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...{2019/5/3以後の修正日}

倭の五王の中国の資料および三国史記等から作成。(2018年9月~)
 「卑弥呼Xファイル」の年表を拡張、修正したものです。実績や地位のある先生方や在野の研究家むけです。根拠をしめす必要から資料集のようになってしまっています。難易度が高いですが、もっと一般書の平易に読めるようにできないものかと思っています。

 梁書と宋書の違いがカギとなる

梁書がなぜ重要なカギをもっているのかは、倭国王が王名でなく名前(字・諱)で書き込まれているからです。


A:: 維基 -> 梁書 -> 検索 "牟太"
《梁書》
《卷第五十四列傳第四十八 諸夷海南諸國 東夷 西北諸戎
45 百濟者,其先東夷有三韓國,一曰馬韓,二曰辰韓,三曰弁韓。弁韓、辰韓各十二國,馬韓有五十四國。大國萬餘家,小國數千家,總十餘萬戶,百濟即其一也。後漸彊大,兼諸小國。其國本與句驪在遼東之東,晉世句驪既略有遼東,百濟亦據有遼西、晉平二郡地矣,自置百濟郡。晉太元中,王須;義熙中,王餘映;宋元嘉中,王餘毘;並遣獻生口。餘毘死,立子慶。慶死,子牟都立。都死,立子牟太。齊永明中,除太都督百濟諸軍事、鎮東大將軍、百濟王。天監元年,進太號征東將軍。尋為高句驪所破,衰弱者累年,遷居南韓地。普通二年,王餘隆始復遣使奉表,稱「累破句驪,今始與通好」,而百濟更為彊國。其年,高祖詔曰:「行都督百濟諸軍事、鎮東大將軍、百濟王餘隆,守籓海外,遠脩貢職,迺誠款到,朕有嘉焉。宜率舊章,授茲榮命。可使持節、都督百濟諸軍事、寧東大將軍、百濟王。」五年,隆死,詔復以其子明為持節、督百濟諸軍事、綏東將軍、百濟王。


B:《梁書》 《卷第五十四列傳第四十八 諸夷海南諸國 東夷 西北諸戎

50 漢靈帝光和中,倭國亂,相攻伐歷年,乃共立一女子卑彌呼為王。彌呼無夫婿,挾鬼道,能惑眾,故國人立之。有男弟佐治國。自為王,少有見者,以婢千人自侍,唯使一男子出入傳教令。所處宮室,常有兵守衛。至魏景初三年,公孫淵誅後,卑彌呼始遣使朝貢,魏以為親魏王,假金印紫綬。正始中,卑彌呼死,更立男王,國中不服,更相誅殺,復立卑彌呼宗女臺與為王。其後復立男王,並受中國爵命。晉安帝時,有倭王贊。贊死,立弟彌;彌死,立子濟;濟死,立子興;興死,立弟武。齊建元中,除武持節、督倭、新羅、任那、伽羅、秦韓、慕韓六國諸軍事、鎮東大將軍。高祖即位,進武號征東將軍。


C:維基 -> 宋書 -> 檢索 "倭國王"
《宋書》
《卷五本紀第五 文帝》
53 倭國,在高驪東南大海中,世修貢職。高祖永初二年,詔曰:「倭贊萬里修貢,遠誠宜甄,可賜除授。」太祖元嘉二年,贊又遣司馬曹達奉表獻方物。贊死,弟珍立,遣使貢獻。自稱使持節、都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭國王。表求除正,詔除安東將軍、倭國王。珍又求除正倭隋等十三人平西、征虜、冠軍、輔國將軍號,詔並聽。二十年,倭國王濟遣使奉獻,復以為安東將軍、倭國王。二十八年,加使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事,安東將軍如故。并除所上二十三人軍、郡。濟死,世子興遣使貢獻。世祖大明六年,詔曰:「倭王世子興,奕世載忠,作籓外海,稟化寧境,恭修貢職。新嗣邊業,宜授爵號,可安東將軍、倭國王。」興死,弟武立,自稱使持節、都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事、安東大將軍、倭國王。
        *年号の頭で改行しています。

 倭王   百済王
在位
 中国正史  《梁書》A
王の字
 百済本紀  梁書》B  《宋書》C   日本書紀での名称  日本書紀記載年号
 賛   375-396年  晉太元中
(376年-396年)
晉安帝時(397-418年)
   近仇首王   倭王贊
 
永初二年(421年)
元嘉二年
(425年)
 貴須王
(くぃすおう)
【神功皇后
49・55・56
・64年】
 珍   405-427年  東晋義熙中
(405年-418年)
 餘映  典支王  弟彌  弟珍  直支王
(ときおう)
 【神功皇后
52・64・65年】
【応神8年】
 済   428-475年  文帝20年
(443年)
 
元嘉中(424-452年)
   蓋鹵王  立子興  ・興→  加須利君
(かすりのきし)
 【雄略5年】
 興   475-477年  元嘉中424-452年
(済と同時に叙勲)
 牟都  汶洲王  世子興太子叙勲
 
世祖
大明六年
(462年
 汶洲王
(もんすおう)
 【雄略21年】
 武  479-501年  永明483年 - 493年  牟太  東城王  弟武(齊建元中)  弟武  末多王
(またおう)
 雄略23年】
【武烈4年】
*世子興、世子(せじゃ)とは朝鮮語で立太子した世継ぎのこと。



1)永初(えいしょ)は、中国の南北朝時代、南朝宋の武帝(劉裕)の治世に使われた元号。永初元年から三年まで、420年-424年
2)太元(たいげん)は、東晋孝武帝司馬曜の治世に行われた2番目の元号。376年 - 396年。
3)義熙(ぎき)は、東晋、安帝司馬徳宗の治世に使用された元号。405年 - 418年。
4)元嘉(げんか)とは424年に即位した宋(劉宋)の第3代皇帝文帝が452年まで採用した元号である。424年-452年
5)永明(えいめい)は、南北朝時代、南斉の武帝蕭賾の治世に行われた年号。483年 - 493年。
普通(ふつう)は、南北朝時代、梁の武帝蕭衍の治世に行われた2番目の元号。520年 - 527年。普通8年は3月に改元されて大通元年となった。
4)東晋の安帝(あんてい)第10代皇帝の元号隆安:397年-401年 元興:402年-404年 大亨:402年 義熙:405年-418年5)元嘉二年 425年にあたる。南朝宋の第3代皇帝安帝劉義隆 の元号元嘉424年施行 424–453年6)天監元年 502年
6)天監元年 502年
7)大明(だいめい)は、南北朝時代、宋の孝武帝劉駿の治世に行われた2番目の元号。457年 - 464年。


太元376-396年         ①須。→賛
義熙405-418年         ②餘映。→珍
元嘉中424-452年       ③ →済 
元嘉中424-452年        ④牟都。→興
永明483年 - 493年      ⑤牟太。 除太都督百濟諸軍事、鎮東大將軍、百濟王。→武


------倭の五王の後:余隆=武寧王
普通520年 - 527年 521年 王餘隆始復遣使奉表・・・。
             525年 王王餘隆死す。
応神8年に百済記の引用では、阿莘王の王子として直支王が現れる。
八年春三月、百濟人來朝。百濟記云「阿花王立旡禮於貴國、故奪我枕彌多禮・及峴南・支侵・谷那・東韓之地。是以、遣王子直支于天朝、以脩先王之好也。



①梁書での 「須」とは、日本書紀では貴須王(くぃすおう)【神功皇后摂政52年】、朝鮮史では余須、第14代/近九首王(在位375-384)
②梁書での「餘映」とは日本書紀では直支王(ときおう)【応神8年王子直支で現れる】、朝鮮史では余映、第18代/典支王(在位405-427?)
 梁書での「餘毘」とは、「日本書記-不詳」、朝鮮史では余毗 第20代/毗有王在位427?-455年)
③梁書での「慶」とは、日本書紀では「加須利君(かすりのきみ)【雄略5年】、朝鮮史では余慶 第21代/蓋鹵王(在位455-475年)
④梁書での「牟都」とは、日本書紀では「汶洲王」【雄略21年】、「文斤王」【雄略23年】。朝鮮史では牟都 第22代/文周王 (在位475-477)
⑤梁書での「牟太」とは、倭王武・日本書紀では「末多王」【雄略23年】、朝鮮史では「徐牟大」第24代/東城王(在位479年-501年)


ーーー上記の①~⑤が中国から倭國王と認められた人物、いわゆる「倭の五王」ーーー

①梁書での 「須」とは、倭国王讃=近九首王(在位375-384)
②梁書での「餘映」とは倭国王珍=余映、第18代/典支王(在位405-427?)①と②は兄弟(中国史に依拠)
 梁書での「餘毘」とは、倭国王 「日本書記には書かれないので在位していない王ではないか?」、朝鮮史では余毗 第20代/毗有王在位427?-455年)この在位年は蓋鹵王の在位期間に挿入した。(中国史に依拠)
③梁書での「慶」とは、倭国王済=蓋鹵王(在位455-475年)
④梁書での「牟都」とは、倭国王興=牟都 第22代/文周王 (在位475-477)③の王后の弟
⑤梁書での「牟太」とは、倭王武==「徐牟大」第24代/東城王(在位479年-501年)④の弟の昆伎の子

宋書 倭国伝・南史本紀文帝記・倭王武の上表書など、「讃死弟珍立」 讃死して弟珍立つが真実であれば、これは須と映の関係が兄弟になる。

*梁書での「餘隆」とは、日本書紀では嶋君」【雄略天皇紀5年】、朝鮮史では「余隆」第25/代武寧王(ムリョンワン)(在位501-523年)

尉仇台の後扶余の系譜と、百済の王系図を重ねてみる!(第何代の代数は朝鮮正史による)
慰礼系伯済系のうち5代6代がはめ込み。13代からは、尉仇台系百済。
 歴代  王名  尉仇台系王系譜    歴代  温祚系王系譜  中国の皇帝と年号
         1  温祚王(18-28) 《国祖》  
         2  多婁王(28-77)  
         3  己婁王(77-128)  
         4  蓋婁王(128-166)  
 5  尉仇台  (仇台・166- 214) 《国祖》  =>[5]代 肖古王      
 6  简位居  (位居・ 214-238?)  =>[6]代 仇首王   太和三年秋七月(229年)高句驪王宮は孫權の使者・胡衞等の首を曹魏に送る。 
   麻余王  (麻余・238-239?) 更立男王・国中服さず。  7 沙伴王(234)(沙沸王、沙伊王の別名?)  
   依慮王  (依慮・235-285)    8  古爾王(234-286) 景初二年(238年)司馬宣王圍公孫淵於襄平,大破之,傳淵首于京都
景初三年春正月丁亥,太尉宣王還至河內,帝驛馬召到,引入卧內,執其手謂曰:「吾疾甚,以後事屬君,君其與爽輔少子。吾得見君,無所恨!」宣王頓首流涕。
正始(せいし)は、三国時代、魏の斉王曹芳の治世に行われた最初の元号。240年 - 249年
嘉平(かへい)は、三国時代、魏の斉王曹芳の治世に行われた2番目の元号。249年 - 254年。
   依羅王  (依羅・286-346)  臺與のあとの男王。以降並びに
中国に朝貢。
 9  責稽王(286-298)  太康(たいこう)は、西晋の武帝司馬炎の治世に使われた元号。280年 - 289年。
   玄王  (不伝)    10  汾西王(298-304)  
   余蔚王  (不伝)    11  比流王(304-344)  
   孱王  (不伝)    12  契王(344-346)?
*王朝断絶
 
 13  近肖古王  (余句・346-375 )      王妃族・真氏に転。  
 14  近仇首王  (余須・375-384)  倭国王讃(王須)    漢山遷宮  太元(たいげん)中376年 - 396年。東晋孝武帝司馬曜の治世の2番目の元号。
 15  枕流王  (余暉・384-385)        
 16  辰斯王  (不伝・385-392)        
 17  阿莘王  (余蔚・392-405)        
 18  腆支王  (余映・405-420)  倭国王珍(餘映)    日本に8年人質  義熙405-418年
 19  久爾辛  (不伝・420-427)  追号王?      
 20  毗有王  (余毗・427-455)  追号王?      
 21  蓋鹵王  (余慶・455-475)  倭国王済(慶)    蓋鹵王の弟・軍君の子・昆支日本に来る。  元嘉中424-452年
 22  文周王  (牟都・475-477)  倭国王興(牟都)   嶋王( 武寧王)日本で生まれる。
熊津遷宮
 元嘉中424-452年
済と同時に太子の時に除正。
 23  三斤王  (不伝:477-479)  13歳で即位15歳で死亡      
 24  東城王  (牟太・479-501)  倭王武    南斉の建武三年(496年)、牟大は来寇した北魏と戦い勝利。功臣への加行褒賞を求めて南斉の明帝蕭鸞に遣使する。 建元(けんげん)南齊 太祖 高帝 蕭道成 479年 - 482年
永明(えいめい)は、南北朝時代、南斉の武帝蕭賾の治世に行われた年号。483年 - 493年。
 25  武寧王  (余隆・501-523)      南扶余遷宮 天監(てんかん)502年 - 519年。=は、南北朝時代、梁の武帝蕭衍の治世に行われた最初の元号。  
普通(ふつう)は、南北朝時代、梁の武帝蕭衍の治世に行われた2番目の元号。520年 - 527年
 26  聖王  (余明・523-554)        
 27  晶王  (余昌・554-598)  威徳王とも、      
 28  恵王  (余恵・598-599)        
 29  法王  (余宣・599-600)  在位1年      
 30  武王  (余璋・600-641)        
 31  義慈王  (義慈・641-660)  羅唐軍に敗戦      



以下①~⑤の人物歴の各論(頭の数字は百済王統譜による歴代数)、小囲みは日本書紀に書かれている変名の部分引用。


 倭王讃
13.近仇首(きんきゅうしゅ)王==倭国王讃 諱は余須 第13代百済王(375-384-396年)
梁書』では須の名で記され、『日本書紀』では貴須王(くゐすおう)、神功皇后摂政56年。欽明天皇2年では「貴首王」と書かれる。
『日本書紀』

