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後・倭王の話。百濟滅亡まで。

倭の五王は東城王が最後の五王の倭王武にあたり、東城王には日嗣がいないため、日本から王にすべく、嶋君を呼び寄せることになった。(ムリョンワン)在位501-523年からのまとめをこれから書くことにする。おおむね、小著・卑彌呼Xファイルからの引用で、修正加筆してのせることにした。この時代には朝鮮史では日本を倭国ともっぱら呼称しているようになっている。4世紀半ばに書かれた魏志倭人伝の倭国とは実態が変遷していると見ることが大事である。

   後・倭王の話。百濟滅亡まで。 日本書紀および考古遺物関連 
 第21代蓋鹵王・諱 慶司(455年ー475年)[餘慶] 倭王済
蓋鹵王18年(472年)北魏に高句麗出兵を乞う上表分を北魏(孝文帝)に送るが、高句麗も貢献しており咎がないとして、百済の要請を拒否。蓋鹵王はこれを恨んで北魏への朝貢をやめた。
蓋鹵王21年(475年)巨璉(高句麗・長寿王)は3万の兵で漢城を包囲、蓋鹵王は誅殺される。

 書紀雄略天皇紀5年条では、蓋鹵王が側室に産ませた子で混支に預けた子であることをはっきり記事にしている。出自は混支に一妃をもらい下げたのだが、混支はありがたく名誉に感じてこの姫を妻にした。『三国遺事』王暦では『三国史記』と同じく、諱を斯摩とするが書紀の嶋君を引用しているのだろうか。ところが、『三国史記』百済本紀・武寧王紀によれば先代の牟大王(東城王)の第二子であるとする。これも王統に傷をつけないための文官のごまかしだろう。武寧王には出生の秘密があったのだ。武寧王は41歳に至るまで日本で生活しており。502年に百済王に即位した。中国史では、再び百済王の姓が牟氏から余氏に戻っているのである。
中国の呼び方では、蓋鹵王を余慶、文周王を牟都、東城王を牟太とし、二代続いて王妃系の姓で牟氏が続くが、武寧王になって余隆となり、余氏に戻っている。蓋鹵王の一族もろとも殺され、文周王も東城王も暗殺されるという大混乱である。蓋鹵王で百済の日嗣(ひつぎ)が絶えたというのは事実のようである。その後蘇我稲目になって百済王室から逆賊扱いにされることになったと思われる。中臣鎌足は蘇我を誅殺する密命をもって日本に遣ってきた王族の一将軍だったのだろう。藤原の家系図の出自を神代に繋(つな)ぐ捏造したのは藤原不比等であろう。

筑紫の各羅嶋(東松浦半島の沖合に浮かぶ加唐島)で生まれたので嶋君と呼ばれた。

雄略天皇紀5年条に、「百済の加須利君(蓋鹵王)が雄略天皇に池津姫を嫁がせるも、石川麻呂と不義が発覚して焼き殺される。この失策を挽回しようと、弟の 軍君昆伎王を倭国に人質として送る際、一婦人を与えて、途中で子が生まれれば送り返せと命じた。一行が筑紫の各羅嶋まで来たところ、一児が生まれたので嶋君と名付けて百済に送り返した。これが武寧王である。」としている。軍君昆伎の子が蘇我万智で、嶋君は蘇我万智と一緒に育てられた可能性はある。
蓋鹵王は 嘆いてこう言った。「娘を倭王に嫁がせたが、しかし無礼にも我が国の名を貶めた。倭王は百済のことをすっかり忘れてしまった。もう政略結婚はこりごりだ。(池津姫の事)いま、側室で妊娠している女性を嫁せるから、琨支よ、一緒に日本に行ってくれ」、                これは倭王との政略結婚が効を失っているので、しっかり百済を支えるようにとの密命をあたえたのである。妊娠している婦の名前は分からないが側室か王妃の一人であるようだ。産み月に当たっていたので、もし子供が産まれたら、その子を「速やかに国に送らしめよ」と命じた。筑紫の 各羅嶋で子供が産まれたので「嶋君」と云う。島君が40歳に何なんとする頃、ようやく蘇我万智は東城王に替えるべく船に乗せて嶋君を百済に送り返す。武寧王は故に書記では「斯麻王」と書く。嶋君は実に40歳余りまで日本で暮らしていたのだ。

*池津姫の事件
*池津姫:慕尼夫人(むにはしかしの娘)を飾らせて適稽女郎(ちゃくけいえはし)と呼び、(雄略)天皇に奉った。池津媛は雄略天皇がまさに召そうとしたときに、石川(いしかわ)楯(のたて)と姦通した。天皇は大いに怒り、大伴室屋大連に詔して来目部(くめべ)を使い、夫婦の四肢を木に張りつけて桟敷の上に置かせ、火で焼き殺させた。(日本書紀 雄略天皇二年七月)】

辛亥年七月中とあり、この干支年471年、埼玉県行田市にある埼玉稲荷山古墳(さきたま・いなりやま・こふん)から出土した鉄の剣(つるぎ)
日本書紀巻14/雄略天皇(480年ごろか)
日本書紀巻15/清寧、顕宗、仁賢天皇

日本書紀 巻第十四 大泊瀬幼武天皇 雄略天皇
五年夏四月、百濟加須利君蓋鹵王也、飛聞池津媛之所燔殺適稽女郎也而籌議曰「昔貢女人爲采女而既無禮、失我國名。自今以後、不合貢女。」乃告其弟軍君崑支君也曰「汝宜往日本、以事天皇。」軍君對曰「上君之命、不可奉違。願賜君婦而後奉遺。」加須利君、則以孕婦嫁與軍君曰「我之孕婦、既當産月。若於路産、冀載一船、隨至何處、速令送國。」遂與辭訣、奉遣於朝。六月丙戌朔、孕婦果如加須利君言、於筑紫各羅嶋産兒、仍名此兒曰嶋君。於是軍君、卽以一船送嶋君於國、是爲武寧王。百濟人、呼此嶋曰主嶋也。秋七月、軍君入京、既而有五子。百濟新撰云「辛丑年、蓋鹵王、遣弟昆支君向大倭侍天王、以脩兄王之好也。」

 日本書紀 巻第二十七 天智天皇紀
冬十月丙午朔乙卯、天皇、幸藤原內大臣家、親問所患、而憂悴極甚、乃詔曰「天道輔仁、何乃虛說。積善餘慶、猶是无徵。若有所須、便可以聞。」對曰「臣既不敏、當復何言。但其葬事、宜用輕易。生則無務於軍國、死則何敢重難」云々。時賢聞而歎曰「此之一言、竊比於往哲之善言矣。大樹將軍之辭賞、詎可同年而語哉。」
 第22代文周王(475年ー477年 倭王興 
蓋鹵王が王位につくと上佐平となり、王を補佐。実質的には摂政だったと思われる。
 
 第23代三斤王(477年ー479年    
 第24代東城王・諱牟大(479年ー501年)  倭王武 日本書紀巻16/武烈天皇(500年ごろか) 
25代武寧王(ムリョンワン)在位501-523年  後・倭の五王
『三国史記』百済本紀・武寧王紀によれば先代の牟大王(東城王)の第2子であり、諱を斯摩、分注では余隆とする。『梁書』では余隆(徐隆)(余(徐)は百済王の姓)。
『日本書紀』雄略天皇紀5年条では、加須(かす)利(り)君(のきみ)こと第21代蓋鹵王の弟の軍君昆伎王に妊娠中の夫人を娶(あわせ)た後の子です。生まれたところが各羅島(呼子の北西・加唐島(かからしま))だったので名を嶋君とする。また、武烈天皇紀4年条では『百済新撰』の引用として、末多王(東城王)の異母兄の混支王子の子、名を斯麻王、としながらも、「末多王(東城王)の異母兄というのは不詳であり、蓋鹵王の子であろう」としている。蓋鹵王が非業の死とともに世子がなく、あえて王后の弟である分周が王に立った。宋書の牟氏、これは百濟の貞氏のことであろう。ところが、日本に蓋鹵王の落とし種が一人いたというのである。嶋君である。だが、出自に諸説あることは、何らかの断絶があったことを浮き彫りにしていると見たほうがよさそうである。この妊娠していた女性は、嶋王の母であり、かつ、崑支の子たちの母でもあったわけで、母の名前は日本名になって、蟻臣(ありのおみ)の女(むすめ)の荑媛(はえひめ)です。弘計(顕宗天皇)の母として記されています。
武寧王(ムリョンワン、462年 - 523年)は、百済の第25代の王(在位:502年 - 523年)。『三国史記』百済本紀・武寧王紀によれば先代の牟大王(東城王)の第2子であり、諱を斯摩、分注では隆とする。『梁書』では余隆(徐隆)(余(徐)は百済王の姓)、『日本書紀』雄略天皇紀5年条では、加須利君(かすりのきし、第21代蓋鹵王)の弟の軍君昆伎王の子、名を嶋君とする。また、武烈天皇紀4年条では『百済新撰』の引用として、末多王(東城王)の異母兄の混支王子の子、名を斯麻王、としながらも、「末多王(東城王)の異母兄というのは不詳であり、蓋鹵王の子であろう」としている。『三国遺事』王暦では『三国史記』と同じく、諱を斯摩とする。 武寧王は26年間、倭国で生活。502年に百済王に即位。筑紫の各羅嶋(かからのしま・加唐島)生まれたので嶋君と呼ばれた。蓋鹵王が亡くなったのは475年9月ですから、476年に日本で誕生、だいたい26歳になるまで日本で成長したことになりますが、とうぜん后は日本で迎えたと思われます。武寧王陵は王妃との合葬墓として朝鮮ではほかに見られないことや、棺が日本の日本の固有種である高野槙であることなどから王后は日本人だった可能性があります。この武寧王の后とはいったい誰なのでしょうか。
わたしは、日本書紀から嶋をキーワードにして、武寧王の后が誰なのか、探偵してみました。

■武寧王陵の后は。春日大娘皇女。
*春日大娘皇女(かすがのおおいらつめのひめみこ、生没年不詳)は、記紀に伝えられている皇族。 書紀での高橋大娘皇女。 書紀での朝嬬皇女。 書紀での樟氷皇女。

