其国」=「天皇は百済が高句麗に所々破られて、汶洲王に久麻那利を与え、その国を救った」、と記されています。久麻那利、百済語では固麻那羅(コマナル・고마나루)、中国では「固麻」です。錦江の中下流の扶余に遷都、南扶余と国号を変えました。鹵獲という言葉はウクライナ戦(戦争)などではよくつかわれるようになりましたが、ロシアの武器や兵站を奪うことです。蓋鹵王の鹵が無惨に敵に捕まった王という、死後のおくり名のような気がします。
書紀では、雄略天皇が、文周王に久麻那利を与えたと書いて言いますが、雄略天皇は先王を狩りに誘って謀殺して王位についたという経緯があり、顕宗天皇(480即位?)が父の亡骸を必死に探しますがなかなか見つかりません。ある老婆が現場を見ていたことがわかり、顕宗は土がかぶせられただけの父の骸から歯を取って持ち帰りました。雄略を仇(かたき)として狙っていましたが、雄略が狩りをしているときに殺します。清寧天皇は雄略天皇の子とされ天皇位についていますが、追号天皇(後の史家が挿入した)に違いありません。実は、雄略天皇の実像が百濟の辰斯王とそっくりです。さて、話を戻します。分周王が王位について、まもなく兵官佐平の解仇は朝廷を支配するようになり、ついには477年九月に解仇の放った刺客が文周王を暗殺してしまいます。解氏は百濟八大姓の一つです。
 父王が亡くなったので、長男の三斤はわずか十三才で三斤王(464年~479年・在位477年~479年)として即位しました。解仇による前王の暗殺が発覚しなかった事もあって、解仇は全権を握り続けました。そして遂に478年大豆城を占拠して王位を狙って謀反を起こしましたが、失敗に終り解仇は殺害されました。しかし三斤王は15才という若さで亡くなってしまいます。
 書紀は、こう書きます。「昆支の子の末多王を百済に送る。武器と一緒に軍士五百人を伴わせて百済に送り返した。」(雄略23年条)百済に送り返されたのは牟大のことです。昆支は蓋鹵王の母の弟で、分周の弟でもあるのです。つまり、王の外戚にあたる人物です。その子供が、東城王に即位します。牟大は478年、宋に使者を送り、朝見を果たし、倭王武として除されました。実は、書紀での武烈天皇は、この東城王をモデルにしています。暴虐な素行がめだつことと、日嗣なし、という点が似ているのです。なんと、東城王も衛士佐平(501)に殺されてしまいます。「昆支の子の末多王は二番目の王子とされていますが、昆支には5人の子がいました。みな、日本に来島したときはすでに五人の子がいました。昆氏が子らと一緒に倭地に逃避したとすれば、昆氏は本国に戻る意思はなかったのでしょう。五人の子は、それぞれが豪族になって、倭地を分地していたと思われます。九州の筑紫君(磐井も(継体21年527年磐井の乱)も、この昆支の子の一人だったと思われます。こう考えてくると、軍君崑支が武内宿祢であり、蘇我氏の祖に思えてきます。

『梁書』帝紀 『武帝紀』武帝蕭衍(463~502~549) 天監元年夏四月(502年)
 「死子立牟太、齊永明中、除太都督百濟諸軍事鎭東大將軍百濟王・・・鎭東大將軍倭國王武」

                            唐  姚 思廉 撰
                              
 都と牟大の朝鮮史での諱(生まれて付けられた名前)が、そのまま記される中国史書です。牟太が倭国王の除綬を賜わるのです。牟大こと東城王は、天監元年(502年) に授拝しているのですから、三国史記百濟本紀で記される「東城王、諱牟大」、都の没年は477年九月でした。牟太の没年は501年です。502年の武帝の制詔は、牟太の死後の追号なのでしょう。大と太と違うではないかと、つっこみが入れる方がいても、人物としては不動です。

 牟大が兵官佐平の刺客に殺されると、日本から船に乗せて嶋君を送り返しました。なんと武寧王に即位。武寧王は故に日本書記では「斯麻王」 と書かれます。嶋君は実に25年間も日本で暮らしていたのちに、武寧王として即位したのです。武寧王の母は蓋鹵王の側室でしたが、軍君崑支の妻となって日本に来ました。ですから、赤子のときから桜井の忍坂でそだったのです。ですから年頃になって妻を迎えたのも日本です。そこで嶋君の妃は日本人で子供らも日本暮らしだったに違いありません。これは、武寧王陵に深く関係することなので、この推定は蛇足ではありません。(武寧陵の秘密は、卑弥呼Xファイルに詳しく書いています。)

『乃ち其の弟軍君(崑攴君なり)に告げて曰く、「汝、日本に往て天皇に事えまつれ」という。(雄略五年)』、蓋鹵王(可須利君((かすりのきこし)の弟軍君は昆支(こんき)ですが、昆支は蓋鹵王の母の弟で、つまり、外戚にあたる人物です。この昆支には5人の王子があったのですが、全員、日本に一緒に来ました。二番目の王子が百済に帰還して東城王になりました。この東城王が倭王武です。
 「蓋鹵王は 嘆いてこう言った。娘を倭(やまとの)王(こしき)に嫁がせたが、しかし無礼にも我が国の名を貶めた。倭王は百済のことをすっかり忘れてしまった。もう政略結婚はこりごりだ。(この娘は書紀で雄略二年秋七月池津姫として記事にされています。池津姫はなんと蓋鹵王の娘だったのですよ。石河楯と姦したがために、日本に於てはじめて磔刑(はりつけのけい)にされてしまいました。ああ、悲恋。雄略がほんとうに存在した天皇かどうが疑わしいのですが、日本書紀が雄略を悪徳天皇と呼んでいます。当然ですね。)いま、側室で妊娠している女性を嫁せるから、琨支よ、一緒に日本に行ってくれ」、崑支は平服してありがたく妻に迎えます。これは崑支に、日本に行ったら、しっかり百済王系を支えるように、との密命を与えているのです。妊娠している婦人の名前は分かりませんが、産み月に当たっていたので、もし子供が産まれたら、その子を「速やかに国に送らしめよ」、と命じました。こういうのを「落し種」というのでしょう。庶子ですから、平時では、とうてい王位につく身分ではありません。筑紫の 各羅嶋(からのしま)で子供が産まれたので、「嶋君」と云います。『三国遺事』の王暦では『三国史記』と同じく、諱を斯摩とします。王になってからは「余隆」です。少なくとも、武寧王からの『日本書紀』の記事は史実として正しいと言えます。しかし、残念ですが嶋君の生母の日本での名が分かりません。しかし、日本書紀は、仁賢天皇(にんけんてんのう、允恭天皇38年 - 仁賢天皇11年8月8日)日本の第24代天皇(在位:仁賢天皇元年1月5日 - 同11年8月8日)に置き換えています。すると仁賢天皇の母は荑媛(はえひめ、葛城蟻臣の女になります。顕宗天皇の同母兄なのです。弟なのに先に天皇位についた関係は倭王武と武寧王の関係と同じです。この二人の父を殺したのは雄略天皇です、であるならば、この王は高句麗の王だったのでしょうか。日本書紀は高句麗と百済の王をランダムにつなぎ合わせていると考えられます。

『梁書』帝紀 武帝紀 普通二年/冬十一月(521)、百濟、新羅國、各遣使獻方物。十二月戊辰、以鎭東大將軍百濟王餘隆、爲寧東大將軍。
余隆、鎭東大將軍百濟王餘隆となす。・・・・武寧王には、倭国王ないし倭王の称号は無くなっています。そうでしょうよ、もう倭国を檐魯(タムロ)しているどころか、倭国にお世話になっているのですからね。この時代になると百済王が倭国と言うと、それは日本をさす代名詞になっていたのです。後の倭寇(わこう)というのが日本の海賊をさすようになっています。倭国=日本というのは、朝鮮発の用例なのですよ。倭国=日本という図式は中国史書の『三国志』魏志倭人伝に導入してはいけないのです。が、みなさん、これが最初のボタンのかけ間違いだと気づいていましたか?

 日本のアカデミズムは獲加多支鹵大王(ワカタシロ大王)をワカタケル大王と読ませて、雄略天皇の大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと)に比定して、加えて、倭の五王の倭王武であるとします。雄略紀に476年(雄略20年)蓋鹵王殺害の件、477年(雄略21年)文周王の久麻那利(こむなり)遷都のことが書かれています。これらの引用文などから獲加多支鹵大王を雄略天皇と多くの学者が一致して、コンセンサスを得ています。かつ、雄略天皇を倭の五王の一人、倭王武にしていますが、実は、倭王済であったのです。雄略天皇だというのも、倭王武であるというのも、全くの憶測でミスリードしたのです。
では、日本書紀から裏をとってみましょう。
倭の五王の章での倭王武だけを抜いて例証します。
宋書  百濟本紀
王統歴
 梁書  梁書45  梁書50  宋書  百濟本紀諱 日本書紀  日本書紀より抜粋
 武  東城王479-501年  永明483年 - 493年  牟太  弟武  
(齊建元中479年 - 482年)
 牟太  末多王
(またおう)
【雄略14年】 日本舊記云「以久麻那利、賜末多王。」蓋是誤也。
雄略五年夏四月条 百濟紀引用文:百濟新撰云「辛丑年(461年)、蓋鹵王、遣弟昆支君向大倭侍天王、以脩兄王之好也。」 兄王とは分周王であり、日本に行った崑支とよく交流した。日本に来た百濟王子とは崑支であることは否定できない。崑支が日本にはじめて来たのは461年です。百濟では蓋鹵王の治世のときです。埼玉古墳の鉄剣の銘文は471年です。
雄略五年夏四月条 乃告其弟軍君崑支君也曰「汝宜往日本、以事天皇。」(事は奉の誤りでなけれは崑支が天皇のことを為せと蓋鹵王が言ったことになる。)
雄略五年秋七月条「軍君入京、既而有五子。」軍君崑支が日本に入京したときには5人の子がすでにいた。
雄略23年4月百濟文斤王、薨。天王、以昆支王五子中第二末多王・幼年聰明、勅喚內裏、親撫頭面、誡勅慇懃、使王其國、仍賜兵器、幷遣筑紫國軍士五百人、衞送於國、是爲東城王。以下意訳:
【23年4月】百濟文斤王、薨。天王、以昆支王五子中第二末多王・幼年聰明、勅喚內裏、親撫頭面、誡勅慇懃、使王其國、仍賜兵器、幷遣筑紫國軍士五百人、衞送於國、是爲東城王。(崑支の第二子が筑紫から500人の兵力をもって百濟に行き王となる。天皇でなく、「天王」と書いているので琨支の可能性がある。
【武烈4年】百濟新撰云「末多王無道、暴虐百姓、國人共除。武寧王立、諱斯麻王、是琨支王子之子、則末多王異母兄也。(斯麻王は25代武寧王のことです。)
埼玉稲荷山古墳(さきたま・いなりやま・こふん)から出土した鉄の剣(つるぎ)は太子の時の分周王こと牟都が弟の牟大に471年に贈ったものです。軍君昆支は461年に日本にやってきて桜井市忍坂を京にして大王になりました。兄の牟都は百濟で太子として蓋鹵王を佐治していました。弟の牟大は471年には日本に居ました。牟大は479年に筑紫から500人の精鋭軍とともに百濟に行き東城王(おくり名)になりました。中国史では牟都を倭國王興、牟大を倭王武と称していたのです。