①神功皇后摂政49年《王肖古及王子貴須》、
②神功皇后摂政56年《百濟王子貴須、立爲王》
③神功皇后摂政64年《百濟國貴須王薨。王子枕流王立爲王》

④欽明2年夏4月 《聖明王曰「昔我先祖速古王・貴首王之世、安羅・加羅・卓淳旱岐等、初遣使相通厚結親好・・・》


『梁書』梁書 -> 卷第五十四列傳第四十八 諸夷海南諸國 東夷 西北諸戎 百済条 「晋の太元年間(376年 - 396年)に王の須が・・・中略・・・生口(捕虜)を献上してきた。」という記事があります。
372年にはまだ太子だったが高句麗の平壌城まで進撃し故国原王を戦死させています。捕虜はこの戦で高句麗から捕獲したものです。その後、漢山に王都を移します。375年11月に王位を継いだ後も高句麗とは交戦を続け、先代の近肖古王の東晋と結んで高句麗と当たる外交態勢を保った。
 百済との戦闘に続いて敗れていた高句麗は余須が王位つくと、「ここぞとばかりに百済を攻撃し、平壌城南東50㎞の水谷(すごく)城(そん)を陥落させた。これを契機に百済と高句麗は、攻守を繰り返す泥沼戦に入る。
391年、檀君王儉(わんごむ)が建てた古朝鮮の領土を取り戻すことを夢とした高句麗史上最強の征服王である広開土(くぁんげど)王の波状攻撃で10余個の城を征服され、百済の勢力は急速に弱体化する。392年、百済は漢江流域を喪失し、伽耶地域に伸びていた勢力圏も新羅に奪われた。

*神功皇后55年、日本書紀では肖古王が亡くなったあと、王子貴須が立つ」とあるので、日本書紀の肖古王は百濟史では第13代近肖古王のこと。貴須は近九首王。

14 枕流王(とむるおう) (余暉・384-385 日本書紀神功皇后摂政52年では枕流(とむる)在位2年で死去、枕流王(とむるおう)の子が阿莘王。

『日本書紀』

神功皇后52年秋九月丁卯朔丙子 《孫枕流王》
神功皇后64年、百濟國貴須王薨。王子枕流王立爲王
神功皇后65年、《百濟枕流王薨。王子阿花、年少。叔父辰斯、奪立爲王。》

15 辰斯王(しんしわん)が第16代の王位を継ぐ。枕流王の弟、辰斯王が日本に対して失礼な振る舞いがあったために倭国は紀角宿禰(きのつののすくね)などを遣わせて譴責(けんせき)したところ、百済の側で辰斯王を殺して詫びたので、紀角宿禰らは阿花(阿莘王)を百済王に立てた。応神天皇3年に記事。

『日本書紀』(別伝:雄略天皇として真相が書かれる)

応神天皇三年冬十月辛未朔癸酉、東蝦夷悉朝貢。卽役蝦夷而作厩坂道。十一月、處々海人、訕哤之不從命。訕哤、此云佐麼賣玖。則遣阿曇連祖大濱宿禰、平其訕哤、因爲海人之宰、故俗人諺曰佐麼阿摩者、其是緑也。是歲、百濟辰斯王立之、失禮於貴國天皇。故遣紀角宿禰・羽田矢代宿禰・石川宿禰・木菟宿禰、嘖讓其无禮狀。由是、百濟國殺辰斯王以謝之、紀角宿禰等、便立阿花爲王而歸。

16 阿莘王 アシンワン(余蔚、392-420)、)。『三国史記』百済本紀・阿莘王紀の分注には別名の阿芳王が伝えられ、『日本書紀』では阿花王(あくえおう)とされる。
『日本書紀』(別伝:顕宗天皇として父を雄略天皇に殺される実話が書かれる。つまり、阿莘王が顕宗天皇、辰斯王が雄略天皇、枕流王が安康天皇の役回りになる。)
①応神天皇三年冬十月辛未朔癸酉、「東蝦夷悉朝貢。卽役蝦夷而作厩坂道。十一月、處々海人、訕哤之不從命。訕哤、此云佐麼賣玖。則遣阿曇連祖大濱宿禰、平其訕哤、因爲海人之宰、故俗人諺曰佐麼阿摩者、其是緑也。是歲、百濟辰斯王立之、失禮於貴國天皇。故遣紀角宿禰・羽田矢代宿禰・石川宿禰・木菟宿禰、嘖讓其无禮狀。由是、百濟國殺辰斯王以謝之、紀角宿禰等、便立阿花爲王而歸。」

②応神天皇 八年春三月、「百濟人來朝。百濟記云「阿花王立旡禮於貴國、故奪我枕彌多禮・及峴南・支侵・谷那・東韓之地。是以、遣王子直支于天朝、以脩先王之好也。」
《百済人来朝(もうけ)り。百済記に伝える。「阿花王は(王に)立って貴国に礼無し、故に、我が枕彌多禮(とむたれ)、峴南(けんなむ)、支侵(ししむ),谷那(こくな)、東韓(とうかん)の地を奪はれむ。是を以て、王子直支を天朝に遣(まだ)して、先王の好(よしみ)を修む。」と云へり。<広開土王の襲来で領土を奪われてしまい日本に礼を失してしまった。それ故に、王子直支を人質に送り、先王と変わらず修好してください。史実年は酉年(397年)》
*「支侵」;忠清南道北部、古の牙山?三国史記の「居斯勿県」とする。
*谷那の鉄山のあった場所。弾琴台土城(だんきんだいどじょう・忠清北道忠州市)
*枕彌多禮 全羅北道の南部。

③応神天皇十六年春二月、「王仁來之。則太子菟道稚郎子、師之、習諸典籍於王仁、莫不通達。所謂王仁者、是書首等之始祖也。是歲、百濟阿花王薨。天皇、召直支王謂之曰「汝返於國、以嗣位。」


諱・諡は『三国史記』には伝わらない。第15代の枕流王の長男であり、枕流王が385年11月に暗殺されたと信じ、阿莘王が辰斯王を39211月に狩りに遊行したの際に謀殺し、第17代の王位についた。阿莘王が即位の直前(391年10月)に高句麗に奪われた関彌城を百済北辺海の要衝の地であるとして奪回を企てた。勇将であった真武(王妃の父)を左将に据えて、393年8月には一万の兵を率いて高句麗の南辺を討伐しようとしたが、高句麗兵の籠城戦の前に兵站が途切れ、撤退した。翌年には好太王(広開土王)に漢山城(京畿道広州市)まで攻め入られて大敗し396年、漢江以北の領土を失う。阿莘王は高句麗への服属誓わされ、王弟や大臣が高句麗へ連行される。(別伝:市辺押磐皇子(書記)を弟・雄略天皇が暗殺する。市辺押磐皇子の子が叔父の雄略天皇を殺害し 顕宗天皇につく。(古事記に実話)


 以下、梁書の年号歴を重ねると須と映は兄弟である可能性は残ります。宋書の記録では、「讃死弟珍立。」といずれにもそう書かれます。讃の弟が珍です。では、上の14代から16代の王は中国が認識していないことになり、非存在の王となります。百済王統譜が操作されています。並立していた二系統の王朝を万世一統にしたのでしょう。王統紀よりも中国正史を歴史年代はとらえたほうがよいのです。
①晉太元中376年ー396年,王須; 倭王讃
②義熙中405年ー418年,王餘映; 倭王珍
宋元嘉中423年ー452年, 餘毘(架空王)



 倭王珍
17 腆支王==倭國王 珍 (諱は余(よ)映(えい) 在位四〇五年―四二七年)


*『三國史記』卷二十五 百濟本紀 第三 阿莘王 「直支 梁書名映 阿莘之元子(長子)] 
王子のとき倭国に人質として送られ、17年後父阿莘王の死去にともない帰国。
梁書から引用で名は映であることを記しているが、三国史記での生前の名前は不明。

『日本書紀』
①応神天皇八年春三月、百濟人來朝。百濟記云「阿花王立旡禮於貴國、故奪我枕彌多禮・及峴南・支侵・谷那・東韓之地。是以、遣王子直支于天朝、以脩先王之好也。」
②応神天皇十六年春二月、「王仁來之。則太子菟道稚郎子、師之、習諸典籍於王仁、莫不通達。所謂王仁者、是書首等之始祖也。是歲、百濟阿花王薨。天皇、召直支王謂之曰「汝返於國、以嗣位。」
③応神天皇廿五年、「百濟直支王薨、卽子久爾辛立爲王。王年幼、木滿致執國政、」
④応神天皇卅九年春二月、「百濟直支王、遣其妹新齊都媛以令仕。」


梁書 -> 卷第五十四列傳第四十八 諸夷海南諸國 東夷 西北諸戎
45 百濟者,其先東夷有三韓國,一曰馬韓,二曰辰韓,三曰弁韓。弁韓、辰韓各十二國,馬韓有五十四國。大國萬餘家,小國數千家,總十餘萬戶,百濟即其一也。後漸彊大,兼諸小國。其國本與句驪在遼東之東,晉世句驪既略有遼東,百濟亦據有遼西、晉平二郡地矣,自置百濟郡。


晉太元中376年ー396年,王須;義熙中405年ー418年,王餘映;宋元嘉424年ー452年中,王餘毘;並遣獻生口。餘毘死,立子慶。慶死,子牟都立。都死,立子牟太。

宋書 倭国伝・南史本紀文帝記・倭王武の上表書など、「讃死弟珍立」 、これを正しいとみると近仇首(貴須王 くぃすおう)の弟になります。

《漢代之後》
《隋唐》
《通典》[唐] 801年 杜佑著
《邊防一》
《百濟》
1 打開字典 百濟:
百濟,即後漢末夫餘王尉仇台之後,後魏時百濟王上表云:「臣與高麗先出夫餘。」初以百家濟海,因號百濟。晉時句麗既略有遼東,百濟亦據有遼西、晉平二郡。今柳城、北平之間。自晉以後,吞并諸國,據有馬韓故地。其國東西四百里,南北九百里,南接新羅,北拒高麗千餘里,西限大海,處小海之南。國西南海中有三島,出黃漆樹,似小榎樹而大。六月取汁,漆器物若黃金,其光奪目。自晉代受蕃爵,自置百濟郡。義熙中,以百濟王夫餘腆佗典反為使持節、都督百濟諸軍事。宋、齊並遣使朝貢,授官,


 百濟とは後漢末の扶余王のあとである。後魏のとき、百済王は上表して曰く、「臣(尉仇台)は高句麗の先の夫餘が出自である。はじめ百家をもって海を渡ったので百済と号する。晋の時代に高句麗は遼東を寇略したが百済はまた遼西の晉平二郡を拠有した。今の柳城と北平の間である。晋から以後、諸国を併呑し、馬韓の故地を拠有した。その国は東西四百里、南北九百里で、南に新羅と接し、北千里で高句麗を防いている。西は大海で限られ、小海の南にある。国は西南海に三島を持ち、小は黄漆の木、大は榎木があり、六月に樹液を取る。漆器は黄金のごとく、その輝きは目を奪うばかりである。晋朝の代から蕃爵を授かり、自ら百済郡(中国から見た郡に擬して)を置いた。義熙(ぎき)中(405年 - 418年)、以て百済王、夫餘・腆佗・典反を使特節・都督百済初軍事。宗朝と斉朝にわたり遣使を朝貢させ官を授かった。

*義熙(ぎき)中(405年 - 418年)の百済王は第18代・腆支王 (余映・405-420)著者は倭国王珍(梁書では餘映)に比定しています。


三八九年 三國史記』卷二十五 百濟本紀 第三 阿莘王 「六年 夏五月王は倭国と友好を結ぶため、太子の腆支を人質となした。」「十一年 夏 大干ばつで穀物が枯れたので王は橫岳で雨乞いの祭りをおこなったところすぐに雨が降った。五月に倭国にヒスイの勾玉を求め使いを送った。」「大旱 禾苗焦枯 王親祭橫岳 乃雨 五月 遣使倭國求大珠」
十二年 春二月 「倭国の使者がやってきて、王は特別にその労をねぎらって歓迎した。「倭國使者至 王迎勞之特厚」

四〇五年 倭国の兵士に伴われて帰国した。国人(大臣)は碟礼(阿莘王の弟・ソルレ)を殺して直支を迎え入れ、即位が叶った。

四〇七年 直支王、妹の新斉都(しせつ)媛と7人の宮女を遣わす。(応神天皇39年記事)

四一三年=「安帝の義熙9年、是の歳、高句麗、倭国および西南の夷の銅頭大師、並びに方物を献ず」(倭国、東晋・安帝に貢物を献ずる)。(晋書安帝紀、太平御覧)


四一五年=「三国史記百済本記 「阿莘王6年(398年)夏5月に王は倭国と友好を結び太子直支を人質として送った。 太子直支は415年父王阿莘王が死ぬと帰国した。日本滞留期間は17年になる。」

四一六年=義熙十二年〔416〕、以二百済王余映一為二使持節都督百済諸軍事鎮東将軍百済王。(『宋書』夷番伝)

四二〇年=高祖践阼〔420〕 百済王に「鎮東大将軍」を進号した。(『宋書』夷番伝)

四二一年=讃死して弟珍立つ。使いを遣わして貢献し、自ら使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍倭国王と称し、表して除正せられんことを求む。詔して安東将軍倭国王に除す。(『南史』宋本記 421年)

四二一年= 「高祖永初二年(421年)、倭讃萬里修貢、遠誠宜甄、可賜除授」)(南史列伝東夷伝倭国条)。

四二一年=「永初2年2月己丑、倭国が使臣を遣わし朝貢す」(「永初二年二月己丑、倭国遣使朝貢」)(南史本紀武帝記)。

四二一年=「倭国在、高麗東南大海中、世修貢職。高祖永初二年、倭讃万里修貢、遠誠宜甄、可賜除授」(宋書列伝倭国伝)。
 珍また倭隋等十三人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍の号に除正せんことを求む。詔して並びに聴す。

四二八年 妹の新斉都(しせつ)媛と7人の宮女を倭国に遣わす

四三〇年=1月、宋に使いを遣わし、貢物を献ずる。(宋書文帝紀)(宋書倭国伝)

四二五年=司馬の曹達を遣わし、宋の文帝に貢物を献ずる。(宋書倭国伝)「太祖の元嘉2年、讃、又、司馬曹達を遣わし、表を奉りて方物を献ず」(「太祖元嘉二年、讃、又遣司馬曹達、奉表、献万物」)〔宋書列伝-倭国伝〕。

四二五年=「是の歳、又、倭国が使臣を遣わし、朝貢す」(「是歳、又倭国遣使朝貢」)〔南史列伝〕。)