武寧王陵の棺は1400年以上を耐えた唯一の木棺である。その木棺のかけらを採取し研究した結果、クスノキ(こうやまき)であることがわかった。 こうやまきとは、その種類が世界でも一種しかない、日本南部の特産物であり、高野山に自生している日本固有の種である。艇止山(ジョンジサン) という山で、大型遺跡が発見された。武寧王妃の墓誌に記されていた「王と王妃の陵」と一致していた。これにより武寧王と王妃は亡くなってから、艇止山で3年間安置されていたことが分かった。羨道にあった誌石(墓碑)に墓地を神から買い取るための「買地券」の記録が残っていた。その誌石に、「斯麻王」(しまおう)と文字が刻まれていたため、この墓は百済第二十五代武寧王(在位502~523)の陵墓と確定した。嶋王がキーワードだったということは、日朝とも日本から来た人物であることは認めているわけだ。
誌石からみて、武寧王は523年5月に死亡して525年8月に王陵に安置され、王妃は526年11月に死亡して529年2月に安置された。そして閉塞用の磚のうち「士壬辰年作」の銘文磚は、王のなくなる11年前である512年に、既に築造準備がなされていたことを示しているという。
現在の王陵が王妃との合葬陵であること。横穴式の磚積石室はアーチ型の天井を持つこと。磚積石室棺が日本の自生樹木の高野槙(クスノキ)であること。金環の耳飾り、金箔を施した枕・足乗せ、冠飾などの金細工製品、銅鏡、陶磁器など約3000点近い玉遺物がみな百済産でないこと。王妃の玉類は勾玉や首飾りなどは日本の糸島の前原古墳の出土した玉とほぼ同じである。
そして、奈良県桜井市東南部から宇陀郡にかけて磚積石室墳墓(磚槨墳(せんかくふん))が16基ほど発見されているが、これらの磚積石室墳墓遺跡は非常に地域的にしか見いだされていない。桜井市の忍阪~粟原に分布する磚積石室墳墓は丁寧に薄く加工された石を積んでいる。そこで、嶋君(=オオドノ王)が忍坂宮(奈良県桜井市忍阪)に住まわれていたことがほぼ確実となった。
合葬陵とはそもそも王と王妃の姓が死後もことなったままの儒教文化にはない異国的古墳である。副装飾物も、すべてが豪華な舶来の墳墓なのだ。(花山西塚古墳(国史跡)/桜井市粟原)王后が日本人であることは推定の度合いを超えて確実である。だが、王妃の棺から、一片の親知らずの歯が見つかったという。考証では、年齢が15、6歳であった。その歯が王后の歯であるというならば韓国の古学者の捏造に他ならない。
問題は日本書紀です。
日本書紀では嶋郎という諱字(いみなあざ)をもった天皇がおられます。仁賢天皇、別名おわけのすめらみことです。
億計天皇 仁賢天皇(にんけんてんのう)
億計天皇(おけのすめらみこと)、諱大脚更名大爲。自餘諸天皇、不言諱字、而至此天皇、獨自書者、據舊本耳、字嶋郎、弘計天皇同母兄也。幼而聰頴、才敏多識、壯而仁惠、謙恕温慈。及穴穗天皇崩、避難於丹波國余社郡。白髮天皇元年冬十一月、播磨國司山部連小楯、詣京求迎。白髮天皇、尋遣小楯、持節、將左右舍人、至赤石奉迎。二年夏四月、遂立億計天皇、爲皇太子。事具弘計天皇紀也。五年、白髮天皇崩。天皇、以天下讓弘計天皇、爲皇太子、如故。事具弘計天皇紀也。三年夏四月、弘計天皇崩。
おけのすめらみことは、ただのみなはおおし、またのなはおす。もろもろのすめらみことにただのみなをもうさず。しかるをこのすめらみことにいたりてひとりみずからしせることは、ふるふみによれらくのみ。あざなはしまのいらつこ。をけのすめらみことのいろねなり。わかくしてさとくすぐれ、かどとくしてさとりおおし。をとこざかりにしてめぐみまし、くだりなだめやはらぎうつくしびます。あなほのすめらみことのかむあがりますにいたりて
、わざわひをたにはのくにのよざのこほりにさりえたまふ。
上記訓読を現代語にしてみます。
仁賢天皇は諱を大脚、さらに大爲という。ほかの諸天皇からこの天皇までは諱字をいわなかったが、この天皇はみずから書いたと旧本が伝える字は音読みで嶋郎であり、顕宗天皇の同母兄である。幼少のころから賢く、才能がはやくから芽生え、知識が豊富であった。穴穂天皇が崩御におよんで、丹波国の余社郡に避難した。

名前がいくつもあるので、嶋郎という諱で一つの物語にします。
嶋郎には兄があり、顕宗天皇です。この二人は同じ母から生まれた兄弟です。母は荑媛(はえひめ)といい、譜第(かばねついでのふみ・帝王日継とも言われる帝紀の類)は市辺押磐皇子が蟻臣(ありのおみ)の女(むすめ)の荑媛(はえひめ)を召して、三の男・二人の女をお生みなりました。(顕宗紀)その一人目を居夏姫といい、その二人目を億計王(嶋郎のこと)といい、更の名を嶋稚子(しまのわくご)といいます。その三人目は弘計王(おけいのみこ=顕宗天皇)といいます。更の名を来目稚子(くめわくご)といいました。その四人目は飯豊女王(いひどよのひめみこ)、またの名は忍海部女王(おしぬべのめみこ)、その五人目は橘王(たちばなのみこ)といいます。・・・蟻臣は葦田宿禰の子です。・・・穴穂天皇の三年、十月に天皇の父、市辺押磐皇子および帳内(とねり)佐伯部仲子(さへきべのなかちこ)の二人は、蚊屋野の地で大泊瀬天皇(雄略天皇)のために殺されました。二人とも同じ穴に埋めてしまいました。
雄略天皇が狩り場で嶋稚子の父を射殺し、従者ともども穴に埋めてしまったので、嶋稚子と来目稚子は父の遺体を葬ることができませんでした。二人の皇子は丹波の余社郡に逃げ隠れることになりました。

さて、嶋郎と弘計は母が同じです。同母兄とあります。ですがが違います。弘計は市辺押磐皇子の子と記されています。軍君崑支が父になるはずです。一方嶋郎は蓋鹵王の隠し子です。顕宗天皇と仁賢天皇の父は市辺押磐皇子とされています。市辺押磐皇子とは、いったい誰なのでしょう?穴穂天皇の御代におられたという市辺押磐皇子のことについては何も書かれず、一切不明です。
わたしは、市辺押磐皇子が嶋郎の父なら蓋鹵王だろうと考えます。蓋鹵王は高句麗の長寿王の襲撃にあって亡くなったのですから、書記の物語の作り方はそうとう乱暴なものです。
嶋郎は二月辛亥朔壬子、立前妃春日大娘皇女、爲皇后。春日大娘皇女、大泊瀬天皇娶和珥臣深目之女童女君所生也。遂産一男六女、とあるように、弟の后だった春日大娘皇女を娶りました。この女性は雄略天皇に仕えていた和珥臣深目の童女だったとされます。中国では深目鼻高とは印欧族の顔つきをいいますので、コーカサイド人であったと思われます。春日大娘皇女も深目鼻高のハーフ系の美人だった可能性があります。深目鼻高(西域人)ですから、その出自についておかしなところがあるに違いありません。Wikiによれば、・・・・
『日本書紀』によると、雄略天皇は采女の童女君がたった一夜で身ごもったために、生まれた春日大娘皇女が自分の娘であるかどうかを疑い、養育されなかった。あるとき物部目大連が庭を歩くある少女の姿を見て、天皇の姿によく似ていると述べた。天皇はそれで、彼女の母が一夜で身ごもったのは異常であるため、自分の娘であるか疑っていると答えた。物部目大連は天皇に一夜のうちに何度童女君を召したかを尋ねた。天皇は7度召したと答えた。物部目大連は天皇を諌めて、「身ごもりやすい人は褌が体に触れただけで身ごもります」と述べた。そこで天皇は少女を認知し皇女とし、母の童女君を妃とした。

一方『古事記』にはこの出自の記述が見られず、雄略天皇の段にも母・娘ともに名を欠いており、仁賢天皇の段にやっと皇后として名が挙げられるにとどまる。なお、娘で宣化天皇皇后となった橘仲皇女も『古事記』には宣化天皇は橘中比売命を娶ったとだけ書かれている。したがって日本書紀の記述によってのみ、後に継体天皇の皇后となった手白香皇女の皇后の系統が雄略天皇からの直系であるとの証左を与えることになる。皇后の出自が書かれていない例は春日大娘皇女と橘仲皇女以外には見られない。

書紀の記述により、春日和珥童女君に始まる和珥氏・春日氏の皇后の系統が第30代の敏達天皇まで続くことになる。

隅田八幡神社蔵の銅鏡に斯麻の文字があった

■和歌山県橋本市所在の隅田八幡神社蔵の銅鏡。国宝「隅田八幡人物画像鏡」の銘文は
〈癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時、斯麻念長奉遣、開中費直、穢人今州利二人、尊所等取白上、同二百旱作此竟〉と線刻文があった。癸未(みずのとひつじ)年というのは、西暦503年である。この年は代武寧王の在位中なので、送ったのは嶋王で。すなわち武寧王だといっていいだろう。

「男弟王(オオドノ王)が忍坂宮(おしさかのみや)(奈良県桜井市忍阪)に居る時に、嶋王(=武寧王)が長く仕え奉ることを念じて大加羅の加不至費直将軍(「百済本紀」)と濊人の州利即爾(ツリソニ)将軍を尊き所に遣わします。二人の申し上げることを取り上げてくだされば、この銅鏡二百旱作るのと同じぐらい価値があります。」
十大王というのは、任那・加羅国が当時十カ国の連合だったからに違いない。嶋王が百済の王座についたのは、501年であるので、嶋王が二人に銅鏡を持たせたのは「正式な使者としての証拠の品」、すなわち令牌として持たせたのだろう。二人の将軍はオオドに援兵の要請をしたのであろう。
継体の諱(いみな)「乎富等、袁本杼」にも合致するため、意富富等王とは、継体天皇に比定されるが、十大王と書いたことで、元大伽耶の王でもあったようである。

