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p339_1J

卑弥呼の敵だった狗奴国王は高句麗東川王だった!


はじめに・・・魏志倭人伝、通説に誤り!

   通説
原文   其國本亦以男子爲王住七八十年,倭國亂相攻伐歷年乃共立一女子爲王名曰卑彌呼
 訓読 その国は本亦男子を以て王となす。住(とど)まること七、八十年。倭国乱れ、相攻伐すること暦年、乃(すなわ)ち 一女子を共立して王と為す。名を卑彌呼という。
 現代語訳  倭国はもと男子を王としていた。(男王のもと)七、八十年すると、倭国は乱れて、(国々が)互いに攻撃しあうことが何年も続き、そこで一人の女性を共に立てて王とした。(引用:渡邊義浩)
 私訳  女王国はもともと男子が王となって七、八十年ほど経っていた。/  倭国は乱れ、敵も味方もはっきりしない紛争が一年余も経過した。そこで、女子を共立して王とした。名付けて卑彌呼という。


上の一行文字列の間、七、八十年の直後に段落区切りが入ります。以下のように主格の異なる二行に分割します。前段は女王国、後段は倭国となります。

 一、  新説
原文  其國本亦以男子爲王住七八十年,
 訓読  その国 本亦男子を以て王となす。住(とど)まること七、八十年
 私訳  女王国はもともと男子が王となって七、八十年ほど経っていた。
 二、  新説
 原文  倭國亂相攻伐歷年乃共立一女子爲王名曰卑彌呼
 訓読  倭国乱れ、相攻伐すること暦年、乃(すなわ)ち 一女子を共立して王と為す。名を卑彌呼という。
 私訳  倭国は乱れ、敵も味方もはっきりしない紛争が一年余も経過した。そこで、女子を共立して王とした。名付けて卑彌呼という。

一の文節の主格は女王国になります。二の文節は倭国となります。この違いは魏志倭人伝解釈に大きな影響があります。理由は前章の、其の其の構文で詳述済み。
*歴年:年月などを)経過する,(苦労を)経験する;また、年々、連年。これまで年が順々に積み重ねられたことを指し)歴年,多年,数年来;


九州編

國本亦以男子爲王住七八十年,
倭国はもと男子を王としていた。(男王のもと)七、八十年すると、  女王国はもともと男子が王となって七、八十年ほど経っていた。

     論点:ここまで其の主格は女王国=伊都国です。八十年の後ろで文節を分かちます。女王国偏のブロックの文末になり、ここは女王国の男王が七,八十年続いていたとします。


4)倭国編〔Ⅰ〕


Q'
倭國亂相攻伐歷年乃共立一女子爲王名曰卑彌呼事鬼道能惑衆年已長大無夫婿有男弟佐治國自爲王以來少有見者以婢千人自侍唯有男子一人給飲食傳辭出入居處宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衞
倭国は乱れて、(国々)が互いに攻撃しあうことが何年も続き、そこで一人の女王を共に立てて王とした。名を卑彌呼という。鬼道(巫術・妖術)を行い、よく人を幻惑した。歳はすでに年配であるが、夫を持たず、男の弟がおり、国の統治を助けている。王になって以来(卑彌呼)を見たことのある者は少ない。婢千人を侍らせ、ただ一人だけ飲食を給仕し、言辞を伝えるために出入りしている。卑彌呼の居る宮室は、楼観(見張り櫓)と城柵を厳しく設け、常に人々がおり武器を持って守衛している。 倭国(の朝廷)は乱れ、敵も味方もはっきりしない紛争が一年余も経過した。そこで、女子を共立して王とした。名付けて卑彌呼という。鬼道に習熟し、よく民衆を歓喜させた。老齢になったので、すでに夫は亡く、夫の異母弟が国の統治を補佐していた。その男弟が自ら王と為して以来、卑彌呼を見る者は少なくなった。1000人もの女卑が卑弥呼に自ら侍り、ただ、一人の男子が飲食や伝辞を伝えるなど卑彌呼の居る処に出入りしている。宮室、楼観、城作が堅牢に設けられており、兵が常時守衛している。
   *鬼道は先祖を祭る儀式。


《生口と短弓が倭国の謎を解く》


5)九州外(山島)

Q'帯方=倭国
倭國亂相攻伐歷年乃共立一女子爲王名曰卑彌呼事鬼道能惑衆年已長大無夫婿有男弟佐治國自爲王以來少有見者以婢千人自侍唯有男子一人給飲食傳辭出入居處宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衞
R'九州の外 

女王國東渡海千餘里復有國皆倭種
又有侏儒國有其南人長三四尺去女王四千餘里
又有裸國黒齒國復在其東南船行一年可至參問倭地絶在海中洲㠀之上或絶或連周
  旋可五千餘里 
S'帯方=倭国

景初二年六月倭女王遣大夫難升米等詣郡求詣天子朝獻太守劉夏遣吏將送詣京都

年十二月詔書報倭女王曰制詔親魏倭王卑彌呼帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米次使都市牛利奉汝所獻男生口四人女生口六人班布二匹二丈以到汝所在踰遠乃遣使貢獻是汝之忠孝我甚哀汝今以汝爲親魏倭王假金印紫綬装封付帶方太守假授汝其綏撫種人勉爲孝順汝來使難升米牛利渉遠道路勤勞今以難升米爲率善中郎將牛利爲率善校尉假銀印靑綬引見勞賜遣還今以絳地交龍錦五匹; 絳地縐粟罽十張蒨絳五十匹紺青五十匹荅汝所獻貢直又特賜汝紺地句文錦三匹細班華罽五張白絹五十匹金八兩五尺刀二口銅鏡百枚真珠鈆丹各五十斤皆裝封付難升米牛利還到録受悉可以示汝國中人使知國家哀汝故鄭重賜汝好物也

正始元年太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國拝假倭王并齎詔賜金帛錦罽刀鏡釆物倭王因使上表荅謝詔恩

四年倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪狗等八人上獻生口倭錦絳靑 縑緜衣帛布丹木𤝔短弓矢掖邪狗等壹拝率善中郎將印綬

六年詔賜倭難升米黄幢付郡假授

八年太守王頎到官倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和遣倭載斯烏越等詣郡説相攻撃状遣塞曹掾史張政等因齎詔書黄幢拝假難升米爲檄告喩之卑彌呼以死大作冢徑百餘歩徇葬者奴婢百餘人更立男王國中不服更相誅殺當時殺千餘人復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王國中遂定政等以檄告喩壹與壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還因詣臺獻上男女生口三十人貢白珠五千孔 靑大句珠二枚異丈親錦二十匹


いよいよ、佳境に入りましたね。上記のように、Q'とS'のブロックの間にR'九州の外がありますが、ここは、Q'とS'はつなげて読んだ方がいいのです。倭国のブロックとして一つになります。わかりやすくなるでしょう。

Q'帯方=倭国
倭國亂相攻伐歷年乃共立一女子爲王名曰卑彌呼事鬼道能惑衆年已長大無夫婿有男弟佐治國自爲王以來少有見者以婢千人自侍唯有男子一人給飲食傳辭出入居處宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衞


S' 帯方=倭国
景初二年六月倭女王遣大夫難升米等詣郡求詣天子朝獻太守劉夏遣吏將送詣京都

年十二月詔書報倭女王
曰制詔親魏倭王卑彌呼帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米次使都市牛利奉汝所獻男生口四人女生口六人班布二匹二丈以到汝所在踰遠乃遣使貢獻是汝之忠孝我甚哀汝今以汝爲親魏倭王假金印紫綬装封付帶方太守假授汝其綏撫種人勉爲孝順汝來使難升米牛利渉遠道路勤勞今以難升米爲率善中郎將牛利爲率善校尉假銀印靑綬引見勞賜遣還今以絳地交龍錦五匹; 絳地縐粟罽十張蒨絳五十匹紺青五十匹荅汝所獻貢直又特賜汝紺地句文錦三匹細班華罽五張白絹五十匹金八兩五尺刀二口銅鏡百枚真珠鈆丹各五十斤皆裝封付難升米牛利還到録受悉可以示汝國中人使知國家哀汝故鄭重賜汝好物也
  

正始元年太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國拝假倭王并齎詔賜金帛錦罽刀鏡釆物倭王因使上表荅謝詔恩

四年倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪狗等八人上獻生口倭錦絳靑 縑緜衣帛布丹木𤝔短弓矢掖邪狗等壹拝率善中郎將印綬

六年詔賜倭難升米黄幢付郡假授
八年太守王頎到官倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和遣倭載斯烏越等詣郡説相攻撃状遣塞曹掾史張政等因齎詔書黄幢拝假難升米爲檄告喩之卑彌呼以死大作冢徑百餘歩徇葬者奴婢百餘人更立男王國中不服更相誅殺當時殺千餘人復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王國中遂定政等以檄告喩壹與壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還因詣臺獻上男女生口三十人貢白珠五千孔 靑大句珠二枚異丈親錦二十匹

 上記のように、Q'とS'をつなげると時系列がはっきりします。変則的な読み方ですが、このほうがわかりやすいと考えてトライしてみました。
 孫ブロックは、明帝の制詔の部分です。中国の正史は、皇帝の制詔には一言一句とも変えてはならないという不文律があるらしいのです。それゆえに、正史というという説があります。正史とは、正しい歴史という意味ではありません。

年号がある項目に改行をしています。Qのブロックの「其」字の主格は年号となっています。いいかえると年表形式で書かれています。

1)景初二年六月
2)其(景初)二年十二月・・・・・・生口10人
3)正始元年
4)其(正始)四年・・・・・・・・・生口あり、人数記載なし
5)其(正始)六年
6)其(正始)八年・・・・・・・・・生口30人
其は年号が主格となっています。ですが、主題は倭国となっています。たとえると、年表形式の書き方に似ています。
1)~6)まですべて倭国の朝獻記録です。すなわち倭国は6回洛陽に使者を派遣していると解きます。

魏志倭人伝では、6つの年号の年の出来事にしか触れていません。
その、内容はいわゆる倭国貢献に関わる事柄だけです。歴史的背景は倭人傳だけを読んでいても分かりません。
 


Q'は倭国の序文にあたります。通説の3つの誤訳を訂正します。
倭國亂相攻伐歷年乃共立一女子爲王名曰卑彌呼事鬼道能惑衆年已長大無夫婿有男弟佐治國自爲王以來少有見者以婢千人自侍唯有男子一人給飲食傳辭出入居處宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衞

Q'の新訳
「倭国(の朝廷)は乱れ、敵も味方もはっきりしない紛争が一年余も経過した。そこで、女子を共立して王とした。名付けて卑彌呼という。鬼道に習熟し、よく民衆を歓喜させた。老齢になったので、すでに夫は亡く、夫の異母弟が国を佐治していた。その男弟が自ら王を自称して以来、卑彌呼に会う者は少なくなった。1000人もの女卑が卑弥呼に自らかしずき、ただ、一人の男子が飲食や伝辞を伝えるなど卑彌呼の部屋に出入りしている。宮室、楼観、城作が堅牢に設けられており、兵が常時守衛している。」

*侍婢[ジヒ]:貴人の側近く仕える女

通説の訳:倭国乱れ、相攻伐すること暦年、乃ち共に一女子を立てて王と為す。名づけて卑弥呼と曰う。鬼道に事え、能く衆を惑わす。年長大なるも夫婿なく、男弟有り、佐けて国を治む。
王と為りしより以来、見るもの少なく、婢千人を以て自ら侍らせしむ。唯男子一人有り、飲食を給し、辞を伝え居処に出入す。宮室・楼観・城柵、厳かに設け、常に人有り、兵を持して守衛す。

著者の解釈訂正部分
年長大なるも夫婿なく、⇒年長大になり、すでに夫は無く、
②男弟有り、佐けて国を治む。⇒庶子である夫の男弟があり、国の政治を補佐していた。
王と為りしより以来、見るもの少なく、⇒男弟が自ら王となって以来、卑弥呼を見るものは少なくなった。

通説誤訳①は卑弥呼を生涯独身にしてしまった。ここは、高齢で夫に先立たれていると読むのです。
②は男弟を卑弥呼自身の弟にしてしまった。
③王に為りしよりの王を卑弥呼にしてしまった。卑弥呼は共立王ですから、卑弥呼自ら王と為す《自為王》という行為はありえないのです。

以下:私の現代語新訳:
「倭国(の朝廷)は乱れ、敵も味方もはっきりしない紛争が一年も経過した。そこで、女子を共立して王とした。名付けて卑彌呼という。鬼道に習熟し、よく民衆を歓喜させた。老齢になったので、すでに夫は亡く、夫の異母弟が国を佐治していた。その男弟が自ら王を自称して以来、卑彌呼に会う者は少なくなった。1000人もの女卑が卑弥呼の周りに侍り、ただ、一人の男子が飲食や伝辞を伝えるなど卑彌呼の部屋に出入りしている。宮室、楼観、城作が堅牢に設けられており、兵が常時守衛している。」
1)景初二年六月
景初二年六月倭女王遣大夫難升米等詣郡求詣天子朝獻太守劉夏遣吏送詣京都

景初二年六月の獻見:新訳
 景初二年六月、倭の女王(卑弥呼)が大夫難升米らを派遣して郡治に詣でて魏の皇帝に朝獻することを求めた。太守劉夏は遣吏「將」を送り、(將は)京都に詣でた。

訳文の解説:
この条の六月には倭国の朝獻の事実はなかったと解します。
遣史:「史」というのは朝廷における官職の一つです。「遣使」と意味が異なります。ひとつ、「史」と「使」の使い分けを踏まえまると、は人名と判断できます。

*将:
①【姓名】とみる見方。将姓=第一个渊源:源于嬴姓,出自春秋时期秦国公族后裔的封地,
そのほかの意味:
②(將)将官の意味ではなく、jiāng (文語文[昔の書き言葉])) 助ける,手を貸す,率いる.
③((文語文[昔の書き言葉])) …を.⇒把 bǎ目的語を動詞の前に移動する。
④((文語文[昔の書き言葉])) (事を)行なう.
上記訳では、①で読んでみました。
六月には、劉夏が朝貢を朝廷に帝に打診しただけなのでしょう。仮に六月に朝獻を果たしているなら、述語部に貢献物やそれに対する帝の詔書など、なんらかの対応があってしかるべきです。

太守劉夏を安易に帯方太守としません。テンスは遡及しますが、帯方太守は卑弥呼が十二月に除されています韓伝に帯方太守弓遵との記載が一カ所あるのみです。

2)景初二年十二月

(其年十二月詔書報倭女王曰制詔)
親魏倭王卑彌呼帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米次使都市牛利奉汝所獻男生口四人女生口六人班布二匹二丈以到汝所在踰遠乃遣使貢獻是汝之忠孝我甚哀汝今以汝爲親魏倭王假金印紫綬装封付帶方太守假授汝其綏撫種人勉爲孝順汝來使難升米牛利渉遠道路勤勞今以難升米爲率善中郎將牛利爲率善校尉假銀印靑綬引見勞賜遣還今以絳地交龍錦五匹; 絳地縐粟罽十張蒨絳五十匹紺青五十匹荅汝所獻貢直又特賜汝紺地句文錦三匹細班華罽五張白絹五十匹金八兩五尺刀二口銅鏡百枚真珠鈆丹各五十斤皆裝封付難升米牛利還到録受悉可以示汝國中人使知國家哀汝故鄭重賜汝好物也

景初二年十二月の朝見:新訳
「その年(景初二(238)年の十二月、魏の皇帝は倭女王に詔書で報いて曰く、卑彌呼を親魏倭王に制詔する。帯方太守劉夏が、汝の大夫の難升米、次使の都市牛利らを遣わし、汝の献じる(公孫の)男性捕虜四人女性捕虜六人、班布二匹二丈を奉りて以て到着した。汝のいる所はとても遠いにも拘わらず、遣使を送って貢献してきたのは汝の忠孝を示すものであり、我は甚だ汝を慈しむ。
いま汝を親魏倭王に為した。詔書と金印紫綬など包装し封印して帯方郡太守に付して仮授する。汝、その所の住民をいたわり安んじさせよ。また、民を勤めて孝順を尽くすよう教化せよ。汝の使者の難升米、牛利は遠路をはるばると来た労に報いて、いま以て難升米を率善中郎将、牛利を率善校尉と為し銀印青綬を仮し、引見ししたうえ懇ろに送り還えらせる。

今、絳地交龍錦、〔絳綈〕(交龍・龍が交わる絵柄の錦織)を五匹、絳地縐粟罽(縮みの掛ける毛織物)十張、蒨絳(茜色と深紅)五十匹、紺青五十匹、これらを汝の献上品に向けての返礼とする。

〔絳地交龍錦五匹の文字の内、裴松之が考えるに「地」は「綈」でなくてはならない。漢の文帝が「皂衣」と言うのは「弋綈」のことである。この字が間違っているのは魏朝の失敗ではなく、以前の伝写の誤りである。〕

また、特別に汝(卑弥呼)には紺地の句文(文様染め)錦三匹、細班華(細かい花模様がら)毛織物五張、白絹(無地の絹)五十匹、金八両、五尺の刀剣を二口、銅鏡を百枚、真珠、鉛丹各々(紅とおしろい)五十斤を賜う。いずれも目録を難升米、牛利に付託するので、帰還したら受けとるがよい。(それらの)すべてを汝は国中の人々に顕示し、魏国が汝に熱い親愛の情をもっていることを知らしめよ。それ故に鄭重に汝によき品々を下賜したのである」・・・と。(著者の現代語意訳)

*通説の誤訳、「生口」を奴隷と訳さず、「虜」とします。(捕虜(ほりょ, Prisoner of war, POW)とは、武力紛争(戦争、内戦等)において敵の権力内に陥った者をさす。近代以前では、民間人を捕らえた場合でも捕虜と呼びました。)民間の奴隷は用語が別にあり、「奴婢」です。奴婢は倭人伝にもありますから、生口は奴隷ではなく、捕虜と訳すのが適当です。

捕虜(ほりょ, Prisoner of war, POW)とは、武力紛争(戦争、内戦等)において敵の権力内に陥った者をさす。近代以前では、民間人を捕らえた場合でも捕虜と呼んだが、現在では捕虜待遇を与えられるための資格要件は戦時国際法により「紛争当事国の軍隊の構成員及びその軍隊の一部をなす民兵隊又は義勇隊の構成員[1]」等定められている[注釈 1]。

第二次世界大戦以前の日本においては、公式には俘虜(ふりょ)と呼ばれた[注釈 2]。

なお、古代中国においては、中国に攻め込んできた野蛮人(虜)を捕らえる事を捕虜と称した(例:「捕虜将軍」)。


生口と奴婢の定義は別にするべきこと!

《三國志》[西晉] (265年-300年)
《魏書二》《文帝紀》
20 打開字典顯示相似段落 文帝紀:
「・・略・・魏書曰:十一月辛未,鎮西將軍曹真命衆將及州郡兵討破叛胡治元多、蘆水、封賞等,斬首五萬餘級,獲生口十萬,羊一百一十一萬口,牛八萬,河西遂平。・・略・・旬日:,破胡告檄到,上大笑曰:「吾策之於帷幕之內,諸將奮擊於萬里之外,其相應若合符契。前後戰克獲虜,未有如此也。」己卯,以大將軍曹仁為大司馬。十二月,行東巡。是歲築陵雲臺。」
訳;
「魏書に曰く、十一月辛未、鎮西将軍の曹真は将軍や州郡兵に叛いた胡が治める元多、蘆水、封賞を討伐することを命じた。五万余級を斬首、生口十万、羊百十万口(匹)、牛八万を獲た。河西はついに平定された。」・・・旬曰く「上大は笑って曰く:「吾は策を帷幕(いばく)の中で立てたが、諸將が萬里の外に出て奮擊したのだが其の符契(ふけい割符のこと)が合っているいるかどうか、相い応じて前後の戰で虜を克獲したのである。いままでなかった事である。己卯の年、大將軍曹仁は大司馬に取り立てられた。十二月、文帝は東に巡行し、この年、陵雲臺を築造した。

*生口十万=虜十万口
*大司馬 軍事の最高職。大将軍より格上。属官は大将軍府並。軍権の最高統括者、諸将軍に命令、罰、褒賞を与える権限をもつ。大将軍府の属官(軍師・長史・従事中部・主簿・参軍・記室・西曹掾・東曹掾・戸曹掾・倉曹掾・金曹掾・水曹掾・兵曹掾・騎兵掾・鎧曹掾・営軍都督・刺姦都督・張下部督・舎人)
*文帝(ぶんてい)は、前漢の第5代皇帝在位期間:前180年11月14日 - 前157年7月6日
姓・諱 劉恒:諡号 孝文皇帝

 たったの奴婢(奴隷)10人と、班布二匹二丈だけで明帝が破格の返礼を与えたのではありません。10人は公孫康の何らかの高官で、慮になった者でしょう。景初二年の12月の生口四人女生口六人は公孫氏の軍の捕虜、正始8年の男女生口三十人は高句麗軍の捕虜と読み解くべきでしょう。口は羊などの家畜を数えるときの量子に使われますが、生口4人など、生口には人を数える量子が使われています。生口は捕虜を示す一般名詞として考えていいでしょう。司馬懿は玄菟城から襄平城をせめ、南から楽浪+卑弥呼軍を別動隊として挟撃作戦を立てていたのです。難升米が引き連れてきた、これら捕虜を見て、この作戦がまんまと成功したことを喜んだのでしょう。北方軍の大興師(司馬懿仲達)は11月の時点で、まだ遼東から帰還していません。ですから、なおさら明帝は大きな喜びを感じたのでしょう。このわずか数週間後、明帝は重篤になり、司馬懿仲達の帰還を、今か今かと、待っていたのです。
上記の説は初めての説ではありません。以下引用:「今一つ考えられるのはこの粗末な献上物を難升米が差し出せたのは、十人の生口が公孫氏系の捕虜だったからである。であればこの生口献上が魏の明帝を最も喜ばせたに違いない。」、『岩元学説 邪馬台國への道』岩元正昭『邪馬台国への道』P233より抜粋。右の岩元説をさらに推し進めると・・・・生口十人は難升米が公孫軍と戦い勝利したことの生き証拠というわけです。すでに岩元正昭が推測していました。すばらしいですね。
ところで岩元学説では「伊都国を公孫氏帯方郡の出先機関とみています。「倭地本土には諸国邑にはここに駐留する「都」と呼ばれる総督に支配されていた。この伊都国には「一大率」と呼ばれる検察官が常住し、邪馬台国以北の倭人国邑に対する警察権、および裁判権を独占し諸国邑は皆恐れたいたという言う。郡使はここに駐まっていた。」・・・これを理解していない邪馬台国論はもはや骨とう品の類でしょう。
3)正始元年
正始元年の朝獻:新訳
「正始元年太守弓遵遣建中校尉梯儁等詔書印綬詣,倭國拝假倭王・并詔賜金帛錦罽刀鏡釆物倭王因使上表荅謝詔恩」
私訳:
「正始元(240)年、太守弓遵(きゅうじゅん)は梯儁(ていしゅん)らを派遣した。梯儁らは洛陽に詣でて、建忠校尉となす詔書と印綬を(奉)頂いた。(魏齊王は)倭国に倭王の称号を拝假し、併せて金帛錦、罽刀、鏡、釆物などの詔賜を齎(もたら)した。よって倭王は(帯方から)使いを出して上表に因って詔恩に感謝する返答をした。(斉王改元奉賀朝貢)」
*奉=(年長・上級機関の人から)頂く,受け取る

訳文解説:

ここで、建忠校尉梯儁(ていしゅん)らが「詔書と印綬詣を奉じて倭国に詣でる」という通説に疑問を持つ人は少ないようです。この訳は真逆な間違いだと判定します。倭国は曹魏からは下にある国(属國)です。”詣でる”という術語は下から上に訪問するということです。元号が変わった年には、一般に奉賀朝貢があります。梯儁らが改元朝賀に洛陽に詣でたと解釈します。さて、一部の邪馬台国論者は、梯儁(ていしゅん)が日本に遣って来て、その報告をもとに陳寿が倭人伝を書いたのだと言いますが、それこそ和流訓読を鵜呑みにして拡張的妄想をしているとしか言えませんね。
倭王の推理:
倭王が二回ほど出てきますが倭女王でなく、倭王と書かれます。「女」字がないことに注目します。景初二年では大夫難升米と「大夫」でした。ところが、正始元年には倭王という字が出現します。そして、正始4年には大夫は伊聲耆になっています。ここでの倭王は男王と読むべきでしょう。弟が佐治していたのですが、自ら王と為したと書いてあります。正始元年には魏斉王からに倭王に徐授されたと見るのです。この男王は自ら王と為したのです。卑弥呼はすでに共立王となり親魏倭王になっていますから、卑彌呼が王を自称する(自ら王となす)必要はまったくありません。しかし、この男王が魏齊王から倭国の倭王にする詔書を頂戴しています。この王は、大夫難升米が尉仇台の嫡男の简位居がとすると、简位居は正始元年以前、すなわち景初三年に死んでいて、正始元年の男王は弟の麻余だとみることができます。かの弟とは難升米の弟で、卑彌呼の実弟ではありません。
 正始8年に再び女王卑弥呼が登場してきます。これを推理すると、男王は帯方八部族から共立されていないので、卑弥呼死後、卑弥呼に替わって共立王なろうとしたのでしょう。ところが、一度はなったのでしょうが、正始8年中に牛加の謀反(相誅殺事件)が起きて殺されたと考えられます。そこで壹與が共立されたのですね。

*奉:①ささげる,献上する.②(年長・上級機関の人から)頂く,受け取る.まつる。たてまつる。さしあげる。「奉献」「奉納」②つつしんで行う。「奉賀」「奉還」「奉貢朝賀」=例文;後漢書 倭伝 (南朝宋)范曄著(424頃) 中元二年(57)倭奴國奉貢朝賀使人自稱大夫
*荅:音読み呉音:トウ(トフ)漢音:トウ(タフ)・訓読み:あずき、こた-える
*斎;同じ部首「せい(斉齊)」の漢字:斎・斉・齊・齎 (周朝の国名)斉。①ここでは、斎の字を斉王の一字姓と読みます。

三國志》《魏書四》《齊王紀》

2魏氏春秋曰:或云任城王楷子。青龍三年,立為齊王。景初三年正月楷子朔,帝甚病,乃立為皇太子。是日,即皇帝位,大赦。

「魏氏春秋に曰く:任城王楷子と伝える。青龍三年に斉王となった。景初三年正月一日、帝は、はなはだ病が重く、楷子を立太子した。その日に帝位についた。大赦の詔を発した。」
*楷子は齊王の幼名;
*斉のその他の意味:②もたらす。持っていく。持ってくる。おくりもの。たから。財貨。③ものいみ。ものいみする。つつしむ。神仏に仕えるため、飲食をつつしみ、心身を清めること。「斎戒」「斎壇」

景初3年正月一日、司馬懿仲達が帰還、帝は若干8歳の斎王を立太子すると同時に、司馬懿に斎王の帝位継承を託す。司馬懿は号泣したとつたえられる。

*并 合わせる、並べる=併せて(一緒にして、同時に)
*難升米が欠落しているが、使いを出して上表を返答したので、京都に詣でていない。
*建中校尉=建中校尉という固有名詞はここだけに出現し、他にはでてこない。建忠中郎將・建忠都尉・建忠將軍など他の類例からみると、建中は、建忠の誤りだろう。建忠校尉が本字とする。そこで、校尉という官名を探ることにする。《金樓子》[南北朝]554年《水經注》《卷二》《河水》「昔漢武帝初通西域,置校尉,屯田于此。」訳:「昔、漢の武帝が初めて西域と通じたとき、この屯田の長に校尉を置いた。」校尉は中国の外の辺地の地方武官のようです。

*罽刀(けいとう)=西域の罽賓国(けいひんこく)の金細工を施した刀(罽=罽賓国は塞族(さかぞく)=スキタイ族の国(~語源については漢書地理志の章に詳述)
*奉貢朝賀; 後漢書 倭伝 (南朝宋)范曄著(424頃) 「中元二年(57)倭奴國奉貢朝賀使人自稱大夫」事実はともかくとして、奉貢朝賀という慣例があったことを示します。

正始元年・魏齊王改元奉賀朝貢が盛大だった文証
倭国も奉賀貢献したと推測する根拠;


『晋書』 卷一 帝紀第一 高祖宣帝 懿 >正始元年 
 正始元年春正月,東倭重譯納貢,焉耆,危須諸國,弱水以南,鮮卑名王,皆遣使來獻,天子歸美宰輔 又增帝封邑, 初,魏明帝好修宮室,制度靡麗,百姓苦之,帝自遼東還,役者猶萬餘人,雕玩之物動以千計,至是皆奏罷之,節用務農,天下欣賴焉
上記訳;
正始元年[240年]春正月、東倭の訳長が重ねて朝貢してきた。焉耆・危須等の諸国、弱水以南の諸国、鮮卑の諸部族王(大人)が、みな使者を遣わして来貢した。皇帝はこの威風を宰相の功によるものとし、宣帝(司馬懿)に増封した。
 景初、魏の明帝が宮殿造営を好み、諸制度を華美なものにしていたため、民衆は困窮していた。宣帝が遼東から帰って来た時、まだ一万人あまりが労役にかりだされており、愛玩物数千個が制作されていた。そこで、宣帝は、これらを全て止めさせ、倹約して農業に力を入れるよう奏上した。天下の人々は喜び、宣帝に信頼を寄せた。
*焉耆(えんき) 中国新疆ウイグル自治区にあるボステン湖にあった国
*危須(きす)北道沿い。えんきから百里ほど東南。都護治所から500里東。
*弱水はアラビア海に注くインダス川のこと。アフガニスタン・パキスタン・インド北西部の諸国。大月氏国・罽賓國などが含まれる。大月氏は倭国と同じく親魏王の印綬を假授されている。大月氏が朝獻したことも90%可能性がある。

『 三國志 』 卷三 魏書三 明帝紀第三
【 癸卯、大月氏王波調遣使奉獻、以調爲親魏大月氏王 】
 癸卯 ( 229年 )
 大月氏王の波調は使いを遣わし献上品を奉げる
 以って波調を親魏大月氏王と為す。




罽刀とは罽賓国の芸術品:紀元前2~紀元後4世紀 スキタイ様式:金工に細かいディテールなど凝ったものが多い。



4)正始四年
正始4年の朝見:新訳
四年倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪狗等八人上獻生口倭錦,絳靑縑,緜衣,帛布,丹木𤝔短弓,矢,掖邪狗等壹拝率善中郎將印綬
私訳:
「正始4年、倭王はふたたび大夫伊聲耆掖邪狗等八名を(魏齊王元服奉賀)に遣使し、生口(捕虜)、倭錦、絳靑縑[玉虫織の絹織物],緜衣[真綿の服]帛布[白絹の織物],丹木𤝔(弣)短弓[丹木を用い皮のゆづかをもつ短弓]、矢を献上した。掖邪狗等は率善中郎將に任して一印綬を仮拝した。
解説;
岩元;正始年の条について・・・「正始4年に卑彌呼が「短弓」を上献することは高句麗との戦歴を暗に示唆するものであろう。同時に上献した生口とはその捕虜なのであろう。」・P241
以上引用・・・岩元氏は短弓は馬上から振り向きざまに矢を放つ高句麗などの狩猟民族が主として使うもので倭人は短弓を使用しない。」と述べています。

丹木𤝔短弓矢→丹木短弓矢=丹木に皮を巻き付けたゆづかの短弓と矢
*𤝔は弣(ゆづか)の誤記とみる。弣は「ゆつか」とも》矢を射るとき、左手で弓を握る部分。ゆみづか。また、そこに巻く革。
丹木;紅木のことか?



正始四年 曹芳の元服の奉賀朝貢の可能性。生口は高句麗戦での捕虜です。正始三年に高句麗が遼東を寇椋しています。
大夫伊聲耆掖邪狗等八人とは、難升米を擁立する一部族長(大夫は鮮卑伝での大人と同じで各部族の王)と考えられます。扶余は八姓の門閥で成り立っていました。八角堂などが8本の柱で立てられる由縁だろうと推測します。
貢献の品に短弓がありますが、通説では貢献品に短弓矢があることにあまり注目しませんが、下の画像のようにΣ型の特徴がある騎馬民族特有の弓です。倭人の弓は上が長く下が短いことが特徴です。


短弓。特徴は、∑型をしていること。馬上から使うこと、形状は上下とも均等。

戎狄(じゅうてき),馬上から矢を放つ。

楚軍の弓。


貊弓(句麗国の弓

高句麗の貴族の持つ短弓の一つ、貊弓(ペクファル)
(出好弓,所謂貊弓是也。『魏書』高句麗傳より)

      スキタイ族、罽賓国の兵士の弓。この弓が典型的な短弓です。
弓をよく貢献した国があった。
『晋書』粛慎伝 (しゅくしん)原文

肅慎氏一名挹婁,在不咸山北,去夫餘可六十日行。東濱大海,西接寇漫汗國,北極弱水。
其土界廣袤數千里,居深山窮谷,其路險阻,車馬不通。夏則巣居,冬則穴處。父子世為君
長。無文墨,以言語為約。有馬不乘,但以為財産而已。無牛羊,多畜豬,食其肉,衣其皮,
績毛以為布。有樹名雒常,若中國有聖帝代立,則其木生皮可衣。

無井灶,作瓦鬲,受四五升以食。坐則箕踞,以足挾肉而啖之,得凍肉,坐其上令暖。土無
鹽鐵,燒木作灰,灌取汁而食之。俗皆編髮以布,作襜徑尺餘,以蔽前後。將嫁娶,男以毛
羽插女頭,女和則持歸,然後致禮娉之。婦貞而女淫,貴壯而賤老,死者其日即葬之於野,
交木作小槨,殺豬積其上,以為死者之糧。性凶悍,以無憂哀相尚。父母死,男子不哭泣,
哭者謂之不壯。相盜竊,無多少皆殺之,故雖野處而不相犯。有石砮,皮骨之甲,檀弓三尺
五寸,楛矢長尺有咫。其國東北有山出石,其利入鐵,將取之,必先祈神。

周武王時,獻其楛矢、石砮。逮於周公輔成王,復遣使入賀。爾後千餘年,雖秦漢之盛,莫
之致也。及文帝作相,魏景元末,來貢楛矢、石砮、弓甲、貂皮之屬。魏帝詔歸於相府,賜其
王傉雞、錦罽、綿帛。至武帝元康初,復來貢獻。元帝中興,又詣江左貢其石砮。至成帝時,
通貢於石季龍,四年方達。季龍問之,答曰「毎候牛馬向西南眠者三年矣,是知有大國所在,
故來」云。

肅慎氏は挹婁の一名である。不咸山の北にあり、夫餘から六十日ほど離れている。東は大海に臨み、西は寇漫汗國に国境を接し、北は弱水(アムール河)で行き止まる。その領域は東西南北数千里で、深い山と窮屈な谷に住んでいてその道はけわしく馬車は通ることができない。夏は巣窟に、冬は洞窟に集まって住む。君長は父子世襲をなして、文書を作ることなく、約束は言葉をもって行う。馬がおらず、乗ることもない。ただ財産といえば身体ひとつで、牛や羊もなく、いのししが多く、その肉を食物にしている。また、その皮を衣類に紡いでいる。雒常という樹木があり、もし中国の聖帝がかわりにいたとしたら、その樹皮を衣服することができただろう。かまどがなく、鬲、三本足の土釜で汁を取って食べる。風俗はみな布で髪を編んで、一尺あまりの前垂を作り、前後を覆っている。嫁をとるときは女の頭に毛羽をさし、女がよしとすれば羽毛を持ち帰る。そののちに礼を致して之を妻にむかえる。夫人は貞節で女は淫らとはいえない。壮(若い)を貴び、而して老(老い)を賤(さげすむ)する。

死者は其の日に即(すぐに)之を野に於いて葬り、木を組み合わて小槨(壇)を作り、豬(ぶた)を殺して其の上に積み、以って死者の食欲を満たす糧(かて)と為す。

気性はたけだけしく、たがいに相憐れむことはなく、父母が死んでも男子は泣くことはない。声をあげて泣くことは男らしくないと謂う。たがいに盗みやこっそり奪いあうことは多少もなく、もし犯せば殺してしまう。ゆえに荒野の中に住んでいようとも互いに盗みは犯さない。
石弩があり、甲羅の皮を巻いた檀弓は三尺五寸あり、楛の木で作られた矢は長く一尺と八寸あった。その国には東北に石が出る山があり、その山に入るときは必ず神に祈ってから入り、鉄を得ることができた。

周の武王の時、楛矢、石砮を献じた。周の公輔成王に服属して朝賀に遣使を送ってきた。それ以来、千年ばかりは秦や漢が中華で盛んになり王朝が変っても朝貢を続けた。文帝。魏の景初元年末(237年)、楛矢、石砮(やじり)、弓甲、貂皮(テンの毛皮)などを献上してきた。魏帝(明帝)はその王傉雞に錦罽、綿帛を賜った。武帝元康初(291年)に復び來て貢獻した。東晋の元帝中興(319年)のとき,又詣でた。江左其石砮を献じた。成帝に至って,石季龍を通じて朝貢してきた。元帝の四年に方達は季龍にこれを問うた。季龍は「毎年この季節に牛馬は西南を向いて眠るようになって三年になる。これは大国があることを知っているからだ。それゆえに来たのです。」と答えた。
通貢於石季龍,四年方達。季龍問之,答曰「毎候牛馬向西南眠者三年矣,是知有大國所在,
故來」云。


用語解説;
*広袤(こうぼう);「広」は東西の、「袤」は南北の長さの意》(デジタル大辞泉)
*井灶 jǐng zào 釜土
*鬲(れき);三足を持った沸騰機。 3本の足の中の空間に水を入れ、その上に甑(こしき/そう)を載せて火にかけ、水を沸騰させることで粟や稲などを蒸した。




*咫:(アタ). 周代の小尺における長さの単位。一咫は八寸、約18㎝。八咫鏡(やたのかがみ)は18㎝の8倍、144cm、これは円周とみるべきなのだろうか?直径は49cmだ。するとそうとうに大きくて重いことになる。
雒常 luò cháng 生の樹皮で衣類ができたことから大麻の種類だろうか?
*楛:(コ)木の名。弓の矢幹(やがら)に用いる
*石砮shí nǔ:肅愼特産のめずらしい矢じり(箭头)
*成王(せいおう)は、西周朝の第2代の王。武王の子。在位:前1042年 - 前1021年
*元帝司馬睿 東晋の初代皇帝(在位318年~322年)諱は睿、字は景文。宣帝司馬懿の曾孫
*成帝(せいてい)は、東晋の第3代皇帝。諱は衍、字は世根。在位(325年 - 342年)

粛慎が貢献した元帝紀から
《晋書巻六》帝紀第六
元帝:

太興二年八月(319年),肅愼獻楛矢石砮。徐龕寇東莞,遣太子左衞率羊鑒行征虜將軍,統徐州刺史蔡豹討之。
 八月、粛慎)が楛弓(こきゅう)と矢を献じてきた。徐龕が東莞の地を荒らしまわったので、太子左衛率の羊鑒を征虜将軍として派遣し、徐州刺史の蔡豹をも統率して、徐龕を討たせた。



日本の弓は上が長く、下が短い。和弓。


5)正始六年
正始6年の朝見:新訳
六年詔賜倭難升米黄幢付郡假授

正始6年、(魏齊王は)詔を難升米に賜り、よって、黄幢を倭の難升米に郡に付託して假授した。

解説:詔を出すことのできる主体は皇帝だけです。あたりまえなので、主語が脱字されています。このセンテンスはの字が脱字されています。天下太平を成し遂げたとき、自称を「余」から「朕」。命令を「制」から「詔」に、呼称を「王」から「陛下」にしたのは始皇帝です。
*郡に付して假授させるというのですから、帯方郡と難升米の軍事行動は一つの黄幢の下に、一体だと看做すことができます。難升米が私兵軍を持っていたことを表出させます。黄幢は皇帝が使う戦場での陣頭旗です。戦場で兵士は皆この旗を死守する義務を負います。

*黄幢(こうどう)について
1)三国時代、魏の国の帝位を、「黄祚(こうそ)」といった。
魏は五行思想で、土徳にあたるとされ、黄は、土の色とされた。
すなわち、「黄」が、魏の国のシンボルカラーであった。
(2)「黄」は、天子の服の色であった。
「黄蓋(こうがい)」「黄屋(こうおく)」といえば、天子の車のきぬがさであった。
「黄蓋」は、皇帝の車駕をもさした。
「黄旗(こうき)」は、天子の旗であった。
「黄麾(こうき)」は、天子ののる車の装飾品であった。
『漢書』の顔師古(がんしこ)(唐の学者)の注に、「幢は、麾(き)なり」とある。麾とは[huī1]名詞 :古代,軍隊の指揮に用いた指図旗。
「黄傘」も、皇帝の儀杖の一つであった。
「黄鉞(こうえつ)」は、黄金で飾ったまさかりであるが、天子が征伐に出かけるときのしるしとして用いた。
「黄門」は、「宮門」であった。
すなわち、「黄」は、皇帝そのもののシンボルカラーであった。
3)「黄幢」は、皇帝の権威を示す「錦の御旗」、「威信財」として与えられた。
「黄幢」といえば、古代中国で、軍中において用いられた旗であった。
諸橋轍次編の『大漢和辞典』の「幢」の説明に、「軍の指揮に用いるはた」とある。
大人の女子の古代史サイト 古代史カフェより

6)正始八年

八年太守王頎到官,倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和,遣倭載斯烏越等詣郡説相攻撃状,塞曹掾史張政等,因詔書黄幢拝假難升米爲檄告喩之,卑彌呼以死大作冢徑百餘歩徇葬者奴婢百餘人,更立男王國中不服更相誅殺當時殺千餘人,復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王,國中遂定,政等以檄告喩壹與,,壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還因詣臺獻上男女生口三十人貢白珠五千孔 靑大句珠二枚異丈親錦二十匹。

現代語訳:正始八年の貢献:新訳
「正始八(247)年、玄莬太守の王頎が帯方に着任した。倭女王卑彌呼と狗奴国王卑彌弓呼(高句麗・東川王)は敵対しており和平することはなかった。(王頎は)遣使し倭載斯・烏越等を郡治に詣させ、狗奴国(高句麗)を相(あい)攻撃する状を(王頎が)説いた。(王頎は)その攻撃状を塞曹掾史張政等らを(洛陽)に派遣し皇帝に届けた。よって(皇帝曹芳は)、難升米に黄幢を拝假する詔書をもたらし、激と告喩を為した。卑弥呼は(すでに死んでいたが)この時を以て死んだとされ、大いに塚(墓丘)を作った。円の直径は百余歩〔115歩、約23メートル〕、徇葬する者、奴婢(男女奴隷)は百余人。今までいた男王(倭王)は更新して共立王として立とうとしたが国中が服さず、さらに謀反が起きて敵の陣営を)誅殺し合い、千余人が殺された。今一度卑弥呼の宗女壹與を共立王とした。壹與は13歳であった。国中がついに定まった。

(内乱が収束したので、)張政等は再び、激をもって壹與に告喩をなし、王頎玄莬軍・楽浪軍とともに出兵する命令を出した。沃沮の制圧が終了し、壹與は倭の大夫率善中郎將,掖邪狗ら二十人を遣わして張政らが帰還するのを護衛して送った。同行した者たちは臺(洛陽の高楼)に詣でて男女生口三十人(高句麗の捕虜)を献上し、白珠五千個、靑大句珠二枚、異丈親錦二十匹を貢献した。」

以下解説;
黄幢は結局、難升米には渡らず、壹與に渡ったと考えます。難升米が更新して立つはずだった男王ですが、卑弥呼が亡くなって、しばらくそれを伏していたのでしょう。弟の男王がいざ(八加の推戴を以て)共立王になることを目論んだとき、国中が納得せず造反が起きたのです。誅殺というのは、殺す相手がはっきりと決っています。ですから、更新して立った男王を殺そうとしたのです。正始元年から男王を自称していた麻余を内官佐平である牛加の父子が殺そうと反乱を起こしたとみます。拝假するとは制詔をなすことで、皇帝の専権行為ですから洛陽で行われました。ですから実際に帯方の地で黄幢を渡し、檄を飛ばしたのは張政です。では、張政は誰に檄を発したのかというと壹與と書かれています。檄は出兵の合図です。ですから結局、壹與が黄幢を持って戦地に赴いたのでしょう。また張政を送りながら捕虜を献上したことは、高句麗との戦には勝利したことを示しています。高句麗戦に勝利して三十人の虜を得たという流れになります。壹與がジャンヌダルクのように武装したという思わぬ展開になりましたが、共立という概念、誅殺という語、拝假という語、檄という語、生口という語などを定義して時制(テンス)で流れを作るとそうなるのです。

用語解説;
*説相攻撃状=一緒に攻撃する書状を説得した。
*今以て死す。すでに死んでいるが、今を以て死んだことにするということ。
*相=㋐一緒に、ともに、の意を表す。「相弟子」「相伴う」
*塞曹掾史:掾(えん)は、中国の秦・漢代に中央朝廷と地方官署内に設けられた執行機構、「曹」の長官である。国境の防衛にあたる執行官といったところで、中級の官名。大司馬の下の組織である大将軍府の属官(軍師・長史・従事中部・主簿・参軍・記室・西曹掾・東曹掾・戸曹掾・倉曹掾・金曹掾・水曹掾・兵曹掾・騎兵掾・鎧曹掾・営軍都督・刺姦都督・張下部督・舎人)・・・この中には曹掾という官名が多いように、実働部隊の長といったイメージです。楽浪郡を包むように万里の長城が朝鮮半島にも伸びていましたから、塞とは長城の守護にあたる長官です。

以下各論:

景初2年に疑問の余地なし。

 この上の制詔は、年表式に景初2年12月の項に書かれています。これについて、これは景初3年の間違いであるという説があります。最近でも、三国志事典をだした渡邊義浩も景初3年が正しいと書いています。景初2年は間違いだと言っています。12月の詔書は斉王小帝が出したものだとまで言っていますので、私はしばし、「ブルータスよ、お前もか?」と、一瞬目を疑いました。

 倭人伝では、景初二年6月には「太守劉夏」と書かれ、12月には「帶方太守劉夏」と書かれています。倭人伝では帯方太守という字は二カ所だけで、帶方太守劉夏以外、表出しません。他に帯方太守と記されるのは韓伝で、「帯方太守劉昕」および「帯方太守弓遵」と書かれている以外ありません。したがって、王頎を勝手に帯方太守と読み替えてはならないのです。
司馬懿が公孫淵を襄平城で首を切ったのは8月です。時系列からみて、6月にはまだ、太守とだけ表記され、帯方太守ではありません。この景初の年号は3年間で終わります。ですから、韓傳の言う、「景初中」とは景初2年しかありません。景初中、明帝の楽浪郡への海から軍兵を送ったのも、2年のことです。明帝が亡くなったのは12月です。明帝死後、一年余後に正始が始まりますが、景初年号は景初4年は2月まで存続しているのです。

 上記のブロックは明帝曹叡の詔書の原文です。起承転結が読み取れます。おそらく一字もらさず全体を記したものを思われます。
 特徴的なのは、一般の制詔と比べて異例な長文であること、また、汝にあたるのは、「親魏倭王卑彌呼」ですが、汝という文字を略すことなく、たくさん使っています。汝という文字が驚くことに13カ所もでてきます。文書にしては、口語のようなニュアンスがあります。

「今、難升米を率善中郎将、牛利を率善校尉と為し、銀印青綬を仮授し、朕が謁見を許して慰労を賜い、引率して送り還えらせる。」の行からは、玉座に座った明帝が難升米と牛利の前で、述べたことをもらさず秘書官が筆記した文書と思われます。明帝自身は、一か所、「我」という文字を一カ所使っています。「我甚哀汝」、「わたしは、はなはだお前を愛おしく思う」と自身の親愛の情を表記しています。朕とは言っていません。どちらかというと詔書にしては私的文書のような、やわらかい感じがします。この時、卑弥呼は64歳、明帝は34歳です。明帝からみれば自分の母親よりも年が上です。さて、この制詔は、文書官に命じて書かせた文面ではありませんね。文書官が作文した詔書なら、明帝曹叡にあたる主語を「我」とは書けないはずです。「我」の文字をはたして代筆できるでしょうか。奏法の景初3年、239年の12月詔書だとする論者たちは新皇帝・曹芳の制詔だとするのですが、このとき、曹芳はわずか8歳の子供でした。また、明帝曹叡の喪中でもあり、改元もされていないのです。
卑弥呼を汝と13回も記している・・・堂々たる文章を8歳の子供の語学力や発想に照らしてみると早熟すぎます。(だから司馬懿が代わって書いたとする論者がおりますが、これは辻褄合わせですね。この文章は司馬懿が書いたのだとするのは孫栄健の説です。弱点を都合よく回避する便法です。制詔とは皇帝の専権行為です。我といった表現は公式にはいいません。)
さて、渡邊義浩は「三国志事典」の中で、「景初二年が景初三年の誤りである以外は、事実の記録である。その中心を占める皇帝曹芳の制書が史官により変更される可能性は、ほとんどありません。中国の史書は、皇帝の命令書を改竄しないことが原則だからである」、・・・ここで墓穴を掘っていませんか。8歳の子供で、まだ正式に皇帝の即位式もやっていない曹芳が史官の助けもなく、はたして上記のような威厳のある詔書を発することができたでしょうかね?