四三〇年 「元嘉7年春正月、是の月、倭国王、使いを遣わして方物を献ず」(〔「元嘉七年、春正月、是月、倭国王遣使献万物」)〔宋書本紀-文帝記〕。

四三〇年 「是の歳、倭国・百済が使臣を遣わし、朝貢す」(「是歳、倭国・百済遣使朝貢」)〔南史本紀-文帝記〕。

四三八年=元嘉15年使特節・都督倭・百済・新羅・任那・辰韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭国王を上表して爵位を乞うも、安東将軍倭国王に叙爵。(『宋書』文帝紀)4月、宋文帝、珍を安東将軍倭国王とする。珍はまた、倭隋ら13人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍にされんことを求め、許される(宋書文帝紀)。



17.腆支王(生年不詳 - 427年)は、百済の第18代の王(在位:405年 - 427年)であり、阿莘王の長男。『梁書』では余映(徐映)、『日本書紀』応神天皇8年春に王子直支、および25年に直支王(ときおう)と書かれ、『三国遺事』王暦では眞攴王と記される。諱は『三国史記』には伝わらない。
先代の阿莘王は高句麗に奪われた関彌城を百済北辺海の要衝の地であるとして奪回を企てた。勇将であった真武(王妃の父)を左将に据えて、393年8月には一万の兵を率いて高句麗の南辺を討伐しようとしたが、高句麗兵の籠城戦の前に兵站が途切れ、撤退した。翌年には好太王(広開土王)に漢山城(京畿道広州市)まで攻め入られて大敗し396年漢江以北の領土を失う。阿莘王は高句麗への服属誓わされ、王弟や大臣が高句麗へ連行されることなった。しかし広開土王が撤収すると、再び倭国の援軍を待って高句麗に対抗しようと太子の余映を(後の腆支王)を倭国へ人質として送った。

*三国史記百済本記 「阿莘王6年(397)夏5月に王は倭国と友好を結び太子直支を人質として送った。 三国史記にも人質として送ったということが書かれている。太子直支は日本滞留8年目の405年父王阿莘王が死ぬと帰国した。」
*『三國史記』卷二十五 百濟本紀 第三 辰斯王
六年 夏五月 王與倭國結好 以太子腆支爲質 秋七月 大閱於漢水之南
{王は倭国と友好を結ぶため、太子の腆支を人質となした。秋7月には漢江の南の軍を閲兵した。」
*〔周礼、夏官、大司馬〕「大閱」の〔注〕に「軍實を𥳑(かぞ)ふるなり」とあるのと、同じ意である。(字通)

なぜか日本に人質として来た王には諱が不明となる例が多い。
倭国へ人質として送られていた直支は、倭国で阿莘王の死を聞き、哭泣するとともに帰国することを請願し、倭国の兵士に伴われて帰国した。国人(大臣)は碟礼(阿莘王の弟・ソルレ)を殺して直支を迎え入れ、即位が叶った。417年7月には東北辺で沙口城を築くなどして、再び高句麗への侵攻の態勢を整えていった。
428年、百済直支王、妹の新斉都(しせつ)媛と7人の宮女を遣わす。(応神天皇39年記事)

 河内(丹比郡)の式内社/大津神社由緒略記によれば、
※由緒「応神天皇の頃(4末~5世紀初か)、この地方には、百済貴須王(近仇首王)の子孫といわれる“葛井氏・船氏・津氏”の3氏が勢力を張っていた。この3氏のうち津氏一族がこの地を卜して“大宮山”と称し、自分たちの守護神を奉斎したことが大津神社の発祥だろうというのが古来からの定説である」
葛井・船・津氏とは、応神朝に来朝したと伝えられる百済辰孫王の後裔氏族で、続日本紀・桓武天皇延歴9年(790)7月17日条に記す、津連真道らの上表文に
 「真道らの本来の系統は百済王・貴須王(キス・近仇首王ともいう)より出ている。・・・・応神天皇のとき、貴須王が天皇からの有識者招聘をうけて、孫の辰孫王(シンソン)を入朝させた。天皇はこれを喜び、皇太子の師とされた。仁徳天皇は長男・太阿郎王(タアラ)を近侍とされ、・・・その孫・午定君の3人の子・味沙・辰爾・麻呂のとき別れて3姓となり、各々その所職に因りて氏をなした。葛井・船・津等即ち是なり。・・・」(大意)

始祖・都慕王(ツモ)・・・貴須王-辰斯王-辰孫王(知宗王)-太阿郎王-玄陽君-|-塩君(午定君)
|-味散(味沙君)-膽津(白猪史)→葛井氏
|-王辰爾(智仁君)→船史→船氏
|-麻呂(牛)→津史→津氏→菅野氏
となるが、3姓に別れたのは6世紀後半とされ、その後、それぞれが史部(フヒトベ-書記官)として朝廷に仕えたという。

河内(丹比郡)の式内社/大津神社 (大阪府羽曳野市高鷲8丁目)
大津神社由緒略記によれば、
 「応神天皇の頃(4末~5世紀初か)、この地方には、百済貴須王(近仇首王)の子孫といわれる“葛井氏・船氏・津氏”の3氏が勢力を張っていた。この3氏のうち津氏一族がこの地を卜して“大宮山”と称し、自分たちの守護神を奉斎したことが大津神社の発祥だろうというのが古来からの定説である」

貴須王は近九首王で14代、辰斯王は18代百済王ですから、辰孫王は辰斯王の後になります。



*始祖・都慕王(ツモ)とは高句麗開祖の高朱蒙
*河内(丹比郡)の式内社/大津神社 (大阪府羽曳野市高鷲8丁目)
*右、古爾王から契王まで5代が、左、肖古王から近肖古王までの5代と並立しているのだが、王系を一系にする造作がなされている。近肖古王(346-375)から以後は代数を5代差し引くと実態にちかくなる。


18.久尓王
応神天皇廿五年、「百濟直支王薨、卽子久爾辛立爲王。王年幼、木滿致執國政、」


応神天皇二十五年、百済の直支王が薨(こう)じる。すぐ子の久爾辛が立太子し王になった。王は年が幼く、木滿致が国政を摂った。

久爾辛の在位は(420-427年)、蘇我満智全盛のころだ。『古語拾遺』によれば、雄略天皇代、増大する諸国からの貢物に対応すべく、新たに大蔵が興され、麻智が三蔵(斎蔵・内蔵・大蔵)を管理したという(三蔵検校)
天皇号による紀年があやしい?


19. 毗有王 (諱は余毗 在位四二七年―四五五年)

蓋鹵王の御代を割って追号された架空王と思われる。第19代と第20代は実際に即位していたかどうか不明な点が多い。実在したとしても追号王と考えられる。追号王とは死後に王として復権ないし、王の称号を追記すること。


毗有王(ピユワン、生年不詳 - 455年)は百済の第20代の王(在位:427年 - 455年)であり、先代王の長男、または『三国史記』百済本紀・毗有王紀の分注では第18代の腆支王の庶子とされる。『三国史記』には諱・諡は伝わらず、『宋書』には百済王余毗として現れる。諱・諡が伝わらないのは日本で人質として育ったせいだろうか。若くして王になった。『宋書』には百済王余毗(徐毗)(余・徐)が百済王の姓)として現れる。427年12月に先王の死去により王位についた。王位に就くと、433年新羅の訥衹王と同盟を結ぶ。

百済の直支王(余映・腆支王405-470)罷りぬ。即ち子久(く)爾(に)辛(しん)、王となる、年若し。木満致(木刕満致=蘇我満智)国(百済)の政(まつりごと)を執る。王の母(いろは)と相淫(あいたわけ)けて、多(さは)に無礼(ゐやなきわざ)す。天皇、聞しめして召す。(応神天皇25年)
毗有王の前王、久爾辛という名の王は百済の王統譜に19代王久尓王と記録される。久爾辛・・・とは、三国史記には諱・諡とも伝わらない。また、治績記事は残っていないことから、久尓王は余毗の母ではないかとの説もあるぐらいよく分からない王である。毗有王は腆支王の庶子であるとの注と腆支王(直支王)が倭国に人質として来ていることから、日本で生まれた庶子なのだろう。在位年数で7年間、王位が空白だったのが真相ではないかと思う。なにやら不明なことが多い。空白期間に、久爾辛を満智が日本から連れてきたこと以外は何ら素性が分からない。いずれにしても毗有王は蘇我満智の傀儡だっただろう。満智は百済と大和を往復して権勢を振るっていた。百済には意のままになる王を、日本では大伽耶の顔を立てて王にしていた可能性がある。
元嘉15年は438年で、この年使特節・都督倭・百済・新羅・任那・辰韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭国王を上表して、安東将軍倭国王に叙爵。(『宋書』文帝紀)4月、宋文帝、珍を安東将軍倭国王とする。珍はまた、倭隋ら13人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍にされんことを求め、許される(宋書文帝紀)。では、元嘉15年438年4月に珍こと腆支王が朝見していることからすると、毗有王は実体がない。19代と20代は朝鮮史に追号で挿入された架空王のようです。即位が247年が中国史から照らすとありえず、11年もずれている。朝鮮正史もいろいろと細工されていることは確かだ。21代蓋鹵王の在位期間が毗有王の在位期間を埋めるとちょうど合うことになるだろう。
*元嘉(げんか)は、南北朝時代、宋の文帝劉義隆の治世に行われた年号。424年 - 453年。18.久爾辛19.毗有王は架空王とみなすことが可能です。


 倭王済
21. 蓋鹵王==倭国王済 (諱は余慶 正史による*在位四五五年―四七五年)
  『三国史記』によれば諱は慶司。また、近蓋婁王とも記され、『日本書紀』には加須利君(かすりのきこし)(雄略五年に記事)、『宋書』には余慶(徐慶)の名で現れる。455年9月に先王の死去に伴い、王位についたという。

『日本書紀』
雄略天皇夏四月、百濟加須利君蓋鹵王也、飛聞池津媛之所燔殺適稽女郎也而籌議曰「昔貢女人爲采女而既無禮、失我國名。自今以後、不合貢女。」乃告其弟軍君崑支君也曰「汝宜往日本、以事天皇。」軍君對曰「上君之命、不可奉違。願賜君婦而後奉遺。」加須利君、則以孕婦嫁與軍君曰「我之孕婦、既當産月。若於路産、冀載一船、隨至何處、速令送國。」遂與辭訣、奉遣於朝。六月丙戌朔、孕婦果如加須利君言、於筑紫各羅嶋産兒、仍名此兒曰嶋君。於是軍君、卽以一船送嶋君於國、是爲武寧王。百濟人、呼此嶋曰主嶋也。秋七月、軍君入京、既而有五子。百濟新撰云「辛丑年、蓋鹵王、遣弟昆支君向大倭侍天王、以脩兄王之好也。」


しかし、443年には余慶として貢献しているので、前の2代は架空王となろうか。
この王の初出の中国朝貢は443年=「元嘉20年、倭国王済が宋に遣使して奉献す。宋・文帝に朝献して、安東将軍倭国王とされる。復(また)以て、安東将軍・倭国王と為す」(「元嘉二十年、倭国王済遣使奉献。復以為安東将軍倭国王」(宋書列伝倭国条、宋書倭国伝)です。443年には王位についていたのです。また、475年9月高句麗・長寿王襲来で蓋鹵王は処刑されたため、蓋鹵王の在位期間は433-475年になるわけです。20代毗有王の在位:(427年 - 455年)は消滅し、20代毗有王が追号された架空王であることがあきらかになりました。三国史記もしょせん王の意向で変えられる王統紀なのですね。朝鮮正史ってこんなもんです。ばれてますよ。ただ、中国正史も「宋元嘉中,王餘毘;並遣獻生口。餘毘死」と書いているので、中国も騙されていたんです。倭国王の称号だって上奏してきたから、帝が認めたにすぎないのでしょう。百済王は一体何をたくらんでいたのでしょう?


四四三年=「元嘉20年、倭国王済が宋に遣使して奉献す。宋・文帝に朝献して、安東将軍倭国王とされる。復(また)以て、安東将軍・倭国王と為す」(「元嘉二十年、倭国王済遣使奉献。復以為安東将軍倭国王」(宋書列伝倭国条、宋書倭国伝)
遣使が奉じて貢献、再び安東将軍倭国王とする。(『宋書』夷番伝)
 「二十年、倭國王濟、遣使奉獻、復以爲安東將軍・倭國王」(宋書倭国伝)

四五一年=宋朝・文帝から「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」を加号される。「二十八年、加使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六國諸軍事、安東將軍如故、并除所上二十三人軍郡。(『宋書』倭国伝)
「七月、元嘉28年、倭国王「済」を、使持節、都督、新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事を加えた。安東将軍は前のままとする。並びに二三人を軍・郡(将軍号・郡太守号)に授爵した」((『宋書』文帝紀)

四五七年=大明元年春正月 甲辰,以百濟(・・)王(・)余慶為鎮東大將軍(宋書本紀 孝武帝記)

四六〇年=大明四年春辛巳、倭國遣使獻方物(宋書本紀 孝武帝記)
四六〇年=12月、孝武帝へ遣使して貢物を献ずる。(『宋書』孝武帝紀)「大明4年12月丁未、倭国が使臣を遣わし、使いを遣わして方物を献ず」(「大明四年十二月丁未、倭国遣使献万物」)〔宋書本紀 孝武帝記〕。「大明四年12月丁未、倭国遣使朝貢」(南史本紀文帝記)。)
*孝武帝(こうぶてい)は、南朝宋の第4代皇帝。姓は劉、名は駿。字は休龍、小字は道民。(在位:453年 - 464年)

四六二年 大明六年三月壬寅、以倭国王世子為安東将軍」(宋書本紀 孝武帝記)=(大明六年)宋・孝武帝が、済の世子の興を安東将軍倭国王とする。
     「大明六年、詔曰、倭王世子興、奕嗣辺業。宜授爵号、可安東将軍倭国王」〔宋書列伝 倭国条〕=大明6年、詔を発して、倭王の世子興が忠義を大きく(奕)新たに辺境の地の業を継ぎ、よく治めたので、安東将軍倭国王を授爵した」。「大明6年3月壬寅、倭国王の太子「興」を安東将軍と倭国王に授爵した」(「大明六年三月壬寅、以倭国王世子為安東将軍倭国王」)(南史列伝倭国条)。
     
世祖の大明六年、詔して曰く、「倭王世子興、奕世戴ち忠、藩を外海に作し、化を稟けを寧んじ、恭しく貢職を修め、新たに辺業を嗣ぐ。宜しく爵号を授くべく、安東将軍倭国王とすべし」『宋書倭国伝』