512年、百済に伽耶の四県を百済に与える。・・・と関連していると見る。

大加羅国は智異山山麓の高霊郡に存在していた。隣接する星州郡の伴跛(ハヘ)国(弁辰)が伽耶山の西南部や西北部に侵入し己汶(コモム、全羅北道南原市)を奪い、略奪の限りを尽くした。これを征討するために援軍の要請に来たというが真相だろう。
継体天皇七年(513)六月に書かれる将軍の名前が書かれている。濊人の州利即爾(ツリソニ)将軍と大伽耶(高霊)の加不至費直将軍である。同名の名前がこの銅鏡に刻まれていたのである。
この嶋君をキーワードにすると日本書紀ではどのように書かれるのだろうか?『日本書紀』
億計天皇 仁賢天皇
億計天皇、諱大脚更名大爲。自餘諸天皇、不言諱字、而至此天皇、獨自書者、據舊本耳、字嶋郎、弘計天皇同母兄也。幼而聰頴、才敏多識、壯而仁惠、謙恕温慈。及穴穗天皇崩、避難於丹波國余社郡。白髮天皇元年冬十一月、播磨國司山部連小楯、詣京求迎。白髮天皇、尋遣小楯、持節、將左右舍人、至赤石奉迎。二年夏四月、遂立億計天皇、爲皇太子。事具弘計天皇紀也。五年、白髮天皇崩。天皇、以天下讓弘計天皇、爲皇太子、如故。事具弘計天皇紀也。三年夏四月、弘計天皇崩。

加唐島
加唐島は、百済第25代武寧王が生誕したという伝説が残る、玄界灘に浮かぶ小島である。『日本書紀』巻14、雄略天皇5年条に、

六月丙戌朔、孕める婦、果して加須利君の言の如く、筑紫の各羅島にして児を産めり。仍りて此の児を名けて嶋君と曰ふ。是に、軍君、即ち一の船を以て、嶋君を国に送る。是を武寧王とす。百済人、此の嶋を呼びて主嶋と曰ふ。
とあるが、この各羅嶋=主嶋が加唐島に比定されている。
文暻鉉氏は、「この島には武寧王が誕生したという伝説が今日まで伝わり、この島の近隣島嶼と陸地にも武寧王誕生説話が伝わっている」と記す。しかし一方、逵氏による島民への聞き取り調査によれば、武寧王生誕伝説は「ある日突然、降ってわいたような話」と捉えられているという。
 26代百済聖王 在位523年-554年  522年 百済は多沙津を目指し、大伽耶国の多沙国を奪った。多沙津は百済の時代の耽津浦で冬音県にあり、現在の全羅南道康津郡大口、三国時代から日本交易の重要な港だった。
531欽明天皇誕生。任那復興を唱える。
532年 531年、安羅からの救援要請を幸いとして、百済は安羅に進駐した。一方、新羅軍は卓淳や喙己呑(とくことん)も攻撃し、532年には金官国に迫ってきた。金官国王の金仇亥(仇衡王)は妃や子供達とともに国の財宝を持って新羅に投降した。
538年 泗沘(現・忠清南道扶余郡)に遷都し、国号を『南扶余』と号した。
540年、高句麗の牛山城を攻撃して、対高句麗戦で反攻に転じた。
541年、百済は新羅との間に済羅同盟を締結した。この同盟関係はその後10年ほど続く。
541年、百済の聖王は任那復興会議をに開く。新羅に占領された金官・卓淳・喙己呑(とくことん)の三国を旧に復するのが目的だった。
552年 百濟聖明王、仏像を倭国に贈り、援軍を要請する。(欽明天皇13年)
552年 大臣の蘇我稲目(いなめ)が排仏派の大連の物部尾輿と対立。
553年 新羅に平壌城・北漢山城奪われる。(欽明天皇13年に記事、 新羅真興王の領土拡大。漢口下流制圧)
553年 新羅と管山城(忠清北道沃川郡)で戦っている最中に狗川(忠清北道沃川郡)で伏兵に襲われ聖王は戦死。約3万の兵士が皆殺しになった。この戦いには、大伽耶(高霊)の軍も百済と一緒に戦った。
554年 豊後の佐伯連、百済に出兵。1000人、馬100匹・船40隻で加羅に入る。
554年 第二次任那復興会議をに開く。しかし、期待された成果は得られなかった。
556年 蘇我稲目、来日した聖王の息子、倭国の兵をつけ恵を百済に護送
562年、新羅の真興王は異斯夫(いしふ)に命じて大伽耶を討たせた。紀男麻呂宿禰が出兵、百済・倭国連合軍は新羅軍に敗退。最後に残っていた大伽耶国は滅亡し、加羅・任那は消滅した。だが、651年頃、大伽耶(高霊)に新羅の使いが来たが、唐の衣冠だったことで追い返しているという記録がある。562年に新羅に討たれたが大伽耶は百済に降って新羅には服属していなかったのである。
 日本書紀巻18/安閑(531-535年)、宣化天皇(535-539年)
日本書紀巻19/欽明天皇(539-571年)
 27代/威徳王 在位554年-598年
諱  晶
 562年 大伽耶、新羅に滅ぼされる。
570年 蘇我稲目死す。(欽明31年の記事)
敏達6年、造佛工・造寺工の師来日の記載。
推古天皇即位。厩戸皇子は皇太子となり、馬子と共に天皇を補佐した。
577年、扶余に王興寺建立。
敏達6年 日本に造佛工・造寺工の師を派遣。(見返りに倭軍の派兵を要請か)
577年 百済救援。
581年 隋に使節を送り、〈上開府・儀同三司・帯方郡公〉に封じられた。
587年 飛鳥寺建立。蘇我馬子、物部守屋を滅ぼす。
  日本書紀巻20/敏達天皇(572-585年)
日本書紀巻21/用明(585-587年)、崇峻天皇(587-592年)
 28代恵王 在位598年-599年諱 季  『日本書紀』には欽明天皇16年(555年)2月に聖明王(聖王)が亡くなったことを知らせるために昌(威徳王)が送った使者として恵の名で現れ、威徳王の弟であることを記している。『三国遺事』では威徳王の子とし、別名として献王という。日本書紀が正しければ、聖王の子となる。
556年、蘇我稲目、来日した聖王の息子、倭国の兵をつけ恵を百済に護送した。第28代恵王となったが、598年-599年の2年の短い在位だった。
恵は王子のころ、赤石(明石)に上陸し、播磨に多くの技術者も引き連れてきた。彼らによって播磨地方に古くから鍛冶や寺院建築などの木工技術が伝えられたとされている。東播地方は古代において朝鮮半島からの渡来人が新技術をもって生活・繁栄したところであり、山田川の河谷にもその勢力が及んでいた可能性がある。
 『日本書紀』 欽明天皇16年(555年)
日本書紀巻22/推古天皇(592-628年)の代
 29代法王(=余宣)在位599年-600年諱 宣    日本書紀巻22/推古天皇(592-628年)
 30代武王(在位600年-641年・諱 璋   602年8月新羅の阿莫山城(全羅北道南原市)を包囲したが、新羅真平王に敗れる。聖王の報復戦ならず。
612年高句麗/乙支文徳(ウルチムンドク)将軍の薩水大捷、隋に大勝利。
唐が興ると621年に朝貢を果たし、624年に〈帯方郡王・百済王〉に冊封。
諱は璋、『三国遺事』王暦には武康、献丙の別名が伝わっている。『隋書』には余(徐)璋の名で現れる。新羅真平王の三女・善花(そんふぁ)姫とのロマンス、薯童(ソドン)説話の持ち主。三国遺事では、新羅の真平(ちょんぴょん)王(わん)に男子なく、一女は徳曼(とんまん)、二女は天明(ちょんみょん)、三女が善花(そんふぁ)ととれる。徳曼王女は後の善徳(ドク)女王(にょわん)で、善花はその妹になる。金(きむ)春秋(ちゅんじゅ)は天明(ちょんみょん)の子供で真(ちん)骨(ごる)であったが、後に王になり三国統一を成し遂げる。善花姫は三国史記には書かれないため史実上重要視されていないばかりか存在すら疑われていた。しかし、日本にも関係があるので、実はとんでもなく重要なことなのであるが、物語にしか残っていないのは残念である。
有名な薯童(ソドン)説話とは武王と善花姫の恋の物語である。善花姫のお名前は三国遺事にしか収録されていない。それというのは善花姫は王女の位を廃位されたので朝廷の記録から抹消されてしまったのだ。そこで、三国史記にはまったく現れていない。
「百済国の第30代の王様は武王という者である。彼の母は寡婦で都の 南池の近辺に家を建てて住んでいた。そなんな中で池の龍と交わって子供が生まれた。いつも 薯いもを掘って売り、 暮 らしを立てていたので薯童(いもわらべ) と呼ばるようになった。
その頃、新羅国の都に 真平王の第3の王女で 善花姫 というとても美しいお姫様が住んでいた。薯童はその噂を聞いて、髪を剃り坊主の姿で都に上り、「善花姫様はこっそりと嫁入りなされて、夜には薯童様と交わって去る」という 童謡 を作って子供たちに歌わせた。その童謡が王様の耳に入り、善花姫は遠く離れた所に流されることになり、都を発った。
善花姫は旅の途中でやってきた薯童と出会い、あの童謡が神のお告げであったのだと信じ、一緒に百済国に辿り着き暮らすことになった。そこで善花姫が持参した黄金を取り出して薯童に与えると、彼は黄金の値打ちが分からず、「これは何ですか」といった。善花姫は、「これは黄金です。これだけあれば百年の富でさえ大丈夫です。」というと、薯童は笑いながら「こんなものなら小さい時から薯を掘っていた所にいくらでもある」と言った。二人がそこへ行ってみると、たくさんの黄金があった。ある日、王様(薯童)が夫人(善花姫)を連れて獅子寺に参る途中、龍華山の下の大きい池から弥勒仏三尊が浮 かび上がってきた。 〔弥勒仏三尊の出現〕 王様夫妻はそこに寺を建立することとし、知命法師に相談すると、法師は神秘な力で一夜のうちに池を埋め平地 にしてしまった。そこに弥勒三尊と、会殿、塔、廡廊を各々三カ所に建て寺名を弥勒寺と名付けた。新羅国の真平王がいろいろな工人を送ってきて助けてくれた。」
父の真平王が領土を拡張し、とうとう漢江の河南に風穴をあけて東海に進出したから、百済も坐していられなくなった。
626年に高句麗と和親を結び、盛んに新羅を攻め立てるようになった。
 そんな最中に、632年、弥勒寺(全羅北道益山市)を建立した。この寺の建立以前に新羅の陰謀と曲解されて、善花姫は家臣の讒言によって幽閉されてしまった。2009年1月14日に弥勒寺址石塔(ミルサチサソッタップ))の解体修理によって発見された金製舎利奉安記に、「百済第30代王・武王(ムワン)の后である佐宅積徳の娘が富を喜捨して寺を建てた」と書かれていたので、にわかに信ぴょう性が高まった。「我百濟王后佐平沙乇積女種善因於曠劫受勝報於今生撫育萬民棟梁三寶故能謹捨淨財造立伽藍以己亥年正月卄九日(639年正月29日)奉迎舍利」 和訳してみると・・・
「我が百済の王妃、佐平沙乇積徳(サテク・チョクトク)の娘
生涯を通じて善行を広め
現世で受けたカルマ(業)により
民衆を導いた
仏法の教えをよく擁護し
その浄財で寺院を建立し
この弥勒寺が完成したとき、佐宅積徳のクーデターで武王は后を変えていたとしか考えられない。639年正月29日を乙巳の変(いっしのへんと対比すると、乙巳の変は645年であり、それより6年も前であり、皇極が日本に出されたのも、この佐宅積徳の陰謀なのだろうか?