明帝曹叡は景初3年正月(2月)に崩御しています。景初3年、多数説は、この制詔を景初3年の12月だと言っているのです。景初2年6月は、もっぱら公孫淵がまだ征伐されていない前だから、帯方郡はまだ公孫氏が支配していた、だから卑彌呼が遣使をだすことはありえないというのです。しかし、2か3かの違いは1年ずれることになりますよ。実際、景初2年の8月23日に公孫淵が誅殺されました。ですが、みなさん、景初3年2月に明帝は、この世にいないのです。景初3年正月にそっこく正始に改元されたというのは間違いで、景初4年春が正始年号の始まりなのですよ。通説の景初三年説によれば倭国の朝貢は景初三年の12月になるはずです。この明帝の死去が景初三年正月であるので渡邊義浩は明帝の制詔ではなく、あえて斉王曹芳の制詔としています。その他の通説は明帝の死を無視しているのです。

明帝が亡くなると斉王曹芳がただちに即位したのですが、朝議を開いたのは7月になってからで、その間、どこかに密かに雲隠れしていたのですよ。喪中といえば朝議を開かない弁解が通ったのかどうかわかりませんが、景初4年(240年)の2月に正始の元号を勅令したのです。皇帝に即位した月が正月になります。ですから、240年の正始元年正月(2月が変更される)に新皇帝の参賀朝貢が行われたのです。景初3年6月は、朝廷が機能していないのです。太極殿が朝議の場所だとしたら、太極殿はからっぽだったのですよ。また、景初2年の間に「明帝、密かに帯方太守劉昕と楽浪太守鮮于嗣を派遣し、海を越え二郡を定む。諸韓国の臣智には邑君の印綬を加賜し、次に邑長を与う」とあり、公孫氏の勢力圏の背後になる帯方と楽浪は明帝が郡として定め、すでに諸韓国の王に印綬を下賜し、帯方・韓の邑国を侯王となしたりしているのです。(魏志東夷伝の韓伝では、明帝、密かに・・・派遣したというのは、まだ公孫淵が誅殺されていなかったから、密かにと書かれたのでしょう。)この帯方太守王頎と楽浪太守鮮于嗣は軍をともなっていました。濳軍浮海で明帝が海軍を韓国に送ったことが分かります。
その時は、景初中とありますので、次の皇帝の小帝曹芳ではないのです。
三国志魏志東夷伝序文(抜粋)
「景初中、大興師旅、誅淵、又濳軍浮海、收樂浪、帶方之郡、而後海表謐然、東夷屈服。其後高句麗背叛、又遣偏師致討、踰烏丸、骨都、過沃沮、踐肅愼之庭、東臨大海。」

:景初年間の中頃、大規模に軍隊を出して、公孫淵を誅殺した。また軍に川を進ませ、海を航行させて樂浪郡と帶方郡を設置したところ、海の上はひっそりとして静まりかえり、東夷は屈服した。
 その後、高句麗が背反し、全軍の内一軍を出して派遣してこれを討伐し、偏師を遣わして、ぎりぎりまで追い詰めて遙か遠くまで行き、烏丸、骨都を越えて、沃沮を通り過ぎ、肅愼の地を踏んで、東に大海を望む地に至った。

「濳軍浮海」の四文字からは、軍に川をすすませ、海を航行させてと訳していますが、楽浪・帯方の制圧は、公孫氏を滅ぼした軍とは別の軍隊ということになります。それも、渡海した軍の行動であったことが分かります。景初の中ごろは景初2年です。景初3年に存命していませんから明帝が軍事行動を興す時間はありません。景初2年に、公孫誅殺と楽浪郡・帯方郡の二方面に軍事展開したことはあきらかです。

公孫淵がまだ征伐されていない前だから、つまり帯方郡はまだ公孫氏が支配していたから、卑彌呼が遣使するわけがない、というのは全くの憶測でしかありませんね。
 梁書に「魏の景初3年、公孫淵が誅されて後、卑弥呼はじめて使を遣わし朝貢す」と書かれているそうですが、梁の暦を基準に(逆換算表か何かを見て)景初3年にしたのだろうと考えます。景初歴があった時代がありますから、一年の違いなどは潤月の数か月の差で年度が替わることがあります。
後世の類書にあることを証拠にみつけたことで、断定できませんよ。

 『三国志魏志』は正史です。皇帝の詔書の内容と、発令した年号は絶対に改竄しないというのが正史の原則なのですよ。あなた、中国史書に倭国伝は10種類もあるのです。はっきり書いてある年号を後世の学者が変えてしまい、さらに注もつけないで改竄してしまうというのは、もはや公文書偽造に等しいのですが、これがよくあるのです。典型的な例が後漢書ですよ。

そこで、倭国と帯方郡が、同じブロックに在り、あたかも地域が重なっていることに気づかねばなりません。
その前に、帯方郡を中心に歴史をみなければなりません。正始年間には、元年、四年、六年、八年の四か年の倭国に関連することだけを書いています。重ねて、言えることは朝獻してきた事実だけです。ここでの主題は倭国ですから、その他の外延の国の出来事、政情、争乱などは略されています。倭人伝では正始元年から四年の間、四年~六年の間、六年~八年の間の周辺国の出来事が全く書かれていません。しかし、『三国志』魏書三十 烏丸鮮卑東夷伝の夫餘,高句麗,東沃沮,挹婁,濊,韓伝などにも拡張してみると、わずかですが楽浪・帯方の歴史が分かるのです。

 このQ'とS'のブロックは歴史そのものです。年号が記されているということは時系列があります。ここからは歴史を書いているのです。しかし、穴が開いている年は、削除されていると看做してみましょう。この欠落した正始3年、5年、7年、9年の部分は倭人伝だけでは、埋めることができません。まずは、その穴埋めをしないと、倭国の置かれていた位置や(周辺の)状態がよく分かりません。

「公孫誅殺の年は景初二年・・・景初三年はまちがいである」・・・

 

三國志》《魏書四》《齊王紀》

2 打開字典顯示相似段落  齊王紀: 

魏氏春秋曰:或云任城王楷子。青龍三年,立為齊王。景初三年正月楷子朔,帝甚病,乃立為皇太子。是日,即皇帝位,大赦。

「魏氏春秋に曰く:任城王楷子と伝える。青龍三年に斉王となった。景初三年正月一日、帝は、はなはだ病が重く、楷子を立太子した。その日に帝位についた。大赦の詔を発した。」
*楷子は斉王の幼名;

 

景初3年正月一日、司馬懿仲達が帰還、帝は若干8歳の斎王を立太子すると同時に、司馬懿に斎王の帝位継承を託す。司馬懿は号泣したとつたえられる。

 

岩元:「景初が明帝の年号であっても、景初三年は皇帝に即位した斎王芳治世の年号である。景初三年の年号に「明帝」とつけるはずがない。したがって、この「三年」こそ「二年」の間違いである。」

 

岩元:「景初二年六月」を「景初三年六月」の間違いであるとするならば、とうぜん次に載る「その年十二月」は「景初三年十二月」である事になる。学会のこの考え方には明帝の景初三年一月の崩御という事実認識が欠落している。

 

岩元:「二史に見える「景初三年」が卑彌呼献見の年を述べているとすると、この語の配置は「卑彌呼」語もしくは「倭女王」語の直前に置かれなくてはならない。二史の「景初三年」語の配された位置は公孫淵の誅殺の年を語るのである。したがって、景初三年は景初二年の間違いである。」P230

 

二史の「景初三年」語の配された位置は公孫淵の誅殺の年を語るのである。・・・二史とは、太平御覧と梁書のことですが、以下原文を掲載します。

 

宋槧本『太平御覧』所引『魏志』倭人章  太平御覽 [北宋] 977-984] 李昉、徐鉉ら14人による奉勅撰

 第一粂

 

魏志曰倭国在帯方東南大海中依山島為旧国百余小國漢時朝見者今令使訳所通其三十国従帯方至倭循海岸水行歴韓国従乍南乍東到其北岸狗邪韓国七千餘里始度一海千里至對馬國戸千余里大官曰卑狗副曰卑奴母離所居絶島方四百余里地多山林無良田食海物自活乗船南北市糴又渡一海一千里名曰 瀚海一大国置官与対馬同地方三百里多竹木叢林有三千軒許家亦有田地耕田不足食方行市糴又渡海千余里至末盧国戸四千浜山海居人善捕魚水無深浅皆能洗沉沈没取之東南陸行五百里到伊都国官曰爾支副曰泄謀觚柄渠觚有千余戸世有王皆統属女王帯方使往来常止住又東南至奴国百里置官曰先馬觚副曰卑奴母離有二万余里又東行百里至不弥国戸千余置官曰多模副曰卑奴母離又南水行二十日至於投馬国戸五万置官曰弥弥副曰弥弥那利又南水行十日陸行一月至耶馬台国戸七万女王之所都其置官曰伊支馬次曰弥馬叔次曰弥馬獲支次曰奴佳鞮其属小国有二十一皆統之女王之南又有狗奴国男子為王其官曰狗石智卑狗者不属女王也自帯方至女国万二千余里其俗 男子無大小皆鯨面文身聞其旧語自謂太伯之後又云自上古以来其使詣中国草伝辞説事或蹲或跪両手據地謂之恭敬其呼応声曰噫噫如然諾矣

第二粂 又曰倭国本以男子為王漢霊帝光和中倭国乱相攻伐無定乃立一女子為王名卑弥呼事鬼道能惑衆自謂年已長大無夫婿有男弟佐治国以碑千人自侍唯有男子一人給飲食伝辞出入其居處宮室楼観城柵守衛厳峻景初三年公孫淵死倭女王遣大夫難升米等言帯方郡求詣天子朝見太守劉夏送詣京師難升米致所献男生口四人女生口六仁班布二疋詔書賜以雑錦釆七種五尺刀ニロ銅鏡百枚真珠鈆丹之属付使還又封下倭王印綬女王死大作冢殉葬者百余人更立男王国中不伏更相殺数千人於数千人於是復更立卑弥呼宗女台挙年十三為王国中遂定其倭国之東渡海千里復有国皆倭種也又有朱中儒国在其南人長三四尺去俊倭四千余里又有裸国墨歯国復在其南船行可一年至

《梁書》《卷第五十四列傳第四十八 諸夷海南諸國 東夷 西北諸戎》中國哲學書電子化計劃

50 漢靈帝光和中,倭國亂,相攻伐歷年,乃共立一女子卑彌呼為王。彌呼無夫婿,挾鬼道,能惑眾,故國人立之。有男弟佐治國。自為王,少有見者,以婢千人自侍,唯使一男子出入傳教令。所處宮室,常有兵守衛。至魏景初三年,公孫淵誅後,卑彌呼始遣使朝貢,魏以為親魏王,假金印紫綬。正始中,卑彌呼死,更立男王,國中不服,更相誅殺,復立卑彌呼宗女臺與為王。其後復立男王,並受中國爵命。晉安帝時,有倭王贊。贊死,立弟彌;彌死,立子濟;濟死,立子興;興死,立弟武。齊建元中,除武持節、督倭、新羅、任那、伽羅、秦韓、慕韓六國諸軍事、鎮東大將軍。高祖即位,進武號征東將軍。

以下の《太平御覽》では景初三年の正月には齊王諱芳が皇帝即位とあります。上記の公孫滅亡は景初二年でないとつじつまが合いません。

《太平御覽》
[北宋] 977年-984年 電子圖書館
《皇王部十九》
《廢帝齊王芳》

1 打開字典顯示相似段落 廢( 廃)帝齊王... :
《魏志》曰:齊王諱芳,字蘭卿。明帝無子,養王及秦王詢;宮省事秘,莫有知其所由來者。《魏氏春秋》曰:或云任城王楷子也。青龍三年,立為齊王。景初三年正月,明帝病甚,乃立為皇太子。是月,即皇帝位。二月,西域重譯獻火浣布,詔大將軍、太尉臨試以示百僚。帝加元服,賜群臣各有差。大將軍司馬景王將謀廢帝,以聞皇太后。太后今曰:「皇帝芳春秋已長,不親萬機,耽淫內寵,沉漫女德,日延倡優,縱其丑謔;延六宮家人留止內房,毀人倫之敘,亂男女之節;恭孝日虧,悖傲滋甚,不可以承天敘,奉宗廟。遣芳歸藩於齊,以避皇帝。」是日遷居別宮,時年二十三。使者持節送衛,營齊王宮於河內之重門,制度皆如藩國之禮。《三國志》

《三國志》[西晉] 265年-300年
《魏書四》
《齊王紀》
電子圖書館
2 打開字典顯示相似段落 齊王紀:
魏氏春秋曰:或云任城王楷子。青龍三年,立為齊王。景初三年正月丁亥朔,帝甚病,乃立為皇太子。是日,即皇帝位,大赦。尊皇后曰皇太后。大將軍曹爽、太尉司馬宣王輔政。詔曰:「朕以眇身,繼承鴻業,煢煢在疚,靡所控告。大將軍、太尉奉受末命,夾輔朕躬,司徒、司空、冢宰、元輔總率百僚,以寧社稷,其與羣卿大夫勉勗乃心,稱朕意焉。諸所興作宮室之役,皆以遺詔罷之。官奴婢六十已上,免為良人。」二月,西域重譯獻火浣布,詔大將軍、太尉臨試以示百寮。
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三国史記によれば、民口(捕虜)を楽浪に還した王は古爾王です。百済王系図によれば第8代百済王。
*ここでの民口とは捕虜にされた旧楽浪国の民、阿残のことです。捕虜は奴隷かそれ以下の身分に置かれ逃亡すれば厳罰が科せられました。つまり、国家的な略奪と奴隷狩りの侵攻だったと考えられます。

三国志魏書韓伝「部從事吳林以樂浪本統韓國,分割辰韓八國以與樂浪,吏譯轉有異同,臣智激韓忿,攻帶方郡崎離營。時太守弓遵、樂浪太守劉茂興兵伐之,遵戰死,二郡遂滅韓」では、、正始七年(246年)帯方郡の崎離営が攻撃されたと記しています。このとき、帯方太守弓遵が戦死しています。この記事が古爾王の攻撃であることが明らかです。

「部従事・呉林は楽浪郡は元々は韓国を統治していたとして、辰韓八国を分割し、楽浪郡に編入した。異同のあることを伝達すると、臣智は激し、韓は怒って、帯方郡の崎離営を攻撃した。時の帯方太守弓遵、楽浪太守劉茂は兵を興して韓を征伐した。弓遵は戦死したが、二郡は遂に韓を滅した。(韓伝)」



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劉茂(りゅうも)について、

王頎という人物が謎を解く鍵

王頎が玄菟郡太守であったとき、玄菟郡郡治はどこにあったのかご覧ください。


武帝が直轄支配した当時の4郡です。BC82年に、
真番郡と臨屯郡から撤退しました。
帯方郡とは、この図の真番郡の領域と重なります。


高句麗が建国された直後の地政です。
高朱蒙は果敢に漢に攻撃したため、後漢は第二玄菟郡に移動したのです。
第一玄菟郡治はその城を玄菟城(ヒョントソン)と称し、後に、高句麗の国内城に
なったと推定します。共通しているのは、中国式の平城、ウォール型の城壁だったことから伺えます。



2世紀には、濊高麗が強勢のために、第三玄菟郡の位置まで後退します。
王頎が太守をしていた城は、第三玄莬郡の位置です。遼河の中流ですね。
このころまだ、帯方郡はまだないのです。しかし、見てください。
楽浪郡の南に伯濟国があります。伯濟国が、南の狗奴国です。
そうです。帯方郡がない以前から狗奴国はあったのです。
3世紀初頭に楽浪郡と伯濟国の間に帯方郡を公孫淵が設置したのですから、
倭国女王が誕生する以前から南の狗奴国はあったのです。
(南の拘奴國は=第二の句麗國=慰礼城伯濟(ウィレソンペクチェ)です。

 「卑弥呼の強敵、狗奴国男王卑弥弓呼」というフレーズは、教科書や年表などにも書かれていますよね。では、周辺国との関係、外交関係とでもいいましょうか、それが倭人伝にはよく説明されていません。なぜ、狗奴国と戦ったのか、なぜ黄幢が海を渡って中国から倭国にあたえられたのか明らかになりません。明帝が、黄幢を仮拝したということはその地域に重大な紛争があったからでしょう。その紛争に中国が様々な手を打っているのです。これらの事実から、中国が重大な関心を寄せる出来事が帯方の周辺にあったはずですよね。こうして、その周辺地域の歴史的状況を知らなくてはならないということなのです。総花的に歴史を俯瞰することができません。私から言わせると、「狗奴国は熊襲だ」、などというのは、あくまでも記紀から論証しようとする人々の妄想でしかないのです。太守弓遵は韓と戦いましたが、九州の国ではありません。「其後高句麗背叛、又遣偏師致討」・・・東夷伝序文の偏師とはまぎれもなく王頎のことなのです。
また、王頎は、沃沮の浜辺で東に女ばかりの国があると古老の人に聞いた逸話がありますが、王頎は海の向こうに日本という国があることを、それまで知らなかったのです。ここに出てくる、王頎という人物は、みなさんもご存知でしょうか、倭人伝の正始八年に書かれる重要人物です。この年に玄菟太守から帯方に転任してきた、あの王頎です。以下、その逸話が、東沃沮の編に詳しく出てまいります。

魏志東夷伝(三国志魏書三十烏丸鮮卑東夷伝)東夷伝 東沃沮より、

東沃沮傳:
毌丘儉討句麗,句麗王宮奔沃沮,遂進擊之。沃沮邑落皆破之,斬獲首虜三千餘級,宮奔北沃沮。北沃沮一名置溝婁,去南沃沮八百餘里,其俗南北皆同,與挹婁接。挹婁喜乘船寇鈔,北沃沮畏之,夏月恒在山巖深穴中為守備,冬月氷凍,船道不通,乃下居村落。王頎別遣追討宮,盡其東界。問其耆老「海東復有人不」?耆老言國人嘗乘船捕魚,遭風見吹數十日,東得一島,上有人,言語不相曉,其俗常以七月取童女沈海。又言有一國亦在海中,純女無男。又說得一布衣,從海中浮出,其身如中國人衣,其兩袖長三丈。又得一破船,隨波出在海岸邊,有一人項中復有面,生得之,與語不相通,不食而死。其域皆在沃沮東大海中。

師は偏師、毌丘倹です。王頎が別動隊で宮を追撃します。
毌丘倹は高句麗を討伐した。高句麗王宮(東川王)は沃沮に逃亡した。ついに師(毌丘倹)は進めてこれを撃った。沃沮の村を皆破り、3000の首をとった。東川王は北沃沮に逃亡した。北沃沮は一名、置溝婁ともいう。南沃沮と800里離れている。その俗は皆南沃沮と同じである。境は南に挹婁に接している。挹婁人は夜明けに船で襲って略奪行為する。北沃沮はこれを恐れ、毎年夏にはいつでも岩穴に隠れ、冬になると船が通れなくなるので、ようやく下の村に住む。王頎は別に遣わされて宮を追い討ちし、その東の界(さかい)を尽くした。その耆老に問う、「海の東にも人が有ろうか」
 耆老は言う、「国の人が嘗かつて船に乗り魚を捕らえるとき、風に遭い吹かれること数十日、東に一つの島をみつけました。上ほとりに人が有り、言語ことばはたがいに暁わかりません。その俗はいつも七月に童女を取って海に沈めます。」
 また言う、「一つの国が有ります。亦やはり海中に在り、女だけで男はいません」
 また説く、「一つの布の衣を得ました。海の中から浮き出て、その身は中国人の衣に如にて、その両袖の長さは三丈でした。」
また、「一つの破船(やれぶね)を得ました。波の随(まま)に出て海岸の辺りに在りました。一人が有り、項うなじの中にも面が有りました。生きていましたが、語はなしてもたがいに通じず、食べずに死にました」

《後漢書》
[南北朝] 420年-445年
《列傳》 《東夷列傳》
18 打開字典顯示相似段落 東夷列傳:
「又有北沃沮,一名置溝婁,去南沃沮八百餘里。其俗皆與南同。界南接挹婁。挹婁人憙乘船寇抄,北沃沮畏之,每夏輒臧於巖穴,至冬船道不通,乃下居邑落。其耆老言,嘗於海中得一布衣,其形如中人衣,而兩袖長三丈。又於岸際見一人乘破船,頂中復有面,與語不通,不食而死。又說海中有女國,無男人。或傳其國有神井闚之輒生子云。」

「また北沃沮がある。一名、置溝婁ともいう。南沃沮と800里離れている。その俗は皆南沃沮と同じである。境は南に挹婁に接している。挹婁人は夜明けに船で襲って略奪行為する。北沃沮はこれを恐れ、毎年夏にはいつでも岩穴に隠れ、冬になると船が通れなくなるので、ようやく下の村に住む。その老人が言うのには、かつて海中にある衣を拾い上げた。その衣服は中人の衣で、しこうして両袖が三丈もあった。また海岸に難破船があり一人の男が乗っていた。うなじや体にかけて入れ墨があり、言葉が通じず、食べないので死んだ。また、老人が説明するには、海中に女國があり、男の人がいない。あるいは、その国には神がいて、井戸をのぞくとたちまち子供が生まれると伝えられる。」