さきたま古墳群から出土した鉄器製馬具類・
馬冑(ばちゅう)・・・馬冑とは馬の頭部に被せる鉄製の冑(かぶと)のことで、通常、馬の首、胴体、脚を覆う馬鎧とともに装着される。この馬冑と馬鎧は、古代東アジアの北方騎馬文化圏における、重騎兵の典型的な装備である。
もともと馬冑の存在については、発掘以前から高句麗古墳の壁画に描かれていたことで知られてはいたが、驚くべきことは、その実物が壁画のある朝鮮半島ではなく、海を隔てた日本で見つかったことである。1894年に埼玉将軍塚古墳から出土した3つの鉄片が、1988年、日韓の研究者らによって馬冑の部材と認められ、検証の末、形状に共通点が多いと判断された福泉洞10号墳のものを参考に復元された。その馬冑は現在、埼玉県行田市のさきたま資料館に展示されている。朝鮮半島の南部、新羅や伽耶の古墳からに類似のものが出土しており、輸入されたものと判断されている。朝鮮で製作されているということだ。著者がひとつ気にしていることは高句麗との類似としていることであるが、この馬具類は朝鮮南部、加羅に類似してことを但し書きとして付記しておく。



国立金海博物館 展示物(韓国金海市)


国立金海博物館 馬具展示物(韓国金海市) 蛇行状鉄器 


酒巻14号墳出土の馬形埴輪(日本)


さきたま古墳群・将軍山古墳 出土の蛇行状鉄器(日本)
蛇行状鉄器と考古学上言われているこの鉄器は馬の鞍から旗を立てるもの。
重騎馬隊が戦闘のときに使用する独特のパーツと見えます。
こうして、この蛇行状鉄器やf字形鏡板付轡(くつわ)など馬具は加羅の製造物とほぼ同類、鉄剣だけが百済製と言えます。



《第3節
江田船山古墳出土の鉄刀

 熊本県玉名郡和水町にある江田船山古墳、全長六十一メートルの前方後円墳から、横口式家型石棺が検出され、内部から多数の豪華な副葬品が発見されました。明治6年(1873)に地元(江田村)の池田佐十が、正月元旦、ここを掘れとの夢のお告げがあり、3日になって丘を掘ったところ石棺を発掘しました。池田佐十は数多くの貴重で豪華な遺物を発見したあと、自宅の縁側の外に蓆(むしろ)を引いて並べていました。すぐに国がその希少なことに気づき、一括して、当時2000円で買い上げました。出土品92点は、銀錯銘大刀のほか、金・銀・金銅製の装身具、金銅製冠や冠帽、大陸から輸入された舶載鏡を中心とした銅鏡6面、馬具や武器など多数が出土しており、昭和40年に一括して国宝にされました。これらは、現在、東京国立博物館の平成館1階の考古展示室に常設展示されています。昭和40年に国宝に指定されました。この中に、茎(なかご)が欠けて短くなっているが全長90.6センチ、刃渡り85.3センチの太刀があり、その峰に銀象嵌の銘文があったのです。こちらは、鉄剣ではなく、鉄刀です。刃があります。銀錯銘大刀(ぎんさくめいたち)と教科書にも載っています。


銀錯銘大刀(ぎんさくめいたち)の刃関(はまち)には魚と鳥、馬などが銀で象嵌されています。 (パンフレットより)
背の部分に文字が刻まれ、刀身の根元に馬と12弁の花、その反対側に魚と鳥が刻まれています。

銀象嵌の銘文
「治天下獲加多支鹵大王世奉事典曹人名无利弖八月中用大鉄釜并四尺延刀八十練九十振三寸上好刊刀服此刀者長寿子孫洋々得□恩也不失其所統作刀者名伊太和書者張安也」

75文字のうち、出土した銀象嵌は大王の名前が三文字欠落しており、獲□□□鹵大王のようにしかはじめに読むことができませんでした。これがが獲加多支鹵大王という名前に疑いないと分かったのは、稲荷山古墳の鉄剣が1986年に出土してからです。
文字に着目すると、江田船山古墳の銀象嵌と稲荷山古墳の金象嵌には「弖」という文字が共通にあります。この「弖」は弓の下に横一棒があり、これは中国にはない文字です。早い話、中国人が書いたものではないのです。これは中古朝鮮で使われていた文字です。広開土王碑に、この「弖」という文字が見つかっています。では、実際は高句麗語での音韻(発音)だったはずですから、200年後の万葉仮名風によんで正解なわけはないのです。日本の学者は”て”と訓読していますが、万葉集に「多摩川に さらす弖豆久利 さらさらに なにぞ この児の ここだかなしき」の、歌では、弖豆久利を、”てづくり”と音をあてて、カラムシで作った布のことを言います。しかし、弖を”て”と読んでいいのか、という疑問は払しょくできません。獲加多支鹵大王を雄略天皇だと思い込んでいる学者は、これを疑問に思わないのです。この「弖」の文字からは、高句麗語の文法で書かれた文章である、という前提で、あることないこと日本史全体を考え直すべきでしょう。


江田船山古墳出土大刀主体者百済王説 李進熙(り じんひ、イ・ジンヒ、이진희、1929年 - 2012年4月15日)は、在日コリアンの歴史研究者・著述家。和光大学名誉教授。文学博士(明治大学)。専門は考古学、古代史、日朝関係史。慶尚南道出身。1984年に韓国籍を取得。
江田船山古墳出土大刀の銀象嵌銘の主体者は百済の蓋鹵王と解釈し、九州が韓国の領土であったと主張している。(日本の一般的な説では大刀銘の主体者は雄略天皇大泊瀬幼武(おおはつせわかたけ、大泊瀬幼武尊おおはつせわかたけのみこと )とする説が主流である。)wiki・・・このように、東大生的歴史観では説を併記しておいて・・・・の可能性が高いといっていれば済むのでしょうが、どうもわたしの性分にはあいません。


(訓読)

 「天の下治らしめし獲加多支鹵大王の世、典曹に法事せし人、名は无利弖、八月中、大鉄釜を用い、四尺の延刀を并(あ)わす。八十たび練り、九十たび振つ。三寸上好の刊刀なり。この刀を服する者は、長寿にして子孫洋々、□恩を得るなり。その統ぶる所を失わず。刀をつくりたる者の名は伊太和、書するは張安なり。」

 獲加多支鹵大王は、すでに書いたように蓋鹵王のことです。これは、稲荷山古墳から出土した鉄剣と同じです。王室の奉典を執り行う役人の无利弖が作り、伊太和が鍛冶をし、張安が象嵌した刀剣である・・・・と銘されています。
蓋鹵王の御代に作られ刀なのですが、なにか、作った連中が、「これは名刀ですよ」と自画自賛しているようです。





手前が国宝・銀錯銘大刀(ぎんさくめいたち)
つるぎと違ってかたなには刃があります。刀は実戦用の兵器です。


鉄製衝角付冑(てつせいしょうかくつきかぶと)=頭にかぶる武具と鉄製短甲(たんこう=よろい)


銅製沓 儀礼用の沓(くつ)です。百済からつたわりました。



手前は鉄鏃(てつやじり)。解説には「これらの出土品は百済をはじめとした朝鮮半島の王権とも交流した地方豪族(有力者)の活動と先進性を多角的に伝えています。」・・・としています。
 副葬品は百済製だと一目でわかります。百済の王族の所持品だったとは公式には書けないのでしょうが、百済の王権と関わることは確かに認めているようです。左上鉄器具は鉄製の馬の轡(くつわ)があります。また、鉄の鏃などからは被葬者が百済の武人だったことはほぼ間違いではないでしょう。百済と何らかの交流があった・・・では済まされませんよ。


上は長野県飯田市高岡4号墳から出土した、考古学では「はみえたくつわ」という。
ここで菊池川流域に5世紀後半から6世紀、この前方後円墳がつくられた地域の様相をみてみましょう。




江田船山古墳の横口式家形石棺 ↑
江田船山古墳の横口式家形石棺の入り口の外形は、実は磐井の墳墓だといわれる石人古墳の石棺の入口によく似ています。
《第4節
磐井の乱の真実

下が八女古墳群の一つ、石人山古墳の妻入横口式家形石棺、上の江田船山古墳とうりふたつ。
石人山古墳(せきじんさんこふん)は、福岡県八女郡広川町一条に所在する前方後円墳。八女古墳群を構成する1基で、国の史跡に指定されている。筑紫君磐井の祖父の墓と推定される。またかつては筑紫君磐井の墓に比定されていた。

石人山古墳の妻入横口式家形石棺

もう一つ重要なのは鞠智城の温故創生館に石人があったことです。石人は磐井の遺跡からもでてまいります。鞠智城の石人は飛鳥の石人より前期のものと推測されます。大野城、基肄(きい)城より古いことは確かですが、磐井とは同時期でしょう。


下は石人山古墳の武装石人(磐井関連遺物)



岩戸山古墳:福岡県八女市吉田 (史跡「八女古墳群」に包含、その中心的古墳)
5世紀後半にはすでに肥・豊(肥前・肥後・豊前・豊後)にまたがる一大勢力圏をつくっていたとみられる。磐井の乱の後も筑紫国造の存続を許され、白村江の戦ののち唐に抑留されて天智10年(671)帰国した。
筑紫君薩野馬はその後裔とみられる。同族に筑紫鞍橋君・筑紫火君・筑紫火中君がみえる。八女丘陵上には、現在11基の前方後円墳を含む約150~300基の古墳が発見され、その年代も5世紀中頃から6世紀後半までおよんでいる。磐井の乱以後も連続して大形墳墓が造営されており、筑紫君一族が滅びることなく存続したことを物語っている。

筑紫君磐井とは大伴磐(いわ)。
景行天皇 四十年 「蝦夷既平、自日高見國還之、西南歷常陸、至甲斐國、居于酒折宮。時舉燭而進食、是夜、以歌之問侍者曰、」・・・「則居是宮、以靫部賜大伴連之遠祖武日也。」
「天皇は蝦夷をことごとく平らげ、日高見国から帰られました。西南に常陸(ひたち)を経て、甲斐の国に到る。その酒折宮(さかおりのみや)におられるときに、燭台に火をともして食事をなされた。・・・この夜,、歌をお歌いになり・・・中略・・・・その宮に居られるとき、大伴連の遠い祖先であられる武日を靫部(ゆげいぶ)に任命されました。」