四七一年 世子興は稲荷山の鉄剣と、江田船山の鉄刀、倭王・旨に贈る。

四七二年(蓋鹵王十八年))三国史記によれば、使者を遣わして北魏に上表し、高句麗征伐のため援軍の派兵を願い出たが、孝武帝の返答は出兵拒否で、芳しいものではなかった。
 (これが高句麗僧・道林に欺かれ、高句麗の襲来を招いた。この時、文周は蓋鹵王の子で王子だった書く。)
*武帝(ぶてい)は、南朝斉(南斉)の第2代皇帝。姓は蕭、諱は賾(さく)。在位(482年- 493年)
四七五年九月、蓋鹵王、高句麗長寿王の派兵に屈し漢山を襲撃され、処刑され没す。(三国史記の年紀)=済死す。

日本書紀では雄略5年夏「百済の加須利君(かすりのきし)、蓋鹵王(かふろわう)なり。」と明記しています。また、稲荷山の鉄剣の銘文にある、「獲加多支鹵大王」(わかたきろだいおう)の名が蓋鹵王の諱(いみな)の百濟における文字です。わかたきろと発音するのは日本語流です。後節、「稲荷山古墳から出土した鉄の剣は百濟製」に詳細。雄略元年は458年とされます。雄略5年夏とは463年にあたりますね。いずれも蓋鹵王の在位年数に合っています。以下、小著「卑彌呼Xファイル」より改訂のうえ抜粋。
蓋鹵王は即位後早い時期に宋に遣いを送り、自身の身内や高官十一人への爵号授与を願い出ました。十一人の内訳は余紀、余昆(昆支)、余暈、余都、余乂、沐衿、余爵、余流、麋貴、于西、余婁。475年9月、高句麗・長寿王襲来し、漢山城は落城、蓋鹵王、王子ほか王族が処刑されてしまいます。このうち生き残ったのは余都、余昆(昆支)のみで、ほかは殺されたか、生死不明です。余昆(昆支)は日本に逃れて461年、昆支は 河内で倭の援軍を得て、南漢城に自ら進軍しましたが、すでに高句麗に攻略された後でした。余昆(昆支)は蓋鹵王の弟の軍君崑攴君の子供とされています。軍君崑攴は日本書紀の雄略5年に書かれています。
その物語とは。「蓋鹵王は 嘆いてこう言った。「娘(池津姫)を倭(やまとの)王(こしき)に嫁がせたが、しかし無礼にも我が国の名を失えり。倭王は百済のことをすっかり忘れてしまった。もう女を倭王に貢(たてまつ)るのはこりごりだ。(この娘は日本書紀で焼き殺された池津姫のこと)いま、軍君よ、日本に行って天皇(すめらみこと)に仕えまつれ、わが孕める婦(側室か?)で妊娠している女を琨支よ、お前にに嫁せるから、その女と一緒に日本に行ってくれ」、これは倭王との政略結婚が効を失っているので、しっかり百済を支えるようにとの密命をあたえたのだろう。妊娠している婦の名前は分からないが、産み月に当たっていたので、もし子供が産まれたら、その子を「速やかに国に送らしめよ」と命じた。筑紫の 各羅嶋(かからのしま)で子供が産まれたので「嶋君」と云う。いよいよ、王族を送りこむことにしたのだが、その時、妊娠している女性を妻として同行させてきたのだ。
嶋君(軍君の子とされるだが、実は蓋鹵王の子だということが分かりますよね。軍君崑攴は百済に戻って数年後にで死んでしまいます。各羅嶋で生まれてから40年後、嶋君は船に乗せて本国に送り返えされます。なんと武寧王に即位します。武寧王は故に「斯麻王」 (書記では)と書かかれます。嶋君は実に40歳まで日本で暮らしていたのちに、即位し武寧王となったのです。」
武寧王の即位は501年です。各羅嶋(かからのしま)で誕生したのが460年~461年頃ですから、およそ40年間は日本暮らしをしていたというわけです。武寧王陵は王妃と一緒に葬られているという異例の王墓ですが、王妃が日本で結婚した女性であることは確かなことでしょう。
*各羅嶋(かからのしま) 現在の東松浦半島の沖合にある加唐島とされています。
* 江田船山古墳出土大刀の銀象嵌銘の主体者は百済の蓋鹵王と解釈し、九州が韓国の領土であったと主張している。(一般的には大刀銘の主体者は獲加多支鹵大王(倭王武、雄略天皇)とする説が主流となっている。)

三国史記 百濟本紀では漢城が高句麗に攻め込まれ、渦中に分周と木劦滿致、祖彌桀取の三人を城外に出し、南に落ち延びた経緯が書かれている。

三國史記 卷第二十五 百済本紀第三  蓋鹵王 二十一年条

二十一年(475年) 秋九月 麗王巨璉 帥兵三萬 來圍王都漢城 王閉城門 不能出戰 麗人分兵爲四道夾攻・・・ 又乘風縱火 焚燒城門 人心危懼 或有欲出降者王窘不知所圖 領數十騎 出門西走 麗人追而害之 先是 高句麗長壽王 陰謀百濟 求可以間諜於彼者 時 浮屠道琳應募曰 愚僧旣不能知道思有以報國恩 願大王不以臣不肖 指使之 期不辱命 王悅 密使譎百濟 於是道琳佯逃罪 奔入百濟 時 百濟王近蓋婁 好博弈道琳詣王門 告曰 臣少而學碁 頗入妙 願有聞於左右 王召入對碁 果國手也 遂尊之爲上客 甚親昵之 恨相見之晩 道琳一日侍坐 從容曰 臣異國人也 上不我疎外 恩私甚渥 而惟一技之是效 未嘗有分毫之益 今願獻一言 不知上意如何耳 王曰 第言之 若有利於國 此所望於師也 道琳曰 大王之國 四方皆山丘河海 是天設之險 非人爲之形也 是以四鄰之國 莫敢有覦心 但願奉事之不暇 則王當以崇高之勢 富有之業 竦人之視聽而城郭不葺 宮室不修  先王之骸骨 權攢於露地 百姓之屋廬 屢壞於河流 臣竊爲大王不取也 王曰 諾 吾將爲之 於是 盡發國人 烝土築城卽於其內作宮樓閣臺榭 無不壯麗 又取大石於郁里河 作槨以葬父骨 緣河樹堰 自蛇城之東 至崇山之北 是以倉庾虛竭 人民窮困邦之陧杌 甚於累卵 於是 道琳逃還以告之 長壽王喜 將伐之 乃授兵於帥臣 近蓋婁聞之 謂子文周曰 予愚而不明 信用姦人之言 以至於此民殘而兵弱 雖有危事 誰肯爲我力戰 ・・・・吾當死於社稷 汝在此俱死 無益也 盍避難以續國系焉 文周乃與木劦滿致·祖彌桀取 木劦·祖彌皆複姓隋書以木劦爲二姓 未知孰是 南行焉 至是高句麗對盧齊于·再曾桀婁·古尒萬年再曾·古尒皆複姓等帥兵 來攻北城 七日而拔之 移攻南城 城中危恐王出逃 麗將桀婁等見王 下馬拜已 向王面三唾之 乃數其罪 縛送於阿且城下戕之 桀婁·萬年本國人也 獲罪逃竄高句麗。

二十一年九月、高句麗の王巨璉(きょれん)は師兵三万人を率いて王都・漢城を包囲した。王は城門を閉じ、城外に出て戦うことができなかった。高句麗は兵を四道に分けて、四つの街道を通って城を挟み撃ちにした。また、風に乗じて火を放ち、城門を焼いたので、場内の人たちはあやぶみ懼れ、あるものは城をでて投降しようとした。王は追いつめられてどうしてよいかわからず、ついに数十騎を率いて城門をでて西方に逃走した。高句麗軍が追撃して逃走を妨害した。
 これより先、高句麗の長寿王は密かに百済を滅ぼそうと謀り、かの地に間諜に入り込む者を求めた。この時、浮屠(ふと・僧侶)道琳が応募して言った。「愚僧はもはや道をきわめることはできませんが、國恩には報いたいと思っています。どうか、大王が臣を不肖な者とせず、指して使ってくだされば必ず王命を辱めることはないでしょう。」王は悦んで、ひそかに百済に密使をおくりあざむかせた。道琳は罪をかぶって百濟に逃れてきたと偽って百済に逃げ込んだ。このとき、百済王の近蓋鹵王は博弈(ばくえき)を好んでいた。道琳は王門に詣でて、「臣は幼少より囲碁を学んでとても妙技をえました。どうか王の側近の方に申し上げてください。」と告げた。王は彼を宮中に召し入れて、碁の相手をさせたが、言うとおりに名人であった。ついに王は彼を尊んで上客と為し、たいへん昵懇になり互いに会うことが遅かったことを恨むほどであった。道琳がある日、王に侍っていたときに、ゆったりとして「臣は異国人です。それであるのに、王はわたしを疎外せず、私をはなはだ手厚くもてなしてくださったことをありがたく思っております。そしてこれは一芸に秀でているためですが、いまだ少しも利益になることをしていません。いま一言申し上げたいと思いますが王のお気持ちがどのようであるかわかりません。」と言った。王は、順序良く話しなさい。もし國に利益があるならば、これは師の望むところでしょう。」と言った。
道琳は、「大王の國は四方がすべて山や丘、河や海に囲まれており、これこそ天が作った要害の地で、人の作った形ではありません。これこそが四隣の国々があえて伺い見ようとしないところです。ひたすら王に仕えることを願い、他のことを考える暇(いとま)もありません。王はまさに崇高の勢いと、富貴の業をもっているのに、人の耳目を恐れて、城郭は造らず、宮殿は修理せず、先王の骸骨(むくろ)は露地に仮埋葬したままです。百姓の屋根もしばしば河に流され壊されています。このようなことは大王がとるべきではないと密かに考えています。」王はそれを聞いて、承知した。私はそれをやろうと思う。」と言った。
そこで、國人(部長)をすべて動員して、土を盛り上げ、城を築いて、その中に、宮殿、楼閣、高殿などを作ったが、いずれも壮大で華麗でないものはなかった。また、大石を郁里河(漢江)から取り、それで郭をつくって父王の遺骨を葬った。また、河にそって樹堤を築いたがそれは蛇城の東から崇山の北まで及んだ。その結果、米の倉庫はすっかり空になり、人民は窮乏して国家の危急は累卵(るいらん)よりはなはだしかった。ここで道琳は高句麗に逃げ帰って報告した。高句麗の長寿王は悦んでいよいよ百濟を討伐しようとし、軍を将軍たちに委ねた。近蓋鹵王が高句麗の出兵を聞いて、子の分周に、「予は愚かで人を見る目がなく、姦人の言葉を信用して、このような状態になった。今となっては民は傷つき、軍は弱体で、危機になっても誰がすすんで私のために戦ってくれるだろう。吾は社稷(くに)のために死ぬのは当然だが、汝がここに在りて倶(とも)に死ぬのは無益である。難を避けて国系を継いでほしい。そこで文周王は木劦滿致(もくらまち)・祖彌桀取(そみけっしゅ)等と供に南に行った。高句麗の對盧(てろ)の齊于(さいう)・再曾桀婁(さいそうけつる)・古尒萬年(こにまんねん)等の師兵は北城を七日間で抜き、南城に攻撃を移した。城中は畏れ脅えて王は城を捨てて逃げ出したが、高句麗の将軍・桀婁(けつる)等が王を見つけ馬から下り、王を拝して王の顔に唾を三度吐きかけ、王の罪を数え上げ、阿且城下に縛って送り、そこで殺害した。

詳細は「稲荷山の鉄剣銘文・江田船山古墳出土の鉄刀」を参照
 ここで、注意しなければならない。この462年の詔書は、倭王興はまだ王に即位する前の叙勲です。

*蓋鹵王は百済王余慶と書かれ、その世子=太子・興は牟都です。はやくから、牟都が政治を佐治していたことが判明します。摂政であったのです。世子(せじゃ)とは王の継承者のことです。日本流に云うと立太子した王子。世継となります。

*興=牟都が王に即位するのは四七五年九月以後のことなので、一三年前(大明六年)に中国・孝武帝が興を安東将軍倭国王にしていたこととなり、興の王の即位年より遡及しています。斉が百濟王・鎮東大將軍に叙され、そして、太子のまま世子・興が安東将軍倭国王になっていたことになります。一国としては、王と世子が重複して除綬を受けていたのです。太子なのに倭国王とされていた事実を日本書紀からはどうやって説明できますか?