東沃沮で海に達したといのは日本海です。「その東に国があるのか?」と尋ねたのは王頎です。
わたしは、これを根拠に、北沃沮に行くまで王頎は日本の存在すら知らなかったというのです。

    扶余前史(東沃沮の歴史)
 前漢  武帝  前110年  臨屯郡   嶺東七県
      前107年  玄莬郡  沃沮城  橐離國王按(妃:河伯の女)
   高句麗建国  前37年      
     前75年  楽浪郡 東部都尉(濊城)   嶺東七侯国
     前75年 玄莬郡移動     高句麗の隆盛
 新  王莽    20年頃      下句驪 (はぐりょ)
   大武神王  37年 高句麗に帶素王殺される。   亡国時代  東夫餘消滅
 後漢 光武帝   44年 楽浪郡   楽浪郡に属す  侯国に復活
     118年 楽浪郡     高句麗と攻防を繰り返す?
   安帝五年 118年  公孫東海に雄を張る。    濊貊を攻撃、華麗城奪還
    安帝劉祜  120年頃  尉仇台遼東に移動  遼西晋平二郡時代  尉仇台印綬金綵拝受
公孫度が宗女を娶らせる。 
     121年 幽州勅使   後漢に属す 華麗奪還 
       
   順帝 136年     公孫に属す 尉仇台朝賀貢献 
   公孫度  189年 新設帯方郡  公孫遼東に属す  夫餘国復活
      高句麗   高句麗に降る  相攻伐濊城以外消滅
   明帝元年  237年  楽浪・帯方郡 高句麗に属す 明帝密かに高句麗から奪還侯国に 
   景初二年  238年  公孫滅亡  高句麗から脱し魏に属す  司馬懿、襄平城攻撃
    斎王曹芳  245年 帯方太守弓遵   帯方郡に属す 高句麗西安平を寇略。濊貊攻撃。 高句麗から奪還。毌丘倹丸都城攻撃するも退却。
   247年 帯方郡    濊不耐城陥落 
           
       壹與遣使朝貢    
     285年 夫餘依盧王   二都時代消滅 鮮卑慕容廆に殲滅され自殺
     286年夏 扶余依羅王    沃沮に逃れ夫餘復興 
     313年 高句麗   高句麗南進 楽浪郡滅亡 
     346年9月  近肖古王(346-375)  ソウルに遷都 契王自害。 
           
   高句麗  427年 長寿王  平壌遷都  
   百濟 660年   百濟滅亡    
   唐対日本  663年 白村江の戦い     
   高句麗  668年 羅唐軍に滅ぼされる。     


 王頎という人物がなぜ、正始八年に帯方の官に着任してきたのか、直接的には正始7年に弓遵が戦死したからですが、日本と交戦したことがない王頎が、いったい倭国とはどういう関係のか・・・・あなた分かりますか。疑問はあふれるほどありますよね。
追い込むようですが、弓遵や王頎といった倭人伝に書かれる人物が、「帯方に居た」ことは事実なのですよ。しかもですよ。このブロックには倭国から書き出されます。主題は倭国です。倭国について書いているのですよ。Q'S’のブロックに倭国は3か所登場します。また、倭王、倭女王、倭女王卑弥呼、親魏倭王卑弥呼、の表記もありますよ。日本書紀などで書いている倭國(日本書紀41件・古事記では5件)とは、かなり異質な感じがします。帯方と倭国は密接ですが、それに比べると、倭國と日本の関係は薄いのですよ。いったい、倭国と、帯方とは、なぜ密接な関係にあるのでしょうか。

 それにしても、どうして記紀に何も記されていないのか、当たり前ですよ、王頎は玄菟郡にいたことはあっても、日本のことは知らず、日本に行ったことすらないのですから。
 ちょっと寄り道ですが、日本の女性は、「その身は中国人の衣に如にて、その両袖の長さは三丈でした。」のようだと言っています。日本の女性は3世紀、振袖姿だったようですね。三丈というのは3尺の間違えとしても、かなり長い袖です。両袖ですから、領巾(ひれ)でもありません。羽衣のようですねえ。羽衣は天女が来ていたものではなかったようです。へんな言い方ですが、日本本土の倭人は、中国系の高級服を着ていたのでした。(女性の貫頭衣は会稽の倭人でしたよ、それと比べると、振袖であったというのです。)

 そこで、これらの疑問を解くために、いきなりですが、年表形式で、東北アジアで起きていたことを一覧にしましたので、まずは、ゆっくりとご覧ください。
漢代之後》《魏晉南北朝》《三國志》
[西晉] 265年-300年
《魏書二十八》
《毌丘儉》
*毌丘儉: (ぶきゅうけん:が正しい発音:通例一般にはかんきゅうけん:贯 guàn)
「正始中,儉以高句驪數侵叛,督諸軍步騎萬人出玄菟,從諸道討之。句驪王宮將步騎二萬人,進軍沸流水上,大戰梁口,梁音渴(kě)。宮軍破走。儉遂束馬縣車,以登丸都,屠句驪所都,斬獲首虜以千數。句驪沛者名得來,數諫宮,臣松之案東夷傳:沛者,句驪國之官名。宮不從其言。得來歎曰:「立見此地將生蓬蒿。」遂不食而死,舉國賢之。儉令諸軍不壞其墓,不伐其樹,得其妻子,皆放遣之。宮單將妻子逃竄。儉引軍還。六年,復征之,宮遂奔買溝。儉遣玄菟太守王頎追之,世語曰:頎字孔碩,東萊人,晉永嘉中大賊王弥,頎之孫。過沃沮千有餘里,至肅慎氏南界,刻石紀功,刊丸都之山,銘不耐之城。諸所誅納八千餘口,論功受賞,侯者百餘人。穿山溉灌,民賴其利。」

不耐城の位置情報。
*屠: 付属形態素 (人を)大量に殺す,大量に虐殺する.
*竄;(ピンインcuàn)匪賊・敵・獣などが)慌てて逃げ去る
*孔碩 (kǒng-shí)
*東萊人 東莱郡は青州に属し、現在の山東省東部の煙台市一帯
*穿山(chuān-shān)穿山是桂林的主要名山之一。桂林八景の一つ


『三国志』魏書 三十 扶余傳

「夫餘本屬玄菟。漢末,公孫度雄張海東,威服外夷,夫餘王尉仇台更屬遼東。時句麗、鮮卑彊,度以夫餘在二虜之間,妻以宗女。尉仇台死,簡位居立。無適子,有孽子麻余。位居死,諸加共立麻余。牛加兄子名位居,為大使,輕財善施,國人附之,歲歲遣使詣京都貢獻。正始中,幽州刺史毌丘儉討句麗,遣玄菟太守王頎詣夫餘,位居遣大加郊迎,供軍糧。季父牛加有二心,位居殺季父父子,籍沒財物,遣使簿斂送官。舊夫餘俗,水旱不調,五糓不熟,輙歸咎於王,或言當易,或言當殺。麻余死,其子依慮年六歲,立以為王。漢時,夫餘王葬用玉匣,常豫以付玄菟郡,王死則迎取以葬。公孫淵伏誅」

鬼道とは鬼神を祭ること!

卑弥呼Xファイルの3行ほどですが紹介して鬼道について説明いたします。

1)「中国古代の鬼神とは太祖霊(祖禰そでい)であり、王宮で祀る場合には、おおむね国祖である。国祖とは初代の王を指す。」
・・・167P
先秦兩漢 -> 儒家 -> 禮記 -> 祭義
《祭義》

祭義:祭之日,君牽牲,穆答君,卿大夫序從。既入廟門,麗于碑,卿大夫袒,而毛牛尚耳,鸞刀以刲,取膟菺,乃退。爓祭,祭腥而退,敬之至也。
8 打開字典顯示相似段落 祭義: 天下之禮,致反始也,致鬼神也,致和用也,致義也,致讓也。致反始,以厚其本也;致鬼神,以尊上也;致物用,以立民紀也。致義,則上下不悖逆矣。
19 打開字典顯示相似段落 祭義:
宰我曰:「吾聞鬼神之名,而不知其所謂。」子曰:「氣也者,神之盛也;魄也者,鬼之盛也;合鬼與神,教之至也。眾生必死,死必歸土:此之謂鬼。骨肉斃於下,陰為野土;其氣發揚于上,為昭明,焄蒿,凄愴,此百物之精也,神之著也。因物之精,制為之極,明命鬼神,以為黔首則。百眾以畏,萬民以服。」


祭儀とは、君がいけにえを率い、うやうやしく卿や大夫が序列に従い、廟門に入る。于碑・于帖を麗しく卿や大夫が担ぎ、牛の毛を耳にうやうやしく掛け、鳳凰の刀で殺し、膟(いけにえの血)を掃きとるとすぐに退く。祭りが爛々になると生肉を退いて、敬事は終幕する。祭具を口にするに到り、もって民の紀とし、義に到るなり。すなわち上下は道理に反することはなし。
天下の礼、始めに戻り、鬼神に至る。和用、義、讓なりや、初めに戻るを以て、その本義は鬼神に到る。以て、上を尊ぶなり。

殷周の祭祀は廟堂で行われ、始祖の鬼神を尊ぶ儀礼であったようです。さまざまな画像をみると、生贄の動物は豚だったと思われます。

2)「宗女は正統の血縁である子孫ということになる。やはり宗女の意味は自らの祖禰を守る者でいい。」・・・p225

3)「その風習では、事を起こして行動に移るときには、亀の骨を焼いて吉凶を占うが、はじめに占うことを告げる。その礼句は中国の亀法に似ている。骨に生じた裂け目の方角を観て兆しを占う。」p152

「亀法」とは、はじめに占うことを祭祀者がお伺いの祝詞を述べて、亀の甲羅に文字を記します。これが漢字の始まりでした。それを亀甲文字といいます。王が初めに占いを立てるのですが、それを礼句といいます。「あす狩りにいくがいい獲物が捕れるだろうか?」・・・まず、占うことを記してから、亀の甲羅に熱した金棒をさして、生じた割れ目を観察して吉凶を占います。この割れ目がなぜか卜の字のような形にひび割れるので卜占というのです。卜占とは亀法と同じなのです。ですから、亀卜占(きぼくせん)なのです。
尋ね事である礼句に答えを返してくれる神が、鬼神です。では、鬼道とは亀卜法と同じということになります。
では、鬼道のもとである鬼神とは、いったいどういう神なのでしょうか。、

三国志魏書高句麗伝には、鬼神という一語がでてまいります。では、三国志の宗教観では鬼道と鬼神とはどいう存在なのか探ってみることにしましょう。
そのまえに、『周書』 高句麗伝を読んでください。

『周書』 高句麗伝
「又有神廟二所:一曰夫餘神、刻木作婦人之象;一曰登高神、云是其始祖夫餘神之子。並置官司、遣人守護。蓋河伯女與朱蒙云。」


その1訳: 「また、神廟が二所あり、一つは扶余神といい、木を刻んで婦人(女神)の象を作る。一つは登高神といい、その始祖の扶余神の子だという。官を並置して司り、遣人が守護する。それらは河伯(ハベック)の女と、ともに朱蒙(ジュモン)に当たると伝えている。」

原文証拠:著者の意訳付き
周書
卷四十九 列傳第四十一異域上・・・唐 令狐德棻

高句麗

高麗者,其先出於夫餘。自言始祖曰朱蒙,河伯女感日影所孕也。朱蒙長而有材畧,夫餘人惡而逐之。土于紇斗骨城,自號曰高句麗,仍以高為氏。其孫莫來漸盛,擊夫餘而臣之。莫來裔孫璉,始通使於後魏。

高句麗はその先は東夫餘から出でたり。始祖は朱蒙だと鼻から言う。。河伯の女が日精に感じて妊娠し生まれたと伝える。朱蒙は成長すると策略に秀でた有能な人材となった。東夫餘人たちはこれを嫉妬して、しかして追放した。やがて紇斗骨城という城を作り、高句麗と号した。これを以て氏を高と称した。その孫の莫(第三代・大武神王)の世になってしだいに隆盛となり、東夫餘を撃破してこれを臣下となした。

其地,東至新羅,西渡遼水二千里,南接百濟,北隣靺鞨千餘里。治平壤城。其城,東西六里,南臨浿水。城內唯積倉儲器備,寇賊至日,方入固守。王則別為宅於其側,不常居之。其外有國內城及漢城,亦別都也,復有遼東、玄菟等數十城,皆置官司,以相統攝。

高句麗の地は東に新羅にいたり、西に遼水を渡ること二千里、南は百済に接する。北は靺鞨が千余里に隣り合わせにあり、平壌城で治めている。その城は東西六百里ほどあり、南方には浿水(北大同江)が流れている。場内には穀物倉庫や武器庫が備えられており、賊が襲ってきた日には城に入って城を堅固に守る。王は城の側らに住まいをもっており、常時そこに居たわけではない。平壌城のほかに国内城、漢城など別な都に遷宮していった。(高句麗三遷宮)また遼東に復権し、玄菟には数十城をもち、みな宮司をおいて互いに支配している。



大官有大對盧,次有太大兄、大兄、小兄、意俟奢、烏拙、太大使者、大使者、小使者、褥奢、翳屬、仙人并褥薩凡十三等,分掌內外事焉。其大對盧,則以彊弱相陵,奪而自為之,不由王之署置也。其刑法:謀反及叛者,先以火焚爇,然後斬首,籍沒其家。盜者,十餘倍徵贓。若貧不能備,及負公私債者,皆聽評其子女為奴婢以償之。

代官は①大對盧(てどろ)といい、次に②太大兄(てでひょん)、次に③大兄(てひょん)④小兄、次に⑤意俟奢、次に⑥烏拙、次に⑦太大使者、⑧大使者、⑨小使者、⑩褥奢(よくさ)⑪翳屬、次に⑫仙人、⑬褥薩(よくさる)併せて13等ある。それら宮人が内外の仕事を分けて担当している。その大對盧は強弱の争いの琢磨のなかで自ら奪って為ったのである。王は宮内の官衛(部署)を自由に置くことはできない。刑罰は謀反および反乱を起こした者は先に火あぶりの形に処したうえで首を斬る。その家の戸籍は没する。盗人は奪ったものの十倍を返済し、もし貧しくて返済の備えがないばあいは公私の債務を負うが、借金の内容を判断して、その者の子女を奴婢にして返済させる。


丈夫衣同袖衫、大口袴、白韋帶、黃革履。其冠曰骨蘇,多以紫羅為之,雜以金銀為飾。其有官品者,又插二鳥羽於其上,以顯異之。婦人服裙襦,裾袖皆為襈。書籍有五經、三史、三國志、晉陽秋。兵器有甲弩弓・箭・戟(げき)・矟・矛・鋋。賦稅則絹布及粟,隨其所有,量貧富差等輸之。土田塉薄,居處節儉。然尚容止。多詐偽,言辭鄙穢,不簡親疏,乃至同川而浴,共室而寢。風俗好淫,不以為愧。有遊女者,夫無常人。婚娶之禮,畧無財幣,若受財者,謂之賣婢,俗甚恥之。父母及夫喪,其服制同於華夏。兄弟則限以三月。敬信佛法,尤好淫祀。又有神廟二所:一曰夫餘神,刻木作婦人之象;一曰登高神,云是其始祖夫餘神之子。竝置官司,遣人守護。蓋河伯女與朱蒙云。

大夫の衣装は袖衫、大口袴、白韋帶、黃革履は同様で、冠は骨蘇(ごるそ)と呼び、紫の薄絹を飾る。上品の者は二枚の鳥の羽を冠に刺して、その威勢を際立たせている。婦人は裙襦(チマとチョゴリ)襟(えり)、袖(そで)には縁飾りをつけている。書籍には五経、三史、三国志、晉陽秋(東晋孫盛著)がある。兵器には甲弩・弓箭(きゅうせん/矢)、矟(さや)、矛(ほこ)、鋋(せん)があり、賦税は絹布と粟である。所有する量、貧富の差になどの違いを察して納めさせる。土地は貧弱で、住まいは質素である。表情や行動は詐欺が多く、言葉は汚い。親族であろうとなかろうと同じ川で体を洗い、同じ部屋で寝る。風俗は淫売を好み、これらを恥じない。遊女は常人の夫がいない。婚礼では財貨を受け取らない。もし受け取ると、婢を売ったと評判がたつ。はなあなこれを恥じとするようである。父母、夫を亡くすと喪に服し、その喪服の様は中国人と同じである。兄弟は三か月と長く、仏法を敬うが、むしろ卑俗な淫祀を好む。また、神廟が二か所に設けられ、一つは夫餘神(ふよしん)、木像の夫人の像を祭り、もう一つは登高神(とこしん)という。始祖の登高神は夫餘神の産んだ子である。神廟を並んで設けて、宮司も並びおき、人を派遣して守護している。二神は河伯女と朱蒙だろうと信じられている。

璉五世孫成,大統十二年,遣使獻其方物。成死,子湯立。建德六年,湯又遣使來貢。高祖拜湯為上開府儀同大將軍、遼東郡開國公、遼東王。

璉という五世の孫の成(第24代陽原王・諱は平成)になって、大統十二年(546年)に使者を送って特産物を献上した。成が死に子の湯(第25代平原王・諱は陽成)が即位した。建德六年(577年)湯はまた遣使し来貢した。高祖(北周三代の王武帝・姓は宇文、諱は邕(よう)在位期間 560年5月31日 - 578年6月21日)は、上開府儀同大將軍と遼東郡開國公、遼東王という官職を与えた。(北周は鮮卑族の王朝、北斉、後梁・陳などと対峙、北斉をを577年滅ぼし華北を統一、581年に隋。高句麗が鮮卑族の王朝に朝貢していたことが重要か?他方の夫餘は宋・南斉・梁(502年)に朝獻していた→倭の五王。)

五経;儒教の五つの書・・・『易経』・『書経』・『詩経』・『礼記』・『春秋』。
三史;三つの史書・・・『史記』『漢書』・『後漢書』。
甲弩;弩弓(ボウガン)クロスボウのような弓のことか、短弓のことか。
矟(さや):1.5メートルぐらいの鋋(せん)馬上で使われた矛
鋋(せん):柄の小さい矛

中央の二つが戟(げき)。左の二つが戈。右の二つは宋代の青龍戟と方天戟。







*『続日本紀』延暦9年1月15日条に河伯女が出てまいります。
「皇太后姓は和氏、諱は新笠、贈正一位乙継の女(むすめ)なり。母は贈正一位大枝朝臣真姝なり。后の先は百済武寧王の子純陁太子より出ず。…… 其れ百済の遠祖都慕王河伯の女日精に感じて生めるところなり、皇太后は即ち其の後なり。」
 河伯の女日精に感じて生める子」の河伯の女とは河伯神母で、高句麗国祖母・扶余神となります。・・・『記紀』では沼河比賣・刺国若比賣(サシクニワカヒメ)・伊邪那美命のモデルとなります。朝鮮神話では柳花(ゆふぁ)夫人です。
日精に感じて生める子とは、朝鮮の神話では「金蛙王は柳花を連れて帰ると、誰にも逢わせないように別宮に閉じ込めました。ところが奇妙なことに、やがて彼女が懐妊したとの報せが伝えられたではありませんか。なんでも、日の光が差し込んで彼女の懐に当たったことが原因だと言うのです。」という出生神話にあたり、都慕王とは高朱蒙(高句麗開祖・鄒牟《チュム》・第二の東明聖王)となります。『記』の神代では須佐之男(須佐に座す王・代名詞である)・大国主(最大敬称の代名詞)・大穴牟遅(オホナムヂ)・葦原色許男(アシハラシコヲ)神など別名でストーリを展開しています。


さて、上の”その1訳”を2、3回は読んでください。次に、三国志魏書の高句麗伝に移ります。


『三国志魏書』高句麗伝

於所居之左右立大屋、祭鬼神、又祀靈星、社稷。其人性凶急、善寇鈔

その2訳:王宮の左右に大きな建物を立て、鬼神を祭り、霊星や社稷(大地の神と五穀の神)も祀る。その族人の性質は凶暴で性急、金品を強奪することを喜びとする。

記二書、その1訳とその2訳をまとめてみます。高句麗の神廟は王宮の左右にありました。一つは河伯神母の柳花を祀り、扶余神と呼び、もう一つの神廟は朱蒙で、登高神と呼んでいました。この二神を『三国志魏志高句麗伝』では、鬼神と呼んでいます。分かりますか、これは一次方程式ですよ。倭人伝と同じ魏志東夷伝の用例として指摘しているのです。神廟で祀つっていたのは鬼神なのです。鬼神とは扶余神と登高神のことで国の開祖です。みなさん、おちょくるわけじゃありませんが、鬼神とは鬼ヶ島の鬼じゃないんですよ。日本中世代に仏教界では鬼神は荒神と集合して、なにか恐ろしい障碍神に変貌しています。このへんが鬼神のほんとうの姿が見えなくなってきているわけなのです。鬼神とはもちろん中国が本家本元です。古く夏、殷、周王朝まで鬼神が主祭壇に祀られており、その祭壇のまえで占いが行われていたのです。卜占は王が自ら行い、王の問いに鬼神(先祖の霊)が亀甲の卜の割れ目で答えていたのです。

さて、鬼神の実像、リアリティがわかったところで、次に進みます。

さて、三国志魏志倭人伝では卑弥呼が鬼道を行い人々を魅了したといっていますが、「卑彌呼事鬼道能惑」は、卑弥呼は祖神をまつる宗廟を守っていたとなりますね。そこで、卑弥呼や壹與が宗女というのは王統の鬼神を守る者だったのです。太祖神をよく祭り人々から尊敬されていたわけです。ですから、卑弥呼は褒め称えられる存在だったのです。民を惑(まどわ)したのではありません。そこで卑弥呼の先祖が誰なのか、それこそが謎です。卑弥呼の鬼神は倭国の神廟の国祖といっていいわけですから卑弥呼のルーツに直結します。



「卑彌呼事鬼道能惑」、ここから卑弥呼がシャーマンで巫女、あまつさえ生涯独身だったなどという固定概念は、あつらえたイメージにすぎないのですが、NHK的な解釈では、卑弥呼の呪術にまで話が及びます。巻向遺跡から桃の種が1200個が出土しましたが、実年計測もしないうちから卑弥呼の呪術に使われたのではないか・・・・とか、もっともらしい解説をしているのは笑止千万ですね。卑弥呼がシャーマンだというイメージは、払拭されるべきです。(裏の声:実はねえ、朱蒙の妃・百済国祖母だった召西奴が高句麗の鬼神を宗廟で祀っていたのはほんとうです。召西奴、古事記では別名、八上姫、またの名を天照大神に変じております。)

*書記などの常世の国という「トコヨ」は登高神の”トコ”からきています。御毛沼命はわたつみの女「玉依姫」の子ですから、祖国とは伯濟國です。伯濟国も高句麗と同様に登高神を神廟を祭っていました。通説では常世の国を海のかなたにある神仙境とし、死後の世界と同じになります。従って、「御毛沼命」は死んだと解釈されますが、神武天皇のご兄である「御毛沼命」が常世の国に渡ったというのは、登高神を祭る祖国に帰ったという意味です。黄泉の国、死後の世界に往ったのではないのですね。また、書紀、皇極紀には常世神として祀る新興宗教が富士川でおこり、秦河勝が討伐したことが記されています。この虫は蜀(しょく)から来た虫で、橘や山椒の葉に発生する虫であるという説があるそうですが、朝鮮から持ち込まれた外来種で、害虫と判断されたのだろうと解釈します。