これによれば、大伴武日(たけひ)は甲斐、いまの山梨県、甲府近辺に勢力を持っていた武人である。靫部(ゆきぶ)とは大和朝廷で靫を負って天皇や皇族を守護した武人のことです。さて、甲斐の黒駒(かいのくろこま)とは、古代甲斐国に関係する伝承では、甲斐国から中央へ貢上された名馬・駿馬を指します。「ゆぎ」とも》矢を入れ、背に負った細長い箱形の矢いれで、馬上から射手するための道具です。靫部とは直では弓隊、拡張すれば騎馬軍のことでしょう。酒折宮は古代甲斐が良馬の産地であったことから成立したと考えられます。
*『常陸国風土記』(逸文)の信太郡の条に「白雉4年(653年)、物部河内・物部会津らが請いて、筑波・茨城の郡の700戸を分ちて信太の郡を置けり。この地はもと日高見の国なり。」とあり、令制国成立前は日高見国だったとされている。

《継体天皇二五年(辛亥五三一)二月》二十五年春二月。天皇病甚。

《継体天皇二五年(辛亥五三一)二月丁未【七】》丁未。天皇崩于磐余玉穂宮。時年八十二。

《継体天皇二五年(辛亥531年)春二月、天皇病甚。丁未ひのとひつじ(527年)、天皇崩于磐余玉穗宮、時年八十二。冬十二月丙申朔庚子、葬于藍野陵。或本云「天皇、廿八年歲次甲寅きのえとら(544年)崩。」而此云廿五年歲次辛亥崩者、取百濟本記、爲文。其文云「太歲辛亥三月、軍進至于安羅、營乞乇城。是月、高麗弑(しい)其王安。又聞、日本天皇及太子皇子、倶崩薨。」由此而言、辛亥之歲(541年)、當廿五年矣。後勘校者、知之也。、倶崩薨。由此而言。辛亥之歳当二十五年矣。後勘校者、知之也。 〉。
・・・・この時の高句麗王は安とありますが、高句麗第23代安原王(在位531年ー545年)、次に陽原王に継がれますが、干支年が辛亥(しんがい)とあります。継体28年に崩じたとある本にあるが、継体25年は(百濟本紀の引用)では辛亥の年であるとしています。この年は541年です。高句麗王安原王が日本の天皇と太子らがともに薨じたとあるのは暗殺されたことを暗示しています。541年3月に日本天皇と皇太子、王子がともに崩薨とは王族の全滅ともいえますから、日本史では裏がとれず謎です。継体の晩年に起きたという磐井の乱とも年が近似していることも気になります。また、欽明天皇の即位継承になにか闇に隠された事件がからんでいる可能性もあります。
*弑(しい):臣下が王を殺すこと。
『日本書紀』欽明天皇六年(545年)、同七年(546年)条には、逸書『百済本記』を引いて陽原王の即位には高句麗内部に内紛があったとする記事がある。香丘上王(ぬたのすおりこけ、安原王)には正夫人に子が無く、中夫人(第二夫人)の子を8歳で擁立して王(陽原王)とした。しかし小夫人(第三夫人)にも子があり、安原王が病に瀕すると、中夫人の実家の麁群と小夫人の実家の細群とが王位を争い、麁群が勝って、細群二千余人を皆殺しにしたという。ここは『三国史記』が立太子の祝宴があったという事実しか書かないところを比べると日本書紀が暗殺事件の真相にまで言及していることが新たな謎を呼ぶところであろうか。
ただし、『三国史記』の立太子記事(533年)と書記引用の『百済本紀』8歳での即位(545年)とは西暦ではずれがあり、相容れないところがある。

『日本書紀』欽明天皇23年(562年)八月年 朝鮮史書の引用:「一本に伝はく、十一年に大伴狭手彦連、百済国と共に、高句麗の王陽香を比津留都に駆ひ却くといふ。」
『三国史記』陽原王10年(554年)百済の熊川城を攻撃したが勝てなかった。
『三国史記』陽原王13年(557年)夏四月、王子の陽成を太子とし、群臣を内殿に集めて祝宴をひらいた。陽原王はその2年後、559年に没している。
*陽原王は高句麗の第24代の王(在位:545年 - 559 年)。姓は高、諱は平成。
『三国史記』陽原王15年(559年)春三月王が薨去したので陽原王と諡した。
百済王は第26代聖王(在位523年ー554年)、このときの百済王は威徳王(諱は晶・在位554-598)になります。

《宣化天皇 二年》冬十月の壬辰の朔にあるように、筑紫君磐井とは大伴金村(かなむら)大連の長男、大伴磐(いは)となり、そして弟が大伴狭手彦(さてひこ)になります。
『日本書紀』宣化天皇 「二年(537年)の冬十月の壬辰の朔に天皇、新羅の任那に寇ふを以て、大伴金村大連を詔して、その子磐と狭手彦(さてひこ)を遣して、任那を助けしむ。是の時に、磐、筑紫に留まりて、その国の政を執りて、三韓に備(そな)ふ。狭手彦、往きて任那を鎮め、加えて百済を救う。」天皇、新羅が任那を荒らしまわり略奪するので、大伴金村大連に命じて、その子磐(いは)と狭手彦(さてひこ)を派遣して任那を助けしむ。このとき磐は筑紫にとどまって筑紫の国の政治を執り行い、韓国に対して防衛する備えをした。狭手彦は、韓に渡って任那を平和にし、また百済を救った。
重要なことは大伴磐の弟は狭手彦であることで、二人は大伴金村の子供であり、兄は筑紫に留まって統治を行い、弟が朝鮮に出兵したということである。宣化天皇2年(537)新羅に攻められた任那(みまなをたすけるため,朝鮮半島にわたり,任那をしずめ百済(くだら)をすくった。
欽明(きんめい)天皇23年(562)狭手彦は高句麗を討ち、多くの財宝をうばって天皇と蘇我稲目(そがの-いなめ)に奪った財宝を献じたといわれる。名は佐提比古とも書く。大伴狭手彦(おおとものさてひこ)は朝廷の命を受け、任那・百済を救援するため、軍を率いてこの松浦の地にやってきました。狭手彦は名門大伴氏の凛々(りり)しい青年武将でした。
物資の補給や兵の休養のため、しばらく松浦の地に軍をとどめている間に狭手彦は土地の長者の娘の「佐用姫」と知り合い夫婦の契り(ちぎり)を結びました。
やがて狭手彦出船の日、別離の悲しみに耐えかねた佐用姫は鏡山(かがみやま)へ駆け登り、身にまとっていた領巾(ひれ)を必死になって打ち振りました。
軍船は、次第に遠ざかり小さくなっていきました。狂気のようになった佐用姫は、鏡山を駆け下り栗川(くりがわ=現在の松浦川)を渡って海沿いに北へ向かって走って行き、やがて加部島(かべしま=呼子町)の天童岳の頂き(いただき)に達しましたが、遂に舟が見えなくなるとその場にうずくまり、七日七晩泣き続けてとうとう石になってしまったと言われています。(以上松浦と佐用姫伝説)この松浦に伝わる伝承、佐用比売がひれを振り、別れを惜しんだ相手が狭手彦であり、その兄が筑紫の君磐井となると私は踏んでいます。
弟の狭手彦は松浦を後に韓土に渡り、百済軍と共に高句麗と戦い戦果をあげたことが記されています。『日本書紀』欽明天皇23年*562年)には、数万の兵を率いて高句麗(こうくり)を討ち、勝ちにのって宮に母入り、種々の珍宝を得て天皇に七織帳を奉献し、鎧や刀もろもろのほか美女二人を蘇我稲目(そがのいなめ)に献上しているとあり、二つの点で重要なのは高句麗の陽原王の宮を寇掠したこと、また、この時、蘇我稲目が中央朝廷に君臨していたという二点です。
この時の高句麗王は陽原王(ようげんおう、生年不詳 - 559年)は、高句麗の第24代の王(在位:545年 - 559年)*(15年間)。姓は高、諱は平成。陽崗上好王(『三国史記』高句麗本紀・陽原王紀の分注)、陽崗王(『三国遺事』王暦)ともいう。先代の安原王の長子であり、『魏書』には「成」の名で現れる。533年に太子に立てられ、545年3月に先王が亡くなると王位に就いた。
《欽明天皇》 6年9月にも男大迹天皇(継体)六年の条が引用される。ここでは大伴大連金村、住吉の宅に居りて、疾(やまい)を称して朝廷につかえまつらず。
《継体天皇》6年冬12月条「大伴の大連金村、四県割譲を百済の使いに勅告する役目を物部大連麁鹿火(あらかひ)にさせようと謀ります。麁鹿火(あらかひ)が難波の館を出て向かおうとすると、妻が諫めます。「もし四県を割(さい)て他国に渡してしまえば長き世に渡って謗(そし)りをうけましょう。」麁鹿火(あらかひ)は妻の心配に答えて「お前の言うことはよくわかるが、天皇の勅命に背くことになってしまう。」、妻は、続けて「それでは、あなた様は病気だといつわり勅宜してはなりません」、麁鹿火(あらかひ)は妻のいさめに従いました。しばらくして、やはりうわさが流れました。「大伴大連金村と穂積臣押山(大伴氏分一族)は百済から賄賂を受け取っていたのだろう」と、これは今でいえば売国奴という誹謗でしょう。金村は四県割譲が失策の責任を負わされることを恐れました。しばらく後、物部大連尾輿(おこし)と蘇我稲目によって辞任させられ、半島の権益をうしない、政治から消えていきます。
さて、大伴氏の先祖神は甲斐にいましたが、欽明天皇の時代には大伴大連金村は紀伊国名草郡、現在の和歌山市周辺に移動しています。紀伊水軍の本拠地であり、みずからは住吉に屋敷を持っていと伝えます。物部麁鹿火(あらかひ)は難波に館を持っていたこと、また、大伴大連金村は紀の川下流そばの紀伊国国分寺跡あたりに館をもっていたと推測します。半島への対外出兵には数百隻の船が必要です。物部氏が大和川、淀川水系の海賊を従え、大伴氏は紀の川水系の海賊を統括していたのではないかと推定します。紀の川は奈良県内では水源地である「吉野」に因み「吉野川(よしのがわ)」と呼ばれます。紀ノ川から飛鳥に生活物資を送っていたのですね。大和川ではなかったんです。奈良県と和歌山県が仲が悪いのはひょっとするとこんなところに原因がありそうですね。
《継体天皇 》天皇、詔大伴大連金村・物部大連麁鹿火(あらかひ)・許勢大臣男人等曰「筑紫磐井、反掩、有西戎之地。今誰可將者。」大伴大連等僉曰「正直・仁勇・通於兵事、今無出於麁鹿火(あらかひ)右。」天皇曰、可。

さて、この妻の切なる訴えが実は重要なのです。「それ、住吉の大神、はじめて海の向こうの金銀の国、高麗、百済、新羅、任那のの国々を胎中誉田天皇にお授けになりました。ゆえに大后息長足姫尊、大臣武内宿禰と、国ごとにはじめて屯倉(みやけ)をおいて、海の向こうの蕃屏(ばんき)として今日に至っています。やはり、もし他国に譲渡してしてしまえば、もとの境がなくなってしまい、どうやって取り戻すことができましょうか。」