善花姫の息子たちは母が亡くなり、義慈王が立つと、さっそく追放された。書記「皇極紀・元年条百済のとぶらいの元に使いを送ったところ、報告があった。「今年正月、国の主の母(ソンファ)が亡くなられました。また、弟の王子児翹岐(アギョンギ)および女子4人、内佐平キミ、高貴な40人ほど、嶋に放たれました。」
 ここに、追放されたのは、ソンファ姫の子、翹岐である。ここに母善花王后の王子・・・と記されている。翹岐の妹、冬服妹も含めて重臣をともども遠島に追放した。追放令の数か月後に大使として倭国に派遣したという記述が三国史記に残る。追放の処罰を日本に勅使(サシン)に変更したのである。重臣の内佐平とは王室を補佐する最高官職である。その高官40人、一族もろともとなると少なくとも300人を超す大集団だったろう。翹岐は日本にやってきて2年後、皇極天皇が史上初の譲位によって孝徳天皇が誕生する。乙巳の変の2日後であったという。軽皇子は中大兄の皇子の叔父にあたると書記にあるので、翹岐こそが軽皇子なのである。中大兄皇子は乙巳の変の後遺症でまだ王位につくのは早い、かといって弟の古人大兄(後の天武天皇)にするのも兄の立場がない。そこで、ひとまず叔父の軽皇子を立てておこう。こんな経緯だった。実権を握り続けたのは中大兄皇子であるが、翹岐にはかなり手こずったようである。翹岐46歳、子を亡くす。子の喪は親族が一切関わらないというのが百済、新羅の風俗であると云う。両親と兄弟親族が子の喪に望まなかったのだ。日本書紀は慈悲なく、獣と何ら異なることはない・・・と書き、翹岐と妻・一族を珍しく侮辱している。書記に書かれている謎を呼ぶ一文ではあるが、翹岐が異邦人であることを如実にしめしている。孝徳天皇は浪速に遷宮、難波の馬飼(うまかい)、犬上建部(いぬかみのたけべ)など下層民集団をすでに従わせていた。この馬飼(うまかい)の民が入れ墨をしているという記述が残るが、入れ墨の記録としては史上最後の記述になるだろう。
翹岐が、日本に来たときは妻子共々渡来している。子供の弔いに夫婦とも出ず冷淡で、犬畜生のようだと紀は書くからである。だが、母が弥勒寺建立に功があったように、この天皇はものすごく仏教に熱心で徳も高かったようである。(弥勒寺建立は新羅が弥勒信仰だという証拠ともなる。)
孝徳天皇は在位の間、仏教を広めただけでなく、民に公平な善政を実行している。あたかも行基と同一人物であるかの如くである。こうしたことで、中大兄、浮世離れした叔父に呆れてのことか、孝徳天皇を捨てて倭飛鳥河辺行宮に還ってしまう。
日本書紀文中より仏教を実践した記述の要点は以下のようである。

その1 墳墓を作ることは民を貧しくする。愚か者のすることであり、葬りを隠せと 述べた。宝物を納棺するなど旧い墓制を改めようとした。
その2 流人や囚人の恩赦を国司に命じた
その3、2100余の僧侶、尼僧に一切経を読ませた。
その4 2700の灯明を宮中にともして高僧に経を読ませた。
その5 36の仏像を作った。また、命じて千仏の像や多くの仏菩薩の像を作った。
その6 221人の学問僧らを唐に送った。唐に派遣したのは一回だけではない。
その7 聖主(ひじり)の天皇(すめらみこと)と讃える表現がある。
その8 田を百姓に公平に分け与えた。(公地公民制・国郡制度・班田収授の法)(租・庸・調)など大化の改新である。貴族、豪族の冊封権を朝廷に返上することになり、   貴族の反乱を生んだ。壬申の乱の伏線がここにあるのである。・・・。)
その9  寺を作ることができなければ、朕は皆助けて作らせると言い、寺院の建設を奨 励した。
その10 無量寿経を講話させた。
その11 処々に大道を作った。(浪速大道か。幅員は約23m~場所によっては40m
以上もあった。高速道路より幅の広いので物議を呼んでいる。)
その12 京都の宇治橋を造るなど土木事業を盛んに行った。
その13 遣唐使を出した。(道昭、浪速の出自で653-660 唐で三蔵法師に師事。この凡そ7年間、道昭が翹岐自身ではなかったのではないかと疑っている。)
難波で花を咲かせた聖徳というにふさわしい人物だが、実権は中大兄皇子の手にあった。645年、任那国を以て百済に属け賜ふ。孝徳天皇大化元年の記事。ここで読めることがる。乙巳の変は蘇我氏の持つ任那の朝貢利権を奪い、任那を百済に併合するためだったのだ。
日本書紀巻22/推古天皇(592-628年)
 31代義慈王(在位641年-660年(諱 義慈、王名が不詳、王として記録されなかったためか)  641年 新羅真平王の三女・善花(ソンファ)、武王の后が死去。子の王子児翹岐とその妹、冬服妹ほか内臣佐平を含む高官40人の一族、倭国に追放。(皇極元年十一月)
642年 年百済は新羅大耶城(テヤソン)(陕川)を攻略。このとき、金春秋の妹の婿が城主だった。二人の首を切ったことで金春秋の怒りは爆発した。
644年 高句麗/楊萬春(ヤン・マンチュン)将軍の安市城(アンシソン)の戦い。唐を敗戦させる。唐は、高句麗に敗戦を続け、指揮が低下した。
642年、金春秋(キム・チュンチュ)は淵蓋蘇文(ヨン・ケソムン)に会いに国内城(クンネソン)へ赴くも和平交渉に失敗する。
643年 百済と高句麗 新羅党項城(タンハンソン)攻略。
645年、唐は10万の兵で遼東城、白巖(ペガム)城は陥落させるも、安市城(アンシ)で再び大敗し、引き上げる。
645年 任那国を以て百済に属け賜ふ。孝徳天皇大化元年の記事。
641年 新羅真平王の三女・善花(ソンファ)、武王の后が死去。子の王子児翹岐とその妹、冬服妹ほか内臣佐平を含む高官40人の一族、倭国に追放。日本書紀・皇極元年の記事。史上初の譲位によって、第36代・孝徳天皇、天万豊日天皇(あめよろずとよひのすめらみこと)が645年7月12日即位。
643年 百済と高句麗 新羅の党項城(タンハンソン)攻略
645年 任那国を以て百済に属け賜ふ。孝徳天皇大化元年の記事。
647年 新羅・金春秋、倭国に遣使として来る。孝徳天皇大化3年の記事。(三国記には、この記録が全くない。)
651年 新羅の貢調使が唐服を着ていたので追い返す。孝徳天皇白雉二年の記事。新羅金春秋は羅唐同盟後、官服まで唐風に改新していた。
660年 唐羅軍30万を航路で輸送、黄山ヶ原の決戦で勝利、泗沘城「扶蘇山城」を落とす。 義慈王は唐に連行される。

高句麗は北方の防衛には強いが、南の防御は弱かった。百済滅亡後、北方の守備から兵を大量に動かすことも簡単にはできず、丸都城と平壌城の兵力だけで戦うはめになったのだろう。668年、176城、69万戸あった高句麗は唐羅軍に滅ぼされる。唐は平壌城に安東都護府を設置して丸都督府の42州と100の県に分けて統治した。およそ3万人を唐に奴隷として抑留、義慈王も唐に連行された。北方での流民は大祚榮テ・ジョヨンに集合して 698年に渤海国を建国する。 その2年前に日本に逃れてきた王族がいた。(666年10月)。続日本紀の文武天皇大宝3年(703年)の條に従五位下高麗若光に王姓を賜うとある。高麗王 (こまのこきし)の氏姓を賜与された。一説では高句麗王族の背奈福徳(肖奈福徳)と同一人物だという。
続日本紀「駿河・甲斐・相模・上総・下総・下野の七国の高麗人1799人を武蔵国に移し、高麗郡を設置す。」とあり、大宝3年(703年)。若光王 は、「ここは、まるで祖国のようだ。」と、武蔵国高麗郡・日高の風光をたいへん気に入った。朝廷から礼をもって国を与えられた若光王は、一族郎党をこの地に集め、窯陶や養蚕で繁栄した。おそらく、渡来人の集団での来日はこれが最後であろう。今日、高麗神社 (高句麗神社)は、第59代高麗澄雄宮司に至るまで、高句麗の文化が窺える。「山かげに獅子ぶえおこる。「しし笛は高麗のむかしを思へとぞひびく」と*釈迢空(折口信夫)は詠んだが、氏子によって現在でも文化保存に努力している。
 日本書紀巻23/舒明天皇(629-641年)
日本書紀巻23/舒明天皇(629-641年)
日本書紀巻24/皇極天皇(642-645年)
日本書紀巻25/孝徳天皇(645-654年)
日本書紀巻26/斉明天皇(655-661年)
 豊璋
諱 余豊
 豊璋、多臣薦敷の妹をもって妻とする。(天智即位前紀)
『大日本農史』等によれば《舒明天皇3年(631年)、「是歳、百済の太子余豊、蜜蜂の房四枚を以て、三輪山に放ち養ふ。而して終に蕃息らず。」》 倭国の人質として来た百済の王子・豊璋が、三輪山で蜜蜂を放して養蜂を試みたが、失敗したという記述である。
『日本書紀』では、《皇極天皇二年(643年?)是歳》是歳。百済太子余豊以密蜂房四枚、放養於三輪山。而終不蕃息。》
660 鬼室福信将軍に乞われて、日本にいた王子豊璋(別称:糺解)を百済に送る。斉明天皇6年の記事。
663 百済王豊璋、復興軍の武王の甥の鬼室福信将軍を謀反の疑いで殺す。天智天皇2年の記事。
 663白村はくすきに倭軍敗続。豊璋は高麗に逃げる。(天智天皇2年の記事)
668大唐、高句麗を打ち滅ぼす。(天智天皇7年の記事)