注*富士川の常世虫信仰 644年東国の不尽河(富士川)付近で、大生部多(おおふべのおお)という男が「常世神」(とこよのかみ)を広めた。常世神とは、虫で、長さ12cmあまり、太さは親指くらい、体色は緑で黒い斑点があった。形はかいこにそっくりだが、体長が一回り大きい。常世の国からやってきた虫だと広め、祭れば、「貧しき人は富を致し、老いたる人は還りて少(わか)ゆ」と喧伝した。虫を祭らせ、家の家財を投げうつ者が多く、秦河勝(はたのかわかつ)は民が惑わされるのを許さず、大生部多を討った。「太秦(うずまさ)は 神とも神と 聞こえ来る 常世の神を 打ち懲(きた)ますも」(書紀24)とあり、河勝は神であるとか神だとか言われているそうだ。それならば、常世神を懲罰してもしかたあるまい。・・・記す。わたしには、河勝は神と噂されているが「常世神」を倒すほどの神なのか・・・という皮肉をこめた歌に聞こえます。


狗奴国本体の歴史


卑弥呼が戦った敵は高句麗の東川王ですが、東川王の前史を知っておくのも必要だと思われます。いわゆる倭国大乱と年代が重なる部分はとくに重要です。

东明圣王(解朱蒙)▪琉璃明王▪大武神王▪闵中王▪慕本王▪太祖王▪次大王▪新大王//故国川王▪山上王→→→11代東川王

上は、初代から10代までの高句麗の王名です。→が東川王です。この王が、狗奴国の卑彌弓呼です。



初代、東明王、『三国志魏書』高句麗伝 前108年,高豆莫征服北扶余,将东明国和北扶余合并为卒本扶余。前59年,高豆莫去世后,传位给高无胥。后来高无胥遇到朱蒙,并将二女儿嫁给朱蒙。高无胥死后,朱蒙继承了王位。前37年,朱蒙建高句丽国。
この詳細は、メインドメインの「スサノオは誰?」をお読みください。
6代目以降

 高句麗王第6代太祖大王(47年-165年・在位:53年-146年))は、。姓は高、諱は宮(クン)、または於漱(オス)。 56年7月には、東沃沮を討伐し、高句麗の領土が滄海(東朝鮮湾)から薩水(平安南道の清川江)に及んだ。68年8月に曷思王の孫の都頭が国を挙げて投降してきた。72年2月には藻那国を討伐、74年10月には朱那国を討伐した。118年6月には穢貊とともに後漢の玄菟郡を襲い、121年には、後漢の幽州刺史の馮煥、玄菟太守の姚光、遼東太守の蔡諷らが侵攻してきたので、王弟の遂成(すいせい、スソン。後の次大王)を派遣して迎撃させ、却って玄菟・遼東を攻めて捕虜二千を得るなどして領土を拡張している。しかし、その間105年には遼東郡に侵攻して6県を掠奪したものの、遼東太守耿夔の反撃にあって大敗してもいる。また、121年から122年にかけては馬韓や穢貊とともに玄菟・遼東に攻め入ったが、扶余王が漢軍を助けたために敗退を余儀なくされてもいる。治世末期の146年8月には遼東郡西安平県を攻め、帯方県の令を殺し楽浪太守の妻子を奪い取った。

熹平3年(174年)冬、鮮卑は北地郡に侵入し、太守の夏育は休著屠各を率いてこれを撃破した。この功により夏育は護烏桓校尉となる。

熹平5年(176年)、鮮卑は幽州を寇掠した。

熹平6年(177年)夏、鮮卑は三辺を寇掠した。そこで朝廷は護烏丸校尉の夏育、破鮮卑中郎将の田晏、使匈奴中郎将の臧旻を派遣し、南匈奴の屠特若尸逐就単于の軍とともに雁門塞から長城の外に出ると、三つに分かれて進み、2千余里を突っ切って遠征を行った。檀石槐は配下の部族を指揮して、これを迎え撃った。臧旻らは敗走して、無事に帰還できた兵馬は10分の1にすぎなかった。その冬、鮮卑は遼西を寇掠した。

 高句麗王第8代新大王(在位165年-179年)、諱は伯固・・・は度々遼東の西安平県を侵犯し,帯方令を殺害、楽浪太守の妻子を誘拐した。後漢の順帝と桓帝の間(125年-167年)に、168年玄菟太守耿臨がこれを討ち,斬首数百級,伯固が降服し、玄菟郡(魏志は遼東郡とする)に帰属した。伯固には二人の子がいた、長子は拔奇、次男は伊夷模(故國川王)。国人は拔奇を愚かな太子とみて、国人は弟の伊夷謨を擁立した。 拔奇は兄なのに擁立されなかった怨みから、消奴部(古雛加=涓奴部)の諸加と下戸三万余人を引き連れて公孫康(公孫度の子203年から楽浪郡太守になる)を訪れて降伏し遼東に移ってしまった。自分の子供である「駮位居」を卒本に於いて占有し、胡族も「駮位居」について叛いたため、伊夷模(故國川王、あるいは国襄。諱は男武、あるいは伊夷謨(在位179-197年)は新たに丸都城に遷都し、新たに国を立てた。抵抗勢力は丸都城に移つり、高句麗復興軍を起こした。その後、再び伊夷模が玄菟郡を襲ったが、玄菟郡と遼東郡の軍がこれを撃ち破った。このとき、涓奴部の拔奇は公孫康に内通したことになる。この国を二分する動乱は、伊夷模が勝利したようである。しかし、伊夷模には(絶奴部に)子が無かったので、灌奴部と淫して生まれた子が位宮と言い、伊夷模の死後王となった。位宮は第10代山上王(サンサンワン197-227)である。  伊夷模は、消奴部(古雛加=涓奴部)であり、絶奴部に女子がなく、灌奴部の女との間にできた子を王位にしたというのである。王族は消奴部・王妃族は絶奴部が王権を強化してきた。絶奴部から正妃を得て設けた子供以外は王位に就けない掟があった。その他の庶子が王になることはできなかったのである。この王位継承法が破られたのである。伊夷模(故國川王)は、この時、王位継承権をチョガ会議から奪い、父子相続とし、兄弟相続を廃した。兄弟相続に懲り懲りしたことが第一の動機だろう。なんであれ、中央集権化が進んだと言える。そこで、5部族の名称を東部・西部・南部・北部・中部と改変した。桂婁部は中部に改称されたので、桂婁部から王が出たことは一度もなかったと謂えよう。

建安年間(196-220年)、公孫康が高句麗を撃ち破り、邑落を焼き払った。拔奇は国王に擁立されなかった怨みから、涓奴部の三万余の民を連れて公孫康に帰服し、再び沸流水(卒本)に戻った。 胡族も伊夷模に叛いたので、伊夷模は新たに国(丸都城)を立てた。今の所在地がこれである。 拔奇は公孫康に従い遼東に往ったが、子を句麗國(卒本)に留めた。今の古雛加の駮位居である。 その後、再び伊夷模が玄菟郡を襲ったが、玄菟郡と遼東郡の軍がこれを撃ち破った。

 11代の東川王(227-248)は遼東の西安平を攻撃したが、魏の母丘儉軍が討伐に動いた。この戦争で丸都城が陥落し、大きな打撃を受けた。王族は東海岸の沃沮まで避難したが、玄菟軍太守の王頎に必要に追撃された。高句麗は245年~東川王が薨じるまでの4年間、丸都城の実効支配を失っていた。美川王(300-331)になって、玄莬城を3万の軍で奪った(313年)。


正始年間に隠れていたのは魏の高句麗攻略

『三国志』魏書三十 烏丸鮮卑東夷伝ほか、三国史記などから編集しました。

正始年間に入ると、その5年、風雲急をつげる魏と高句麗の戦乱が勃発します。魏に服属した卑彌呼は、とうぜん魏に援軍を送り、高句麗と戦ったのです。これが倭国女王卑彌呼とと狗奴国の男王卑彌弓呼の関係なのです。
下の年表をみて、東北アジアの情勢が少しでも進捗するといいですね。
    帯方の歴史年表 
 169    建寧二年(169年)・玄菟太守耿臨が高句驪を討ち、捕虜数百級を斬首し、高句麗王・伯固は降って遼東に属した。(高句驪伝)
 172  熹平中  熹平中(172~178年)・高句驪王・伯固は願い出て玄菟郡に属した。(高句驪伝)
 174    卑弥呼誕生
 177    鮮卑、遼東・遼西を寇掠(こうりゃく)する。
 189  中平
六年
 公孫度、遼東太守に任命される。中平六年(189年)・同郷の徐栄は董卓の中郎将となり、公孫度を薦めて遼東太守とした。(公孫度伝)・公孫度が海東に勢力を広げ、外夷を威服させた。夫餘王の尉仇台は遼東に属した。(夫餘伝)
 195  興平
二年
 献帝、長安を脱出し洛陽を目指す。2年12月 : 安邑(現山西省安邑)に到着。
 196  健安元年  8月 - 9月 : 献帝、董承と曹操に従い許昌、許都に遷都する。
 200  健安中 高句麗・玄菟郡を攻撃、尉仇台は2万の援軍を送り、これを撃破。高句麗が1万の兵を率いて漢の玄菟城を囲むと、夫余王は嫡子の尉仇台に2万の兵を率いさせて援軍に遣り、高句麗軍を壊滅させた。翌122年(延光元年?)、また高句麗が馬韓,濊貊と共に遼東へ侵攻したので、兵を派遣して打ち破った。尉仇台は公孫の冊封を受けていた。
扶余単干、尉仇台帯方に侵攻、国を建てる。このとき、公孫度、娘の宗女を尉仇台に嫁がせる。 
 203  健安中 高句麗、遼東部に侵攻。尉仇台は出兵してこれを撃退。
 献帝5年、扶余王太子尉仇台、遼東部に属したいと申し出て、遼東部に属した。朝貢し扶余王が印綬金綵((きんさい)を徐授。
 204  健安
九年
帯方郡新設。建安九年(204年)・公孫度が死に、子の公孫康が位を嗣ぐ。弟の公孫恭は永寧郷侯に封じられた。(公孫度伝)
 204  健安中  公孫康は屯有県以南の荒地を分けて帯方郡とした。(韓伝)
・公孫康は公孫模、張敞等を遣わし旧住人を集めて、兵を興して韓と濊を征伐した。(韓伝)
 207  健安
十二年
 烏桓の大人(単于)楼班と袁煕・袁尚兄弟らが曹操に追われ遼東郡に逃れてきたが、首をはねて曹操に献上する。曹操から襄平侯・左将軍に任命された。
 208   健安
十三年
 冬 赤壁の戦い(せきへきのたたかい)
 214  健安
十九年
214年尉仇台死す。尉仇台のあと、简位居が立った。 尉仇台は尉仇台とは肖古王(しょうこおう、生年未詳 - 214年)は百済の第5代の王(在位:166年 - 214年)である。
  建安年間  建安年間(196-221年)、公孫康が高句麗を撃ち破り、邑落を焼き払った。拔奇は長子なのに国王に擁立されなかった怨みから、涓奴部の三万余の民を連れて公孫康に帰服し、子を句麗國(卒本)に留めた。古雛加の駮位居である。再び沸流水(卒本)に戻った。
胡族も伊夷模に叛いたので、伊夷模は新たに国(丸都城)を立てた。
その後、再び伊夷模が玄菟郡を襲ったが、玄菟郡と遼東郡の軍がこれを撃ち破った。
 218  健安(魏)
二十二年
 公孫康死す。兄弟の公孫恭が次ぐ。
 219 健安二四年   侯音の乱。関羽、北上し曹仁と戦う。劉備、定軍山で夏侯淵を斬り、漢中を領有。漢中王を号す。孫権、関羽を斬り、荊州を奪う。
 220  健安
二十五年
 曹操が死去。(延康元年)
 220-  黄初  黄初中(220~226年)・臣属していた夫餘の租賦が重かったので、挹婁(ゆうろう)は叛乱をおこした。夫餘はしばしば挹婁を征伐したが、征服することができなかった。(挹婁伝)扶余の王は「扶余単干」と呼ばれた。
 228  太和二年 遼東太守公孫恭の兄の子、公孫淵が公孫恭の位を奪った。公孫淵を遼東太守とした。(明帝紀) 公孫淵、豪族化し中燕王を自称し、独自の元号を立てる。
 230  太和四年  (230年)孫権は公孫淵を燕王に封じる使者を送るも、公孫淵は使者の首をはねて曹魏に送る。十二月・公孫淵が孫権の遣使した張彌・許晏の首を斬って送ってきたので、公孫淵を車騎將軍とした。(明帝紀)大將軍曹真為大司馬,驃騎將軍司馬宣王為大將軍,遼東太守公孫淵為車騎將軍。
 233  青龍元年  夏五月壬申,詔祀故大將軍夏侯惇、大司馬曹仁、車騎將軍程昱於太祖廟庭。
 234  青龍二年  五丈原の戦い(ごじょうげんのたたかい)234年8月、諸葛亮は病死し蜀軍は撤退した。「死せる孔明、生ける仲達を走らす」と司馬懿を揶揄した諺が有名になった戦。第五次北伐。是月,諸葛亮出斜谷,屯渭南,司馬宣王率諸軍拒之。
 236  青龍四年  高句麗東川王、孫呉の使者の首をはねて魏に送る。青龍四年(236年)七月・高句驪王・宮、呉の使者・胡衛らの首を斬って送り、幽州に詣った。 (明帝紀)秋七月,高句驪王宮斬送孫權使胡衞等首,詣幽州。
 237  景初元年  ⇒東川王、魏の改元を祝う使者を送る。
⇒青龍中(233~237年)・明帝は遼東を討とうと図った。毌丘儉を荊州刺史から幽州刺史として、加えて度遼将軍使持節護烏丸校尉とした。幽州諸軍を率いて襄平に行き、遼隧に駐屯した。(毌丘儉伝)
景初元年(237年)七月
・幽州刺史・毌丘儉、公孫淵と交戦。長雨で遼水が漲り、詔にて毋丘倹に軍を引き還らせた。 (明帝紀)
・公孫淵は遼隧で毌丘儉らと戦った。毌丘倹らは勝利せず還った。(公孫淵伝)
・公孫淵は毋丘倹が還った事で自立して燕王となり、百官を置き、紹漢元年と称した。 (明帝紀、公孫淵伝)
・公孫淵、鮮卑単于に使者を送り、璽を仮した。また魏の北辺を攻撃するように呼びかけた。(公孫淵伝)
・公孫淵は自立して燕王となり、紹漢と元号をたてる。公孫氏、孫呉に使者をだし、救援を求めるも孫権は援軍はださなかった。

・漢の武帝以来の太初歴が景初歴に改暦される。3年に一度、うるう月をたして13か月としていたが、17年に7うるう月と変更となった。(同じ月を2度繰り返し後者を閏何月と呼ぶ。景初元年は閏月があった?)
 238  景初二年 ・明帝、密かに公孫氏の勢力圏の背後になる帯方と楽浪に海軍を上陸させ、帯方太守劉昕と楽浪太守鮮于嗣を派遣し、諸韓国の王に印綬を下賜し、帯方・韓の邑国を侯国となした。景初元年から続いて劉昕と鮮于嗣は帯方郡を楽浪郡に接収しなかったこと、及び公孫氏の帯方の官を排除していたことを示す。(韓伝) 
一月:明帝曹叡は遼東の公孫淵の討伐を司馬懿に命じる。太尉司馬懿、遼東を討つため軍を率いて出発する 。(明帝紀)
景初二年(238年)正月
六月・司馬懿の軍勢、遼東に到着する。(公孫淵伝)
・遼隧で公孫淵軍の将軍卑衍・楊祚ら歩騎数万が迎撃する。司馬懿は将軍胡遵らを遣ってこれを撃破させた。(公孫淵伝)

・倭女王、大夫・難升米等を遣わして帯方郡に詣る。天子に詣り、朝献を求めた。(倭人伝)

・太守・劉夏は官吏を遣わして、彼らを率いて送り、洛陽に詣らせた。(倭人伝)

六月~八月・太尉の司馬懿が軍を率いて公孫淵を討った。高句驪王・位宮は主簿の大加遣わして、数千人率いて助けた。(高句驪伝)

八月・司馬懿が襄平で公孫淵を囲み、大破して公孫淵の首を京都に伝え、海東の諸郡を平定した。(明帝紀)
・・・《遼隧の戦い》
十二月・倭女王に詔書を出す。親魏倭王の金印と紫綬を与えることと、使者の難升米を率善中郎将に、都市牛利を率善校尉として、銀印と青綬を与えることを記載。(倭人伝)

高句麗は公孫淵に援軍、数千騎を派遣。高句麗は公孫氏に寝返って、魏に反抗した。
六月、卑彌呼、太守劉夏に朝見を願い出る。劉夏、役人に命じ難升米らを洛陽に引率させる。劉夏、このとき帯方太守とは記されていない。
八月、遼隧(りょうすい)の戦い。襄平城陥落、司馬懿が公孫淵を誅殺。
十二月、 明帝、倭女王卑彌呼を「親魏倭王」となす制詔と褒美を難升米に付託。制詔がでた12月には、帶方太守劉夏と書かれる。韓伝での帯方太守劉昕と倭人伝での帯方太守劉夏は十二月に交代した?
呉の孫権、帝位につき、元号を赤鳥とする。
 239  景初三年  景初三年春正月一日(陰暦二月丁亥の日、1月22日) 明帝は重体に陥り、曹芳を立太子する。司馬懿、襄平の戦いから洛陽に早馬で帰還、重体の明帝の枕もとで後事を託される。その日に明帝36歳で崩御。曹芳はすぐさま8歳にして即位。裴松之は35歳没だと注を加えている。前年の12月が景初3年の一月だと主張している。(『魏書』明帝記:旧・太初歴だった場合、うるう月が前年にあったからだろう。)
難升米の別名=简位居はこの年に死す。この後、卑弥呼を佐治したのは简位居の異母弟の麻余、卑弥呼に変わって王を自称し、六畜部を統括した。以後、卑彌呼の姿を見た人はごくわずかとなった。
孫権、呉歴の赤鳥2年、洋衜(ようどう)の献策に応じ、遼東に派兵、魏の守将長持・高盧を撃つ。
 240  景初4年/
正始元年
(帯方)太守弓遵、初出。建中校尉梯儁らを遣使として朝見。
景初年は四年二月まで続いていた。曹芳は前年7月になりようやく朝議に臨み、年号は明帝死後、ほぼ1年後になって正始元年に改めた。景初4年3月が正始元年正月になった。鮮卑・西域諸国・東倭など多数の国が改元奉賀に朝獻する。
正始元年、太守弓遵は建校尉梯儁(ていしゅん)らを派遣。建校尉梯儁らは詔書と印綬を持っていき朝廷に詣でた。倭国は倭王の号を頂戴し、併せて斉王は、金帛錦、罽刀、鏡、釆物を詔賜した。よって倭王は使いを出して上表に因って詔恩に答謝した。(倭人伝・新解釈)
 241  正始二年  六月、宣帝懿は諸軍を率いて南征した。皇帝は自ら津陽門から軍を送り出した。宣帝は、南方は暑く湿気が多いので、持久戦に持ち込むべきではないと考え、軽騎に攻めかからせたが、朱然は全く動かなかった。そこで兵士たちを休ませ、精鋭を選り抜き、先鋒を募り、号令をかけ、今にも攻撃するかのように見せかけた。すると夜中に呉軍は逃走した。宣帝は三州口までこれを追撃し、一万人あまりを斬首あるいは捕縛し、その軍船や物資を手に入れて帰還した。(周書・宣帝紀)
 242  正始三年  東川王、遼東部の西安平県(鴨緑江北岸)を襲撃、略奪を働き魏を挑発した。魏、高句麗征伐に動き出す。正始三年(242年)・高句麗王・位宮、西安平県を攻撃・略奪した。(正始三年,宮寇西安平,其五年,為幽州刺吏毌丘儉所破。語在儉傳。高句麗伝)
 243  正始四年 正始四年(243年)・倭王は大夫・伊聲耆、掖邪狗等八人を遣使して、生口、倭錦、絳青縑、綿衣、帛布、丹木拊、短弓矢を献上した。掖邪狗等に率善中郎将の印綬を等しく与えた。(倭人伝)
・冬十二月、倭国女王・俾彌呼、遣使して奉献する。(三少帝紀) 
曹芳(小帝)、この時、12歳、倭王は再び大夫の伊聲耆掖邪狗ら八人を遣使として奴隷、倭錦、絳青縑(深紅と青の色調の薄絹)、綿衣、帛布、丹、木弣(弓柄)、短い弓矢を献上した。掖邪狗らは率善中郎将の印綬を拝授した。 
 244  正始五年  幽州勅使度遼将軍、護鳥丸校尉母丘儉第一次高句麗攻撃、丸都城落ち、東川王、逃亡。((正始三年,宮寇西安平,其五年,為幽州刺吏毌丘儉所破。語在儉傳。(高句驪伝、毌丘儉伝)
 245  正始六年 正始六年(245年)
・六月 玄菟郡太守王頎、扶余に赴き軍糧を受ける。対高句麗第二次開戦の準備をする。幽州刺史母丘儉が高句驪を討った時に、玄菟太守の王頎を夫餘に派遣した。夫餘王・簡位居は大加を派遣して郊外で歓迎し、軍糧を提供した。(夫餘伝)

曹芳(小帝)、詔を以て倭の難升米に黄幢(こうどう)を与える制詔し、帯方郡治に付託。
 246  正始七年 正始七年(246年)二月

春 東川王、丸都城に戻り、別城に移動、高句麗を再建・復興させる。

・部従事・呉林は楽浪郡は元々は韓国を統治していたとして、辰韓八国を分割し、楽浪郡に編入した。使驛が、転々として伝達が上手く伝わらなかった。臣智は激し、韓は怒って、帯方郡の崎離営を攻撃した。時の太守弓遵、楽浪太守劉茂は兵を興して韓を征伐した。弓遵は戦死したが、二郡は遂に韓を滅した。(韓伝)太守弓遵、崎離営の戦いで戦死。韓・伯濟国(南の狗奴国)の襲撃を制圧する。
・韓の那奚ら数十国が各々種楽を率いて降った。(三少帝紀)
五月 幽州刺史毌丘倹が濊貊を討ち破る。(三少帝紀)
八月 幽州勅使母丘儉、第二次高句麗征伐。二度大敗するも、城をでた東川王の騎馬兵に猛攻をかけ、丸都城を落とす。別動隊としての楽浪・帯方軍(楽浪太守劉茂並びに*朔方太守王遵)は、師(難升米こと扶余王麻余)を興して、沃沮に攻め入る。不耐城濊王投降。
・楽浪太守劉茂、帯方太守弓遵、領東の濊が高句驪に属したので、軍を率いて征伐し、王頎は不耐侯らを討伐した。は邑を挙げて降った。(濊伝)

・幽州刺史毌丘儉、高句驪を征伐し、高句麗王・位宮は遂に買溝に逃げた。毌丘儉は玄菟太守王頎を派遣し宮を追討させた。(高句驪伝)
・玄菟太守王頎、東沃沮に逃げ込んだ高句驪王・位宮を追討する。東の端に到達し、そこの長老に海東について尋ねる。(東沃沮伝)
八月 百済・古爾王は楽浪太守劉茂並びに朔方太守王遵の別動軍のすきを突いて佐将眞忠を派遣、隣接する楽浪郡の遺民を襲って捕虜とした。劉茂がそれを聞いて怒ったので、王は報復を恐れて、連行した捕虜を元に還した。
十月 母丘儉魏軍、撤退を開始。
 247  正始八年
正始八年(247年)