*神功皇后胎中で新羅遠征したことから「胎中天皇」と言われた。応神天皇のことで別称は誉田別尊(ほむたわけのみこと)。
*大后息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)は神功皇后を指す。
*住吉の大神は大伴連金村でしょう。しかし、住吉とは摂津国一之宮住吉大社があった所に近いところ考えられます。そして誉田(ほむた)天皇とは応神天皇の別称であることが判明します。「病気だといって、宣(みことのり)を伝えないようにしなさい。」と知恵を吹き込んだのは物部麁鹿火(あらかひ)の妻だったということが書かれています。(妻の名不詳)

《継体天皇》元年九月乙亥朔己卯、幸難波祝津宮、大伴大連金村・許勢臣稻持(いなもち)・物部大連尾輿(おこし)等從焉。天皇問諸臣曰「幾許軍卒、伐得新羅。」物部大連尾輿等奏曰「少許軍卒、不可易征。
*『先代旧事本紀』「天孫本紀」によれば宣化天皇の代に大連、物部奈洗(物部奈洗大連)。三公という概念からすると蘇我稲目(そがのいなめ)が消され、許勢臣稻持(いなもち)に替えられた可能性が高いと思われます。
男大迹天皇(継体)六年、百濟遣使表請任那上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁四縣、大伴大連金村輙依表請許賜所求。由是、新羅怨曠積年、不可輕爾而伐。
*物部大連尾輿(おこし)物部荒山の子。尾輿(おこし)の子に物部守屋。
於是、大伴大連金村、居住吉宅、稱疾不朝。天皇、遣靑海夫人勾子、慰問慇懃。大連怖謝曰「臣所疾者、非餘事也。今諸臣等謂臣滅任那。故恐怖不朝耳。」乃以鞍馬贈使、厚相資敬。」
『古事記』では袁本杼命(をほどのみこと)と記されるのが継体天皇。
さて、大伴の金村は欽明天皇が新羅を撃つことを提案したとき、物部大連尾輿から、「任那四県を百済の要求に大伴金村がたやすく返事をしてしまい、任那四県を譲渡してしまった。これによって新羅が怒ってしまった。今となっては新羅を攻撃するのは難しいことになった。金村の策は間違いだったと非難ました。「諸臣みなが私を任那を滅ぼしたと言っているので畏まって、わたしは朝廷に参上できません。」、こうして住吉の居宅に閉じこもって朝廷に出向かなかった。天皇は病気かと思われ靑海夫人勾子を慰問に向かわせました。青海夫人は天皇に御心(みこころ)をそのままお伝えした。天皇は「あなたは長い間忠誠を尽くしてきました。ゆえに衆人の言うことなどで憂いてはなりませんよ。」と、こうして天皇は大伴金村の罪を問いませんでした。そればかりかますます恵みを賜い弥栄を深めました。
 ここでは、金村が朝廷で窮地にあり、ある意味実権が失われたことを意味するでしょう。物部大連尾輿は任那(加羅)の権益が主な関心で百済と新羅の抗争に巻き込まれたくないという姿勢が見て取れます。物部連毛野臣(けなのおみ)が安羅で任那を助けて、新羅からも百済からも防衛していたのですが、他方、金村は百済に任那四県を与えるみかえりに、任那の独立を百済を保証させようとしたのです。これは、しかし任那の王(干岐)から見れば新羅ではなく、守ってくれるはずの金村にかすめ取られたように見えたのでしょうか。
磐井は筑紫に攻め来った毛野臣のにたいして、「いまこそ使者であろうと、昔はわたしの友であった。肩を擦り寄せ、肘を擦り合わせながら、一つの器を共にして同じものを食べていたじゃないか。どうしてそんなにたやすく天皇の使いとなって、わたしをお前の前に従わせようとするのか?」、と磐井は大きな声で敵陣に呼ばわりました。
」かつては同じ軍営で互いに訓練を受け、狩りにも一緒に出かけて同じ食事を食べたではないか。お前と私は一緒に馬を駆けた仲ではないか!磐井の気迫に毛野臣は立ち往生してしまった。そこで天皇は大伴大連金村・物部大連麁鹿火(あらかひ)・許勢大臣男人の三人にあらたな将に誰を送ったらよいかと尋ねた。ここに、大村金村がいう。兵事において正直・仁勇によく通じている麁鹿火(あらかひ)意外にないでしょう。」という。天皇はそれを許した。金村にとっては嫡男である磐を討伐する事態に父の心境はいくばかりか推し量ることこともできない。
《継体天皇》廿一年夏六月壬辰朔甲午近江毛野臣率衆六萬、欲往任那爲復興建新羅所破南加羅・喙己呑而合任那。於是、筑紫國造磐井、陰謨叛逆、猶預經年、恐事難成、恆伺間隙。新羅知是、密行貨賂于磐井所而勸防遏毛野臣軍。
毛野臣は六万の兵を率いて新羅と戦い、任那を復興させようと忠誠を貫きました。ところが磐井は、弟の狭手彦を渡韓させて自らは筑紫に留まり密かに王のように振舞っていました。毛野臣にとってたとえ幼いころから友であっても許せなかったに違いありません。《継体天皇》17年夏5月に「百済の王武寧薨せぬ」とあり、武寧王が薨去しました、この年は西暦では523年。上の条の《継体天皇》廿一年は西暦527年になります。

於是、磐井、掩據火豐二國、勿使修職、外邀海路、誘致高麗・百濟・新羅・任那等國年貢職船、內遮遣任那毛野臣軍、亂語揚言曰「今爲使者、昔爲吾伴、摩肩觸肘、共器同食。安得率爾爲使、俾余自伏儞前。」遂戰而不受、驕而自矜。是以、毛野臣乃見防遏、中途淹滯。天皇、詔大伴大連金村・物部大連麁鹿火(あらかひ)・許勢大臣男人等曰「筑紫磐井、反掩、有西戎之地。今誰可將者。」大伴大連等僉曰「正直・仁勇・通於兵事、今無出於麁鹿火(あらかひ)右。」天皇曰、可。

継体天皇22年(528年)磐井は火国(のちの肥前国・肥後国)と豊国(のちの豊前国・豊後国)を抑えて海路を遮断し、また高句麗・百済・新羅・任那の朝貢船を誘致し、毛野臣の軍の渡海を遮った。前段は磐井が毛野臣と対立した原因が書かれます。朝廷から征討のため派遣された物部麁鹿火(あらかひ)の軍と交戦したが、激しい戦いの末に麁鹿火(あらかひ)に斬られたという。古事記では「物部荒甲の大連、大伴の金村のの連二人を遣わして磐井を殺したまいき」とし、筑紫に金村も同行したのでしょうか。金村が我が子を殺すわけがありません。
『筑後国風土記』逸文(『釈日本紀』所引)によると、上妻県(かみつやめのあがた:現在の福岡県八女郡東北部)の役所の南2里(約1キロメートル)に筑紫君磐井の墓があったとします。その墓について詳述した後で古老の伝えとして、雄大迹天皇(継体天皇)の御世に磐井は強い勢力を有して生前に墓を作ったが、俄に官軍が進発し攻めようとしたため、勝ち目のないことを悟って豊前国上膳県(上毛郡:現在の福岡県築上郡南部)へ逃げて身を隠した。そしてこれに怒った官軍は石人・石馬を壊したという。九州での戦でありながら、実際には甲斐(かい)と上野(こうづけ)の戦いに見えてなりません。甲斐の黒駒と榛名の渡海の駿馬が入り乱れた東国兵同士の戦いだったのです。実は、群馬県内で発見される土器の90%は馬形埴輪です。最近のトピックスですが、渋川市の金井東浦遺跡で、火砕流堆積物に埋もれた溝の中から鉄の鎧をきたままの姿の人骨が発見されました。榛名山の爆発から推定して1500年前と言われています。道路工事のため埋めなおされているのでしょうか、見ることができませんでした。
そこで後段で、じつは毛野臣は物部麁鹿火(あらかひ)の子であるとすると、金村が麁鹿火(あらかひ)に自分の子を征討することに天皇の前で合意したことになります。毛野臣を助けるのが父である麁鹿火(あらかひ)なら右に出るものがないと同意したのはのは当然です。磐井は大伴氏【大伴磐】ですから、一方の毛野臣は物部麁鹿火(あらかひ)の子であるのです。物部麁鹿火はそもそも本貫は現在の群馬県である。ケノ・上野(けの)・上野郡(けのぐん)・上野国(うえののこく)・701年、律令制の施行により車の郡(くるまのこおり)は上野国(うえののこく)になった。その後、上野国(こうづけのくに)となり、現在の群馬県である。榛名山の広大な山裾に、長野県木曽郡・伊那谷から50匹の馬を移植、伊那谷(長野)を超える牧をつくった。毛野臣とは宗祖を加上野国君氏(かみつけのきみし)とするのである。
榛名山の広大な山裾に牧があった。そこから軍馬が生産され強力な騎馬軍があったのである。太田市にある天神山古墳(5世紀前半)210m、高崎市、観音山古墳(97m)、保渡田八幡塚古墳(100m)など大古墳がある。663年には白村江で上毛君稚子(かみつけのきみわかこ)を倭軍の将軍に任命し、大軍を率いて新羅羅唐を攻めた。天皇家の血筋であることはもちろんであるが、群馬を勢力地盤にして一貫して新羅と戦ったことは記されておくべきだろう。新羅と同盟した高句麗との戦が急を要していたのですが、百済は貴須王以来の任那との長年の縁を絶ちました。(口先だけ美辞麗句を言っていたのです、今でいう二枚舌外交ですね。百濟は毛野臣を無視します。)新羅の任那攻撃が激しくなったのは当然です。新羅と国境を接する喙己呑は新羅に毎年のように攻められ降伏し、南加羅は戦の準備もできず、卓淳国は国人二分していて王は自ら新羅に内応して殺されます。527年毛野臣は6万の兵を率いて南加羅,喙己呑 (とくことん) の2国を新羅から奪い返しました。《継体天皇 元年》九月に、大伴金村大連を以て大連とし、許勢男人大臣をもって大臣とし、物部麁鹿火(あらかひ)を以て大連とする。」欽明天皇には、聖明王曰く、「昔わが先祖速古王・貴須王(近肖古王(346-375)と近九首王)の世に安羅・加羅・卓淳の早岐(かんき・王のこと)ら初めて使いを相交わし修好を結んだ、もって子弟となりて、常に盛んになることを願う。しかるに新羅に欺かれて天皇をお怒りなさしめて、任那をして恨みしむるは私の誤りである。」

一方、百済に戻らず、または戻れずに九州に土着した百済の武将たちは、鷹の羽紋(たかのはもん)をもった氏族、阿蘇氏、菊池氏などで、九州各地に拡散しました。阿蘇神社、国造神社(こくぞうじんじゃ)、草部吉見神社(くさかべよしみ・日本三大下り宮の一つ)などを奉際した氏族です。阿蘇氏は350余分家、菊池氏は120余分家に達しています。彼らは、百済が羅唐に滅ぼされてからは本国の滅亡という、うきめにあったと考えられます。遺民(落人)になった彼らは天武朝に忠誠を誓って生き延びたのでしょうか。それ以来、東国武将だけだった防人(さきもり)が、九州の武将に入れ替わったのです。