日本書紀巻27/天智天皇(661-671年)
日本書紀巻28/天武天皇(673-686年)
日本書紀巻29/同上
日本書紀巻30/持統天皇(686-697年)


■三韓の虎 金(きむ)春秋(ちゅんちゅ)

孝徳天皇大化3年(647年)に『新羅、上臣 阿飡金春秋等を遣して、博士小徳高向黒麻呂・小山中中臣連押熊を送りて、来りて孔雀一隻・オーム一隻を献る。よりて春秋を以て質とす。春秋は姿顔美して善 みて談咲す。・・・』」、と記される。
太宗武烈王となる。金春秋は真骨で、慶州金氏である。軍事面は金庚信、内政・外交の面では金春秋と、この傑出したコンビは三韓統一の大業を成し遂げた礎である。金庚信の妹文明夫人を娶る。金庚信と金春秋は義兄弟である。

 金春秋は日本に来た翌年の648年、唐に向かった。まず百済を新羅唐の挟撃で滅ぼし、その後、南からに高句麗に侵攻すれば高句麗の平壌城攻略は容易いだろうと唐の太宗に進言した。真徳女王が唐の高宗(太宗が亡くなった)を讃える詩文を錦に刺繍して贈った。このあと、唐の官服を着る、冊歴を受け入れるなど唐への忠誠を示した。善徳(そんどく)女王は、子供がなく、真平王の兄弟の娘真徳(ちんどく)女王が王位を一時継承したが、金春秋を太子にしていた。654年真徳女王が亡くなると和白会議は満場一致で金春秋を王にした。太宗武烈王(テジョンムヨル)の誕生である。新羅には骨品制(ヨルプル)と いう身分制度があり、金春秋(キム・チュンチュ)がなぜ真骨(チンゴル)なのかは、父が金龍春(キム・ヨンチュン)がハベク会議で廃位に追い込まれた真智王の息子であったからだ。金春秋の母、天明王女(チョンミョン)は真平王の次女だから聖骨であった。善徳女王、徳曼(トンマン)の妹の子である。

新羅の金春秋が日本に来た経緯は三国史記にはなく、日本書紀だけに書かれている。
647年(常色元 大化3)年 是の年・・・新羅、上臣大阿飡金春秋等を遣して、博士小徳高向黒麻呂・小山中中臣連押熊を送りて、來りて孔雀一隻。鸚鵡一隻を献る。仍りて春秋を以て質(むかはり)となす。春秋は、姿(すがた)顔(かお)美くして善(この)みて談(ほたき)咲(こと)す。ハンサムでよく談笑したという。
 金春秋は高句麗に命がけで遣使として赴くが失敗し、唐へ向かい羅唐同盟を結ぶと、宮中の衣冠装束を唐風に改めた。「651(常色5 白雉2)年是の歳に、新羅の貢調使知萬沙等、唐の國の服を着て、筑紫に泊まれり。朝庭(みかど)、恣(ほしきままに)に俗(しわざ)移せることを悪(にく)みて、詞嘖(せ)めて追ひ還したまふ。」孝徳天皇は新羅使が唐の衣冠服を着た使節団を追い返した。
時に、巨勢大臣、奏請(まう)して曰はく、「方(まさ)に今新羅を伐ちたまはずは、於後に必ず當(まさ)に悔有らむ。其の伐たむ状(かたち)は、擧力(なや)むべからず。難波津より、筑紫海の裏(うち)に至るまでに、相接ぎて艫舳(ふね)を浮け盈(み)てて、新羅を徴召(め)して、其の罪を問はば、易く得べし」とまうす。』、651年、新羅の使いが唐服を着てやって来たことで、朝廷の百済への派兵へと傾斜していた。
唐は単独で高句麗攻略に何度も失敗しているので、高句麗より先に百済を攻略し、南側から高句麗を攻める金春秋の戦略に納得した。660年(義慈王21年)7月9日(旧暦)、黄山伐(ファンサンボル)の決戦を迎える。金庚信(きむゆしん)率いる5万人の新羅軍に百済の階伯(ケベク)将軍は5千の決死隊で立ち向かい、4派の戦闘に耐えたが壮烈な戦死を遂げた。階伯は妻子を殺して後の憂いを絶って出陣した物語が今に伝えられ、忠臣の鏡とされる。金庚信は階伯だけは敵ながら、惜しむべき人物であったと評価し、生きて捕らえるよう命じていたという。一方、唐の高宗は蘇定方に大軍13万を率いて海路より進ませ、伎伐浦から上陸後、一挙に泗沘城(サビソン)を陥落させた。蘇定方は兵に略奪品は褒美にする檄と飛ばしたので、中国兵は先を争って王城を攻めた。新羅軍の到着を待たず、先に唐軍が泗泚城を陥落させたので、城内は中国兵にぺんぺん草も生えないほど荒らされた。
泗泚城にいた3000人余りの宮女が生きて屈辱的な辱めを受けるよりはと断崖の上から次々と川に向かって身を投げた。その身を投げ、落ちていく姿がまるできれいな花びらが落ちて行く様に見えた事から、その崖を『落花岩』という名前がついた。また。皐蘭寺はこれら女官を弔うため建てられたと伝えられる。
660年、義慈王はいったん太子とともに北方に逃れたが、最後は諸城をあげて降伏し、ここに百済は滅亡した。
新羅武烈王は唐将・蘇定方とともに泗泚城の堂上にあがり、義慈王に酌をさせたという。義慈王は妻子と共に唐の都・長安に送られた。義慈王は処刑されず、幽州の地で生涯を全うしたと伝えられる。
伝説的ではあるが、金春秋を三韓の虎、淵蓋蘇文を三韓の龍(ユン)と讃える。天智天皇3年(663年)に淵蓋蘇文が死後3年間、死を伏せたことが書かれている。伊梨渠世斯(いりこせし)は淵蓋蘇文(ヨン・ゲソムン)の弟になる。淵蓋蘇文は泉蓋蘇文、泉蓋金とも記される。『日本書紀』には伊梨柯須彌(伊梨柯須弥、いりかすみ)として現れる。
参考までに書くが、新羅語では城(しろ)のことを城(ソン)、百済語では固麻(コマ)、高句麗語では忽(ボル)といい、加羅では城(サシ)であったようである。それぞれの国で城を意味する語そのものが異なっていた。また、城の名称もそれぞれの国で固有の呼称があった。現在の城の古名、地名はすべて新羅統一後の名称と発音である。

 
12 豊璋とは
 
 百済の王城、泗泚城(サビソン)が陥落したあと左兵鬼室福信が百済の小城に散じて残った兵を糾合して邦を作 り、今でいえばゲリラ戦を行っていた。唐羅軍は、福信の百済復興軍にてこずっていた。「大使らはいつ西へ還られる、送って遣わそうか」と、豪語するほど兵の志気旺盛であった。太子とは唐の「熊津都督」の鎮将・劉仁願である。この劉仁願は九州の「筑紫都督府」に朝散大夫郭務悰(カク・ムソウ)を送り込んできた。さて、天武天皇は不戦を命じて、郭務悰と和解懐柔策をとった。(天智天皇6年11月(667年)「劉仁願・・・送大山下境部連石積等於筑紫都督府」、九州福岡に唐の筑紫都督府ができた。太宰府にある都督府古址がそれを証明する。そうこうしているうちに劉仁願はその後の高句麗征討の役に軍を出兵せず、その罪で、668年に姚州へ遠流されている。持統天皇六年(692年ごろ)「大唐大使郭務悰爲御近江大津宮天皇所造阿彌陀像。」と記されている。郭務悰は阿弥陀仏像を朝献したというのだ。郭務悰はのべ25年間、大唐大使の待遇で中国風の行政を日本全土に施行した。大宝律令(701年)は郭務悰の助けがあったからだろう。日本書紀(729年成立)も、残留した郭務悰の官吏たちが漢文の能力を発揮した。その可能性もあるのじゃないだろうか。なんであれ、新羅よりも早く一挙に唐風に変貌したのだ。話は戻るが、福信将軍は余豊 を立てて王としたいと大和に伝えて来た。大和は倭兵5千の兵(軍船170隻)を伴わせて百済に送り届けた。余豊を百王にした。百済王豊璋となった。
天智元年に、倭国は矢を10万本、ほか糸、皮、兵糧などを送って豊璋を助けた。
三国史記にない記述が日本書紀にある。豊璋は王城を周留城から、敵地に近い平城(坦な土地)の避城(へさし)に移すという失策したというのである。日本書紀天智2年では州柔城(ツネサシ)と書いている。避城は韓国一の穀倉地帯、万頃平野(マンギョンピョンヤ)にある金堤(キムチョシ)にあったらしい。また、臣下の讒言により謀反の疑いで猛将・福信を斬首してしまった。おそらく新羅の間諜(うかみ)(郷間(ヒャンカン))が仕組んだのだろう。豊璋王はよい佐平と参謀がいなかったようである。将軍・福信がいなくなれば、新羅と唐は百済復興軍は牙の抜けた虎のようなものである。
百済復興を支援する天智大和は、三派に分けて救援軍を朝鮮半島に送り込んだ。
ついで、高句麗の平壌城が救援を要請したときには二万七千の大軍を送った。
一方、唐は百済の再起に対して増援の劉仁軌(りゅうじんき)率いる水軍7,000名を派遣した。西暦663年、白村江(はくすきえ)(錦江の港湾、伎伐浦)で、唐の軍艦170隻に包囲されて、白村江に集結した1,000隻余りの倭船のうち400隻余りが炎上したと伝えられている。海戦で敗れた倭の水軍は、各地で転戦中の倭軍の兵士および亡命を望む百済遺民を船に乗せ、唐水軍に追われる中、やっとのことで帰国した。
*日本書紀の記事
 百済王子余豊、三輪山でミツバチの養殖に失敗すると書かれる。(書紀)
豊璋、多臣薦敷の妹をもって妻とする。(天智即位前紀)
660年 日本にいた王子豊璋(糺解)を百済に送る。(斉明天皇6年の記事。)
661年 百済救援のため筑紫の朝倉宮に遷幸したが、当地で斉明天皇崩御、出兵は中断した。
661年 蛇水(大同江)の戦い、大対盧(テデロ)の淵蓋蘇文(ヨンゲソムン)が大勝。
663年 百済王豊璋、復興軍の武王の甥の鬼室福信将軍を謀反の疑いで殺す。(天智天皇2年の記事。)
663年 水軍が白(はく)村(すき)江の戦いを戦ったが、唐と新羅の連合軍に敗北した。豊璋は高麗に逃げる。(天智天皇2年の記事)
665年 第二次高句麗・唐戦争でに淵蓋蘇文が死亡。淵蓋蘇文3年死を隠すよう遺言。
    淵蓋蘇文の子3兄弟が分裂。一人が唐に寝返る。 
668年 大唐、高句麗を打ち滅ぼす。(天智天皇7年の記事)
その後、豊璋は高句麗に脱出逃亡した。日本書紀では、ここで周留城(ちゅりゅそん)が唐軍によって落城した時をもって「百済の名が絶えぬ」と記す。日本に残っていた豊璋の弟については『日本書紀』によれば 善光(『続日本紀』では禪廣)といい特段の扱いを受けている。その子孫が持統天皇から百済王(くだらのこにきし)の姓を賜っている。他方、高句麗の王族も一部、日本に亡命した。武蔵国に移住した若光王である。天智天皇の大津京では、百済からの亡命貴人が多く登用され官職についた。その中のひとりが、当時文部大臣の要職にあった鬼室集斯という有能な人物である。かれは百済の大将軍鬼室福信の息子で、百済の名家の出身であった。