・帯方太守・王頎が着任した。(倭人伝)王頎、玄菟郡太守から帯方郡の官に異動。卑彌呼は王頎に高句麗を共に攻撃する書状を遣使に持たせる。

「倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和遣倭載斯烏越等詣郡説相攻撃状」=倭女王卑弥呼は、狗奴国男王卑弥弓呼と和平せず、倭載斯烏越等を郡治に詣でさせて相攻撃する書状を説明した。

・倭は載斯、烏越等を遣わして、帯方郡に詣り、狗奴国との争いを報告。(倭人伝)

・帯方太守・王頎は塞曹掾史・張政等を遣わし、詔書、黄幢をもたらして、難升米に拝仮し、檄文で告げ諭した。(倭人伝)

卑彌呼が死去。径百余歩の冢を作り、徇葬者は奴婢百余人。卑弥呼死後、麻余、倭国王に共立即位するも、牛加の一部の謀反が起きる。中国への遣使も果たすことなく、この年の末に麻余誅殺される。
・代わって男王が立ったが、国中は服さず、互いに争い千余人が殺された。(倭人伝)

・卑彌呼の宗女・壹與(十三歳)を王に立てて、国中は遂に定まった。(倭人伝)

・壹與、倭国女王に共立される。塞曹掾使・張政、壹與を王となす告喩をなす。(倭人伝)

・壹與は倭大夫・率善中郎将・掖邪狗等二十人を遣わして、張政等が帰還するのを送った。(倭人伝)
「大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還因詣臺獻上男女生口三十人貢白珠五千孔 靑大句珠二枚異丈親錦二十匹 」、高平陵の変(こうへいりょうのへん)で朝廷が

・詣闕朝貢,詔更拜不耐濊王。不耐侯、宮殿に詣でて朝貢し、詔で不耐濊王を拝した。(濊伝)
 


 248  正始九年  春、高句麗東川王は新羅と和平条約を結ぶ。九月 東川王殺される。
 249  正始十年  洛陽で、曹芳は明帝の高平陵に初めて詣でる。高平陵の変。司馬懿のクーデター勃発。曹爽を倒す。二月、曹芳は司馬懿を丞相に任じる。曹芳はその後、一年間、朝議を開かず、政務をとらなかった。
286     南の狗奴国=伯濟国、古爾王死す。

*年号が赤文字の項が倭人伝に出現する年。

朔方(さくほう)太守王遵(おうじゅん)について:
朔方郡(さくほう-ぐん)は、漢代に現在の内モンゴル自治区、黄河が北に大きく屈曲した地点にあたるオルドス高原に位置する。中国にかつて存在した郡。オルドス市とバヤンノール市にまたがる地域。北魏以降は現在の陝西省楡林市周辺に置かれた。


前漢武帝が平定した幷州の朔方郡(さくほう-ぐん)兩郡相連,轄境相當於今內蒙古中、西部陰山南北地區,軍事、經濟地位十分重要。據《漢書·地理志》載:朔方郡轄縣十,有民戶三萬四千三百三十八;人口十三萬六千六百二十八;五原郡轄縣十六,有民戶三萬九千三百二十二,人口二十三萬一千三百二十八。
漢書地理科志には、朔方郡は十県に分割され、34,338戸、人口136,628人とされている。(一戸3.99人)隣の郡である五原郡は一戸5.88人であった。一戸当たりの人数は4人から6人とばらつきがみられるが、一戸5人という平均値をもって人口を計るのは適当と判断していいだろう。邪馬台国は7万余戸です。約30万人~35万人強と考えられます。




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上記の年表は力が入りましたね。
歴史になりますので、文章が固くなりますが、上の年表だけをみて下されば、私としては満足です。
正始8年は「(玄菟郡)太守だった王頎が帯方郡の官についた。」と訳します。ねえ、あなた、帯方太守になったとは書いていないのですよ。官についた、その官職は不明なのです。「帯方太守王頎が到着した」・・・という訳は誤訳でしょ。思い込みが激しいとこうなるのですよ。弓遵までは帯方太守と書く邪馬台国論があるのですが、帯方太守とはかかれていなかったのですよ。


王頎は母丘儉の命令で高句麗の東川王を追撃していた。

正始三年(二四二年)、曹魏に恭順をしていた高句麗が突如、鴨緑江の下流の西安平県(遼東部)に侵攻しまた。楽浪郡を侵犯した罪を曹魏は許すことなく、正始五年(二四四年)に曹魏の幽州勅使・毌丘倹は第一次高句麗侵攻を開始。歩騎一万をひきいて玄菟城(げんと)に集結、丸都城を落としました。
しかし、東川王は不而(沃沮)に逃亡したのです。これを追撃した王頎軍の追撃をかわし、東川王は九死に一生をえて逃げ延びました。魏軍撤収後、東川王は再び丸都城に戻ったのです。 
正始六年、玄菟郡太守王頎は扶余に行きました。正始6年6月の母丘儉の第二次攻撃に向けて、王頎がなにやら一役かっているのです。

『三国志魏書 扶余伝』

「正始中幽州勅吏母丘儉討句麗遣玄菟郡太守王頎詣扶餘位居遣大加郊迎供軍糧」


・・・と扶余伝に書かれています。

 幽州勅使の母丘儉が高句麗を討つため、玄菟軍太守王頎を扶余に派遣したのでしょう。遼西扶余の位居は大加を郊外に派遣して出迎え、軍糧を提供したという短い文です。位居とは扶余王の麻余のことでしょう。軍糧とは出兵と食料を供出する、つまり、参戦することですね。翌年の六月に母丘儉が丸都城を攻撃しています。ただ、「師を起こして」、楽浪・帯方軍が東沃沮に進撃していることから、位居は師升として、まあ、扶余の王といったほうがいいのでしょうか、麻余は楽浪軍・帯方軍とともに、東沃沮の不耐城攻撃に向かったと思われます。位居とは、王を表す一般名詞のようです。
このことから、正始七年の六月には、すでに母丘儉の軍が猛攻し、そして、八月に丸都城に猛攻をかけているのですが、楽浪・帯方の両軍も東沃沮を制圧しています。

 こうして、王の位居が大加(扶余の牛加(扶余は六畜名))を派遣して王頎を出迎え、軍糧を提供したということの意味はとても大きいのです。
一番大切なことは「句麗」を討つと、書かれていることです。当然、母丘儉が句麗を討つと読めるのですから、王頎の敵も句麗だとはっきりと分かりますよね。わたしは、この「句麗國」こそが「狗奴國」であると主張しているのです。全然、おかしなことではありません。卑弥呼は帯方郡の官に着任した早々に、使者を派遣して、相攻撃の状を届けているのです。相攻撃の状とは同一な行動をとって戦う戦術のことですよ。郡治にいたのは王頎ですよ。王頎に上表したというのはナチュラルな考え方でしょ。

 こうして、狗奴国は、高句麗のこと以外に考えられません。ところで、東南のソウル周辺にも狗奴国があったのです。ややこしいでしょうが、魏志倭人伝はこの二国を兄弟國だということを知っていたのです。南の狗奴国は、当時伯濟国の記されています(後漢書韓伝)。まだ、馬韓の属国の一つでした。伯濟国は高句麗の太祖鄒牟を太祖として宗廟を作っていたのです。太祖鄒牟とは高句麗国祖の高朱蒙です。卒本を離れ、ソウルに到達した召西奴は「高朱蒙を兄とし、二人で力を合わせて国を作っていきなさい」と、二人の子供に新国家を起こさせたのです。召西奴は朱蒙の妃だったのですよ。なぜ、高句麗と百済が兄弟国なのか、それは国の起源に原因があるのです。これは秘密でもなんでもありません。朝鮮史のごく当たりまえの史実ですよ。
 ところが、これが近肖古王(346-375)から、それ以後、廟の祖寧が尉仇台に変わっているのです。このあたりのことは卑彌呼の時代から100年後のことですので次章でくわしく述べます。狗奴国が二か国あるというのは、どちらも句麗から派生した国だからです。百済は系図では二王朝並立させた時期があるのです。同じ扶余からでていますが、二系統あるのは、ここだけではありませんよ。ひも解くと日本にも影響しています。扶余の歴史をひもとけば、なぜ、二つの狗奴国があったのか?という証拠がわんさかとでてきます。

 第二次攻略、正始7年、母丘儉魏軍は十月には撤退を開始しました。一方、楽浪・帯方魏軍は楽浪郡を通過して帰還しました。劉茂・弓遵の率いる楽浪軍は南方から攻めあがったのです。この時、投降した不而王は正始八年に朝謁し、魏は不而濊王に叙し、濊王と認められています。濊王としたのは南沃沮・不而の地域は人口のほとんどを濊が占めており、旧最大の楽浪郡のなかでも最も人口が多い地域であったか強勢の地だったのです。前漢の時代の東部都尉治があったのが不而県です。(現・北朝鮮の元山との説がありますが、もっと北とも思われます。)
 魏軍の追撃を逃れて逃亡に成功した東川王は再び再起を目指し、荒廃した丸都城を離れ、すぐ近くの国内(くんね)城に遷宮しました。(三国遺事では平壌城と書いています)宗廟と民を移し、国都を回復し、正始九年(二四八年)春に新羅と和を結びました。
 朝議も復活したのでしょう。諸加の傳薩((よくさる)(内臣)らは、王のこれ以上の戦いを諫めたのでしょう。国土の疲弊がはなはだしかったからです。その年、東川王は正始九年九月に死去しました。三国史記では「薨(こう)じた」とします。薨の文字は暗殺されたという意味をもちます。荒地に屍(しかばね)のまま晒されていたようです。三国史記では国人が芝を切ってその骸(むくろ)を覆ったので、その地を芝原と言ったと書かれています。新王が、禁じたにも係わらず、葬式の日に近臣等が墓に行って殉死しようとするものが多かったと伝えていますが、王の葬儀とは名ばかりの粗末なものだったに違いありません。

毌丘倹紀功碑
母丘儉紀功碑((ぶきゅうけんきこうひ)
正始6年(245年)
吉林省集安市板岔嶺(しゅうあんしばんたれい)出土
遼寧省博物館蔵 (2019年 国立博物館「三国志展」に実物が展示されました))


母丘儉紀功碑((ぶきゅうけんきこうひ)
正始6年(245年)
吉林省集安市板岔嶺(しゅうあんしばんたれい)出土
遼寧省博物館蔵



卑弥呼が同盟したのは王頎だった。

其八年太守王頎到官倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和遣倭載斯烏越等詣郡説相攻撃状

「正始八年(245年)玄莬太守王頎が帯方に到着し官についた。倭女王卑彌呼と拘奴國王卑彌弓呼はもともと和することはなかった。卑彌呼は倭載斯烏越等を使者に帯方郡治に詣でさせ、相攻撃する状を遣わし、その攻略作戦を説明させた。」|著者のオリジナル訳|

 その八年太守王頎は玄莬郡太守でした。帯方郡の官として移動してきます。通釈は帯方郡太守王頎と書きますが、帯方郡の官に着いたとだけ記しています。王頎は玄莬郡太守のまま、帯方に赴いたと解釈すべきです。その王頎に相攻撃状を渡した意味は大きいことになります。
 「相」字の意味は同じ動作・行為が相互に行なわれることを示します。
 では、卑彌呼はAと連携してBを攻撃するという論理式がなりたちます。
前後の正始の戦乱史をみれば、王頎が戦っていた敵は高句麗にほかなりません。
Aとは、王頎の玄莬軍になり、Bとは高句麗になります。卑弥呼は王頎軍と連携して同じ敵高句麗をに攻撃することを約束したことになるのです。ですから、卑彌呼の敵も 王頎と同じ高句麗という結論になりますよね。
狗奴国男王卑彌弓呼とは、高句麗第十一王、東川王です。中国史書では「宮」と呼びます。ここに狗奴国男王の名前が割れたのです。
 ここにおいて、ほとんどの通釈では、狗奴国を九州の西南部(菊池川流域)としているのは、実はまったくの推測にすぎなかったのです。




*前三年 高句麗卒本城(五女山)から丸都城に遷宮、二百九年 国内城に遷宮しました。
魏志東夷伝 高句麗では「高句麗在遼東之東千里,南與朝鮮、濊貊,東與沃沮,北與夫餘接。都於丸都之下,方可二千里,戶三萬。」とかき、
「高句麗は遼東の東千里にある。南は朝鮮、濊貊と、東は沃沮と、北は夫餘と接している。丸都城のふもとに都(と)をおく。広さは二千里四方、戸数は三万。」 丸都山のふもとに都をおくというのが、国内城(くんねそん)のことです。


この図での高句麗の王城は平壌です。425年から600年までの間、高句麗が占有した最大領土を書いたものでしょう。卑弥呼時代238年ごろ、高句麗の王城は国内城とみてよさそうです。国内城はあるいは筑尉那岩城と呼ばれていたか、別城だったかも知れません。
魏志東夷伝では、方可二千里と書いています。倭韓での一里0.06kmでは、12km四方です。
卑弥呼が戦った狗奴国の東川王は、戦闘時には丸都城、平時には国内城と両用していました。三国遺事では、東川王が平壌城に遷宮したとかかれていますが、まだ、楽浪郡が健在なので、これは三國遺事が間違いでしょう。丸都城は敵を迎え撃つのに有利な山城であり、その2.5km離れた山裾にあるのが国内城で、石の城郭で囲んだ中国式の平城でした。342年第16代王の故国原王は燕王慕容皇光に攻められ丸都城を去り、平原城に移ったとされます。丸都城は難攻不落といわれ、遼東軍は長期線をもっぱらにして場内の疲弊をまって、決して攻撃しなかったと言われています。高句麗は滅亡までの間、卒本、丸都(国内)、平壌と三回遷都しています。楽浪郡・帯方郡が滅ぼされたのは319年ですが、平壌に遷宮したのは、長寿王の代、427年です。さあ、帯方郡を通して韓倭は封じられていたのですが、その頃、中国北部は、鮮卑族の拓跋氏によって398年、北魏が建てられました。425年に百済は建国まもない宋に倭国を自称して朝貢していました。

丸都城の石積み、貯水池の囲みだろうか??


裏側と思しき画像

国内城西門城跡

扶餘位居は、卑彌呼を佐治していた、かの「弟」で、麻余だった?

 では、二番目に重要なのは、「扶餘位居」と書かれている人物です。
この扶余はどこにあったのか、遼西晋平軍晋平県です。この位居は、扶余の男王・麻余です。同年に、黄幢を受け取った難升米とは、この麻余です。尉仇台が祖神で、その嫡男が简位居です。麻余は尉仇台の子ではありましたが、庶子と書かれています。まあ、正后の子ではなかったというぐらいことですが、简位居とは身分に雲泥の差がありました。それが、王に即位したあと牛加の謀反の基本的な理由だったのでしょう。弟とは、简位居の異腹の兄弟だったのです。壹與が宗女だとある以上、麻余の子とは考えられません。尉仇台の嫡男、简位居には男子がなかっただけで、女子がいたのでしょうね。
 麻余の父、尉仇台は、実はとんでもなく帯方とかかわりがあったのです。尉仇台が、帯方と関係があるのは、宋書や梁書にでてまいります。
まずは、卑弥呼Xファイルからコピーします。以下、ご覧ください。

A:

『宋書』卷97・列傳第57(百済国条)
「百濟國,本與高驪倶在遼東之東千餘里,其後高驪略有遼東,百濟略有遼西。百濟所治,謂之晉平郡晉平縣」

「百済国はもと高麗とともに遼東の東千里あまりのところにあった。その後、高句麗が遼東を制したので、百済は遼西を略有した。百済の治するところは晉平郡晉平縣である。」


☆ここでの遼東は碣石山のあたりである。晋平郡晋平県を東50KMとみると、そこは万里の長城の起点である。

B:

『梁書』卷54・列傳第48(百済条)
「其國(百済)本與句驪在遼東之東 晋世 句麗既略有遼東 百濟亦拠有遼西 晋平二郡地矣 自置百濟郡」

「百済はもと、遼東の東にあった句麗の東にあった。晋代の世に句麗は遼東を略有して、また、遼西晋平二郡を拠有し、自ら百済郡を置いていた。」

C:

『周書』卷・列傳第(百済条)
「百濟者、其先蓋馬韓之屬國、夫餘之別種。有仇台者、始國於帶方」

百済は蓋馬韓の属国であったが扶余の別種である。尉仇台という者が帯方に始めに国を立てた。」

D'

《太平御覽》
[北宋] 977年-984年
《四夷部二·東夷二》
《百濟》
「有仇台者、篤於仁信、始立其國于帶方故地。漢遼東太守公孫度以女妻之、漸以昌盛、為東夷強國。初以百家濟海、因號百濟。其國東極新羅,北接高句麗,西、南俱限大海,東西四百五十里,南北九百里。其都曰居拔城,亦曰固麻城。其外更有五方:中方曰古沙城,東方曰得安城,南方曰久知下城,西方曰刀先城,北方曰熊津城。」

「尉仇台という者があり、仁信に篤があった。はじめて帯方の故地に国を建てた。漢の遼東太守の公孫度の子女を妻とし、だんだん繁栄して朝鮮で強国となった。初め百家をもって海を渡り、百済というようになった。」

いわゆる倭の五王の一人、倭王武の上表も祖禰(そでい、そね)とは、尉仇台のことです。
以下の囲み文に祖禰とあります。倭王武の宗祖です。わたしは、鮮卑と高句麗にはさまれていた小国だった遼西郡晋平県にあった百済と号した、あの尉仇台が倭王武の上祖だと、気づいたのですが、みなさんも何回か読んでみてください。

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『宋書倭国伝』 完読手引き

順帝昇明二年遣使上表曰く封國偏遠作藩于外自昔祖禰躬擐甲冑跋渉山川不遑寧處東征毛人五十五國西服衆夷六十六國渡平海北九十五國王道融泰廓土遐畿累葉朝宗不愆于歳臣雖下愚忝胤先緒驅率所統歸崇天極道遥百濟装治船舫而句驪無道圖欲見呑掠抄邊隷虔劉不已毎致稽滯以失良風雖曰進路或通或不臣亡考濟實忿寇讎壅塞天路控弦百萬義聲感激方欲大舉奄喪父兄使垂成之功不獲一簣居在諒闇不動兵甲是以偃息未捷至今欲練甲治兵申父兄之志義士虎賁文武效功白刃交前亦所不顧若以帝德覆載摧此彊敵克靖方難無朁前功竊自假開府義同三司其餘咸假授以勸忠節詔除武使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭王

「順帝の昇明二年(478年)、使を遣わして上表して曰く、
封国は偏遠にして、藩を外に作す。昔より祖禰(そでい)躬ら甲冑を身に纏い、山川を跋渉し寧処に遑(いとま)あらず。東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国、王道融泰にして、土を廓(ひら)き、畿(みやこ)を遐(はるか)にす。累葉朝宗して歳ごとに愆(あやまら)ず。臣、下愚なりといえども、忝なくも先緒を胤(つ)ぎ、統ぶる所を駆率し、天極に帰崇し、道百済を遙て、船舫を装治す。しかるに句麗無道にして、図りて見呑(けんどん)を欲し、辺隷を掠抄(りょうしょう)し、虔劉(けんりゅう)して已まず。毎(つねに)に稽滞(けいたい)を致し、以て良風を失い、路に進むというといえども、あるいは通じあるいは不(しか)らず。臣が亡考(ぼうこう)済、実に寇讐(こうしゅう)の天路を壅塞(ようそく)するを忿(いか)り、控弦百万、義声に感激し、方に大挙せんと欲せしも、奄(にわかに)に父兄を喪い、垂成の功をして一簣(いっき)を獲ざらしむ。居しく諒闇にあり兵甲を動かさず。これを以て、偃息(えんそく)して未だ捷(か)たざりき。今に至りて、甲を練り兵を治め、父兄の志を申べんと欲す。義士虎賁文武功を効し、白刃(しらは)前に交わすともまた顧(かえり)みざる所なり。もし帝徳の覆戴(ふくさい)を以て、この彊敵(きょうてき)を摧き(くだ)克く方難を靖(やす)んぜば、前功を替えることなけん。窃(ひそ)かに自ら開府儀同三司を仮し、その余は咸(み)な仮授して以て忠節を勧む」と。
 詔して武を使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍倭王に除す。」

*昇明(しょうめい)は、南北朝時代、宋の順帝劉準の治世に行われた年号。477年 - 479年
*封国=扶余
*藩國=遼西百済
*祖禰=尉仇台
*毛人=匈奴・靺鞨(女真族)
*衆夷=鮮卑族
*渡りて海北(渤海周辺国)
*臣=東城王=倭国王武
*斉=蓋鹵王
*父兄=父は蓋鹵王と兄が文周王
*武=東城王
*句麗=高句麗


梁書 -《卷第五十四列傳第四十八 諸夷海南諸國 東夷 西北諸戎》
至魏景初三年,公孫淵誅後,卑彌呼始遣使朝貢,魏以為親魏王,假金印紫綬。正始中,卑彌呼死,更立男王,國中不服,更相誅殺,復立卑彌呼宗女臺與為王。其後復立男王,並受中國爵命。晉安帝時,有倭王贊。贊死,立弟彌;彌死,立子濟;濟死,立子興;興死,立弟武。齊建元中,除武持節、督倭、新羅、任那、伽羅、秦韓、慕韓六國諸軍事、鎮東大將軍。高祖即位,進武號征東將軍。

至魏景初三年に至って公孫淵が誅殺されたあと、卑弥呼は初めて朝貢の遣使を送った。曹魏は卑弥呼を親魏王と為し,假金印紫綬を叙した。正始中に卑弥呼は死に、男王が変わって王になった。国中が服さずさらに誅殺しあった。卑弥呼の宗女臺與を再び王とした。その後、再び男王が立った。いずれも皆中国の爵命を受けた。晉の安帝の時、倭王賛があり、賛が死ぬと弟の彌が立ち、彌が死ぬと子の濟が立ち、濟が死ぬと子の興が立った。興が死ぬと弟の武が立った。齊の建元中、武は持節、督倭、新羅、任那、伽羅、秦韓、慕韓六國諸軍事、鎮東大將軍に除された。高祖が即位すると、武を征東將軍に進号した。

*東晋の安帝司马德宗 在位(396年11月7日-419年1月28日)
*齊の建元中;南斉の*高帝蕭道成の治世に行われた元号。479年 - 482年。*南齊 太祖 高帝 蕭道成 479年 - 482年 建元(479年-482年)



臺與のその後、男王はいずれも中国に朝貢して爵位を受けた。晋の安帝の時には倭王讃があり、・・・・・三国志』魏書 三十 扶余傳「夫餘本屬玄菟。漢末,公孫度雄張海東,威服外夷,夫餘王尉仇台更屬遼東。時句麗、鮮卑彊,度以夫餘在二虜之間,妻以宗女。尉仇台死,簡位居立。無適子,有孽子麻余。位居死,諸加共立麻余。牛加兄子名位居,為大使,輕財善施,國人附之,歲歲遣使詣京都貢獻。正始中,幽州刺史毌丘儉討句麗,遣玄菟太守王頎詣夫餘,位居遣大加郊迎,供軍糧。季父牛加有二心,位居殺季父父子,籍沒財物,遣使簿斂送官。舊夫餘俗,水旱不調,五糓不熟,輙歸咎於王,或言當易,或言當殺。麻余死,其子依慮年六歲,立以為王。漢時,夫餘王葬用玉匣,常豫以付玄菟郡,王死則迎取以葬。公孫淵伏誅」仇台系扶余、中国ではこれを後東扶余と読んでいますが、尉仇台ー简位居ー麻余ー依羅ー玄王ー余蔚王ー近肖古王ー近仇首王ー枕流王ー辰斯王ー阿莘王ー腆支王ーと続きますが、この王統が倭国と自称することがなぜできたのでしょうか。麻余が死んだとき次の王の依羅はまだ六歳でした。男王が死んだというのは麻余だったのですが、再び女王がかつぎだされた壹與が13歳でしたね。
言い換えれば、倭の五王は、臺與の後の男王の系列だということです。