菊池川流域の遺跡を巡って見る

 熊本県の玉名郡和水町(なごみまち)には、菊池郡のコメの流通拠点である山鹿を制圧する重要拠点です。菊池川の水運を利用する戦略的な波止場が山鹿です。筑紫平野における日田に似ています。ここを占有すると九州各地への流通が独占できるという意味で重要だということです。

 ここから、推測すると、5世紀後半、470年ごろ、この地域に百済兵がいたか、百済の傭兵がいた可能性があります。あるいは、進駐軍かもしれませんね。歴史公園鞠智城(きくちじょう)があります。これは百済式の土城ですが、八角形鼓楼、兵舎2棟、武器庫1棟、米倉庫2棟などが復元されています。また、地元の口伝では百済の王子がいたと伝えられています。


この鞠智城は(地図)は”くくちのき”と古来呼んでいましたが、朝鮮語では”くくつ”と言われていました。菊池の地名の由来とも伝えられます。山鹿とは10kmほどしかはなれていません。
「7世紀頃の日本は中国大陸や朝鮮半島との緊張関係にありました。ここには東北から派遣された防人(さきもり)ではなく、蓋鹵王が送った百済兵がいたと考えられます。蓋鹵王は倭の五王の”倭国王済”にあたる人物です。
  663年の朝鮮半島における白村江の戦いで大敗した大和朝廷(政権)は、西日本の守りを固めるため各地に山城を築きました。ここ鞠智城は、九州を統治していた大宰府やそれを守るための大野城、基肄城に武器や食糧を送る基地だったと考えられています。 日本書紀の記録では698年に鞠智城は修理されていることから、鞠智城はそれ以前に築かれたことがわかります。」鞠智城だけは5世紀後半にすでに百済兵によって作られていたと考えます。ただ、疑問に思うのは、羅唐に対する防御という一点では、有明海からの侵攻に備えていたように思えます。
7世紀末に「鞠智」と表記されていたのが、平安時代には「菊池」と表記されるようになりました。さあ、朝廷はこの遺跡の存在そのものを消し去ったわけですが、なにが不都合だったのかわかりますよね。敗戦した百濟の影形を残さないことでした。ところが、もう隠しようがない遺物がでてきました。百済仏です。2007年に鞠智城北部の貯水池から意味深な遺物が発見されたのです。貯水池の北側1.5メートルの地下で発掘された遺物の中で、指折りに数えられるのが、金銅菩薩立像1点と木簡1点です。 しかし、韓国学界ではこれらの遺物に関する研究は行われておらず、(韓国では)したがって公開されたこともありません。?」・・・


 この位置関係からは、方保田東原遺跡(かとうだひがしばるいせき)が戦略的重要地です。「後東扶余百済」の影響下にありました。
地名でいえば、高の文字を含む神社や地名も関係します。また、武将の出身でかつ鷹の羽紋(たかのはもん)を持つの一族の祖先と思われます。この百済は鷹百済(メペクチェ)と呼ばれた仇台系の百済です。
鞠智城と方保田東原遺跡、山鹿・江田船山古墳は菊池川を媒介とした戦略的地点でした。


上の図では、江田船山古墳が菊池川に300mぐらいしか離れていないことから、江田船山は菊池川の水上交通を管理できる位置であったといえます。百済から軍勢を往来するには絶好の港だった可能性が高いのです。
江田船山古墳の鉄刀がでた位置とトンカラリンの位置。上の図参照。
江田船山古墳の近くに参照⇒、トンカラリンという謎めいた遺跡がある。
熊本県玉名郡和水町瀬川3481

<李進煕(在日コリアンの歴史研究者・著述家。和光大学名誉教授。文学博士(明治大学)。専門は考古学、古代史、日朝関係史。慶尚南道出身。1984年に韓国籍を取得。)「菊池川流域を考える」>
さてトンカラリンである。このトンネルの石組みは朝鮮式山城の石組み技術であり、横長の石を初めから準備して築造されている。近世の石組みという説もあるようだが、日本の戦国時代や、近世の石垣の基本的な組み方は方形の石を菱形に組み上げていく方式で、横長の石を積み上げていく方式の例はほとんどなかろう。
* (一般的には大刀銘の主体者は獲加多支鹵大王(倭王武、雄略天皇)とする説が主流ですが、李進煕教授は江田船山古墳出土大刀の銀象嵌銘の主体者は百済の蓋鹵王と解釈し、九州が韓国の領土であったと主張しています。)
詳細は「鉄剣・鉄刀銘文#江田船山古墳出土の鉄刀」を参照

 江田船山古墳の鉄刀がでた位置とトンカラリンの位置が近いこと、トンカラリンが朝鮮山城の石組みであることなどから、ここに百済の王子が数年、あるいは数十年いた可能性を考えてみることにします。江田船山古墳の鉄刀が蓋鹵王の時代であることが明らかな以上、その王子を割り出すのはそれほど難しいことではありません。史上、日本に来た人物として記録されるのは以下の通りです。

第一の候補は直支王です。「三国史記百済本記 「阿莘王6年(398年)夏5月に、王は倭国と友好を結び太子直支を人質として送った。 太子直支は(415年)父王阿莘王が死ぬと帰国し、即位した。日本滞留期間は14年になります。」

「三國史記:卷二十五 百濟本紀 第三 或云 直支 梁書名映 阿莘之元子 阿莘在位第三年 立爲太子 六年 出質於倭國 十四年・・・王薨 王仲弟訓解攝政 以待太子還國 季弟碟禮殺訓解 自立爲王 腆支在倭聞訃 哭泣請歸 倭王以兵士百人衛送 旣至國界 漢城人解忠來告曰 大王棄世 王弟碟禮殺兄自王 願太子無輕入 腆支留倭人自衛 依海島以待之 國人殺碟禮 迎腆支卽位 妃八須夫人 生子久尒辛、」
「あるいは直支と伝えられている。梁書では映という名前、阿莘王の長子である。阿莘王の三年に倭国と通好し、倭国に人質にでて14年になる。阿莘王が薨(こう)じると、哭泣して帰国することを請うた。倭王は百人の兵士に護送させて送り返した。国境にいたって漢城の解忠來が仲弟の碟禮が摂政となり、自ら王と自称した。直支がたやすく国に還ることを拒んだ。そのため、倭人は直支を留めて海島で待機していた。國人(朝廷の臣)は碟禮を殺して、直支を迎え即位させた。妃は八須(おそらく倭人)夫人で、子をが久尒辛である。(」八須比売という名前は記紀には見当たりません。)
以上訳を読んでみると、第一に直支と伝えているということは幼名が分からなかったため日本書紀から引いてきたものだろう。また、倭国に人質にだしたと、人質という言葉を朝鮮史ながらも挿入しています。このことから、三国史記は日本書紀を参考にしていることはほぼ間違いないでしょう。また、兵をつけて直支を送り返した倭王は誰だろう。仁賢天皇の字(あざな)が嶋郎(しまのいらつこ)《書紀》とあるので、嶋君こと、後の武寧王のことでしょう。

第二の候補は余昆(昆支)の子の牟大です。百済に戻って東城王、479年に即位しました。日本滞留期間は3年になります。書記では武烈天皇に該当します。

第三の候補は昆支が連れてきた嶋君です。百済に返り咲き、501年に即位した武寧王です。日本滞留期間は25年になります。

 蓋鹵王が高句麗に攻め込まれて死亡したのが475年9月です。どちらの王子も亡命してきたということでは変わりありません。牟大が百済にもどったのが(雄略23年条)、朝鮮史での百済王即位は479年ですから、朝鮮での不在期間は3年強ほどです。他方、嶋王(余隆)は501年に即位ですから朝鮮での不在期間は25年余にも及びます。ただし、赤子から25年ですから、成人として活動していた期間としては割り引かなければなりませんね。
 さて鞠智城といい、トンカラリンにしろ大規模な土木工事をなしとげたるにはどのくらいの期間が必要なのでしょう。たとえば200人がかりで3年とか計算できればいいのですが、あににくとそればかりは私にも推測できません。太子直支の可能性が高いのですが、証拠を探すまで、ここは皆さんに結論を投げておきます。


 次に、福岡県山門郡瀬高町大神(おおが)の「高屋宮(こうやのみや)」に、これぞ百済の王族としか思えない木像がご神体として奉られています。百済の王権を象徴する七枝刀をもっているので間違いありません。そもそも、七枝刀は、王族以外に持つことができない代物なのですよ。この木造の人物は、日本書記に依拠した神名で祀られていますが、その以前、470年ごろの渡来人の遺物であることが興味深いのです。鞠智城で聞いた話ですが、百済の王子が界隈にいたという話がありました。それにつけても、この下の像は百済の王子と考えるのが至当です。この蕃王、百濟王から命じられてこの地を屯(たむろ)として与えられ、派遣されたきたとも考えられます


 『筑後国高良神名帳』の伝承にみえる、この一体は「礒上物部神(いそのかみもののべしん)」に当たります。この言い伝えでは、物部氏が百済王族だった証拠品の可能性がありますね。
 このことは朝鮮半島の前方後円墳を考えるうえにも重要なことです。1983年に姜仁求氏が前方後円墳の韓国起源説を唱えたとのことですが、日本の前方後円墳のほうが古いことが分かり、起源は逆さまでした。発見された前方後円墳はたちまちプルトーザーで埋めなおされました。従って、現在は否定されていますが、とうぜんのことです。しかし、朝鮮半島の前方後円墳を弥生人=倭人が築いたと考えるのは早計です。

 宮崎県えびの市にある古墳時代後期(6世紀前半)の「島内139号地下式横穴墓」から、大量の百済遺物が出土した。地下式横穴墓は、墳丘を造らず地下の「玄室」を設ける形式。横穴墓は忠清南道公州市丹芝里稜線一帯の墳墓とほぼ同じとされる。地下3メートル、幅3.1メートルの玄室からは、ほぼ盗掘を免れた完全な武具類が大量に出土しました。
 
短甲は江田船山古墳から出土したものとそっくり。
年代は、5世紀末~6世紀初頭=古墳時代中期末~後期初頭
九州南部に特徴的な地下式横穴墓(墳丘・埴輪などはない)
島内地下式横穴墓群中の墓としては、玄室は最大級
国の重要文化財にも指定されている島内地下式横穴墓群の中でも、最多・最上位の副葬品が完全な状態で出土
男女と考えられる二人が埋葬。追葬はなし
宮崎県教育委員会提供。参照リンク☛出土品考古学的評価と被葬者像PDF