■滅亡した高句麗

高句麗滅亡後、北方流民を集めて渤海を建国した。初期の都があったのは現在の中国東北部・黒竜江省牡丹江の西南80Kmにある鏡泊湖の周辺である。この湖は旧称、忽汗海(クドハンヘ)と称され、この地域に東京城(トギョンソン)という京を作った。16km四方の大きな城壁を持っていたと云う。
698年、国号を震国、年号を天統(チョントン)とした。唐は軍事的攻略を断念して、713年に「渤海郡王」の称号を与え、同時に忽汗州都督府都督と任じ朝臣とした。数十年後には渤海国(パレグ)と改称した。建国王大祚榮(テジョヨン)は建国22年後の719年6月に崩御した。
唐は、「渤海靺鞨大祚榮者 本高麗別種也」とし、靺鞨(マルガル)の国家であると見ている。というのは、大祚榮が「本来高句麗に付いていた粟末靺鞨の者で、姓は大氏である(新唐書)」、とある。
靺鞨は後に女真を立て、金、清朝を起こた民族である。部族ごとに酋長がおり、テジョヨンは粟末靺鞨出であり、粟末部は高句麗と隣接し、勝兵は数千。伯咄部(汨咄部)…粟末部の北に住み、勝兵は7千。安車骨部(安居骨部)…伯咄部の東北に住む。
拂涅部・・・伯咄部の東に住む。
号室部・・・拂涅部の東に住む。
黒水部・・・安車骨部の西北に住む。
白山部・・・粟末部の東南に住む。勝兵は約3千。
黒水部・・・最強の最大の部族だった。
思慕部・・・黒水の西北に住む。
郡利部・・・思慕部の北に住む。
窟説(屈設)部・・・郡利部の東北に住む。
莫曳皆部・・・窟説部の東南に住む。
虞婁部・越喜部・鉄利部・安居骨部などに分かれていた。なかでも、黒水靺鞨は強く、渤海の北部に黒水靺鞨を建国している。 渤海は、七部族あった靺鞨のうち六部族が連合してできた国。 この連合に参加しなかった黒水靺鞨がツングース系。

マルガルは猛毒矢を用いる。また、人尿で手や顔を洗う」という風習も受け継いでおり、中国の史書では「諸夷で最も不潔」と評される。

契丹は騎馬民族だが、靺鞨は農耕漁労民族であり、渤海は契丹諸部を統一した耶律阿保機に攻められて926年に滅亡する。
大きく分けて東北部の民族は大枠で4大勢力があった。

半島は統一新羅になる。あまたの戦の結果であり、統一とはなにか、革命とはなにか、クーデターとは何か、王権とその配下である権益集団が変わるだけで、民衆にとって何の益があるのか考えさせられる。


1 秦人はインド人(ドラヴィダ族)が祖

秦が滅亡して中国南方地域で取り残されて孤立した秦人たちは、東省(かんとんしょう)と福建省(ふっけんしょう)、江西省との狭間に1500メートル級の山の山間部に円楼(えんろう)と呼ばれる円形の城郭(木造)を作って集団生活をしてた。彼らを漢人は客人、客家(はっか)と呼んでいた。長州語を母語に分岐したタイ語では客という意味のケーク〔khɛ̀ɛk〕はインド人を意味する。華僑の大半が客家だと言われる。客家語は現在、台湾、福建省、江西省にまたがっている分布する方言だが、四川省にも客家語が残っている。

「中国人は秦の乱に苦しみ、東方へ亡命してくるものが多かった。彼らは馬韓の東に進み、辰韓人と雑居していたが、その数が多く栄えたので、馬韓ではこれを忌み嫌った。」
(新羅本紀 前20年)
これらの中国人が辰韓人が阿人と呼ばれていた秦人であることは、弁韓伝でわかる。阿人は秦人とも呼ばれ、また、倭人とも言われていた。日本以外には朝鮮半島の弁辰・弁韓におり、韓半島と日本列島にまたがって同一の種族が生活していたのである。
阿人が日本人の基底層をなすことは、豊国の宇佐のから判明する。弥勒信仰や明神信仰であり、それは加羅国と後の新羅に雑居していた阿人と同一なことだ。そして、この阿人というのは、なんと、インド源流の民族・胡人であった。弥勒菩薩が新羅、日本に多いことは、疑いのない事実である。
越(と)裳(ちゃん)国は長江の西域にあった
長江の上流部である金沙(きんさ)江(こう)の一帯に、撣(だん)秦(ちん)族がおり、言語は阿萨姆(アッサム語)だった。越裳は大秦婆羅門国の前身と看做すことができ、秦帝国を建てた有力な旧国で、インドの所領であった阿萨姆邦(アッサム国)の近くだった。《新唐書·地理志》

2 インド文化がなぜ日本に入ったのか。
秦国の勃興期に嬴駟(ゆう・し)(恵文王)がBC316に巴国と蜀国を併合したが、巴国と蜀国周辺は中原とは異なった三星堆文化があった。これらの四川省にあった国々の民はインドのドラヴィダ種族である。巴国と蜀国の民は長江を下れば、楚を通過して海に出ることができる。秦も巴国と蜀を得たので、長江の上流から楚国を破ることができたのである。船山群島(会稽)から黒潮に乗れば3~4日で必ず日本につける。その証拠になることが起きている。2010年7月21日、長江が12年ぶりの大洪水になった。すると、九州西岸に一週間足らずで様々な漂流物が着いた。 簡単なジャンク船でも一週間もあれば、漂流しても自然に日本に着くことができる。四川省の山岳民族が朝鮮半島を経由せずに、日本に来ることができたわけである。そして、秦に滅ぼされた楚国(長江の中流域)の民も同様だった。長江を利用して日本に来た方が朝鮮半島を経由するよりも安全で早いのだ。こうして、長江文明と三星堆文化が日本に色濃く投影されても決して無理な話ではない。詳しくは類書に譲ることにするが、弥勒信仰、広く言えば(ペルシャ・インド文化の影響が日本に浸透したのは2~3世紀の話になってくる。

□弥勒信仰は新羅が盛んだった。

新羅の金庚信(キムユシン)は花郎(ふぁらん)の組織で、「竜華の香徒」と呼ばれ、下生した弥勒と仰がれた。源花とは兜率天の竜華樹の第三界の92億の阿羅漢の下生した姿だ。金庚信(きむゆしん)は17歳で中獄の石窟にこもって修行した。中獄は慶州西南の団石山に比定されている。山で修行するのである。金庚信の墓所の斎室には石像半跏趺像が安置されている。
兜率天(とそつてん)には弥勒菩薩がおり、地上界のバラモンに生まれて『竜華樹』の下で修行を積んで得道(とくど)して弥勒仏になる。そして、弥勒が一旦、下生する国は豊楽安穏の理想の国土になる。(弥勒下生経)金庚信は不敗の将軍と仰がれ、三国統一を成功させたが、金官伽耶の仇衡王(521-532)の曾孫であった。
花郎と朗徒(なんど)が一団となり、互いに義兄弟の酌をし、共に死を誓いあう。臨戦無退といいて、敵に向かっては決して退いてはいけないとう戒を持たされる。弥勒信仰には個人が兜率天に入ることを願う上生信仰と、兜率天の弥勒菩薩が下生することを待望する下生信仰の2つの側面があり、三会の阿羅漢が垂迹して金庚信(金庾信)が誕生したのは下生信仰になる。他方、 朗徒(なんど)が戦死すれば兜率天に入ることで上生信仰に立つことになる。弥勒とはミトラ神であり、発音はミルクと呼んだようである。(沖縄のミルク面)ミトラ神についてはスサノオは誰か?の第七章 「古代の神々」に詳述。考古学的には西域スキタイ系文物が新羅に多く、新羅王や王族、貴族らの装身具がギリシャ・ローマ文化で彩られているのは謎である。
気になるのは、この源花は初め南毛(ナムモ)と、俊貞(チュンジュン)という美しい娘が源花(頭領)であった。源花制度はすぐに廃止されるが、組織の花郎徒(ふぁらんど)には、5つの戒がある。これは円光法師の「世俗五戒」と呼ばれる。1)主君への忠:忠をもって君主に仕えよ。2)仕親の考:考をもって親に仕えよ。3)交友の信:信をもって友と交われ。4)臨戦無退:戦いに臨むならば退くな。5)殺生有択:生き物はみだりに殺すな。彼らには撤退は恥となるので、花郎(男子)が女化粧をして戦に出るのは死を覚悟するということだ。男性には鬼神が宿らないので女装したとの説もある。高句麗では黒装束の僧兵の伊達たちので早衣仙人(チョンィソニン)と呼ばれる戦士の育成団体があった。早衣の掟は五常の道で、『忠・考・信・勇・仁』の5文字となっている。国仙はその頭領のことである。百済では武節(ムジョル)という組織で、三国とも、それぞれ勇猛な戦士を育成した。軍律は厳しく、かつ国王への忠誠心、親や友人に対する人倫も鍛える特殊部隊であった。