*宋書倭国伝では、「濟死、世子興遣使貢獻。世祖(孝武帝)大明六年(四六二年)、詔曰、倭王世子興、奕世載忠、作藩外海、禀化寧境、恭修貢職、新嗣邊業、宜授爵號、可安東將軍・倭國王。」(宋書倭国伝)=「濟死、世子興遣使貢獻」、中国史ではこの年は大明六年(462年)です。三国史記は、蓋鹵王の死去を475年とします。

 倭王興
22. 文周王==倭国王興 (諱は牟都 在位四七五年―四七七年)
  日本書紀では文洲王。三国遺事王歴では文明王。
『日本書紀』
雄略天皇』廿一年春三月、「天皇、聞百濟爲高麗所破、以久麻那利賜汶洲王、救興其國。」
応神天皇廿三年夏四月、「百濟文斤王、薨。天王、以昆支王五子中第二末多王」




四六二年 大明六年三月壬寅、以倭国王世子為安東将軍」(宋書本紀 孝武帝記)=(大明六年)宋・孝武帝が、済の世子の興を安東将軍倭国王とする。
宋書 《卷六本紀第六 孝武帝》
37 五月庚辰,・・・中略・・・壬寅,以倭國王世子興為安東將軍。乙巳,改豫州南梁郡為淮南郡,舊淮南郡并宣城。丁未,輔國將軍、征虜長。・・・壬寅の年は462年にあたります。(西暦年を60で割って42が余る年が壬寅の年となります。)
 
「大明六年、詔曰、倭王世子興、奕嗣辺業。宜授爵号、可安東将軍倭国王」〔宋書列伝 倭国条〕=大明6年、詔を発して、倭王の世子興が忠義を大きく(奕)新たに辺境の地の業を継ぎ、よく治めたので、安東将軍倭国王を授爵した」。

「大明6年3月壬寅、倭国王の太子「興」を安東将軍と倭国王に授爵した」(「大明六年三月壬寅、以倭国王世子為安東将軍倭国王」)(南史列伝倭国条)。
     
世祖の大明六年、詔して曰く、「倭王世子興、奕世戴ち忠、藩を外海に作し、化を稟け境を寧んじ、恭しく貢職を修め、新たに辺業を嗣ぐ。宜しく爵号を授くべく、安東将軍倭国王とすべし」(宋書倭国伝)


 *蓋鹵王の世子、つまり、太子牟都の時に倭国王を除綬しました。太子だったのに倭国王の称号を得ていました。ここは、即位後でないところが重要ポイントで、専門家でも太子のときに倭国王に除されていることに、ありえないなどとして、混乱しています。
(四七六年春三月、濟死、世子興遣使貢獻。世子興、使を遣わして貢献す。・・・この時に、遡って倭国王に追号したのかもわかりません。王として追認することです。蓋鹵王の死が突然だったため、喪に服しており、この年は王に即位することを認めてもらうために朝見したのでしょうか。使者を宋に派遣したが、高句麗が道を塞いでいるのですぐに行くことができなかった。(三国史記)朝鮮史では高句麗が邪魔をして朝貢できなかったといっています。倭王武の奏上書と同じで、朝貢が遅れた言い訳をしています。すでに遼江を経て北魏・孝文帝のいる洛陽に朝貢する北道は塞がれていたのですね。

 四七五年九月、首都、漢城で蓋鹵王の命で、牟都は新羅に救援を求めて王城を出ました。昆支もまた、日本に救援をもとめて南方に逃れ、浪速で兵を募りました。(三国史記)都は以前から摂政として蓋鹵王を佐治していました。十月に新羅の兵一万を率いて漢城に戻りましたが、漢城はすでに落ち、蓋鹵王が処刑された後でした。牟都はただちに王位について、大豆山城(忠清北道清州市)を増強しました。文周は兵官佐平に解仇を、弟の昆支を内官佐平にし、長男三斤を太子としました。漢城は疲弊甚だしく、熊津(うんじん・忠清南道公州市)に遷都しました。この年は、476年と言われています。昆支がまもなく亡くなったので、解仇は朝廷を支配するようになり、ついに477年9月に解仇の放った刺客が文周王を暗殺してしまいます。父王がなくなったので、三斤はわずか13歳で即位しました。解仇の前王暗殺が発覚しなかったこともあって解仇は全権を握りつづけました。478年、大豆山城を占拠して謀反を起こしましたが失敗に終わり解仇は殺害されました。ただ、三斤は王になった後、3年目に亡くなっています。文周が3年、三斤も3年、蓋鹵王が惨死したあとも、内外ともに不安定な時期が続いていたのです。(日本書紀では雄略ニ十年三月に百済汶洲王に久麻那利(こむなり)を与え、国を復興させたと記しています。)
23.三斤王
 文周王は弟の昆支を内官佐平にし、長男三斤を太子としました。

『日本書紀』

雄略天皇』廿一年春三月、「天皇、聞百濟爲高麗所破、以久麻那利賜汶洲王、救興其國。」
応神天皇廿三年夏四月、「百濟文斤王、薨。天王、以昆支王五子中第二末多王」


倭王武
24. 東城王==倭国王武 (諱は牟大・牟太 在位四七九年―五〇一年)
日本書紀では末多王(またおう)。


『日本書紀』
①応神天皇廿一年春三月、天皇、聞百濟爲高麗所破、以久麻那利賜汶洲王、救興其國。時人皆云「百濟國、雖屬既亡、聚夏倉下、實頼於天皇、更造其國。」汶洲王、蓋鹵王母弟也。日本舊記云「以久麻那利、賜末多王。」蓋是誤也。久麻那利者、任那國下哆呼唎縣之別邑也。
②応神天皇廿三年夏四月、百濟文斤王、薨。天王、以昆支王五子中第二末多王・幼年聰明


琨支の五王子の二番目の王子。武寧王の異母兄ととして記される。(雄略天皇5年、雄略天皇23年、武烈天皇4年)


四七七年=「これより先、興没し(三国史記・四四七年九月)興死、弟武立。自称使持節、都督、百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国、諸軍事、安東大将軍、倭国王(宋書倭国伝、宋書列伝倭国条)=[興が死に、弟の武立つ。武は自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王」と称する」。

四七七年十一月 11月、遣使して貢物を献ずる。(宋書順帝紀)「昇明元年冬11月己酉、倭国が使いを遣わして方物を献ず」(「昇明年元月冬十一月己酉、倭国遣使献万物」)〔宋書本紀-順帝記〕。
(三国史記では、四七七年九月に文周王が暗殺された。一一月遣使なら倭王興は三斤王となるが、宋書では三斤王に当る王は記されていない。このとき三斤王八歳だった。三国史記は王として追号した可能性がある。追号とは亡くなった後に、王位についたことにすること。その結果、王統史が再編される。このことは、年数が調整されるため、中国史と三国史記の年数がずれているばあい中国史の年数を正しいと判断する。)

四七八年=遣使が倭王武の上表を奉じる。自ら開府儀同三司と称し、叙正を求める。「順帝、武を使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」とする。(『宋書』順帝紀)(「武」と初めて明記した・武使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東大将軍倭王。)

四七九年=「建元元年、倭国王「武」を進めて新たに、使持節、都督、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭国王に徐し、号は鎮東大将軍となす」(「建元元年、進新徐、使持節、都督、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王武、号為鎮東大将軍」)(南斉書列伝東夷・倭国条)。

「斉の建元に(中)、倭国王「武」を使持節、都督、新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国、諸軍事、鎮東大将軍に授爵した」(「斉建元中、倭国王武、除使持節、都督、新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、鎮東大将軍」)(梁書列伝倭国条)。

「建元中、倭国王「武」を鎮東大将軍に授爵した」(「建元中、倭国王武、除安東大将軍」)(南史列伝倭国条)。南斉の高帝、王朝樹立に伴い、倭王武を鎮東大将軍に進号。(『南斉書』倭国伝)

五〇二年=4月、梁の武帝、王朝樹立に伴い、倭王武を征東大将軍に進号する。(梁書武帝紀)「天藍元年四月戊辰、倭国王「武」を鎮東大将軍から征東将軍に進号した」(「天藍元年四月戊辰、鎮東将軍倭王武進号征東将軍」)(梁書本紀武帝記)
「高祖即位、倭国王「武」を征東将軍に進号した」(「高祖即位、進武号安東征東将軍」)〔梁書列伝-倭国条〕。
「倭国王「武」を(鎮東大将軍から)征東大将軍に進号した」(「進安東将軍倭王武為征東大将軍」)(南史本紀 武帝記)。


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『周書』 卷四十九 列傳第四十一異域上 唐 令狐德棻著 
15 ・・・建武三年,此下缺文報功勞勤,實存名烈。假行寧朔將軍臣姐瑾等四人,振竭忠效,攘除國難,志勇果毅,等威名將,可謂扞城,固蕃社稷,論功料勤,宜在甄顯。今依例輒假行職。伏願恩愍,聽除所假。寧朔將軍、面中王姐瑾,歷贊時務,武功并列,今假行冠軍將軍、都將軍、都漢王。建威將軍、八中侯,餘古,弱冠輔佐,忠效夙著,今假行寧朔將軍、阿錯王。建威將軍,餘歷,忠款有素,文武烈顯,今假行龍驤將軍、邁盧王。廣武將軍餘固,忠效時務,光宣國政,今假行建威將軍、弗斯侯。
16 牟大又表曰:「臣所遣行建威將軍、廣陽太守、兼長史臣高達,行建威將軍、朝鮮太守、兼司馬,臣楊茂,行宣威將軍、兼參軍,臣會邁等三人,志行清亮,忠款夙著。往泰始中,比使宋朝,今任臣使,冒涉波險,尋其至效,宜在進爵,謹依先例,各假行職。且玄澤靈休,萬里所企,況親趾天庭,乃不蒙賴。伏願天監特愍除正。
17 達邊效夙著,勤勞公務,今假行龍驤將軍、帶方太守茂志,行清壹,公務不廢,今假行建威將軍、廣陵太守,執志周密,屢致勤效,今假行廣武將軍、清河太守。」
18 詔可,並賜軍號,除太守。為使持節、都督百濟諸軍事、鎮東大將軍。使兼竭者僕射孫副策命大襲亡祖父牟都為百濟王。曰:「於戲!惟爾世襲忠勤,誠著遐表,滄路肅澄,要貢無替。式循彞典,用纂顯命。往欽哉!其敬膺休業,可不慎歟!制詔行都督百濟諸軍事、鎮東大將軍百濟王牟大今以大襲祖父牟都為百濟王,即位章綬等玉銅虎竹符四。王其拜受,不亦休乎!」
15;の加行
【人名】姐瑾→冠軍將軍、都將軍、都漢王。建威將軍
【人名】餘古寧朔將軍、阿錯王。建威將軍
【人名】餘歷→龍驤將軍、邁盧王
【人名】餘固→假行建威將軍、弗斯侯
16;の加行
【人名】高達→行建威將軍、朝鮮太守、兼司馬
【人名】楊茂→威將軍、兼參軍
【人名】會邁等三人→天監特愍の除正願う
【人名】茂志→建威將軍、廣陵太守
【人名】邁→廣武將軍、清河太守

19 是歲,魏虜又發騎數十萬攻百濟,入其界,牟大遣將沙法名贊首流解禮昆木干那率眾(衆)襲擊虜軍,大破之。建武二年,牟大遣使上表曰:「臣自昔受封,世被朝榮,忝荷節鉞,剋攘列辟。往姐瑾等並蒙光除,臣庶咸泰。去庚午年,獫狁弗悛,舉兵深逼。臣遣沙法名等領軍逆討,宵襲霆擊,匈梨張惶,崩若海蕩。乘奔追斬,僵尸丹野。由是摧其銳氣,鯨暴韜兇。今邦宇謐靜,實名等之略;尋其功勳,宜在褒顯。今假沙法名行征虜將軍、邁羅王,贊首流為行安國將軍、辟中王,解禮昆為行武威將軍、弗中侯,木干那前有軍功,又拔臺舫,為行廣威將軍、面中侯。伏願天恩特愍聽除。」又表曰:「臣所遣行龍驤將軍、樂浪太守兼長史臣慕遺,行建武將軍、城陽太守兼司馬臣王茂,兼參軍、行振武將軍、朝鮮太守臣張塞,行揚武將軍陳明,在官忘私,唯公是務,見危授命,蹈難弗顧。今任臣使,冒涉波險,盡其至誠。實宜進爵,各假行署。伏願聖朝特賜除正。」詔可,並賜軍號。

訳:
この年、宋朝への遣使とあるが、建武は南斉の年号 建武(494年-498年)。建武三年は496年。北魏はまた数十万騎の騎兵をもって百濟を攻めた。その境に入り牟大は将軍、沙法名・贊首流・解禮昆・木干那率らを遣わせ北魏軍を襲撃し、これを太破した。建武二年(495年)牟大は遣使し上表して曰く「臣自ら封を受け、世々朝が栄える恩を被り、・・・・・・」
☆牟大が戦功に対して褒賞を得るために朝見し、加行(昇格)を求めた官名
19;のの加行
【人名】沙法名→征虜將軍、邁羅王
【人名】贊首流→安國將軍、辟中王
【人名】解禮昆→武威將軍、弗中侯
【人名】木干那・拔臺舫→廣威將軍、面中侯
【人名】慕遺→建武將軍、城陽太守兼司馬
【人名】王茂→振武將軍、朝鮮太守
【人名】張塞→行揚武將軍
【人名】陳明?→無記
【人名】帶方太守茂志→建威將軍
*
*北魏(ほくぎ、拼音: Běi Wèi、386年 - 534年)は、中国の南北朝時代に鮮卑族の拓跋氏によって建てられた国。南に南斉と接す。百濟は北魏と戦い、南斉に褒賞を求めた朝見とみなせます。ここにおいて倭王武(牟大)は鮮卑の騎兵と戦ったという事実からは、倭王武は雄略天皇(於学会通説)ではないことが明らかです。
*孝文帝(こうぶんてい)北朝北魏の第6代皇帝(在位:471年9月20日 - 499年4月26日)。諱は宏。孝文帝の時代に北魏宗室の姓は拓跋から元に改められた。
*斉(せい、479年 - 502年)は、中国の南北朝時代に江南に存在した国。南朝の一つ。北朝の北斉や春秋戦国時代の斉などと区別するために南斉(なんせい)あるいは蕭斉(しょうせい)とも呼ばれる。武帝(482年 - 493年ー廃帝鬱林王(493年 - 494年)


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21 倭國,在帶方東南大海島中,漢末以來,立女王。土俗已見前史。建元元年,進新除使持節、都督倭·新羅·任那·加羅·秦韓·慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭王武號為鎮東大將軍。

訳:
 倭国、帯方東南海中にあり、漢の末以来、女王を立て、土俗はすでに前史に見えている。建元元年(479年)、使持節、都督倭·新羅·任那·加羅·秦韓·慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭王武に鎮東大將軍の号を新たに除す。(進号のこと)
*建元;南北朝時代、南斉の高帝蕭道成の治世に行われた元号。(479年 - 482年)
*北周(ほくしゅう、拼音: Bĕizhōu、556年 - 581年)は、中国の南北朝時代に鮮卑系の宇文氏によって建てられた国。

周書はすごくストレートですね。牟大こと倭王武が百濟に侵入した北魏の騎馬兵を撃破したと書かれています。倭王武とは雄略天皇だと考える人は、『周書』のこの記述に対して疑義を唱えるか、無視するほかないのでしょう。倭国条でも都督倭·新羅·任那·加羅·秦韓·慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭王武と記されています。
*5世紀後半は百済王が倭国王を中国にたいして名乗っています。南斉が倭国王を自称した百濟王に騙されたとしか考えられません。しかし、この百済王が東城王です。昆支の二番目の子として日本に在住したことがあるという側面があります。
『日本書紀』 
武烈天皇 四年夏四月、拔人頭髮、使昇樹巓、斮倒樹本、落死昇者、爲快。是歲、百濟末多王無道、暴虐百姓。國人遂除而立嶋王、是爲武寧王。百濟新撰云「末多王無道、暴虐百姓、國人共除。武寧王立、諱斯麻王、是琨支王子之子、則末多王異母兄也。琨支、向倭時至筑紫嶋、生斯麻王。自嶋還送、不至於京、産於嶋、故因名焉。今各羅海中有主嶋、王所産嶋、故百濟人號爲主嶋。」今案、嶋王是蓋鹵王之子也、末多王是琨支王之子也。此曰異母兄、未詳也。
(斯麻王=武寧王の異母兄とする。)