さあ、みなさん、尉仇台が倭の五王の国祖だったのですよ。



《魏書三十》
《高句麗傳》
「國人有氣力,習戰鬪,沃沮、東濊皆屬焉。又有小水貊。句麗作國,依大水而居,西安平縣北有小水,南流入海句麗別種依小水作國,因名之為小水貊,出好弓,所謂貊弓是也。
高句麗の国人は気力があり、戦闘を習う。沃沮,東濊はみな高句麗に属していた。大水に依り居り、西安平県の北に小水が南に海に流れいる。句麗の別種が小水に国を作り、その国の名を因んで「小水貊」という。弓を好んで(狩り?)に出る。いわゆる、貊弓(ペクファル)これなり。

句驪の別種が小水に国を作った。これが結構重い意味がある。句麗の別種とは、尉仇台のことだろう。公孫が海東で・・・を覇したとき、尉仇台が遼東に属すことを望んだとあるからである。小水とは遼東の西安平の北にある河、南に入海するとあるので、おそらく遼河であろう。句驪の別種とは異端の夫餘で、日本海側の嶺東から移動したのだと推測する。この句麗の別種、扶余王尉仇台は高句麗に押されて、西に移動したのです。それが、晋平




 尉仇台がいたのはなんと、幽州の中央部、渤海湾の西海岸沿いに国があったのです。(赤い上矢印の先)
ですから、烏丸、鮮卑、黄龍(後燕)、女真族(靺鞨)などと戦わなくてはならない地政にあったのですね。

「昔より祖禰、躬甲冑をツラヌき、山川を跋渉し寧処に遑あらず。東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北(渤海)を平ぐること九十五国」というのは、倭王武の上表書に書かれています。この地域で、武の祖禰である尉仇台が強国になったことをいっているのですね。さらに開くと、倭の五王の祖禰は、扶余百済の国祖尉仇台だったのですよ。A'B':で場所がわかりましたか?。赤いのところです。なんと、ここが百済発祥の地だったのです。

C'D''では、その尉仇台が帯方に国をつくったといっています。そして、E':では公孫度が娘を嫁がせ、帯方に国を建てさせたと書いているのです。朝鮮(東夷)でしだいに隆盛となり、百済と号したといっていますよね。初めて帯方に国を建てさせたのは公孫度です。楽浪郡の南を割って帯方郡をつくったのは公孫康です。ですから、帯方郡ができる以前から、尉仇台と后になったいた公孫氏の子女がいたのです。尉仇台は遼西晋平県と、帯方の両地域を占有していたのですよ。しかし、帯方もそうですが、公孫は海東で強勢となったのですから、東沃沮と濊の地域に尉仇台の本貫があったのです。百済が最初にあったのはソウルでなく、大同江の帯方だったのです。尉仇台が帯方で権勢をもっていたということを知らないと、扶余の歴史がみえないでしょう。扶余が帯方にも軍を擁していた。このことから、見えてくることがまた、いろいろでてくるのですよ。
 倭王武の上表書に曰く、「昔より祖禰(そねい)、甲冑を身にまとい、山川を・・・・」の祖禰とは、尉仇台のことです。そこで暗示されることは、倭王武の上祖が尉仇台ですから、武が自称した倭国王とは、実は中身は百済王だったということです。気の早い人は、さっさと書けというお叱りもあるかと思います。倭王武とは第二四代百済王、東城王です。詳しくは、倭の五王で書くことになります。
また、稲荷山の鉄剣銘文での、「上祖名・意冨比垝(おほひき)」は、尉仇台の別名です。尉仇台の百済側での尊称です。なんと、意冨比垝(おほひき)が王名・諱(いみな)だったのです。稲荷山の鉄剣銘文は、また詳しく書きますが、この剣は、第22代・文周王が作った一刀が日本に持ち込まれたものです。(*百済王の代数は三国史記によってます)

この分周王が倭国王興にあたります。稲荷山の鉄剣は倭国王興が作ったのです。稲荷山の鉄剣は後節のタブでお読みください。




驚いたのは次の随書の百済伝です。
『隋書』東夷伝 百済

百済は南朝の宋の元嘉暦を使用し、建寅の月を正月としている。(中略)毎〔年〕四仲の月に、〔百済〕王は天と五帝の神を祭る。また始祖の仇台の廟を国都に立て、年に四回これを祭っている。

あれっ!いつの間に百済の始祖廟が、太祖鄒牟(高朱蒙)、国祖解温祚から尉仇台にかわったの?ということです。
もっとも、近肖古王(346-375)が河南の契王を自害させたあと、国号を百済としました、また、慰禮城の真氏を王妃族に固定し、王位の父子継承としました。おそらく、近肖古王が書かせた国史『書紀』は二系統の王統を並列するのでなく、縦につないでしまったのです。王統は河南の契王を自害させて王位についた経緯から、346年に近肖古王(余句)が河南王朝を奪ったのだと確信できるのです。仇台系扶余、中国ではこれを後東扶余と読んでいますが、尉仇台ー简位居ー麻余ー依羅ー玄王ー余蔚王ー近肖古王ー近仇首王ー枕流王ー辰斯王ー阿莘王ー腆支王ーと続きますが、この王統が倭国と自称することがなぜできたのでしょうか。帯方の倭女王卑弥呼に源流があり、尉仇台の男系王から、ずっとつながっていたからだと考えられるのです。

『唐会要』百済伝 百濟者。本扶餘之別種。當馬韓之故地。其後有仇台者為高麗所破以百家濟海。因號百濟焉。大海之北。小海之南。東北至新羅。西至越州。南渡海至倭國。北渡至高麗。其王所居有東西兩城。

 百済者は元扶余の別種。以前は馬韓の故地だったが、其の後に仇台者は高句麗を緒戦で破り、百家で海を済(渡)る。ゆえに百済と号するようになった。大海の北、小海の南、東北に新羅、西に越州、南の海を渡れば倭国に至る。北には高麗。王の居城は東西に両城あり。

これは、難しいですよ。百済者と仇台者は同義でしょうね。高句麗を連破し、百家をもって海を渡り、百済と号した。今は馬韓の故地に入り、渤海の北、楽浪海の南、東北に新羅、西に越州 (浙江省)、南に渡海すると倭国にいたる。北は高句麗、その王城は東西二城あったというのです。
仇台者とは、仇台系の王統のことです。
 馬韓の故地いうのは漢城(ソウル北)のことです。ですから、高句麗に破られて、海を渡ったというのは、遼西の地から、馬韓があった地のソウルに移動したことでしょう。
東西に2つの王城は、遼西とソウルにあったといえます。

疑問なのが「東北に新羅?」です。これは、逆に新羅の東北にならないと地勢に合いません。西に越州 (浙江省)は、南になりすぎます?

「『唐会要』(とうかいよう)とは、中国の北宋代に王溥(922年 - 982年)が撰して、太祖の建隆2年(961年)に完成した、現存最古の会要である。」・・・wikiでは、こんな感じですが、まあ、961年の完成ですから・・・・百済のことが書かれた時代考証を資料批判をしておかないと混乱を招くような感じがします。


景初2年の前に書かれるQをここでようやく理解してもらえそうなので、解説します。

Q'帯方=倭国
其國本亦以男子爲王住七八十年倭國亂相攻伐歷年乃共立一女子爲王名曰卑彌呼事鬼道能惑衆年已長大無夫婿有男弟佐治國自爲王以來少有見者以婢千人自侍唯有男子一人給飲食傳辭出入居處宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衞


倭国の歴史、体制について書かれています。倭国は帯方にあり、公孫度、公孫淵が長い擾乱を鎮圧し、その後、尉仇台を使って帯方に国をつくりました。ここで帯方は尉仇台を王として冊封されました。このとき、尉仇台に代って卑弥呼が王に擁立されたのです。帯方には八県あったと考えます。県の長を郡長が共立王にしました。204年の出来事です。尉仇台の嫡子を補佐し、垂簾政治をす行っていました。尉仇台の長男・嫡子は简位居でしたが、景初2年238年に難升米として朝貢しています。それから、女王になってから36年過ぎました。正始元年240年の周王朝祝賀朝貢には、難升米の名前がでていません。卑弥呼はすでに年をとっていました。たので、240年、朝議を束ねる能力を失っていました。简位居の弟、麻余が実権をにぎっています。難升米第一代の简位居は死んでしまいます。この弟は麻余ですが、庶子です。、尉仇台とは母親が違います。この弟が佐していたということは、摂政体制だったのでしょう。それ以来卑弥呼を見るものは少なくなったのです。卑弥呼は景初2年238年に金印徐授されています。まだ、简位居はこの年には生きており、卑弥呼も気丈に政治をしていたのですが、240年以後、政治は麻余に任せていたのです。皇后が政治をとったのは、垂簾政治といいますが、卑弥呼のばあいはほとんど人と会わない蟄居状態と見て取れます。ですから、摂政政治といったほうがいいでしょう。

☎通説は、弟が卑弥呼の弟だとしています。
☎弟が佐治し卑弥呼を見るものが少くなった、というのを晩年の話だとは気づいていません。
☎卑弥呼が年老いたので夫はすでにいない。こう読むのですよ。通説は、ここを、卑弥呼が一生涯独身だったと誤解しています。
☎卑彌呼には尉仇台という夫がいたのです。だれも想像だにしていません。
☎卑弥呼の産んだ子は简位居です。尉仇台の嫡子が简位居です。尉仇台に娘を嫁がせたのは公孫度でした。さて、あとは、みなさんの想像におまかせします。


梁書->卷第五十四列傳第四十八 諸夷海南諸國 東夷 西北諸戎
《卷第五十四列傳第四十八 諸夷海南諸國 東夷 西北諸戎》

 百濟者,其先東夷有三韓國,一曰馬韓,二曰辰韓,三曰弁韓。弁韓、辰韓各十二國,馬韓有五十四國。大國萬餘家,小國數千家,總十餘萬戶,百濟即其一也。後漸彊大,兼諸小國。其國本與句驪在遼東之東,晉世句驪既略有遼東,百濟亦據有遼西、晉平二郡地矣,自置百濟郡。晉太元中,王須;義熙中,王餘映;宋元嘉中,王餘毘;並遣獻生口。餘毘死,立子慶。慶死,子牟都立。都死,立子牟太。齊永明中,除太都督百濟諸軍事、鎮東大將軍、百濟王。天監元年,進太號征東將軍。尋為高句驪所破,衰弱者累年,遷居南韓地。普通二年,王餘隆始復遣使奉表,稱「累破句驪,今始與通好」,而百濟更為彊國。其年,高祖詔曰:「行都督百濟諸軍事、鎮東大將軍、百濟王餘隆,守籓海外,遠脩貢職,迺誠款到,朕有嘉焉。宜率舊章,授茲榮命。可使持節、都督百濟諸軍事、寧東大將軍、百濟王。」五年,隆死,詔復以其子明為持節、督百濟諸軍事、綏東將軍、百濟王。


*太元(たいげん)は、東晋孝武帝司馬曜の治世に行われた2番目の元号。376年 - 396年。
*永明(えいめい)は、南北朝時代、南斉の武帝蕭賾の治世に行われた年号。483年 - 493年。
*普通(ふつう)は、南北朝時代、梁の武帝蕭衍の治世に行われた2番目の元号。520年 - 527年。

    
 ・・・・その国はもと句驪と共に遼東の東にあった、晋の世になって句驪は遼東を略有し、百済はまた遼西を占拠した。百済は遼西と晉平の二郡に百濟郡と置いた。晋の太元中に王の須(近九首王)、義熙中,王餘映、宋元嘉中,王餘毘は引き続き奴隷を献じてきた。餘毘が死んで、子の慶がたった。慶が死に牟都がたった。都が死に牟太が立った。齊の永明中に太は督百濟諸軍事、鎮東大將軍、百濟王に除された。天監元年に征東將軍に進号した。広く高句麗に破られ、年々衰弱し、南韓に遷宮した。普通二年に王余隆は始めて次のように述べた。「遣使を送ってよこし、上奏した。高句麗の妨害を破り、今初めて通行します。」しかして、百済はさらに強国となった。その年、高祖は詔を発して「行都督百濟諸軍事、鎮東大將軍百濟王餘隆よ、海外の藩を守り遠く貢職を修めた。汝の誠実な情に朕は喜ばずにいられない。宜率舊章を授け、使持節、都督百濟諸軍事、寧東大將軍、百濟王に栄号すべきとする。」 その5年、隆は死にまたその子明()を持節督百濟諸軍事、綏東將軍、百濟王に任じた。・・・・

この中に二つの狗奴国が入っています。西晋の時代に遼東を略有した句驪=高句麗と、遼西を占拠した百濟です。百濟に晉の太元中に王須、宋の元嘉中,王餘毘は並んで奴隷を献上した。餘毘が死に,子の慶が王に立ち、慶が死に,子の牟都が王になった。都が死ぬと、子の牟太が王になった。齊の永明中,牟太を都督百濟諸軍事、鎮東大將軍、百濟王に除した。ここに百済王の姓名が入っています。
したに、王系図に須、映、慶、都、太の年表を作成します。

もう一人の主役:扶余王尉仇台

後漢書を読んで、光武帝が金印を与えたと思っていた人が大半ではないでしょうか?《後漢書》《列傳》《東夷列傳》(光武帝劉秀)建武中,東夷諸國皆來獻見とあるように、光武帝は東夷の諸国ばかりでなく西域もを広く封建に移行し、諸国皆に金印・銀印などを大盤振る舞いしたのです。その数は1000個にも及んだのでしょう。その中で、九州の倭奴国が含まれていたことは十分に考えられます。

「(原文)建武中元二年(57年)倭奴國奉貢朝賀使人自稱大夫倭國之極南界也光武賜以印綬。」

「光武帝劉秀の建武中元二年(西暦57年、倭国から離れて南の極限にある倭奴国が朝賀の奉献をした。その使者は大夫と自称していた。光武帝は印綬を賜った。太平御覧魏志では建武25年としています。建武二十五年(49年),「夫餘王遣使奉貢,光武厚報答之,於是使命歲通。」
*建武中元(けんぶちゅうげん)は、後漢の光武帝劉秀の治世に行われた2番目の元号。56年 - 57年。
*建武(けんぶ)は、後漢の光武帝劉秀の治世に行われた最初の元号。25年 - 56年。建武25年は西暦49年。


》 後漢書には「安帝永初元年(107年)倭國王帥升等獻生口百六十人願請見 / 桓靈間(168-189年)倭國大亂更相攻伐歴年」と書かれています。どうでしょう。生口とは捕虜のことですから、この年の前に戦闘があったことを暗示します。
 後漢書の安帝の永初元年とは、107年になります。『太平御覧』《扶余》では安帝永初五年(111年)この時に大いに扶余王始將を厚く報い、136年にその子の尉仇台に金印金彩を与えたと出てきます。倭國王帥升とが漢に服属したのは111年、この時の扶余王が金印を貰ったとしたら、その紐(ちゅう)は鹿でした。扶余のシンボルは鹿です。扶余王を倭国王と後漢書は間違いていますよね。もし、これが間違いでないとすれば、扶余王は倭国王だったことになります。論理的には范曄の言う倭国大乱とは扶余大乱だった可能性があります。
*桓帝と霊帝の在位は桓帝が146年8月1日 - 168年1月25日、霊帝は168年2月17日 - 189年5月13日ですから、桓霊年間とは、168年から189年になります。その間は21年間ですよね。倭国大乱は范曄のでっちあげです。


《宋明》
《太平御覽》 [北宋] 977年-984年/
《四夷部二·東夷二》
夫餘》
建武二十五年(49年),夫餘王遣使奉貢,光武厚報答之,於是使命歲通。至安帝永初五年(111年),夫餘王始將步騎七八千人寇鈔樂浪,殺傷吏人,後復歸附。永寧元年(120年),乃遣嗣子尉仇臺詣闕貢獻,天子賜尉仇臺印綬金彩。順帝永和元年(136年),其王來朝京師(宮処),帝作黃門鼓吹角抵戲以遣之。桓帝時((146年- 168年)亦朝貢。獻帝時(189年 - 220年)求屬遼東云。
*永初(えいしょ)は、後漢の安帝劉祜の治世に行われた最初の元号(107年 - 113年)
建武二十五年(西暦49年)、夫餘王は使者を遣わし、貢物を献上する。光武帝は厚くこたえて之に報い、この使者に於いて歳時の朝見を命じた。
さあ、太平御覧では、建武二十五年(49年)に光武帝に貢献したのは扶余王始將とします。後漢書東夷列伝では「建武中,東夷諸國皆來獻見。」としか書かず、(安帝劉祜)永寧元年(120年),乃遣嗣子尉仇台印闕貢獻,天子賜尉仇台印綬金綵。」とあり、太平御覧と後漢書東夷列伝、後漢書倭伝とも年代にずれがでてきます。
師升の子供が尉仇台でしょう。


太平御覧では、光武帝が扶余王とし、順帝劉保の永和元年(136年)洛陽(京師)に出向いて金印の下拝を受けたのは夫餘王始將の嗣子だった尉仇臺だと書いています。

《史書》
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《後漢書》
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《列傳》
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《東夷列傳》
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8 打開字典顯示相似段落 東夷列傳:
(光武帝劉秀)建武中,東夷諸國皆來獻見。二十五年(49年),夫餘王遣使奉貢,光武厚荅報之,於是使命歲通。至安帝永初五年(111年),夫餘王始將步騎七八千人寇鈔樂浪,殺傷吏民,後復歸附。(安帝劉祜)永寧元年(120年),乃遣嗣子尉仇台印闕貢獻,天子賜尉仇台印綬金綵。順帝永和元年(136年),其王來朝京師,帝作黃門鼓吹、角抵戲以遣之。桓帝延熹四年(161年),遣使朝賀貢獻。永康元年,王夫台將二萬餘人寇玄菟,玄菟太守公孫域擊破之,斬首千餘級。至靈帝熹平三年,復奉章貢獻。夫餘本屬玄菟,獻帝時,其王求屬遼東云。
13 打開字典顯示相似段落 東夷列傳:
後句驪王生而開目能視,國人懷之,及長勇壯,數犯邊境。和帝元興元年(105年)春,復入遼東,寇略六縣,太守耿夔擊破之,斬其渠帥。安帝永初五年(111年),遣使貢獻,求屬玄菟。(安帝劉祜)元初五年(118年),復與濊貊寇玄菟,攻華麗城。建光元年春(121年),幽州刺史馮煥、玄菟太守姚光、遼東太守蔡諷等將兵出塞擊之,捕斬濊貊渠帥,獲兵馬財物。宮乃遣嗣子遂成將二千餘人逆光等,遣使詐降;光等信之,遂成因據險阨以遮大軍,而潛遣三千人攻玄菟、遼東,焚城郭,殺傷二千餘人。於是發廣陽、漁陽、右北平、涿郡屬國三千餘騎同救之,而貊人已去。夏,復與遼東鮮卑八千餘人攻遼隊,殺略吏人。蔡諷等追擊於新昌,戰歿,功曹耿耗、兵曹掾龍端、兵馬掾公孫酺以身扞諷,俱沒於陳,死者百餘人。秋,遂率馬韓、濊貊數千騎圍玄菟。夫餘王遣子尉仇台將二萬餘人,與州郡并力討破之,斬首五百餘級。

*元興(げんこう)は、後漢の和帝劉肇の治世に行われた2番目の元号。105年。


傳第三十 韓伝

桓靈之末,韓濊彊盛,郡縣不能制,民多流入韓國。

三国志魏書東夷伝の韓伝のここを引いたのでしょう。郡県制が不能になったとかかれています。 烏丸鮮卑東夷傳第三十 韓伝 「桓靈之末,韓濊彊盛,郡縣不能制,民多流入韓國。」・・・桓帝と霊帝の末(146年 - 168年;168 - 189年)に、郡県制が不能になったと書かれています。
桓帝と霊帝の間は倭国大乱があった期間です。韓と濊が強盛になったというのは中国からみれば大乱と解することができます。
 「建武中元二年(57年)倭奴國奉貢朝賀使人自稱大夫倭國之極南界也光武賜以印綬。安帝永初元年(107年)倭國王帥升等獻生口百六十人願請見桓靈間倭國大亂更相攻伐歴年無主有一女子名曰卑彌呼年長不嫁事鬼神道能以妖惑衆於是共立為王侍婢千人・・・。」これは、楽浪郡・玄菟郡・遼東郡が直轄支配ができなくなったということです。また、桓靈之末頃は、鮮卑族の檀石槐が大暴れしていた時期です。いずれにせよ、倭国大乱を韓濊の反乱に結合したのでしょうか?倭国大乱の相攻伐とは、敵味方がはっきりしない戦いを意味します。

安帝永初元年倭國王帥升等獻生口百六十人願請見は、その後の『翰苑』 倭国の条、北宋版『通典』、『唐類函』の百十六巻の倭の条などに継承されました。〔安帝永初元年107年〕が引き継がれてしまっています。この安帝永初元年は、卑弥呼Xファイルで詳細しています。違うのです。実際に金印を与えたのは順帝劉保だったのです。尉仇台は公孫度の推挙によって扶余王の代理として京師(洛陽)に出向いたのです。父王が扶余王始將帥升)でした。父王は光武帝に貢献、後漢に帰順していましたが、楽浪を撃ち、後漢を裏切ったのです。その後、尉仇台が後漢に再び帰順したのですが、なんと、80年近くたった後、扶余王の二代目が帰順しているのです。扶余王師升に与えたことはと尉仇台

《太平御覽》[北宋]977年-984年/《四夷部二·東夷二》 建武中,東夷諸國皆來獻見。二十五年(49年),夫餘王遣使奉貢,光武厚荅報之,於是使命歲通。至安帝永初五年(111年),夫餘王始將步騎七八千人寇鈔樂浪,殺傷吏民,後復歸附。永寧元年(120年),乃遣嗣子尉仇台印貢獻,天子賜尉仇台印綬金綵。順帝永和元年(136年),其王來朝京師,帝作黃門鼓吹、角抵戲以遣之。桓帝延熹四年,遣使朝賀貢獻。(桓帝)永康元年(167年),王夫台將二萬餘人寇玄菟,玄菟太守公孫域擊破之,斬首千餘級。至靈帝熹平三年(174年),復奉章貢獻。夫餘本屬玄菟,獻帝時(189年- 220年),其王求屬遼東云。

*永康(えいこう)は、後漢の桓帝(劉志)の治世に行われた7番目の元号。167年

間違えた原因は、金印は名目上は扶余王に与えていますが、太子の尉仇台が代理で受け取ったという形になっていたからです。ところが、この間が100年弱も離れているのです。

その2:生口百六十人を貢献したことをどう解釈したらいいのでしょうl。この奴隷たちは、尉仇台が帯方に侵入してとらえた捕虜と思われますが、鮮卑、烏丸、高句麗と戦闘を交えています。どこで捕虜を得たかは定かではありません。