진출=進出; 방향=方向; 교류=交流; 관게=関係; 왜=倭; 규슈=九州; 요서지방 遼西地方; 동진=東晋(中国王朝:317~419;東晋は、中国の西晋王朝が劉淵の漢より滅ぼされた後に、西晋の皇族であった司馬睿によって江南に建てられた王朝);
*백제(ペクチェ)百済のこと。왜(ウェ)は倭。탐라は耽羅(チェジュ島)산동 반도(サントンパンド)山東半島 동진(トンチン)東晋
 국내성(クンネソン)国内城 고구려(コグリョ)高句麗 부여(プヨ)扶余or 夫余 신라(シンラ)新羅 가야(カヤ)伽倻
진출 방향(チンチュルパンヤ)進出方向 교류 관게(クリュグァンゲ)交流関係 항해(ハンゲ)航海
百済の対外進出の図版ですが、규슈は九州です。これを商業交流とみるか進出とみるか韓国でも説が分かれています。考古学では、「なんらかの対外交流があったものと思われます。」でかたずけてしまいますが、墓制や副葬品がまったくの百済遺物であること、がもはや否定できません。上の図のような百済の海外進出を事実として肯定する立場では、中国の歴史書の記録を証拠を掲げています。一方、百済の海外進出を否定する立場では、百済、中国、日本の単なる商業交流だったと見るということです。結局、百済が羅唐に滅ぼされたのが、あの江田船山古墳の隅に捨てられた石人のように、百濟色を日本書紀が歴史から抹殺したのでしょうね。Twit:ひとつ書き留めておきますが、요서 지방 遼西地方と공격(攻撃)の矢印の方向が逆です。遼西が漢城を滅ぼしたのが正解ですよ。中心の漢城が、あなた魏志倭人伝の南の狗奴国ですから、菊池川流域が狗奴国の占領地だったという事実には驚きしかありませんね。邪馬台国論では狗奴国は菊池川周辺とみるのが大方の見方ですが、なんと魏志倭人伝での狗奴国の支配地だったのです。書記の熊襲とは九州の蝦夷(縄文・弥生人)ではなく、百済軍のことではないか、という疑問がでてきました。すると、熊襲征討とは百済の二系統の同士討ちということになりますかね。継体22年(528年)の磐井の乱は覇権争いのようですね。磐井の陵にも石人があって、乱の後に移されて、現在、日田市の陣ケ原稲荷神社に奉納されています。向かって右隣りの祠の中に2体あります。
顔というか頭部があります。乱の直後に移動したので破壊を免れた石人と考えてよさそうです。磐井の故物だというのが事実であれば、岩戸山古墳から運ばれたことになり、県指定有形重要文化財に指定されている意義は大きいことになります。「今こそ使者たれ、昔は吾が伴として、肩擦り肘触りつつ、共器にして同食ひき、いづくんぞにはかに使となりて、余をして前にしたがはしむ」と使いとして来た毛利臣に言い放っています。飯を一つの器で共に食べて育ったようですから、おそらく使者は教練の友だったのでしょう。この石人が物語ることは無視してはいけないのです。
528年12月、磐井の子、筑紫葛子は連座から逃れるため、糟屋(現福岡県糟屋郡付近)の屯倉をヤマト王権へ献上し、死罪を免ぜられた。




《第5節
国宝「隅田八幡神社人物画像鏡」


和歌山県橋本市 隅田八幡神社 (すだはちまんじんじゃ)

現物は現在東京の国立博物館に保存されている。
古代日本において大王号を記す金石文としては稲荷山鉄剣銘江田船山鉄刀銘と、この「隅田八幡神社人物画像鏡」が有名です。


鏡面背面の文様は、中国産の人物像をモチーフにしたもので、直径は19.6センチ。重さは未公表。
注目すべきは、円周に沿って掘られた金石文字で、干支年号が入っていることです。癸未年は503年です。
金属物に彫った金石文字・象嵌文字は、5世紀(472年頃)に作られた江田山古墳鉄剣・稲荷山古墳鉄剣がありますが、それらと並んで我が国最古の「文字」の一つと見られています。
また「孚弟王(男弟王の借字?)」は継体天皇を指すと言われています。

《癸未年八月日十大王年,男弟王在意柴沙加宮時、斯麻念長奉遣,開中費直、穢人今州利,二人、尊所等取白上、同二百旱作此竟》

派遣されて来朝し、この鏡を献上したのは開中費直と穢人(わいのひと)の今州利(いますり)将軍)の二人です。
癸未年(503年)継体天皇10年、男大迹が意柴沙加宮にいたときの斯麻がこの鏡が作った、と解すべきです。贈り主の斯麻はもうすでに武寧王(余隆)に即位していますから、あのときの斯麻ですよ、という表現形式にしたのでしょう。
十大王年がなぜ継体十年なのでしょうか。継体10年9月条にはつぎのように書かれています。
ここに出てくる開中費直という人物名は加不至費直将軍(「百済本紀」)で百済の将軍です。そして、今州利は、濊人(わいのひと)の州利即爾(ツリソニ)将軍、おそらく大伽耶(智異山南山麓高霊郡)の人です。 解説:穢人(わいのひと),:穢の字は「汚らわしい」、「けがれ」という意味で、濊の当て字ともされます。中国ではhuiと読み、きたない、みにくい、という卑下語ですが、書紀・継体7年夏6月、には今州利は将軍と書かれています。百済から見て穢人とは靺鞨部(濊族)、あるいは黄龍部の人という意味になるでしょう。百濟とは違う國人だが物部連(もののべむらじと)連合して伴跛国(はへのくに)すなわち新羅と戦っていた将軍であることは確かです。穢人(わいのひと)が出身つまり本貫を示すとしたら、高霊(大加羅)か安羅国の将軍と見るべきでしょう。「漢人あやびと」、「安羅あら」、任那の人に転じるのでしょう。

継体10年秋九月の条)
継体七年六月に百済、姐弥文貴将軍・州利即爾将軍を遣して、穂積臣押山〔百済本記に伝はく、委の意斯移麻斯弥といふ。〕に副えて、五経博士段楊爾(だんように)を貢る。別に奏して伝さく、「伴跛国(はへのくに)、臣が国の己汶(こもん)の地を略み奪う。伏して願わくは、天恩ありて判りたまひて本属に還したまへ」とまうす。
継体9年春二月に物部連毛野臣が500隻の船で己汶(こもん)を救うために任那に行き、伴跛国と戦いますが、急襲を受けて敗戦してしまいます。命辛々半島南岸のある島に逃げて留まっていました。10年夏百済の木刕不麻が駆けつけて物部連毛野臣を救済します。この木刕不麻が日本に渡来して蘇我氏になったのですが、真実とはとは奇なるものですね。あまりにも奇だと、歴史にはならないのです。
継体天皇10年秋九月に、百済、州利即次(ツリソシ)将軍を遣(ま)だして、物部連(毛野臣)に副えて、己汶(こもん)の地賜ることを謝(かしこまり)もうす。別に五経博士漢高安茂(あやのかうあんも)を立て貢(たてまつ)りて、博士段楊爾(だんように)に代えむと請う。請(もう)す依(まさ)に代ふ。・・・」
こうして、毛野臣は継体10年秋、州利即次(ツリソシ)将軍とともに、いったん日本に戻りました。
この状況を磐井が様子を見ているだけで筑紫から救援に動こうとしません。
継体21年、この年、毛野臣が再び六万の兵を率いて南加羅・己汶(こもん)を奪還に向かおうとします。継体21年に磐井は、まさに毛野臣が半島に向かおうとするときに毛野臣の父物部大連麁鹿火日(あらかひ)に倒されます。



《継体天皇》6年冬12月条「大伴の大連金村、四県割譲を百済の使いに勅宜しました。継体10年に、百済の洲利即次将軍が物部連に伴われて日本にやってきます。毛野臣が己汶=喙己呑 (とくことん) から新羅を追い出したことへの謝礼の来朝です。こうして《隅田八幡神社人物画像鏡》が日本に持ち込まれたのは継体10年なのです。
こうして癸未年八月日十大王年を癸未年八月日は語順をかえて大王十年と読むべきなのです。
この年は501年から523年の武寧王在位中のことだと分かります。男弟王とは継体天皇、、そして物部連が毛野臣ですから、継体10年は癸未年503年となります。
527年(継体21年)は年表上はの磐井の乱は525年になるでしょう。毛野臣が六万の兵を率いて渡韓し、南加羅と喙己呑 (とくことん)を新羅から奪い返したのが継体21年(527年?)とされています。西暦に移し替えると、鏡が来た503年と527年の事の年代が時系列にそっているとはいえません。

この時期には、興味深いことが記されています。継体7年秋、「百済の太子淳陀薨せぬ。」 高野朝臣新笠、桓武天皇の生母、続日本紀延暦8年12月28日条:「皇太后は和氏、諱は新笠(にいがさ)、・・・后の先は武寧王の子淳陀太子より出ず。」延暦は桓武天皇の代の年号。即位の翌年の天応二年(782年)八月一九日改元。延暦八年とは(789年)
斯麻は嶋王で、武寧王(ぶねいおう)のこと。501年に百濟王に就いた。その子が淳陀で太子の時に死んだことが分かります。
「意柴沙加宮」は、読みでは「おしさか」となり、奈良の「忍阪(おしさか)」、桜井市忍坂~栗原にかけての地域あった。

通訳:
「癸未(503年)大王十年八月日男弟王(オオドノ王)が忍坂宮(おしさかのみや)(奈良県桜井市忍阪)に居られる時に、嶋王(=武寧王)が長く仕え奉ることを念じ、加不至費直将軍(「百済本紀」)と濊人の大加羅の州利即爾(ツリソニ)将軍を遣わします。(527年)尊き所(朝廷)にて二人の申し上げることと同じくこの銅鏡二百旱をかけて作ったこの鏡をお取り上げください。」
解説:
この鏡は武寧王が百済王になった1、2年後(503年)にまだ日本にいたころの嶋王が主語となり、527年ごろ物部連毛野臣が百済の将軍と伴に日本に持ち帰った品物です。百済からの謝礼の貢献品です。受け取ったのは男弟王(オオドノ王)こと、継体天皇に比定できます。
 武寧王は473年前後に軍君崑支が日本に逃避してきたときに蓋鹵王の庶子として東松浦加唐島で誕生しています。男弟王(オオドノ王)が忍坂宮で軍君崑支の養子として育てられたのが嶋君だったと考えられます。武寧王はおよそ30年間日本で成長し、牟大こと東城王が暗殺されたのち、日本から百濟に向かい百濟王になりました。男弟王(オオドノ王)は軍君崑支になるでしょう。牟大こと東城王は書記では引用では末多王とし、武烈天皇に比定できます。(武烈天皇4年(502年)史書『百濟新撰』の引用)では、「琨支(こんき)倭に向かう」とあり、また、末多王は斯麻王の異母兄と書きます。継体が応神天皇五世として近江から迎え入れられてから伊波礼玉穂宮(いわれのたまほみや)の正宮に遷宮するまで二十年かかったとされていますが、百濟王族であった軍君崑支が斯麻を送り込み百済王につけたのですから権力があったことは肯けます。こうしたことで継体の宮である伊波礼玉穂宮(いわれのたまほみや)が忍坂宮の美称であろうと推定できます。継体天皇とは武寧王の若き頃が投影されています。
 さて軍君崑支に五人の王子がいたと考えます。では軍君崑支は継体天皇に比定してみますと、五人の子が日本を分治したのでしょう。第一子を広國押武金日天皇(安閑天皇)に比定、第二子を宣化天皇に比定、第三子を嫡子の欽明天皇と比定できます。いずれもオオドノ王=軍君崑支の養子=継体天皇の子に比定。三代に数えられますが並立していたと思われる根拠です。こうした崑支の子並立していたと考えられます。嶋君は蓋鹵王の落し種ですから天孫直系だったのです。