武烈天皇は奇行が目立ちます。従者の頭の毛を抜いたり、木に登らせてその木を切り倒して従者を殺して喜んでいたというのです。
武烈天皇の暴虐ぶりは目を覆うばかりです。
二年の秋九月に、孕婦の腹を割きて其の胎を観す。
三年の冬十月に、人の爪を解きて、芋を掘らしめたまう。
四年の夏四月に、人の頭髪を抜きて、梢に登らしめ、樹の本を切り倒し、昇れる者を落死するのを見て快としたまふ。
五年の夏六月に、人を塘(堤つつみ)の樋に伏せ入らしめ、外に流出づるを、三刃の矛を持ちて、刺殺すことを快としたまふ。
七年の春二月に、人(従者)を樹に昇らしめ、弓を以ちて射墜として咲いたまふ。
八年の春三月に、女をひたはだかにして、平板の上に坐ゑ、馬を牽きて前に就して遊牝せしむ。女の不浄を観るときに、湿へる者は殺し、湿はざる者は没めて官やつことし、此を以ちて楽としたまふ。

原文:ご覧になれます。⇒:リンク
二年秋九月、刳孕婦之腹而觀其胎。
三年冬十月、解人指甲、使掘暑預。
四年夏四月、拔人頭髮、使昇樹巓、斮倒樹本、落死昇者、爲快。
五年夏六月、使人伏入塘楲、流出於外、持三刃矛刺殺、爲快。
七年春二月、使人昇樹、以弓射墜而咲。
八年春三月、使女躶形坐平板上、牽馬就前遊牝。觀女不淨、沾濕者殺、不濕者沒爲官婢、以此爲樂。

これは日本の皇統史としては隠しておきたい事実ですよね。日本書紀で、天皇の行状として書かれていることこそ、びっくりしてしまいます。ほんとうに天皇としてというより、人として正気ではありませんからね。書記官が上梓しても削除されなかったということは、実は日本の天皇じゃなかったのではないかと疑います。これは百済の東城王のことではないかという疑念です。



一方書紀の武烈天皇紀の引用では末多王は百姓に無道な暴虐を働いて、国人が王を廃したとあります。
三国史記では、東城王も刺客にあって死ぬことが書かれています。以下、

「三国史記 東城王21年(499年)夏、非常な日照りで民が餓えた。互いに食い合うほどであった。盗賊が各地に起きたので、群臣たちは国庫(米倉)を開いて、民を救うことを請うたが、王はこれをきかなかった。漢山の住民たち二千人が高句麗に逃げた。冬10月に疫病が大いにはやった。・・・王は諫臣の上表に返事をせず、門を閉じた。・・・

23年(501年)春正月、王都の一人の老婆が狐に化けて逃げ、二匹の虎が南山でその狐を捕らえることができなかった。3月、霜が降りて麦を害した。夏五月から秋まで雨が降らなかった。七月、炭峴城(たんけんそん)に柵を設けて新羅に備えた。8月、加林城を築いて、衛士佐平の苩加(苗加)に鎮守させた。冬10月、王は泗沘の東の原で狩をした。11月には熊川の北の原で猟をしているうちにまた大雪に妨げられてが馬浦村にまた宿を取った。はじめ王は苩加に鎮守させようとしたが苗加は加林城に行くことを望まず、病気だといって王命を辞退した。王はこれを許さず、それ以来苩加は王を怨んで、狩の機会に刺客を送り、王を刺した。12月になって王は死去し、おくりなは東城王とされた。
原文:「二十三年 春正月 王都老嫗化狐而去 二虎鬪於南山 捕之不得 三月 降霜害麥 夏五月 不雨至秋 七月 設柵於炭峴 以備新羅 八月 築加林城 以衛士佐平苩加鎭之 冬十月 王獵於泗沘東原 十一月 獵於熊川北原 又田於泗沘西原 阻大雪 宿於馬浦村 初王以苩加鎭加林城 加不欲往 辭以疾 王不許 是以怨王 至是使人刺王 至十二月乃薨 諡曰東城王。

注:
1)狩に出かけることは、王宮を離れます。刺客を伏せておくには絶好の機会です。
2)衛士佐平とは従二品にあたる宮廷護衛官です。王直属の護衛長官ですね。王を殺したのは兵官佐平に格下げしたことが理由だろうか?王宮から辺地の守備に行くわけですから、左遷に不満だったのかわかりませんが、殺すほどの恨みなのでしょうか?

出典:『韓国 歴史地図』平凡社刊
3)三国志魏書 扶余傳 「舊夫餘俗、水旱不調、五穀不熟、輒歸咎於王、或言當易、或言當殺。」、「昔の扶余の風習では、水害、干害のため五穀が実らないとき、そのたびに王に罪を着せて、王を替えるのが適当だとか、王を殺すのがいいとか言う。」


第25代 武烈天皇 八年春三月、使女躶形坐平板上、牽馬就前遊牝。觀女不淨、沾濕者殺、不濕者沒爲官婢、以此爲樂。及是時、穿池起苑、以盛禽獸而好田獵、走狗試馬、出入不時、不避大風甚雨。衣温而忘百姓之寒、食美而忘天下之飢。大進侏儒倡優、爲爛漫之樂、設奇偉之戲、縱靡々之聲。日夜常與宮人沈湎于酒、以錦繡爲席、衣以綾紈者衆。冬十二月壬辰朔己亥、天皇崩于列城宮。

婢を平らな板に裸で座らせ、牡馬を前に引いてその前で遊ばせ、その陰部が濡れている女は不浄だといって殺し、濡れていない者を官婢とした。これを楽しみとしてしていた。その時、池をほって苑をつくり、禽獣をたくさん満たし、そこで、犬を走らせ、馬に試乗したりしていた。そこに入り浸っていた。大風や大雨があろうとも、王の衣服は温かいが、百姓が寒さに震えていることは忘れている。食べるもは美食で天下の人々が餓えていることには目もむけない。
小人の芸人や役者にみだらな遊戯をさせて、卑猥であやしい声を立てさせて、やりたい放題の享楽をに耽っている。日夜、内官と酒に酔いしれ、酒座の席は錦織の布で飾り、そこにはあや織りの白いねり絹の衣服を着たものが多かった。冬12月天皇は壬辰朔己亥、于列城で崩じた。(一功の超訳)
*百済の内官;十二部 外官十部:

武烈天皇は「朕(われ)継嗣(ひつぎ)なし。」という。窺い知れない悩みもあったのでしょうか?
武烈天皇の行状は百済の東城王(末多王)とよく似ています。

雄略天皇は百済の二代の王を日本から送り出しています。一人は武寧王で、雄略五年六月「ここに軍君(昆支)、すなわち一つの船を以て、嶋君を国に送る。これを武寧王とす。」
武寧王の即位は501年ですが、雄略5年に記され、末多王の即位は479年ですが、末多王のことは雄略23年に書かかれています。
末多王のほうが先に即位しているのですから、雄略紀はさかさまです。下の引用を照らし合わせると、書紀の年号はおかしいことがわかります。

雄略天皇二三年夏四月に百済の文斤王、薨せぬ。天王、昆支(こんき)の五の子の中に、第二にあたる末多王の幼年くして聡明きを以て、勅して内裏にめす。親(みずから)の頭面(こうべ)を撫でて、誠勅ねんごろにして、其の国の王とならしむ。よりて兵器を賜ひ、併せて筑紫の国の軍士五百人を遣わして、国に衛り送らしむ。これを末多王とす。」
ここにはっきりと、昆支の五人の王子の二番目の王子を百済の末多王としたことが明らかです。雄略天皇が送り返したということですが、はたして史実なのでしょうか?

そもそも雄略天皇=大泊瀬幼武天皇(おおはつせわかたけのすめらみこと)は顕宗天皇(けんぞう)の父、忍歯王(実は安康天皇・雄略の実の兄)を狩場で殺しているのですが、 顕宗天皇は天皇になられてから父の遺体がどこにあるのか分かりません。これをお探しになり、ようやくお骨をもちかえりになり、父の恨みをはらすべく雄略天皇の墓を暴こうとします。安康天皇の三年に起きた大事件ですが、古事記では安康天皇が目弱王に殺されたとあります。この暗殺事件を掘り起こすと15代.枕流王と16代.辰斯王(しんし)17代.阿莘王の兄殺しと仇討の伝承に似ています。阿莘王の父・枕流王が弟の辰斯王に殺されて王位を簒奪され、仇(かたき)として深く憎んでいたと伝えられています。
ここは主なるテーマではありませんんが、倭の五王の倭王武が雄略天皇だということに学会が疑問をもっていない・・・つまり定説だということから、疑問を呈する前に、少しだけ伏線として触れてみました。



1)朝鮮における芸人とは広大寺堂(サダン)と呼ばれ、身分としては最下層の白丁(ぺくちょん)だといわれています。奴婢よりも下層とされ、いわゆる良民からも蔑まれる差別民でした。各地を放浪して投げ銭を稼いでいた、いわゆる大道芸人の集団で、「昼は広場で曲芸や面劇(トッポギ)、プンムル・ノリと総称される農楽舞や人形劇を興行し、夜は売春を行った」...『妓生(キーセン)「もの言う花」の文化誌』
韓国ドラマ「推奴~チュノ~」チャン・ヒョク、映画「王の男」イ・ギュンギ/カム・ウソンなどに登場する芸人がリアルとは限りませんが、사당패(さだんぺ)に属しています。男寺党(ナムサダン)は男性のみで、単に「寺党」といったばあい、「女寺党」、(ヨサダン)の別称らしく、李朝後期、「男寺党(ナムサダン)」に女性が加わるようになっという説もあります。「推奴~チュノ~」は朝鮮王朝の後期と思われます。「王の男」ではイ・ギュンギの役どころが女装稚児(ピリ삐리)であることを暗示させます。お勧めリンク=三橋順子 続々・たそがれ日記「男寺党について
王が侏儒倡優を楽しんだということがいかに、はめをはずした行為だったか知るうえで、あえて男寺堂という芸能集団のことをここに記載しました。なお、朝鮮が奴隷制国家だったことは確かです。戦での捕虜は連れ帰り奴婢として私用していました。両班が労働をしないのは奴婢が行う仕事を自らが行うことを恥じとしたからです。国が奴婢を持つ権利を保護していましたから、奴婢の買い付け書は人身売買の証券でした。逃げれば兵卒が捕まえ、処罰します。そういえば、殉死は奴婢が物として扱われていたことを示しています。卑弥呼の墓は「徇葬する奴婢は百余人」とありますから、卑彌呼は奴隷制のある国の女王です。また、中国に生口を貢献しています。ですから、倭国とは、日本の弥生後期の国家形態とは一線を引いておくべきだと考えます。



『梁書』 百済伝

治する所の城を号して固麻という。邑を謂いて檐魯(タムロ)という。中国の言の郡県なり。その国に22檐魯ありて、皆子弟・・・この宗族を以て分かちてこれに拠らしむ。

百済語では、王城を固麻(こま)といい、檐魯はその区分行政地(郡の下に県)のことで、一種の経営・政治制度です。

檐魯(タムロ・えんろ)という言葉は、結構重要ですよ。檐魯は中国語の「都」と同じです。百済は、王族子弟をもって領有地を分割支配する体制でした。それが、22カ所あったと、中国が記しているのです。中国では「固麻」の二文字だけですが、日本書紀では、久麻那利、百済語では固麻那羅(コマナル・고마나루)、錦江の中流にあった熊津城のことです。このように、日中韓の固有名詞が異なるのは、通例のことです。地名に関しては、朝鮮の三国時代、さらに、高句麗、百濟、新羅で、それぞれの国での名称が異なっています。このあたりは、日本人の研究家にとって、史料がなく多くの努力が無駄骨になってしまう原因にもなります。

雄略天皇が、文周王に久麻那利を与えたと書いて言います。雄略天皇二十一年(477年)春三月条に「天皇聞。百済為高麗所破、以久麻那利賜汶洲王、救興其国」と記されています。
『宋書』卷97・列傳第57(百済国条)百濟國,本與高驪倶在遼東之東千餘里,其後高驪略有遼東,百濟略有遼西。百濟所治,謂之晉平郡晉平縣

百済国もとは高句麗と揃って遼東の東千里にあった。その後、高句麗が遼東を征服したとき百済は遼西を占有した。百済が治める所を晋平郡晋平県という。
『唐会要』百済伝

 百濟者。本扶餘之別種。當馬韓之故地。其後有仇台者為高麗所破、以百家濟海。因號百濟焉。大海之北。小海之南。東北至新羅。西至越州。南渡海至倭國。北渡至高麗。其王所居有東西兩城。
 
日本書紀では末多王(またおう)。
琨支の子。武寧王の異母兄ととして記される。(雄略天皇5年、雄略天皇23年、武烈天皇4年)百済の者、元は扶余の別種。後の今、馬韓の故地にいる。後に仇台の後継王は高句麗を連破し、百家で海を済(渡)る。ゆえに百済と号する。大海の北、小海の南にあり、新羅から東北、越州から西、南の海を渡れば倭国に至る。北には高句麗。王の居城は東西に両城あり。

*渤海の北、幽州のほぼ中央、晋平郡晋平県に元百済(異端の扶余)がありました。公孫度に忠誠し高句麗と果敢に戦ったのが尉仇台です。元百済の太祖です。公孫康は馬韓の故地、屯有県を分けて帯方郡を作り(204)、尉仇台を帯方の地に封じて王にしました。東西に二城があったというのは晋平郡晋平県と、馬韓の故地の帯方県二つの王城のことでしょう。尉仇台が初めて百済と国号を自称した国は晋平郡晋平県でだったのです。
 さらに、140年後、河南慰礼城の伯濟國を略有して、はじめて国号を百済と定めたのは近肖古王(346-375)です。中国史書では、これを馬韓の故地に遷都したと書きます。。
そして、文周王は高句麗・長寿王に抗しきれず、錦江(クムガン)の中河口の熊津に遷都しました。476年、書紀では雄略20年に久麻那利と記しています。中国は固麻と書いています。朝鮮正史では国号を「南扶余」と改めたとします。

*中国の歴史書をみると、渤海を大海と呼ぶのに対して楽浪海を小海としていた。
*この文は中国語の南方方言で書かれています。おそらく、宋の文法に倣ったものでしょう。中国南朝の六朝文化で流行した四六駢儷体だそうです。修飾詞が一部、逆行構文になっているところがあります。

*錦江(クムガン)は白村江、白馬河とも言われていました。日本側では『白村江の戦い』、「はくすきのえ」と言います。


 倭王武の上表書が決めて!