記紀の構造的理解

■物語にこそ真実がある。新井白石は、手紙のなかで、「魏志は実録に候、日本紀などは、はるか後にこしらえたて候事ゆえに、おおかた一事も尤もらしき事はなき事に候」と、日本紀には、真実らしいことは一つもないと言い放っている。

「物語にこそ神代からの世の事を記している」と言い放った紫式部のように、そこで語られた物語の中にこそ真実が眠っている。古事記で綴られた(公式な)物語は、民間の物語のほうがより詳しいということなのだ。

 物語の中のモチーフは共通の意識が眠っている。これを理解すると、史実(リアリティ)は物語(神話)の奥底にあると言わざるを得ない。<名前>も<地名>も変えても物語のコアなストーリーはかわらない。「物語にこそ神代からの世の事を記している」、それならば、物語を下敷きにして真相を見つけていくアプローチは学問的にも成り立つはずである。
熊襲がわかれば日本書紀の隠れた構造を理解ができる。

仲哀天皇が熊襲との闘いで流れ矢に当たって死んだとあるように、仲哀天皇が熊襲とも熊鷲(くまわし)とも書かれる勢力と戦ったことを示している。仲哀側は旧河孫系の王統であり、日本では天照を奉斎する王統である。旧河孫系の王統は百済本国においては断絶した。日本に大挙して移動してきて王統を継承した。熊襲は書記では熊鷲とかかれるが、熊鷹(くまたか)のこと。鷹百濟ならメペクチェと訳すことができる。尉仇台を遠祖とする百濟である。熊襲とは後夫餘系の異端の百濟王系であり、近肖古王が百済の中興の祖とされる。この流れは、日本史においては隠されている。百済には二系統の王統が、神功皇后のころに入れ替わっている。書記は満系一世の王統に編纂しているので、読むのにややこしいことになるのは当然だろう。
漢風諡号に「神」の名を併せ持つ天皇は、初代神武天皇から、第125代の今上(明仁)天皇に至るまで3人おられ、初代「神武天皇」と第10代「崇神天皇」、そして、第15代「応神天皇」であり、の三人となる。他方、和風諡号で「はつくにしらすすめらみこと」は、①始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)が神武天皇、②御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)が崇仁天皇で、王系としては二系統らしいことがあきらかです。古事記でいう瓊瓊杵尊が上陸した地が筑紫の日向(ひむかい)に天下ったという系統と、日本書記では、吾田(あた)の長屋の笠狭(かささ)の岬になっているのも、二王系を暗示するのだろう。
)です。
しかし、③応神天皇は「譽田天皇(ほむたのすめらみこと)また、誉田別尊(ほむたわけのみこと)-胎中天皇(はらのうちにましますすめらみこと)以上『日本書紀』では、「はつくにしらすすめらみこと」の諡号とはしてない。
応神の渡来(降臨)の地は大隅国曽於郡(鹿児島県霧島市)ですから、球磨郡(熊本県人吉)あたりまでを占有した勢力とみることができます。
霧島山の最高峰の韓国岳(1700m)がある。「空国」(からくに)とか、「韓国の見岳」など名称の由来がある。

九州の旧称は不明だが、熊曽国令制国(律令制)の以前は九州は4国に分かれていた。
①筑紫国(筑前国、筑後国)=福岡県
②火国(肥国)=佐賀県
③豊国(豊前国、豊後国)=大分県(秦人が主流)
④熊曾国(球磨郡(熊本県人吉)から大隅国曽於郡(鹿児島県霧島市)
熊曾国は熊本県熊本市以南と理解する。空国(むなくに)とも称していた。膂宍の空国と同じと考えられる。
3.大隅八幡本縁起に震旦(しんたん)国がなぜでてくる?

『大隅正八幡本縁起』では「中国の震旦(しんたん)国隣王・陳大王の娘、大比留女(おおひるめ)が七才で懐妊して生まれたのがホムタワケノミコトである。」、と記される。震旦国は振旦、真丹とも書き、これはインド人が中国の秦の土地を呼んだ言葉である。
『大隅正八幡本縁起』からすると、ホムタワケ(応神天皇)はなんであれ西域人であるといいたいのだろうか。

*「神武」「崇神」「応神」という名称は、漢風諡号といって、天皇の死後におくられる名称です。


8 野見宿禰と埴輪の誕生

大和には相撲(すもう)神社(じんじゃ)がある。そこに土俵があって、天覧(てんらん)相撲が行われた。大和の当麻(たいま)の蹴速(けはや)と、出雲の野見宿禰(のみのすくね)の試合が伝わっている。その当時の相撲は「蹴り」という技があった。いまよりもずっと格闘技に近くキックがOKだった。互いに蹴りあったすえ、蹴速は肋骨を折り、吐血して死んでしまった。試合に勝った野見宿禰、陵墓の仕事で朝廷(垂仁天皇)に仕えることになった。
王が「人垣(ひとがき)」(殉葬墓)を廃止したさい、殉死者の替わりとして「埴輪(はにわ)」にすることを上申して、野見宿禰が土部(はじの)臣(おみ)となった。大和地方から土師器(はじき)が生産されるようになったのは、4世紀後半である。野見宿禰は、埴輪を造るために出雲から100人余りの土師部を呼び寄せた。三輪山の西麓に住むことを許され、彼らの村が周辺の掘(ほった)立柱(てばしら)建物群の遺跡として残った。纒向(まきむく)遺跡で全国から集まった土器類はも押して知るべきだろう。卑弥呼の墳墓には殉葬が行われていた。埴輪が見つかる古墳はすべて卑弥呼の墓とはならない。
*大宰府天満宮には野見宿禰の石碑がある。菅原道真(すがわらのみちざね)はこの野見宿禰の末裔なのだそうだ。
*野見宿禰は、天穂日命の14世の子孫であると伝えられる。播磨国の立野(現在の兵庫県たつの市)で病により死亡しその地で埋葬されたとされ、これは 『播磨国風土記』揖保郡立野条の記述に基づく。鳥取市の大野見宿禰命神社と松江市の菅原天満宮にも「野見宿禰の墓」があり、両社とも「龍野で没した野見宿禰の骨を分骨して墓を建てた」と主張している。さらに、大阪府高槻市の上宮天満宮は境内の野身神社に「式内野身神社并野見宿禰墳」の石柱が立ち、かつて周辺に土師一族が住み野見宿禰を祀ったとする。野見宿禰は、播磨国の立野(現在の兵庫県たつの市)で病により死亡しその地で埋葬されたとされ、これは 『播磨国風土記』揖保郡立野条の記述に基づく。鳥取市の大野見宿禰命神社と松江市の菅原天満宮にも「野見宿禰の墓」があり、両社とも「龍野で没した野見宿禰の骨を分骨して墓を建てた」と主張している。さらに、大阪府高槻市の上宮天満宮は境内の野身神社に「式内野身神社并野見宿禰墳」の石柱が立ち、かつて周辺に土師一族が住み野見宿禰を祀ったとする。

結章
Under Construction
   尉仇台百済王系譜  天照大神系
温祚慰礼百済王系譜
 日本書紀 人物対比  事件・考古学の実年での対比
     1.温祚王(18-28) 《国祖》    
     2.多婁王(28-77)    
     3.己婁王(77-128)    
     4.蓋婁王(128-166)    
   尉仇台
166- 214) 《国祖》
[5]代 肖古王
     
   简位居
(位居・ 214-238?)
>[6]代 仇首王
     
   麻余王
(麻余・248-249?)
7.沙伴王(234)(沙沸王、沙伊王の別名?)     
   依慮王
(依慮・235-285)
 8.古爾王(234-286)  
   依羅王
(依羅・286-346)
臺與のあと
 9.責稽王(286-298)    
   玄王  10汾西王(298-304)    
   余蔚王 11. 比流王(304-344)    
   孱王  12.契王(344-346)?*王朝断絶    
 13  近肖古王
(余句・346-375 )
肖古王
   ①神功皇后摂政36年春三月乙亥朔、遣斯摩宿禰、于卓淳國。斯麻宿禰者、不知何姓人也。・・・・然猶今付使者、尋貢獻耳。」於是爾波移、奉事而還告志摩宿禰。便自卓淳還之也。
②39年春三月、以荒田別・鹿我別爲將軍、則與久氐等・・・
於是、其王肖古及王子貴須、亦領軍來會、時比利・辟中・布彌支・半古四邑自然降服。
③七枝刀送られる。/五十二年秋九月丁卯朔丙子、久氐等從千熊長彥詣之、則獻七枝刀一口・七子鏡一面・及種々重寶、仍啓曰「臣國以西有水、源出自谷那鐵山、其邈七日行之不及、當飲是水、便取是山鐵、以永奉聖朝。」乃謂孫枕流王曰「今我所通、海東貴國、是天所啓。是以、垂天恩割海西而賜我、由是、國基永固。汝當善脩和好、聚歛土物、奉貢不絶、雖死何恨。」自是後、毎年相續朝貢焉。

五十五年、百濟肖古王薨。
神功皇后52年9月肖古王から七枝刀送られる。 (369年)
木羅斤資=武内宿禰
(蘇我氏の祖)
 14  近仇首王
(余須・375-384)
倭国王讃(王須)
 漢山遷宮  ①神功皇后摂政49年《王肖古及王子貴須》、
55年、百濟肖古王薨。
②神功皇后摂政56年《百濟王子貴須、立爲王》
③神功皇后摂政64年《百濟國貴須王薨。王子枕流王立爲王》