韓半島にある前方後円墳の分布図

 これはある人の説です。「倭人文化は南方的であり、弥生人の元は中国江南の人が日本と朝鮮半島南岸(伽耶地方)に来て住み着いたと考えられる。」・・・
ここまでは異論はありません。弥生文化が倭人の文化だというのは当然のです。
さて、これを踏まえたうえで、それから続く説にはうなずけません。

「倭の五王時代でも中国の文献は倭が朝鮮半島の南を支配していたことを示している。『日本書紀』に大伴金村が百済に4県を割譲した記述などがある。これらから倭人によって前方後円墳が築造されたと考えるのが妥当である。」・・・この主張は実は、真逆なようです。これからすこし説明します。

倭人文化が江南由来であることは正しいのですが、倭人が朝鮮半島を支配していたというのはおかしいのです。この説では前方後円墳が倭人の文化だとストレートに思い込んでいますね。この人の頭では、倭人とは民俗的に統一された後の日本人の総体人称なんですよ。古代の倭人のイメージではないのです。日本民族主義的な方々の倭人観ですね。倭人とは弥生文化の主流な民族だったのは確かでしょう。
これらの前方後円墳は日本に侵攻した武将たちが本国に帰還して、亡くなったことで作られたのです。これはそれらの武将の屯田地でしょう。まあ、だいたいが百済の領域だというのは否定できないでしょ。

 吉野ヶ里から甕棺が激減したのは弥生後期、1世紀半ばです。西暦50年から100年の間ですから、朝鮮の勢力が九州を攻略しはじめたのもこのころと見なすことができます。そして、2世紀の前半には弥生人は人口激減し、消滅の危機に瀕したものと思われます。こうして村から国にかわるとき、弥生人は迫害され、百済の侵入者によって支配されました。吉野ヶ里の南内郭で物見櫓(やぐら)が建てられたのは二世紀の中頃です。その100年後、前方後円墳が現れます。卑弥呼の3世紀半ばから4世紀前半です。ただ、前方後円墳だと上記のように倭人が作ったものではないと断言できますが、甕棺墓制となると話は変わります。金管駕洛国と九州北部の甕棺は同じです。 甕棺墓は朝鮮の墓制なのか、日本から転移した墓制なのかという問いが生まれます。甕棺墓制は青銅器時代の始まりと共に盛んになり、後に朝鮮南部地方で支配的な墓制となっています。参考になるのは、金海国立博物館には後漢から送られてきた銅鏡が展示されています。全羅南道羅州郡(ちょるらなんどらじゅぐん)、嶺安郡、咸平郡、光山郡(りょんあん、はむぴょん、ぐぁんさん)などに多く分布していて、日本では福岡県、佐賀県など北九州一帯で数多く見られます。


巴型青銅器と鋳型(右) 吉野ヶ里出土
 巴型青銅器は盾の前面に3個ぐらい付けられた付属品。それ自体は武器にならないので飾りのようですが、盾の重量を増す、あるいはバランスをとるために使われたと推測します。

 とくに「金海式甕棺墓」(きむへしきかめかんぼ)と呼ばれる墓制は、朝鮮の「コマ形土器」から変化した「甕」を棺として用いたもので、「金海」に代表される朝鮮西南沿岸地方のものがあります。北九州一帯の甕棺にもツボ形の甕棺がありますから、どちらが甕棺のモデルが先に作られたのかは正直なところ分かりません。
市飯倉遺跡、板付遺跡には、金海貝塚の甕棺出土のものと同じ様式のものとされる細型銅剣、銅鉾、銅戈などの青銅器が副葬されています。また、佐賀県唐津市宇木汲田遺跡の甕棺からは多鈕細紋鏡(たちゅうさいもんきょう)が出土しています。銅の溶解温度は1085度ですから、1000度以上の土風炉(窯)があって、はじめて弥生式土器と甕棺などが成立したものと推察します。弥生後期の吉野ヶ里では銅製品の鋳型(いがた)も同時に出土します。ですから、吉野ヶ里の銅剣などは私の定義でいう倭人が製造したものです。いわゆる卑弥呼の鏡が500面も出土していて、中国にはないということからすると、卑弥呼の鏡は日本製だとしても、製造技術のレベルではぜんぜん不思議なことではないのです。こうして、金管伽耶にも倭人がたくさんがいたことになりますよ。結局、稲作伝搬ということでは日本の方がずっと早いわけですが、朝鮮半島との交流が盛んだったといえば、公式には八方収まりがいいということでしょうか。



 方保田東原遺跡(かとうだひがしばるいせき=熊本県山鹿市)は、弥生文化が長い間栄えたところですが、甕棺墓制が途絶えた4世紀前期、それから100年後に古墳が現れました。弥生の土器とは異質な古墳時代前期の土器が登場します。古墳時代の土器は様式が異なるだけでなく、弥生時代の土器よりも質が落ちていました。また、最も大きな巴型青銅器が出土しました。弥生文化と古墳時代の文化にはあきらかに断絶があるのです。
すると、読めてくることは弥生人たちは蝦夷(えみし)、または九州なら土蜘蛛として討伐された村人だったのです。日本書紀からみると、村人は蝦夷とか土蜘蛛(豊国)とか書かれています。朝廷軍から蝦夷は入れ墨をした輩と蔑視されているのです。彼らが倭人である証拠は入れ墨でした。入れ墨をしていたので一目瞭然、逃れようがありません。侵入者、彼らには奴隷制がありましたから、弥生人はまたたく間に奴婢(奴隷)にされてしまいました。非道なことに、男がすべて殺され、女は孕まされたとしたら、混血した子孫しか生まれてきません。女ばかりで男がいない国と書かれています。三国志東夷伝序文に「純女無男」書かれているような状態が実際にあったのでしょう。

景行紀『二十七年の春二月の辛丑の朔壬子に、武内宿禰、東国より還て奏して言さく、「東の夷の中に、日高見国有り。其の国の人、男女並びに椎結け身を文けて、為人勇み悍し。是をすべて蝦夷と曰う。』
        日高見国は多賀城のような感じがします。参考まで;

 九州の弥生人が生き残ったとしても、いつのまにやら命を救ってくださるでけでも有難いと思ったのかもしれませんね。成人男性は皆殺しされますから、大方の倭人が混血種になってしまったのです。九州には神社や御陵がたくさんあるのですが朝廷の権威を見せつけるばかりでなく、半面、鎮としての役割があったのでしょう。魏志倭人伝では大率(長官)が通る際、通りがかりの人々の様子が書かれています。道の両端で両手を地面について平伏していたのです。こうした人々が奴隷階級に落とされた倭人、蝦夷だったと思われます。結局、騎馬民族征服王朝説は大きなカテゴリーにおいて間違っていないと言っていいでしょう。
なぜなら、上の図のような韓国にある前方後円墳は6世紀前半に造られたからです。韓国にある前方後円墳が倭人(江南倭人)が作ったというのは勘違いしているのですね。
こうしてみると、朝鮮半島の前方後円墳は日本から帰還した百済の武将たちの造った古墳と考えるのが妥当でしょう。
武寧王と一緒に里帰りした百済の武将たちではなかったのだろうか・・・武寧王即位が501年ですから、百済の前方後円墳は6世紀中ごろになるはずです。

*蒙古斑とはあまりいい印象がもてませんが、英語では”Mongolian blue spots”といい、ドイツ人のエルヴィン・フォン・ベルツが日本で発見したといわれています。蒙古斑がモンゴルでも中国でも、朝鮮半島でもなく日本で発見されたというのは面白いですね。蒙古斑がヨーロッパ人にはないことからモンゴロイドの特徴と考えられたのですが、有色人種の特徴のようで、蒙古斑がステレオタイプに日本人の特徴とは言えません。モンゴル人のばあい、95%、東アジア50%、ヒスパニック系40-50%、インド・ヨーロッパ語族で1-10%と言われているそうです。インド・ヨーロッパ語族というのはアーリアン種族ですが蒙古斑がありません。インド人の中にはドレヴィダ系の人種もいます。さて、人種的特徴として倭人を考えると、日本人には中国や朝鮮にはない、いわゆるDタイプDNA、縄文DNAといわれていますが、古ネグロイドの遺伝子がミックスされています。そこで、倭人という概念でひとくくりできる人種はいません。倭人は縄文人、弥生人、朝鮮系渡来人の3種族からなりたっています。そこで、弥生人が中国南部の種族(いわゆる稲作をもたらした江南の民)であるかどうかが争われているのです。骨相学、文化的特徴などの文化人文学のカテゴリーで、おおよそ証明されているのではないかと思われますが、縄文人と弥生人とが区別できるのは以下のDNAの研究によって明らかになってきました。

TOPIC:最近、国立科学博物館(筑波) 人類研究部 神澤秀明氏が縄文人の歯のDNAをサンプリングした。ここから一挙に日本人の DNA解析が進んだ。国立遺伝学研究所(静岡・三島)の斎藤成也教授は日本には中国・韓国にはない縄文人特有のDNAが約32%の比率で存在するということが分かった。縄文遺伝子とは男性特有のY遺伝子のパターンでDに分類される遺伝子で、男性から男性へと遺伝する。ミトコンドリアDNAが女性から女性へと遺伝するのに対して、男性のみに遺伝するのだそうだ。
Y染色体でみると、日本人はC1系・C3系・D2系・O2b系・O3系の五つのタイプによって構成され、そのうちD2系・O2b系・O3系が強く、この三者で8割を占めるが、一万数千年前には、朝鮮半島を経由して流入した縄文系のD2(旧渡来系)と南方から流入したスンダランド系(南方オーストロネシア系)のC1系との混交が九州で起きて、このときに日本祖語の基礎構造(ツングース系とオーストロネシア系の混合)がすでにできあがっていた。
そのあと稲作と新しく流入してきた弥生人のO2b系とO3系は、中国江南系で、その後、現在の、これがすなわち朝鮮半島からの新渡来系で、朝鮮人の主要な部分を構成する。彼らは新旧渡来系共通のツングース系文法に助けられて、日本語を比較的たやすく受容できたようだ。なお縄文系のD2は現在、朝鮮人の4%を占めるに過ぎない。徳島大学大学院 医歯薬学研究部 佐藤陽一准教授は2000人以上の日本人男性のY染色体を調査した。D遺伝子が中国・韓国ともに、ほとんど見られないことから、日本固有の遺伝子と判断、それが前16000千年前から前1000年ぐらいに列島に生活していた縄文人であるというわけだ。前1000年後、周や春秋時代に弥生人が渡来し縄文人を圧倒して今日に至るわけだ。Y染色体のDNAはAからTまで20タイプに分岐しているが、Aがもっとも古く初期であり、Dは4番目に古い。比較的縄文人のDNAは古い部類にはいる。今日、Dタイプの遺伝子が濃厚な地域はチベット、アンダマン諸島など少ない地域に限られている。(本編倭人とは;より)