倭王武の上表書

倭国在高麗東南大海中、世修貢職
 高祖永初二年、詔曰、「倭讃萬里修貢。遠誠宜甄可賜除授」
 太祖元嘉二年、讃又遣司馬曹達奉表献方物。
 讃死弟珍立。遣使貢献、自称使持節都督倭百済新羅任那秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王、表求除正。詔除安東将軍倭国王。珍又求除正倭隋等十三人平西征虜冠軍輔国将軍号。詔並聴。
 二十年、倭国王済、遣使奉献。復以為安東将軍倭国王。
 二十八年、加使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事、安東将軍如故、并除所上二十三人軍郡。
 済死。世子興、遣使貢献。
 世祖大明六年、詔曰、「倭王世子興、奕世戴忠、作藩外海、稟化寧境、恭修貢職、新嗣辺業。宜授爵号、可安東将軍倭国王。」興死弟武立、自称使持節都督倭百済新羅任那加羅秦韓慕韓七国諸軍事、安東大将軍、倭国王
 順帝昇明二年、遣使上表。曰、
「封国偏遠、作藩于外。自昔祖禰、躬カン甲冑、山川跋渉、不遑寧処。東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国、渡平海北九十五国、王道融泰、廓土遐畿。累葉朝宗、不愆于歳。臣雖下愚、忝胤先緒、駆率所統、帰崇天極、道遙百済、装治船舫。而句麗無道、図欲見呑、掠抄辺隷、虔劉不已。毎致稽滞、以失良風、雖曰進路、或通或不。臣亡考済、実忿寇讐壅塞天路、控弦百万、義声感激、方欲大挙、奄喪父兄、使垂成之功不獲一簣。居在諒闇、不動兵甲。是以偃息未捷。至今欲練甲治兵申父兄之志。義士虎賁文武効功、白刃交前、亦所不顧。若以帝徳覆戴、摧此彊敵、克靖方難、無替前功。窃自仮開府儀同三司、其余咸仮授以勧忠節。」
詔除武、使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王

『宋書倭国伝』 478年

 倭国は高句麗の東南、大海の中にあり、世々萬里の貢職をなす。 高祖の永初二年、詔して曰く、
「倭讃、万里貢を修む。深い誠宜しく甄すべく、除授を賜うべし」と。太祖の元嘉二年、讃また司馬曹達を遣わして表を奉り方物を献ず。 讃死して弟珍立つ。使いを遣わして貢献し、自ら使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍倭国王と称し、表して除正せられんことを求む。詔して安東将軍倭国王に除す。珍また倭隋等十三人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍の号に除正せんことを求む。詔して並びに聴す。二十年、倭国王済、使いを遣わして奉献す。また以て安東将軍倭国王となす。 二十八年、使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事を加ふ。安東将軍は故の如し。ならびに上る所の二十三人を軍郡に除す。  済死す。世子興、使を遣わして貢献す。世祖の大明六年、詔して曰く、「倭王世子興、奕世戴ち忠、藩を外海に作し、化を稟け境を寧んじ、恭しく貢職を修め、新たに辺業を嗣ぐ。宜しく爵号を授くべく、安東将軍倭国王とすべし」。
 興死して弟武立ち、自ら使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事、安東大将軍倭国王と称す。

 順帝の昇明二年、使を遣わして上表して曰く、
「封国は偏遠にして、藩を外に作す。昔より祖禰(そでい・そね)躬ら甲冑をツラヌき、山川を跋渉し寧処に遑あらず。東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北(渤海)を平ぐること九十五国、王道融泰にして、土を廓き、畿を遐にす。累葉朝宗して歳に愆ず。、下愚なりといえども、忝なくも先緒を胤ぎ、統ぶる所を駆率し、天極に帰崇し、道百済を遙て、船舫を装治す。しかるに句麗無道にして、図りて見呑を欲し、辺隷を掠抄し、虔劉して已まず。毎に稽滞を致し、以て良風を失い、路に進むというといえども、あるいは通じあるいは不らず。臣が亡考、実に寇讐の天路を壅塞するを忿り、控弦百万、義声に感激し、方に大挙せんと欲せしも、奄に父兄を喪い、垂成の功をして一簣を獲ざらしむ。居しく諒闇にあり兵甲を動かさず。これを以て、偃息して未だ捷たざりき。今に至りて、甲を練り兵を治め、父兄の志を申べんと欲す。義士虎賁文武功を効し、白刃前に交わるともまた顧みざる所なり。もし帝徳の覆戴を以て、この彊敵を摧き克く方難を靖んぜば、前功を替えることなけん。窃かに自ら開府儀同三司を仮し、その余は咸な仮授して以て忠節を勧む」と。詔して武を使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍倭王に除す。」

*祖《説文解字》《巻二》《示部》:祖 始廟也 従示且聲。「始めの廟なり。(音はショ)
*禰=祢《説文解字》《巻二》《示部》:禰 親廟也。従示爾聲。[親の廟なり。」(音はジ・ニ)《説文新附》には「親の廟なり」とある。〔春秋公羊伝・隱公元年〕の註に「生きて父と稱し、死して考と稱し、廟に入りて禰と稱す」。カタカナのネの字の字源。
*廟(びょう) 祖先、先人の霊を祭る建物。宗廟、神社、やしろ、祠、御霊屋(みたまや)または祖霊舎(それいしゃ)などがあるが、廟は王朝ないし元首が護持するもの。 
*祖禰(そねい):自分の祖先を祭る始めの廟の鬼神。開祖・国祖。
*封國 中国が封ずる国。
*天極 皇帝のこと。(太一)
*藩國 檐魯國のこと。百済が封ずる国。
*毛人 烏丸・鮮卑族のこと。
*衆夷 匈奴・慕容・靺鞨(女真族)のこと。
*句麗 高句麗のこと。
*臣  蛮夷の王は中国の下臣。主従の関係にあります。漢の封じた王。
*父  武の父にあたる、済のこと。前々王余慶。
*兄  倭国王興のこと。前王牟都。
*祖禰(そねい) ここでは 尉仇台を指す。⇒王朝が異なれば祖禰は異なる。百濟は登高神(高句麗系)と尉仇台(夫餘系)の二系の宗廟があり、王朝の交代があった。倭の五王は尉仇台系。天照系は登高神系。


 倭王武の上表書では、父と兄が高句麗に無道にも殺された。喪に服しているので、兵を鍛錬しているところで、喪が明けたら必ず命をかけて報復するといっているのです。この事件は、475年9月高句麗好太王の長子・長寿王が襲来し、蓋鹵王が処刑された事件のことです。武の父が蓋鹵王に当たり、兄が文周王にあたります。蓋鹵王まで中国側は余氏としていましたが、文周王は牟氏でした。弟は倭王武=牟太です。
 ここで、倭王武に続いて倭王興が兄の文周王だというのは、日本書紀にも書かれています。「文洲王は蓋鹵王の母の弟なり」(雄略21年)とあります。『梁書』諸夷伝の「興死して弟武立ち」、「興」死して弟の「武」立つ、とあります。兄と弟であることは日中ともに一致します。牟氏というのは、おそらく蓋鹵王の正妃の実家の姓だと思われます。

1)倭国は高句麗の東南、大海の中にあり。平壌の東南は、漢江の河口である。大海は黄海で、中にありとは、~に当たるという意味で、黄海に面していると読むべきである。高句麗の国内城から見て東南が帯方に当る。

2)「道逕百濟 裝治船舫」 百済という遠いところに、造船所をもっている。(遼西晋平郡)

3)東は毛人(鮮卑・烏丸)を征すること五十五国 西は衆夷(突厥・女真)を服すること六十六国。日本は鮮卑・烏丸・突厥と交戦したことがないので、倭王讃とは日本列島にいる王ではないことが明瞭だろう。

4)渡りて海北を平ぐること九十五国を制している。海北は渤海のことである。日本が渤海周辺まで船で攻略したことはない。海北とは渤海である。

5)句麗無道にして・・・句麗は高句麗。高句麗の侵略を指す。475年9月高句麗好太王の長子・長寿王襲来・蓋鹵王処刑され、漢城が滅亡した。倭王武の奏上で、父と兄を失って喪に服している言っている裏付けとなる事件である。 従って、倭国とは、東南の黄海に面していた河南百済のことである。 『梁書』諸夷伝 「晋の安帝の時、倭王讃あり。讃死して弟の「弥」立つ。「弥」死して子の「済」立つ。「済」死して子の「興」立つ。「興」死して弟の「武」立つ。(倭王讃からの系譜である。)倭王武が百済東城王と諱が一致する

つづいて、もっとも重要なのが次の記録です。都と牟太という実名があり、牟太が倭国王武であることがはっきり書かれています。
『武帝紀』武帝蕭衍(463~502~549) 天監元年(502年)
 「死子立牟太、齊永明中、除太都督百濟諸軍事鎭東大將軍百濟王・・・鎭東大將軍倭國王

 倭王武の諱(いみな)は牟太でした。そして牟都が先代となることは、ここでも明確ですね。
『梁書』帝紀の牟太は、『三国史記』 百濟本紀で書かれてる「東城王」です。東城王の諱(いみな)は、なんと「牟大」です。東城王(501年歿)、三国史記に書かれているではありませんか。
これは、似ているどころの話でも、そんな感じがするといった話でもないのですよ。あなた、牟太の先代王は都であり、文周王の諱(いみな)、牟都(475-477)なのですよ。さらに、都も完全に一致するのですよ。中朝史を紐解けば、倭国王興と武は、百済王だったことが判明したというわけです。では、倭王武=牟大(東城王))は、日本書紀歴代天皇のうち武烈天皇(497年後半12月~501年後半12月)に年代が重なりますから、倭王武は武烈天皇に投影されるべきです。それで、雄略に比定する説は、とんちんかんで、落第だったと断定できるのですよ。
大学の史学科教授であろうと、倭王武が雄略に比定する説にたいして、心からお悔やみ申し上げます。あくまでも、”説”にたいしてですよ。


 倭王武の上表文(宋書倭国伝後半502叙授)では、「臣の亡き済は、仇敵が天路を塞ぐことを実に憤り、百万の弦を鳴らして訴え、正義の声に感激し、まさに大挙せんと欲するも、突然に父兄が亡くなり、垂成の功をして一簣(モッコ一杯分)も獲れず。諒闇(一年の服喪)に在り、軍装の兵を動かさず、ここに休息するを以て未だ戦勝を得られず。今に至り、甲を練り、兵を治め、父兄の志を述べんと欲し、義士と勇士、文武に功を尽くし、白刃を前に交えるも、また顧みることなし。 もし帝德の覆戴を以てこの強敵を挫き、勝って方難を鎮めるも、前功に替えることなし。密かに開府儀同三司を自ら仮称し、その余も皆、各々に仮授(して頂ければ)、以て忠節を勧める」 ・・・・臣は蓋鹵王で、武の父、兄は文周王として読むと、すっきり判読できます。

『晋書』安帝紀の義照九(413)「高句麗・倭国・・・・・並びに方物を献ず」

『晋書』 安帝紀(413) 「倭国、東晋安帝に貢物を献ずる」
   倭国王珍、いったい、何を献上したのでしょうかね。
『晋書 義照起居注』(太平御覧に引用)「倭国、貂の皮、人参等を献ず。詔して細笙・麝香を賜う」とあります。
 さて、みなさん、貂(テン)の毛皮が日本の献上品でしょうか?また、人参は朝鮮の特産物ですよ。
この倭国王、なりすました百済王のことではないかなあ、・・・と感じますよね。
『日本書紀』応神天皇8年春に王子直支、および25年に直支王(ときおう)とかかれる直支王(ときおう)が倭国王珍です。
*笙(しょう)
*麝=じゃこうじか。麝香. ジャコウ. ジャコウジカの雄の下腹部から出る分泌物を乾燥させた香料。


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《梁書》
《卷第五十四列傳第四十八 諸夷海南諸國 東夷 西北諸戎》
52 文身國,在倭國東北七千餘里。人體有文如獸,其額上有三文,文直者貴,文小者賤。土俗歡樂,物豊而賤,行客不齎糧。有屋宇,無城郭。其王所居,飾以金銀珍麗。繞屋為緌,廣一丈,實以水銀,雨則流于水銀之上。市用珍寶。犯輕罪者則鞭杖;犯死罪則置猛獸食之,有枉則猛獸避而不食,經宿則赦之。

訳:文身国は倭国の東北7000余里にあります。体は獣のように入れ墨していて、ひたいには三つの文様があります。その入れ墨がまっすぐな者は貴人で、小さいものは卑賤な者たちです。風俗はおおらかで、物は豊かですが、流浪者に食事を与えることはしません。家屋はあっても城郭はありません。その王の住まいは金銀や宝飾で華麗に飾られています。幅一丈もある溝に本当の水銀を貯め、雨水は水銀の上の流れます。市にはめずらしい宝飾を使った物品並べています。犯罪を犯した者は鞭打ちの刑に処し、死罪になったものは猛獣がいる檻に入れて食わせます。冤罪であれば、獣は避けて食べないので、一晩すぎると赦免します。

後漢書の奴国が倭国の極南にあるというのと方位からみると、東北とは東南の間違いに違いありません。ですが、文身国と倭国を使い分けしていますね。文身国は奴国という前提で読むことにしましょう。マルコポーロが黄金の国ジパングと書いたのも、こんな王の住まいが金銀で飾られているなんて、まるで神話のような話を耳にしたのかもしれませんね。梁書は502年~557年の思簾が伝聞資料で書いたものですが、裏をとっていない瓦版(かわらばん)といった感じです。ちょっと考えると、唐代に木版にするときに改ざんというか新規挿入などがありそうですね。
*宿=量詞 (夜を数える)泊,夜,晩


イタチ科テン 倭国の献上したテンの毛皮とは???これは、日本の物品を背取り(せどり)していなかったのでしょうかね?
狐とテンのばかしあい?狐とタヌキのばかしあいなら聞いたことありますけど?〔軽い冗談です。〕

さて、倭国になりすました百済はどこにあったのでしょう。倭王讃がおさめた世萬里修貢は貢職(世祖の大明六年)とも書かれています。貢献とはことなります。万里を副詞的に、「万里はるか朝貢を修める」と、通例、訳しています。疑問があります。万里を、遠いという比喩に使うことは、ほかに文例がありません。万里は、あの万里の長城の通称で、広く定着した言葉(固有名詞)です。
そこで、「貢職を修め、新たに辺業を嗣ぐ」(武の上表)と重ねると、辺業とは辺地の仕事です。貢職とは(貢献とは違い)、何らかの労役の提供のことだと思われます。類例を上げてみましょう。貢女(こんにょ)とは女性奴隷を献上することです。貢献とは特産物や財物を献上(属国としての儀礼)することです。比較すれば、貢職と貢献は区別するべきです。そこで、ここでの貢職とは「万里長城の労役」のことと考えます。尉仇台は遼西にいました。万里の長城の100kmほど東北です。百済は尉仇台から代々、万里の長城の労役に貢献してきたと読むのです。北魏、鮮卑族の王朝が中国北方を占有していましたから、南宋漢王朝は万里の長城の管理ができません。このため、百済が代々萬里の貢職を継いでいることを高祖が賞賛したものと思われます。仇台系百済が万里の長城に労役を供した下地は十分にあるのです。
江戸時代の学者は百済がどこで勢力を伸ばしたのか、イメージできないので、ピントこないのです。ここに、図版を載せます。地図も信ぴょう性をドライブする証拠になるのです。

いいですか、世修貢職とあるように代々継承していた献上だということを重く解釈してください。日本の歴代の天皇が代々貢職を継承したという記述はひとつもありません。少なくとも、「倭の五王」を日本書紀から抽出比定することは詰みました。了!