 15  枕流王
(余暉・384-385)
  ①神功皇后52年秋九月丁卯朔丙子 《孫枕流王》
神功皇后64年、百濟國貴須王薨。王子枕流王立爲王
②神功皇后65年、《百濟枕流王薨。王子阿花、年少。叔父辰斯、奪立爲王。》
 20安康天皇
 16  辰斯王
(不伝・385-392)
     21.雄略天皇
 17  阿莘王
 (余蔚・392-405)
阿花王
  ①応神天皇三年冬十月辛未朔癸酉、「東蝦夷悉朝貢。卽役蝦夷而作厩坂道。十一月、處々海人、訕哤之不從命。訕哤、此云佐麼賣玖。則遣阿曇連祖大濱宿禰、平其訕哤、因爲海人之宰、故俗人諺曰佐麼阿摩者、其是緑也。是歲、百濟辰斯王立之、失禮於貴國天皇。故遣紀角宿禰・羽田矢代宿禰・石川宿禰・木菟宿禰、嘖讓其无禮狀。由是、百濟國殺辰斯王以謝之、紀角宿禰等、便立阿花爲王而歸。」

②応神天皇八年春三月、「百濟人來朝。百濟記云「阿花王立旡禮於貴國、故奪我枕彌多禮・及峴南・支侵・谷那・東韓之地。是以、遣王子直支于天朝、以脩先王之好也。」
③応神天皇八年春三月、百濟人來朝。百濟記云「阿花王立旡禮於貴國、故奪我枕彌多禮・及峴南・支侵・谷那・東韓之地。是以、遣王子直支于天朝、以脩先王之好也。」
④応神天皇十六年春二月、「王仁來之。則太子菟道稚郎子、師之、習諸典籍於王仁、莫不通達。所謂王仁者、是書首等之始祖也。是歲、百濟阿花王薨。天皇、召直支王謂之曰「汝返於國、以嗣位。」
 23.顕宗天皇

『日本書紀』(別伝:顕宗天皇は父を雄略天皇に殺される話が書かれる。つまり、阿莘王が顕宗天皇、辰斯王が雄略天皇、枕流王が安康天皇の役回りになる。)
 18  腆支王
 (余映・405-420)
倭国王珍(餘映)直支
 義熙405-418年 ①応神天皇卅九年春二月、「百濟直支王、遣其妹新齊都媛以令仕。」
②応神天皇廿五年、「百濟直支王薨、卽子久爾辛立爲王。王年幼、木滿致執國政、」
 応神39年 新斉都姫遣わす
 19  久爾辛
(不伝・420-427)
     
 20  毗有王
(余毗・427-455)
     
 21  蓋鹵王
(余慶・455-475)
倭国王済(慶)
 元嘉中424-452年 ①雄略天皇二年秋七月 百濟新撰云「己巳年、蓋鹵王立。天皇、遣阿禮奴跪、來索女郎。百濟、莊飾慕尼夫人女、曰適稽女郎、貢進於天皇。 
②雄略天皇五年夏四月、百濟加須利君蓋鹵王也、飛聞池津媛之所燔殺適稽女郎也而籌議曰「昔貢女人爲采女而既無禮、失我國名。自今以後、不合貢女。」乃告其弟軍君崑支君也曰「汝宜往日本、以事天皇。」軍君對曰「上君之命、不可奉違。願賜君婦而後奉遺。」加須利君、則以孕婦嫁與軍君曰「我之孕婦、既當産月。若於路産、冀載一船、隨至何處、速令送國。」遂與辭訣、奉遣於朝。②六月丙戌朔、孕婦果如加須利君言、於筑紫各羅嶋産兒、仍名此兒曰嶋君。於是軍君、卽以一船送嶋君於國、是爲武寧王。百濟人、呼此嶋曰主嶋也。秋七月、軍君入京、既而有五子。百濟新撰云

③廿年冬、高麗王、大發軍兵、伐盡百濟。爰有小許遺衆、聚居倉下、兵糧既盡、憂泣茲深。於是、高麗諸將、言於王曰「百濟、心許非常、臣毎見之、不覺自失、恐更蔓生。請遂除之。」王曰「不可矣。寡人聞、百濟國者爲日本國之官家、所由來遠久矣。又其王入仕天皇、四隣之所共識也。」遂止之。百濟記云「蓋鹵王乙卯年冬、狛大軍來、攻大城七日七夜、王城降陷、遂失尉禮、國王及大后、王子等、皆沒敵手。
 471年 埼玉稲荷山鉄剣
     江田船山古墳
 22  文周王
(牟都・475-477)
倭国王興(牟都)
熊津遷宮
 

元嘉中424-452年
『日本書紀』
 ①応神天皇廿一年春三月、天皇、聞百濟爲高麗所破、以久麻那利賜汶洲王、救興其國。時人皆云「百濟國、雖屬既亡、聚夏倉下、實頼於天皇、更造其國。」汶洲王、蓋鹵王母弟也。日本舊記云「以久麻那利、賜末多王。」蓋是誤也。久麻那利者、任那國下哆呼唎縣之別邑也。
応神天皇廿三年夏四月、「百濟文斤王、薨。天王、以昆支王五子中第二末多王」
 
 23  三斤王
(不伝:477-479)
   ①応神天皇廿三年夏四月、百濟文斤王、薨。天王、以昆支王五子中第二末多王・幼年聰明  
 24  東城王
(牟太・479-501)
倭王武
 
建元(けんげん)南齊 太祖 高帝 蕭道成 479年 - 482年
永明(えいめい)は、南北朝時代、南斉の武帝蕭賾の治世に行われた年号。483年 - 493年。
①武烈天皇 四年夏四月、拔人頭髮、使昇樹巓、斮倒樹本、落死昇者、爲快。是歲、百濟末多王無道、暴虐百姓。國人遂除而立嶋王、是爲武寧王。百濟新撰云「末多王無道、暴虐百姓、國人共除。武寧王立、諱斯麻王、是琨支王子之子、則末多王異母兄也。琨支、向倭時至筑紫嶋、生斯麻王。自嶋還送、不至於京、産於嶋、故因名焉。今各羅海中有主嶋、王所産嶋、故百濟人號爲主嶋。」今案、嶋王是蓋鹵王之子也、末多王是琨支王之子也。此曰異母兄、未詳也。
(斯麻王=武寧王の異母兄とする。)
25.武烈天皇(軍君昆支の二男
 25  武寧王
(余隆・501-523)
南扶余遷宮

天監(てんかん)502年 - 519年。=は、南北朝時代、梁の武帝蕭衍の治世に行われた最初の元号。  
普通(ふつう)は、南北朝時代、梁の武帝蕭衍の治世に行われた2番目の元号。520年 - 527年
 斯麻王 嶋郎(しまのいらつこ)・嶋君をば、億計王(仁賢天皇)に比定する。
 26  聖王
(余明・523-554)
   ①欽明2年夏4月 《聖明王曰「昔我先祖速古王・貴首王之世、安羅・加羅・卓淳旱岐等、初遣使相通厚結親好・・ 29.欽明天皇 
527年(継体21)磐井の乱(いわいのらん); 八女の遺跡群
 27  晶王
(余昌・554-598)
     
 28  恵王
(余恵・598-599)
威徳王とも、
   
 29  法王
(余宣・599-600)
     
 30  武王
(余璋・600-641)
     日本の民族説話、「炭焼小五郎」「真名野長者伝説」に当たる人物。
皇極・孝徳の父。
 31  義慈王
(義慈・641-660)
羅唐軍に敗戦
   ①齊明天皇元年 ・・・既以義慈王・王后・太子、爲虜而去。
②齊明天皇 六年冬十月 ・・・百濟王義慈・其妻恩古・其子隆等・其臣佐平千福・國辨成・孫登等凡五十餘
 皇極天皇・孝徳天皇。
皇極重祚(ちょうそ)齊明天皇。
寶女王(たからのひめみこ)こと皇極元年は641年、643年に蘇我の入鹿が殺される。王后・太子とは、母、善花、太子は皇極の実弟643年に孝徳天皇即位。
書記:斉明元年は間違い。

*書記のルビ=嶋君(せまきし・)武寧王(むねいおう) 生誕地




上の系図:出典:宮内庁:
 図表13   5世紀の修正年表    ◯印は即位年の翌年が元年
                    他は即位年が元年
 
天皇 修正
在位
年数
     即位年   ~  死亡年
              または退位年
 
17  仁徳 23.0  410年後半 1月~433年前半 1月  
18  履中 3.0  433年後半 2月~436年前半 3月  
19  反正 2.5  436年後半 1月~438年後半 1月  
20  允恭 21.0  439年前半12月~459年後半 1月  
20  安康 ◯ 459年12月 ~ 462年 8月  
22  雄略 23
◯ 462年11月 ~ 485年 8月  
23  清寧   486年 1月 ~ 490年 1月  ?
24  顕宗 1.5  491年前半 1月~492年前半 4月  
25  仁賢 5.5  492年後半 1月~497年後半 8月  
26  武烈 4.0 ◯497年後半12月~501年後半12月  
http://www7b.biglobe.ne.jp/~iichirou/sub13b.html

  図表11  中国暦採用の時期

  │ 修正後の紀年 │          │ 修正前の紀年 │
  │        │  半 年 暦   │        │
  ├────────┤          │        │
  │439  允恭 │    ┌─────┼────────┤
  │        │    │     │449  安康 │
  │        │    │     ├────────┤
  │        │    │     │452  雄略 │
  ├────────┤───┘     │        │
  │460  安康 │          │        │
  ├────────┤   中 国 暦  │        │
  │463  雄略 │          ├────────┤
  │        │          │475  清寧 │
  │        │      ┌───┼────────┤
  │        │      │   │480  顕宗 │
  ├────────┤      │   ├────────┤
  │486  清寧 │      │   │483  仁賢 │
  ├────────┤─────┘   │        │
  │491  顕宗 │          │        │
  ├────────┤          ├────────┤
  │492  仁賢 │   半 年 暦  │493  武烈 │
  ├────────┤          │        │
  │498  武烈 │          │        │
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  │502  継体 │          │502  継体 │
  │        │   中 国  暦 │        │
  │        │          │        │

紀年の半年暦を修正しても実年にはならない。

『日本書紀』によれば、推古天皇の28年(620年)に、聖徳太子と嶋大臣(蘇我馬子)が国史を編修したといいます。

   是歳(ことし)、皇太子(ひつぎのみこ)・嶋大臣(しまのおほおみ)、共(とも)に議(はか)りて、天皇記(すめらみことのふみ)(およ)び国記(くにつふみ)、臣(おみのこ)(むらじ)伴造(とものみやつこ)国造(くにのみやつこ)百八十部(ももあまりやそとものを)(あわせ)て公民等(おほみたからども)の本記(もとつふみ)を録(しる)す。



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