〔Twit/:縄文人がそもそも大陸系種族と南洋黒潮種族との混血種族だったということですね。弥生時代は新渡来人が入ってきた過渡期ですね。縄文人と稲作渡来人が仲良く?生活していたようですが、弥生後期に朝鮮人が亡命侵入してきて弥生人を奴隷にしてしまいました。こうして古墳時代に入ったのです。私の物語、大雑把な歴史観は、こんな感じです。:/Twit〕


九州はおおよそ3波の種族が混在している
 縄文人、弥生人、扶余人です。

*原をバルと読むのは九州の方言ですがなまりではありません。「前原(まえばる)」、「春日原(かすがばる)」、「西都原(さいとばる)」、東国原を(ひがしこくばる)など のように原をばると読むのは全国で99箇所あり、そのうち何と97箇所が九州と沖縄に集中しています。原をバルと読むのは 朝鮮語とのピジン語です。本当は芦原中津国は「あしばるなかつこく」とルビをふるべきだったのでしょう。古代の朝鮮では「原」をボルと発音しています。下の物語は北扶余から東扶余が分離した経緯ですが、扶余の王権が発生した地は迦叶原(カソボル)と呼んでいました。

北扶余(紀元前239から紀元前58)は、天帝の子・解慕漱(ヘモス)>が6年間遠征して紀元前239年に創建された。
>紀元前195息子の慕漱离は領土拡張をなし、紀元前170年、高奚斯が第三代王となり、引き続き拡張主義を継承した。
紀元前121に、四代長男高于娄の死の後の紀元前86年まで存続した。
>紀元前86年、高于娄の兄弟、解夫婁(ヘブル)が北扶余を継承したが、一年過ぎると、(高)豆莫に王位を奪われる。
宰相の阿蘭弗が扶余王解夫婁(ヘ・ブル)に「天の神の子孫(解慕漱の直系子孫)がいずれ国を作ります。東海に迦叶原(カソボル)という地があり、そこは五穀が良く実ります。ここを離れ、その地に都を遷してください。」と進言し、解夫婁はその地、迦叶原(沿海州の近く)へ逃げ、東扶余を建国した。
原、は現代韓国語では原 원 ウォンですが、古扶余語ではボルです。もっと詳しく知りたい方はこちら、このサイトでは、なんと分布図をつくって、います。熊本中部と南部にバルが少ないので、この地域が女王国連合じゃなかった・・・ということに言及。・・・てなことで狗奴国じゃないかとしています・・・。もう一つのピジン語候補は「伐」です。ポルと読み、村落を意味するという説がありますが、わたしは三国のうち百済語では城の意味だと過去に書いたことがあります。

■馬韓の鉄と七枝刀

 『神功皇后紀の「谷那鉄山」(こくな)はどこだろう。「神功皇后紀」46年条で、百済の肖古王が斯摩宿禰(しまのすくね)の従者である爾波移(にはや)に「鉄鋋(ねりがね)40枚を与えた」とある。また、神功皇后摂政52年に9月に「七枝刀一口・七子鏡一面」が送られている。この時、日本から来た千熊長彦に賜った。「源は谷那(こくな)の鉄山で、その河口は徒歩で7日かかるほど長い川となっている。この水を飲み、この山の鉄をとって、倭王に献じる」、これは、百済が谷那(こくな)の鉄山を馬韓から略奪したということで、西暦360年頃になる。』(抜粋)
みなさん、石上神宮の七枝刀は、朝鮮の谷那(こくな)の鉄で作られていたのです。

谷那の鉄山はかなり大きな河(郁里河=現・南漢江)の水源にあたるソベク山脈の月山岳の周辺にあったのです。この地域は馬韓の国の一つであり、百済という小国が馬韓との戦争に勝利してこの谷那の鉄山と鍛冶場を占領したのです。その経緯から、戦勝記念として、谷那の鉄で七枝刀を作った可能性が高いといえます。さらに、日本との鉄を交易を独占するが、日本に引き続き供給するという宣告だったのだろう。要するに鉄の交易を日本に保証する意味をこめて、七枝刀や鉄鋋を賜ったのでしょう。また、百済肖古王とは、実は百濟王統譜では近肖古王でにあたります。谷那の鉄山に侵攻した混乱で、逆に、伽耶は鉄の入手が困難になり、危機に陥ったのです。
伽耶からみれば、洛東江の上流にもあたる谷那の鉄が遮断されると、金官伽耶盟主国の王は財力を失い、伽耶の連合が脅かされることになります。このときから、伽耶の鉄の質が落ちた?。谷那の鉄山は馬韓の王、次に百済王、次に新羅王の支配と替わりました。伽耶は馬韓と対立しては鉄が届かない。その後、百済に忠信をしめして、新羅に反抗しました。しかし、212年に伽耶は新羅に王子を人質を差し出しています。伽耶が窮地に陥ったのは、馬韓王がしだいに追い詰められ、枕弥多礼国(チンミタレグ)現・全羅南道の光州まで逃げ込んだのですが、新羅に人質を出したのは、百済を牽制する意味でしょう。肖古王から(166-214)近肖子王(346-375)の南征で滅亡するまで、およそ120年間、馬韓の王統は続いていたと見なければなりませんが、百済と新羅との国境争いは、この鉄山の争奪戦であった様相が見えてきます。(七枝刀とは王族のみが拝受できる性格の神器ですから、倭国にいた百濟王族が受け取ったと考えるのが妥当でしょう。石上神宮に奉納されていますが、七枝刀とは物部の祖で受け取ったとされますが、百済の王族という毛並みの人物に比定すべきなのです。日本側では百済から来た王子を人質といいますが、百濟からみれば屯(檐魯・属地)に派遣した王族なのです。)

谷那の鉄山の鉄

谷那の鉄山の位置、①のバルーン

http://www.kingchin.jp/10_J.html摩多羅神はどこから来たのか? ~ダビデの子孫~第十章 ダビデの星の正体 ○金首露(キム・スロ)の誕生譚より一部抜粋 改稿


吉野ヶ里の鳥居の鳥の原形は?

吉野ヶ里遺跡の歴史公園では、復元された環壕集落の入口の門をはじめとして、主要な高床式の建物などの軒飾りに鳥型の模型が取り付けられています。
これらの鳥の模型は、託田西分貝塚遺跡の出土例をベースにして作成されています。詫田西分遺跡は当時の有明海海岸線付近に営まれた拠点的な集落跡です。出土した実際の鳥形木製品をみています。
<詫田西分遺跡の鳥形木製品>



続けて、韓国の国立金海博物館にある鴨形土器を見ていただきます。下:
<鴨形土器>国立金海博物館展示物


木製と土器の違いはありますが、形があまりにも似ています。吉野ヶ里で鳥形を見たとき、はじめ水鳥のようだなと感じましたが、鴨(かも)といったほうが実感がわきます。どちらの日韓の遺跡も、古代では渡り鳥の飛来地にあったことに気づきます。それは有明海の沿岸の湿地帯と、釜山にあります洛東江河口の乙淑島です。

釜山広域市江西区鳴旨洞一帯は、以前、東洋最大の渡り鳥飛来地(天然記念物第179号、1966年指定)でした。しかし、東江河口堰ダムの完成と無分別な葦畑の破壊により、ここを訪れる 渡り鳥の数は大きく減りました。


中国水鳥
中国山東省聊城市(りょうじょう)東阿県曹植墓1951年出土
土製 三国時代(魏)三世紀

鳥居の原形は中国古代の鳥居と同じですが、鳥の原形は地元の鳥ではないでしょうか?また、湿地には葦(あし)が密集していたようです。葦は茅ではないか?専門家はどうでしょう。
吉野ヶ里には貝輪などは明らかに南洋諸島の習慣もみられます。ミックスしているのです。

中国の双闕(そうけつ) 下の図版は吉野ヶ里の郭門の見本となりました。
出典はいまのところ私にはわかりません。


アカ族の鳥居型の門

この「門」には、木製の鳥が数羽載せられています。
アカ族はタイ、ラオス、ミャンマー、中国雲南省にかけて住む少数民族です。


チェンマイから北方、標高1200mの山岳地帯ににアカ族の村があります。ここの老女は、なんとお歯黒をしています。村の人々は精霊を敬い、悪霊を畏れる伝統的な生活を今も送っていて、シャーマンも健在しています。村の入り口には鳥居(ターレオ)があって、横木にはひごの輪を鎖状にしたしめ縄がくくられ、上の横木の上には神の使者である鳥が付けられています。素朴な鳥居の原形と言われていますが、たしかに付属品が揃っています。タイ山岳民族の主流のシャム族にも鳥居(ターレオ)があり、バンと呼ばれています。また、村々の入り口には、男女対になったリアルな性器の木造が悪霊を退治するために置かれているのですが、例えれば、日本の双体道祖神によく似ています。日本では性器をかたどった*塞の神(さへのかみ)です。チベット・ビルマ語圏にあり、アニミズムと祖霊信仰をもっていますが、文字をもっていません。民家はわらぶき屋根で、高床式です。高地にもかかわらずどうして二階建てなのでしょうね。タイの東北部の民家はたいがい高床式で、床下はニワトリの運動場になっています。なにか、日本の源風景があるようです。越人はざんばら髪で、身体に入れ墨をしていた」という漢書の記述どおり、越人=倭人、このイコールの部分は入れ墨の風習です。入墨の風習があった少数民族は、雲南からタイ東北部にかけてのワ族、ラフ族、リス族、リー族、タイ族、シャン族、カレン族、それにチベット族など多数に及びます。入れ墨は身分格式があって、入れ墨の形を見れば、「ああ、あすこの長者のボンボンだよ」とか、すぐに分かったそうです。彼らは交通の便のよくない山岳地帯という辺地に暮らし、辺地なるがゆえに、日本では薄らいだ古代の信仰や習慣をずっと色濃く保ったのでしょう。現在は観光で収入を得て生活し、テレビや冷蔵庫もあるようです。環境が変わり、若い人はほとんど入れ墨をしていません。もともと彼らも中国の越地から亡命してきた部族と伝えられ、それが14世紀ごろだとすると元のフビライハンの襲来から逃げてきたのでしょう。妊娠した女ばかりが集団でやって来たこともあると言われています。鳥居が結界(けっかい)の意味があることは、村村の入り口におかれることで理解できますが、中国の双闕なのか、あるいはオベリスクなのか、あれこれ考えても、なぜ鳥が神の使いなのか、よく分からりません。そういう意味では、日本の神社の鳥居もなぜ鳥居というのかよくわかりませんね。ターレオが日本の神社の鳥居の原型かどうかは判断できません。
シンボルはリアルだということですが、思わずうなってしまう鳥居を紹介します。


アカ族のターレオとここが似ています。
上段の横木が左右とも反りあがっている。
しめ縄の垂れ下がり方がそっくり。


 HOME-TOPへ
NO963_55・・・・


_