結章
Under Construction
   尉仇台百済王系譜  天照大神系
温祚慰礼百済王系譜
 日本書紀 人物対比  事件・考古学の実年での対比
     1.温祚王(18-28) 《国祖》    
     2.多婁王(28-77)    
     3.己婁王(77-128)    
     4.蓋婁王(128-166)    
   尉仇台
166- 214) 《国祖》
[5]代 肖古王
     
   简位居
(位居・ 214-238?)
>[6]代 仇首王
     
   麻余王
(麻余・248-249?)
7.沙伴王(234)(沙沸王、沙伊王の別名?)     
   依慮王
(依慮・235-285)
 8.古爾王(234-286)  
   依羅王
(依羅・286-346)
臺與のあと
 9.責稽王(286-298)    
   玄王  10汾西王(298-304)    
   余蔚王 11. 比流王(304-344)    
   孱王  12.契王(344-346)?*王朝断絶    
 13  近肖古王
(余句・346-375 )
肖古王
   ①神功皇后摂政36年春三月乙亥朔、遣斯摩宿禰、于卓淳國。斯麻宿禰者、不知何姓人也。・・・・然猶今付使者、尋貢獻耳。」於是爾波移、奉事而還告志摩宿禰。便自卓淳還之也。
②39年春三月、以荒田別・鹿我別爲將軍、則與久氐等・・・
於是、其王肖古及王子貴須、亦領軍來會、時比利・辟中・布彌支・半古四邑自然降服。
③七枝刀送られる。/五十二年秋九月丁卯朔丙子、久氐等從千熊長彥詣之、則獻七枝刀一口・七子鏡一面・及種々重寶、仍啓曰「臣國以西有水、源出自谷那鐵山、其邈七日行之不及、當飲是水、便取是山鐵、以永奉聖朝。」乃謂孫枕流王曰「今我所通、海東貴國、是天所啓。是以、垂天恩割海西而賜我、由是、國基永固。汝當善脩和好、聚歛土物、奉貢不絶、雖死何恨。」自是後、毎年相續朝貢焉。

五十五年、百濟肖古王薨。
神功皇后52年9月肖古王から七枝刀送られる。 (369年)
木羅斤資=武内宿禰
(蘇我氏の祖)
 14  近仇首王
(余須・375-384)
倭国王讃(王須)
 漢山遷宮  ①神功皇后摂政49年《王肖古及王子貴須》、
55年、百濟肖古王薨。
②神功皇后摂政56年《百濟王子貴須、立爲王》
③神功皇后摂政64年《百濟國貴須王薨。王子枕流王立爲王》


 15  枕流王
(余暉・384-385)
  ①神功皇后52年秋九月丁卯朔丙子 《孫枕流王》
神功皇后64年、百濟國貴須王薨。王子枕流王立爲王
②神功皇后65年、《百濟枕流王薨。王子阿花、年少。叔父辰斯、奪立爲王。》
 20安康天皇
 16  辰斯王
(不伝・385-392)
     21.雄略天皇
 17  阿莘王
 (余蔚・392-405)
阿花王
  ①応神天皇三年冬十月辛未朔癸酉、「東蝦夷悉朝貢。卽役蝦夷而作厩坂道。十一月、處々海人、訕哤之不從命。訕哤、此云佐麼賣玖。則遣阿曇連祖大濱宿禰、平其訕哤、因爲海人之宰、故俗人諺曰佐麼阿摩者、其是緑也。是歲、百濟辰斯王立之、失禮於貴國天皇。故遣紀角宿禰・羽田矢代宿禰・石川宿禰・木菟宿禰、嘖讓其无禮狀。由是、百濟國殺辰斯王以謝之、紀角宿禰等、便立阿花爲王而歸。」

②応神天皇八年春三月、「百濟人來朝。百濟記云「阿花王立旡禮於貴國、故奪我枕彌多禮・及峴南・支侵・谷那・東韓之地。是以、遣王子直支于天朝、以脩先王之好也。」
③応神天皇八年春三月、百濟人來朝。百濟記云「阿花王立旡禮於貴國、故奪我枕彌多禮・及峴南・支侵・谷那・東韓之地。是以、遣王子直支于天朝、以脩先王之好也。」
④応神天皇十六年春二月、「王仁來之。則太子菟道稚郎子、師之、習諸典籍於王仁、莫不通達。所謂王仁者、是書首等之始祖也。是歲、百濟阿花王薨。天皇、召直支王謂之曰「汝返於國、以嗣位。」
 23.顕宗天皇

『日本書紀』(別伝:顕宗天皇は父を雄略天皇に殺される話が書かれる。つまり、阿莘王が顕宗天皇、辰斯王が雄略天皇、枕流王が安康天皇の役回りになる。)
 18  腆支王
 (余映・405-420)
倭国王珍(餘映)直支
 義熙405-418年 ①応神天皇卅九年春二月、「百濟直支王、遣其妹新齊都媛以令仕。」
②応神天皇廿五年、「百濟直支王薨、卽子久爾辛立爲王。王年幼、木滿致執國政、」
 応神39年 新斉都姫遣わす
 19  久爾辛
(不伝・420-427)
     
 20  毗有王
(余毗・427-455)
     
 21  蓋鹵王
(余慶・455-475)
倭国王済(慶)
 元嘉中424-452年 ①雄略天皇二年秋七月 百濟新撰云「己巳年、蓋鹵王立。天皇、遣阿禮奴跪、來索女郎。百濟、莊飾慕尼夫人女、曰適稽女郎、貢進於天皇。 
②雄略天皇五年夏四月、百濟加須利君蓋鹵王也、飛聞池津媛之所燔殺適稽女郎也而籌議曰「昔貢女人爲采女而既無禮、失我國名。自今以後、不合貢女。」乃告其弟軍君崑支君也曰「汝宜往日本、以事天皇。」軍君對曰「上君之命、不可奉違。願賜君婦而後奉遺。」加須利君、則以孕婦嫁與軍君曰「我之孕婦、既當産月。若於路産、冀載一船、隨至何處、速令送國。」遂與辭訣、奉遣於朝。②六月丙戌朔、孕婦果如加須利君言、於筑紫各羅嶋産兒、仍名此兒曰嶋君。於是軍君、卽以一船送嶋君於國、是爲武寧王。百濟人、呼此嶋曰主嶋也。秋七月、軍君入京、既而有五子。百濟新撰云

③廿年冬、高麗王、大發軍兵、伐盡百濟。爰有小許遺衆、聚居倉下、兵糧既盡、憂泣茲深。於是、高麗諸將、言於王曰「百濟、心許非常、臣毎見之、不覺自失、恐更蔓生。請遂除之。」王曰「不可矣。寡人聞、百濟國者爲日本國之官家、所由來遠久矣。又其王入仕天皇、四隣之所共識也。」遂止之。百濟記云「蓋鹵王乙卯年冬、狛大軍來、攻大城七日七夜、王城降陷、遂失尉禮、國王及大后、王子等、皆沒敵手。
 471年 埼玉稲荷山鉄剣
     江田船山古墳
 22  文周王
(牟都・475-477)
倭国王興(牟都)
熊津遷宮
 

元嘉中424-452年
『日本書紀』
 ①応神天皇廿一年春三月、天皇、聞百濟爲高麗所破、以久麻那利賜汶洲王、救興其國。時人皆云「百濟國、雖屬既亡、聚夏倉下、實頼於天皇、更造其國。」汶洲王、蓋鹵王母弟也。日本舊記云「以久麻那利、賜末多王。」蓋是誤也。久麻那利者、任那國下哆呼唎縣之別邑也。
応神天皇廿三年夏四月、「百濟文斤王、薨。天王、以昆支王五子中第二末多王」
 
 23  三斤王
(不伝:477-479)
   ①応神天皇廿三年夏四月、百濟文斤王、薨。天王、以昆支王五子中第二末多王・幼年聰明  
 24  東城王
(牟太・479-501)
倭王武
 
建元(けんげん)南齊 太祖 高帝 蕭道成 479年 - 482年
永明(えいめい)は、南北朝時代、南斉の武帝蕭賾の治世に行われた年号。483年 - 493年。
①武烈天皇 四年夏四月、拔人頭髮、使昇樹巓、斮倒樹本、落死昇者、爲快。是歲、百濟末多王無道、暴虐百姓。國人遂除而立嶋王、是爲武寧王。百濟新撰云「末多王無道、暴虐百姓、國人共除。武寧王立、諱斯麻王、是琨支王子之子、則末多王異母兄也。琨支、向倭時至筑紫嶋、生斯麻王。自嶋還送、不至於京、産於嶋、故因名焉。今各羅海中有主嶋、王所産嶋、故百濟人號爲主嶋。」今案、嶋王是蓋鹵王之子也、末多王是琨支王之子也。此曰異母兄、未詳也。
(斯麻王=武寧王の異母兄とする。)
25.武烈天皇(軍君昆支の二男
 25  武寧王
(余隆・501-523)
南扶余遷宮

天監(てんかん)502年 - 519年。=は、南北朝時代、梁の武帝蕭衍の治世に行われた最初の元号。  
普通(ふつう)は、南北朝時代、梁の武帝蕭衍の治世に行われた2番目の元号。520年 - 527年
 
 26  聖王
(余明・523-554)
   ①欽明2年夏4月 《聖明王曰「昔我先祖速古王・貴首王之世、安羅・加羅・卓淳旱岐等、初遣使相通厚結親好・・ 29.欽明天皇 
527年(継体21)磐井の乱(いわいのらん); 八女の遺跡群
 27  晶王
(余昌・554-598)
     
 28  恵王
(余恵・598-599)
威徳王とも、
   
 29  法王
(余宣・599-600)
     
 30  武王
(余璋・600-641)
     
 31  義慈王
(義慈・641-660)
羅唐軍に敗戦
   ①齊明天皇元年 ・・・既以義慈王・王后・太子、爲虜而去。
②齊明天皇 六年冬十月 ・・・百濟王義慈・其妻恩古・其子隆等・其臣佐平千福・國辨成・孫登等凡五十餘
 皇極天皇・孝徳天皇。
皇極重祚(ちょうそ)齊明天皇。
寶女王(たからのひめみこ)こと皇極元年は641年、643年に蘇我の入鹿が殺される。王后・太子とは、母、善花、太子は皇極の実弟643年に孝徳天皇即位。
書記:斉明元年は間違い。
*書記のルビ=嶋君(せまきし・)武寧王(むねいおう)・義慈(ぎし)



上の系図:出典:宮内庁:
 図表13   5世紀の修正年表    ◯印は即位年の翌年が元年
                    他は即位年が元年
 
天皇 修正
在位
年数
     即位年   ~  死亡年
              または退位年
 
17  仁徳 23.0  410年後半 1月~433年前半 1月  
18  履中 3.0  433年後半 2月~436年前半 3月  
19  反正 2.5  436年後半 1月~438年後半 1月  
20  允恭 21.0  439年前半12月~459年後半 1月  
20  安康 ◯ 459年12月 ~ 462年 8月  
22  雄略 23
◯ 462年11月 ~ 485年 8月  
23  清寧   486年 1月 ~ 490年 1月  ?
24  顕宗 1.5  491年前半 1月~492年前半 4月  
25  仁賢 5.5  492年後半 1月~497年後半 8月  
26  武烈 4.0 ◯497年後半12月~501年後半12月  
http://www7b.biglobe.ne.jp/~iichirou/sub13b.html

  図表11  中国暦採用の時期

  │ 修正後の紀年 │          │ 修正前の紀年 │
  │        │  半 年 暦   │        │
  ├────────┤          │        │
  │439  允恭 │    ┌─────┼────────┤
  │        │    │     │449  安康 │
  │        │    │     ├────────┤
  │        │    │     │452  雄略 │
  ├────────┤───┘     │        │
  │460  安康 │          │        │
  ├────────┤   中 国 暦  │        │
  │463  雄略 │          ├────────┤
  │        │          │475  清寧 │
  │        │      ┌───┼────────┤
  │        │      │   │480  顕宗 │
  ├────────┤      │   ├────────┤
  │486  清寧 │      │   │483  仁賢 │
  ├────────┤─────┘   │        │
  │491  顕宗 │          │        │
  ├────────┤          ├────────┤
  │492  仁賢 │   半 年 暦  │493  武烈 │
  ├────────┤          │        │
  │498  武烈 │          │        │
  ├────────┤─────────┼────────┤
  │502  継体 │          │502  継体 │
  │        │   中 国  暦 │        │
  │        │          │        │

紀年の半年暦を修正しても実年にはならない。

『日本書紀』によれば、推古天皇の28年(620年)に、聖徳太子と嶋大臣(蘇我馬子)が国史を編修したといいます。

   是歳(ことし)、皇太子(ひつぎのみこ)・嶋大臣(しまのおほおみ)、共(とも)に議(はか)りて、天皇記(すめらみことのふみ)(およ)び国記(くにつふみ)、臣(おみのこ)(むらじ)伴造(とものみやつこ)国造(くにのみやつこ)百八十部(ももあまりやそとものを)(あわせ)て公民等(おほみたからども)の本記(もとつふみ)を録(しる)す。



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