後漢書に見る高句麗と夫餘の年号
西暦 年号 高句麗 夫餘
32 建武八年 十二月、高句麗王遣使奉貢。  
47 建武二十三年 冬十月 蠶支集落の大加である戴升等萬餘口が樂浪に内屬。  
49 建武二十五年 春、右北平、漁陽、上谷、太原を侵寇するが遼東太守祭の懐柔策で塞外に戻る。 冬十月,夫餘王は遣使奉貢し,光武はこれに厚く答えて報いた。 これをもって使者は毎年通うようになった。  
105 元興元年 春正月、遼東の六縣に侵寇したため、太守耿がこれを破り、その渠帥を斬った。  
109 永初三年 春正月、高句驪遣使貢獻  
111 永初五年 高句麗王宮が遣使貢獻し玄菟郡に屬することを求めた。 三月,夫餘王は始めて將歩騎七八千人をもって、樂浪に寇鈔し、吏民を殺傷したが、その後また帰属した。  
118 元初五年 夏六月、高句驪と穢貊が玄菟郡に侵寇し、華麗城を攻めた。  
120 永寧元年 嗣子の尉仇台を遣して、闕に詣て貢獻した。天子は尉仇台に印綬金綵を賜した。 ;200年 健安中 
121 建光元年 春正月、幽州刺の史馮煥、玄菟太守の姚光、遼東太守の蔡諷等の將兵が長城を出てこれを撃った。 貊の渠帥を捕とらえ斬り、兵馬財物を獲た。 高句麗王宮はその嗣子遂成に將二千餘人を率いて姚光等にはかりごとを行った。 使者を差し向け偽りの降伏をし姚光等はこれを信じた。 遂成はそうして困難な状況を制し、大軍を遮った。一方で三千人をひそかに差し向け玄菟、遼東を攻め,城郭を焼き、二千人余りを殺傷した。 この時廣陽、漁陽、右北平、涿郡屬國は兵三千餘騎を発してこれを救うが貊人はすでに去ったあとであった。  
121 建光元年 夏四月,また鮮卑八千餘人と遼東を攻め、遼隊で吏人を殺した。蔡諷等が追撃し、新昌において戰歿した。 功曹の耿耗、兵曹掾の龍端、兵馬掾公孫は身をもって蔡諷を守ったが於陳においてともに沒した。 死者百餘人。  
121 建光元年 冬十二月、高句麗王宮と遂成は馬韓、貊數千騎を率いて玄菟を包囲した。 夫餘王は子の尉仇台に將二萬餘人を付けて遣わし,州郡力を合わせてこれを討ち破った。斬首五百餘級。 同左  
122 建光二年 春二月,夫餘王は子を遣し、その將兵は玄菟を救い高句驪 、馬韓、穢貊を撃破した。遂成は遣使した。 同左  
122 建光二年 秋七月、高句驪は降伏した。  
136 永和元年 その王京師に來朝し、帝は黄門鼓吹と角抵戲をもって之に遣した。  
141-147 順桓之間 遼東を犯し,新安、居郷を侵寇した。  
145-147 質桓之閒 西安平を攻めて,その道上において帶方令を殺し,樂浪太守の妻子を捕えた。  
161 延熹四年 十二月,夫餘王が遣使來獻した。  
-167 桓帝末 鮮卑、南匈奴および高句驪の嗣子伯固が次々に侵寇してきた。 四府は橋玄を舉げて度遼將軍、假黄鉞とした。 橋玄は鎮に至ると兵を休ませ士を養い,その後諸將を督して守り、胡虜および伯固等を討撃したため,皆破れ散って退き走った。  
167 永康元年 春正月、王の夫台將は二萬餘人をもって玄菟に侵寇した。玄菟太守の公孫域はこれを撃破し斬首千餘級。  
169 建寧二年 玄菟太守の耿臨は高句麗を討ち、斬首數百級。伯固は降服し遼東に屬した。  
174 熹平三年 春正月、夫餘國が遣使貢獻。  
 200      公孫度はその二虜の間に在る夫余と同盟を組み、公孫氏の宗女(公孫度の娘とも妹ともいう)をもって尉仇台の妃とした。  
 (189年- 220年),  獻帝年間    其王求屬遼東云  

この表をみると、高句麗と夫餘はしばしば対称的な行動をとっている。 建武25年(49年)春高句麗が右北平、漁陽、上谷、太原を寇鈔すると、同じ年の冬夫餘が遣使奉貢する。 永初5年(111年)三月夫餘が楽浪を寇鈔すると、前後は分からないが同じ年高句麗は玄菟郡に属することを求めている。 元初五年(118年)六月高句麗が玄菟郡を寇鈔すると、永寧元年(120年)嗣子の尉仇台を遣している。 以後高句麗が後漢と戦いになる中、夫餘は後漢を助け高句麗と戦っている。 この時期までの夫餘と高句麗は同調的ではなく、後漢をめぐって競合しているように見える。 もちろんこれだけでは実際の高句麗と夫餘の関係は分からない。




尉仇台の後扶余の系譜と、百済の王系図を重ねてみる!(第何代の代数は朝鮮正史による)
慰礼系伯済系のうち5代6代がはめ込み。13代からは、尉仇台系百済。
   王名  朝鮮側資料  二王統重複  代数  朝鮮側資料  中国の皇帝と年号
   太祖  後東扶余系初代は尉仇台    太祖 伯濟系初代は温祚  
         1  温祚王(18-28)  
         2  多婁王(28-77)  
         3  己婁王(77-128)  
         4  蓋婁王(128-166)  
   尉仇台  (仇台・166- 214)  =>[5]代 肖古王      
   简位居  (位居・ 214-238?)  =>[6]代 仇首王    
   麻余王  (麻余・248-249?) 更立男王・国中服さず。  7 沙伴王(234)(沙沸王、沙伊王の別名?)   正始(せいし)は、三国時代、魏の斉王曹芳の治世に行われた最初の元号。240年 - 249年
   依慮王  (依慮・235-285)    8  古爾王(234-286)  嘉平(かへい)は、三国時代、魏の斉王曹芳の治世に行われた2番目の元号。249年 - 254年。
   依羅王  (依羅・286-346)  臺與のあとの男王。以降並びに
中国に朝貢。
 9  責稽王(286-298)  太康(たいこう)は、西晋の武帝司馬炎の治世に使われた元号。280年 - 289年。
   玄王  (不伝)    10  汾西王(298-304)  
   余蔚王  (不伝)    11  比流王(304-344)  
   孱王  (不伝)    12  契王(344-346)?  
 13  近肖古王  (余句・346-375 )         王妃族・真氏に転。  
 14  近仇首王  (余須・375-384)  =倭国王讃(王須)      太元(たいげん)は、東晋孝武帝司馬曜の治世に行われた2番目の元号。376年 - 396年。
 15  枕流王  (余暉・384-385)        
 16  辰斯王  (不伝・385-392)        
 17  阿莘王  (余蔚・392-405)        
 18  腆支王  (余映・405-420)  =倭国王珍(餘映)      
 19  久爾辛  (不伝・420-427)  架空王?      
 20  毗有王  (余毗・427-455)  架空王?      
 21  蓋鹵王  (余慶・455-475)  =倭国王済(慶)      
 22  文周王  (牟都・475-477)  =倭国王興(牟都)      
 23  三斤王  (不伝:477-479)  13歳で即位15歳で死亡      
 24  東城王  (牟太・479-501)  =倭王武(牟太)     建元(けんげん)南齊 太祖 高帝 蕭道成 479年 - 482年
永明(えいめい)は、南北朝時代、南斉の武帝蕭賾の治世に行われた年号。483年 - 493年。
 25  武寧王  (余隆・501-523)      。 天監(てんかん)は、南北朝時代、梁の武帝蕭衍の治世に行われた最初の元号。502年 - 519年。=南韓遷宮。  
普通(ふつう)は、南北朝時代、梁の武帝蕭衍の治世に行われた2番目の元号。520年 - 527年
 26  聖王  (余明・523-554)        
 27  晶王  (余昌・554-598)  威徳王とも、      
 28  恵王  (余恵・598-599)        
 29  法王  (余宣・599-600)  在位1年      
 30  武王  (余璋・600-641)        
 31  義慈王  (義慈・641-660)  羅唐軍に敗戦      


上記が小生の推定する本当の歴代王系図です。次の「倭の五王」の章で、もっと詳しい表をだします。
下の、三国史記からの正史といわれる王系図と比べてください。
古爾王と肖古王からの二系に分岐しているのですが、5代から12代までが作文されています。
ソウルにあった伯濟国の王統は契王で断絶しました。5代から11代までの肖古王から4代が漢城伯濟の王系ではありません。


A'

『武帝紀』武帝蕭衍(463~502~549)
天監元年(502年)  「都死子立牟太、齊永明中、除太都督百濟諸軍事鎭東大將軍百濟王」「鎭東大將軍倭國王武」

帝紀の牟太は、「東城王、諱(いみな)牟大」(501年歿)(三国史記百濟本紀)と諱が一致する。牟太の前は都であり、文周王の諱(いみな)、牟都・475-477)に一致する。
B'

『梁書』梁書->卷第五十四列傳第四十八 諸夷海南諸國 東夷 西北諸戎 百済条

晉太元中、王須(晉書作餘暉)、義熙中、王餘映、宋元嘉中、王餘毗、並遣獻生口。餘毗死、立子慶。慶死、子牟都立。都死、立子牟太。齊永明中、除太都督百濟諸軍事、鎮東大將軍、百濟王。天監元年、進太號征東將軍。尋為高句驪所破、衰弱者累年、遷居南韓地。

 東晋の太元年間(376-396年)に王の須(晋書では余暉)、義熙年間(405-418年)に王の余映、宋の元嘉年間( 424-453年)には王の余毗、いずれもが奴婢を献上した。
 余毗が死に子の慶が立った。慶が死に子の牟都が立った。都が死に子の牟太が立った。
 斉の永明年間(483-493年)、太都督百済諸軍事、鎮東大將軍、百済王に叙した。
 天監元年(502年)、太号を征東將軍に進めた。高句麗によって国を破られ、衰弱が積年に及び、南韓の地に遷都した。

A'とB'を重ねると、天藍元年に「都が死に、牟太が立った」、南韓の地に遷都したのは牟都。都が死んで牟太がたった。
ここまでは、ほぼ同じですよね。
そのあとが、『武帝紀』武帝蕭衍(463~502~549)には、都死子立牟太、齊永明中、除太都督百濟諸軍事鎭東大將軍百濟王・鎭東大將軍倭國王武」とあり、牟太が、齊永明中、に「鎭東大將軍倭國王武」とつながります。ですから、牟太が倭国王だったのです。これは発見ですねえ。
なんと、倭国王武とは百済の東城王、その諱は「(余大/牟太・479-501)」だったのです。
卑弥呼Xファイルは、このことを小見出しで、「倭王武の奏上文の牟大が、百済東城王のいみなと一致する」として、発表しています。 これは、中国側の云う倭王武が朝鮮側の百済本紀の名前の牟大と一致することが中国資料から分かったということです。 幸いなことに、倭王武の順帝の昇明二年の上表書に、武が「父兄をにわかに喪い」と記している事件は、472高句麗長寿王に蓋鹵王が殺害された大事件のことで、これに照らすと、倭の五王の斉興武が特定できます。「卑弥呼Xファイル」に蓋鹵王が処刑されたことを、なまなましく書いておきました。蓋鹵王余慶・(455-475)以降、百済は漢江流域を高句麗に併合されて、登州への重要な交易航路を喪失しました。高句麗が海上ルートにあり、高句麗に塞がれているためです。このため黄海を南に横切る直行ルートを開発して交易活路を見出しました。こうして、北宋と交易利権を確保していたのです。
讃と珍はやや、在位年代符合による推定のきらいはありますが、在位年数からはぴったりしています。讃の万里修貢とは、別書では貢職と書かれおり、単なる貢献ではありません。わたしは万里が長城のことで、その職能的な貢ではなかったかと思っています。中国王朝に代々忠誠をつくしたことが誇るべきことだと宋から賞賛されています。初めに祖太祖の尉仇台は遼西にいたのです。万里の長城の起点はすぐ近くで100kmぐらいしかありません。

ここで、扶余も帯方に権益をもっていたことがお分かりいただいたので、また、もとに帯方と高句麗の歴史的関係を引き続き書くことにします。そこで、卑弥呼と壹與の変わり目に、尉仇台の庶子の麻余が扶余王でした。麻余が死んだとき次の王の依羅はまだ六歳でした。男王が死んだというのは麻余だったのですが、再び女王がかつぎだされた壹與が13歳でしたね。依羅はなにより、父が失脚したのが痛かったようです。麻余よりも牛加の位居に国人は期待をかけていました。謀反が原因ですが、退位を強いられた可能性もあります。誅殺しあうということは、敵がはっきりとした争いですよ。牛加の父子に二心があったと書かれていますが、二心ありとは、反逆のことで謀反ですよ。そうそう、また、卑弥呼を佐治していたという、あの「弟」とは、简位居の弟で、卑弥呼の弟ではないのです。このへんのことがすっきりします。文学者の作文解釈でなければ、こう読むのが自然なのですよ。

尉仇台を師升と書かかれていますが、師升とは扶余の王をさした中国側の呼称のようです。難升米も扶余王をさす称号のようですね。简位居と、その弟の麻余も難升米です。中国側は少なくても使い分けていないのです。
ここから先は、母丘儉の軍事行動に扶余がかかわっていることに言及します。

 正始7年八月、毌丘倹は第二次高句麗討伐を開始。高句麗の王都であり、難攻不落といわれた山城でもある丸都城を落とす。宮(東川王)はまたもや逃亡しました。
他方、「楽浪郡太守劉茂、帯方太守弓遵、嶺東の濊(わい)・挹婁(ゆうろう)の句麗(くり)に属するを以て、師を興してこれを伐つ。」・・・魏軍は楽浪・帯方軍との二派に分かれて高句麗を攻撃したのです。ここに、師を興したとある、その師とは、渠帥であり、魏から言えば大王に相当する。王頎が扶余に赴いて口説いた師升麻余(扶余王)の扶余軍でしょう。不耐候等、邑を挙げて降りました。

 麻余は劉茂・弓遵と共に出撃したのです。さて、卑彌呼の実働部隊は扶余軍だったということです。

ですから、黄幢を張政から受け取った難升米は麻余だったのです。
 東沃沮は東扶余の故地であり、初代王解夫婁(へぶる)が建国した迦葉(かそ)原(ぼる)の地でした。前漢の東部都尉治があった不而不耐県で、今の、琿春あたり。旧国名は「藁離國(こうりこく)」、句麗國の元名だったのです。

 東扶余の発祥の地に扶余王を渠帥に立てての陣立ては、不耐城にいる旧扶余系王族にたいして、後東扶余系の王を陣立てにすれば、戦わずして勝つことができる妙策だったのです。中国は戦わずして勝つことを目指すのですね。

 また挹婁(ゆうろう)は東川王の母親の出身地であったと伝わっています。沃沮の北に接する挹婁が東川王の逃亡を助けていたのでしょう。東川王の支持基盤は高句麗五部のうち貫那部、別称南部勢力と挹婁といった高句麗の被征服部族がほとんどであったらしい。

幽州勅使・毌丘倹(ぶきゅうけん)は玄菟(げんと)城(そん)から本隊、一万の騎兵で動いた。渾(こん)江(がん)の支流・沸(ぴ)流水(りゅす)で迎え撃った高句麗は、はじめ三千の魏軍を切った。また、その上流の梁貊の谷でまた三千を切った。東川王は、「魏の大兵はかえってわが少兵よりも劣る。毌丘倹は名将というが、今日の彼の命はわが手中にあるのではないか。」と、敵を侮ったのがいけなかった。初戦で退却したのは誘引策だったのだ。東川王、自ら騎兵五千を率いて、一挙に勝敗を決しようと総攻撃をしかけたが、毌丘倹の歩兵の陣形に敗れ、わずか千騎を率いて、またも逃亡した。兵もまた散逸した。王は威鏡南道の竹嶺まで逃亡したが魏軍の追撃は止まなかった。王に追随した被征服部族の密友は決死隊を募り、敵陣に突撃した。「王様、どうぞ隙をついて逃げてください。」 王は散った兵を集め間道を転々と逃れ北沃沮(おくちょ)(挹婁)まで逃れたという。(ほぼ三国史記から要訳)


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『三国志巻二十八 魏書二十八 王母丘諸葛鄧鐘伝 二十八裴松之注』
  「六年 復征之宮遂奔買溝 儉遺玄菟太守王頎追之」
「正始六年、ふたたび宮(東川王)を討伐し、ついに買溝に奔走した。母丘儉は玄菟郡の太守王頎に宮を追わせた」


 母丘儉(ぶきゅうけん)が丸都城を攻略したのは正始6年の夏です。再び宮を征討したとすれば、第二次でしょう。

《宋明》
《太平御覽》
[北宋] 977年-984年 電子圖書館
《皇王部十四》
《兵部四十三》
電子圖書館
《決戰中》
電子圖書館
2 打開字典顯示相似段落 決戰中:
《魏志》曰:毌丘儉字仲恭,有幹策,為幽州刺史、度遼將軍。儉以高句驪數侵叛,督諸軍出玄菟,從道滑討之。句驪王宮將步騎逆軍沸水上,大戰,宮連破走。儉遂束馬懸車,登九都山,屠高麗,所斬獲首虜以千數。使玄菟太守王頎追,過沃沮千餘里,至肅慎界,刻石紀功,刊九都之山,銘不耐之城

《漢代之後》相關討論
《魏晉南北朝》
《三國志》
[西晉] 265年-300年
《魏書二十八》
《毌丘儉》
4 打開字典顯示相似段落 毌丘儉:
正始中,儉以高句驪數侵叛,督諸軍步騎萬人出玄菟,從諸道討之。句驪王宮將步騎二萬人,進軍沸流水上,大戰梁口,梁音渴。宮軍破走。儉遂束馬縣車,以登丸都,屠句驪所都,斬獲首虜以千數。句驪沛者名得來,數諫宮,臣松之案東夷傳:沛者,句驪國之官名。宮不從其言。得來歎曰:「立見此地將生蓬蒿。」遂不食而死,舉國賢之。儉令諸軍不壞其墓,不伐其樹,得其妻子,皆放遣之。宮單將妻子逃竄。儉引軍還。六年,復征之,宮遂奔買溝。儉遣玄菟太守王頎追之,世語曰:頎字孔碩,東萊人,晉永嘉中大賊王弥,頎之孫。過沃沮千有餘里,至肅慎氏南界,刻石紀功,刊丸都之山,銘不耐之城。諸所誅納八千餘口,論功受賞,侯者百餘人。穿山溉灌,民賴其利。

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 母丘儉攻略の時、王は、漢の時代に東部都尉治があった東沃沮の不而城(現在の咸興(はむん)市か?元山市の説もある)に、一族を伴って不而王を頼って入ろうとした。王頎は不而城に勝利の銘文を残したとあるので、長く不而城に留まれなかっただろう。北沃沮の挹婁の地に追い詰められた。ところが、進退窮まったとき、紐(ちゅう)由(ゆう)という将が降伏を偽って魏軍の陣に入り降伏の献上品の中に潜ませた剣を引き抜くと魏の将軍の胸を突いた。この魏軍の乱れに乗じて、王はまた逃れ、急死に一生をえた。中国春秋戦国時代から「戦いとはだまし合いである」というのですが、投降を装って反転攻撃するのは邪道です。まあ、こうして、また『三国史記』 東川王20年に見える東沃沮での紐由の忠義の話は東川王の残兵が、王を救った逸話なんですが、三国志魏志が「その族人の性質は凶暴で性急、金品を強奪することを喜びとする」と、こっぴどく書くのもっともです。困ったときは大げさにへりくだり、従うふりをして恩を仇で返えす。かの国の住民は、うそをついて騙すのは一族のためなら美談となり、喜びなんですね。そうです。騙された方が悪いんです。「いまこそ韓国に謝ろう」の百田直樹じゃありませんが、日本も、中国も1700年前から、実は気づいていたのですが、被害に合わないと分からないんです。

*不耐城とは、丸都城が難攻不落であるという評判を皮肉って王頎がつけた名称だろう。ほんとうは濊城のことだろう。『三国志巻二十八 母丘儉伝』「刻石紀功刊丸都之山、銘不耐之城」とあり、『括地誌』では丸都城を落とした記念の銘を不耐城に残したといっているのだろう。東沃沮の不而城は王頎の銘文の不耐と同じだろう。「母丘儉纪功碑」が1904年に丸都城遺跡から出土した。以下、実物写真。



丸都山 山頂 集安市から2.5km、標高676m
続く・・・・さて、卑彌呼の周辺ばかり書いて、肝心の卑弥呼があまり書かれていないような感じがしますね。でも、いいですか。帯方の地に起きていた一連の紛争は、魏と高句麗だったのです。王頎は玄菟軍太守でした。母丘儉の命で、高句麗の東川王を追い詰めた軍人でもあったのです。さて、そこで、卑彌呼は王頎に使者を派遣して、相攻撃の状を渡しているのですから、私は卑彌呼の敵は王頎の敵と同じであったと判断するのです。

卑弥呼の死

「卑弥呼以死」からは、黄幢を難升米(麻余)に下賜した時ときまでは生きていたということです。以は、以至の用例と同じです。時制的な用例なのです。死の原因を表現したものではありません。張政が黄幢を下賜したとき、卑弥呼は死んだと単純に解釈すべきです。卑弥呼が殺されたとか、戦死したとか死因を暗示するものではありません。
死は丁寧語ではありませんが、中国は上位の立場ですから、東夷の女王に尊敬語を使いません。


塞曹掾史(さいそうじょうし)

塞は辺境の地、曹は役所の名称、掾(じょう)は属官ないし副官、中国語では判官という,令制の四等官の1つとされています。掾(じょう)は、中国の秦・漢代に中央朝廷と地方官署内に設けられた実務処理機構「曹」の長官である。掾はみな府主(本府の長官)自らが任命を行う。三公府の掾・刺史府の掾の秩禄は四百石あるいは三百石に達し得、この類の高級掾の任命は一つ上級の官署に報告し記録を保存する必要があったが、これ以外は、上申し記録を保存する必要なく、すぐに任命できる下級の掾もおり、その秩禄は百石である。県の諸々の掾の秩禄は全て百石以下である。以上が辞書的な意味です。わたしには、塞は塞内・塞外というように国境を境に置かれる要塞です。国境の要塞を経営管理を任された役人だろうと推察します。東夷を管轄していたのは山海関(さんかいせき)だと思われます。漢代は臨楡関と呼ばれていました。おそらく、そこの曹という部の副官ですから、皇帝の名代としての勅使にしては、かなり低い官名です。黄幢を渡すというのは、すなわち出撃の命令を下すという意味です。黄幢を渡すのは皇帝の名代でなければなりませんし、それは勅使に他ならないのです。

帯方郡の滅亡後の倭韓の支配

314年に楽浪郡・帯方郡、両郡共に、高句麗により滅ぼされてしまいます。この時代の中国は、魏晋南北朝時代の晋(西晋)で、八王の乱は終っていますが、その後も混乱と異民族の侵入が続いて、辺境に力を注ぐ余力はなかったのでしょう。結局、倭と韓を支配する出先機関だった帯方郡が無くなったことで、情勢にどういう変化が起きたのでしょうか。その後の倭国はどこに行っちまったのか?と、いうテーマがでてまいります。地政学的には、変遷いたしますが、基本的に高句麗・新羅vs韓倭という構図になるのではないでしょうか。

 こういう論者がおられるのです。「第二次世界大戦の前までのまともな日本の歴史家は誰も『魏志倭人伝』を取り上げていなかった。『古事記』や『日本書紀』のほうが遥かに信頼できる”歴史書”だから、・・・・」、まさに、戦前の皇国史観に洗脳された方々です。魏志倭人伝はきっと、日本のヒエラルヒーの方々のお気に召さなかったのですね。倭が後漢の公孫氏に服属していたことは、すなわち中国の支配を受けていたということになりますからね。結局、古代であっても皇国の尊厳にかかわりますから、誰でも認めたくないということなのでしょうよ。「騎馬民族征服王朝説」が下火になってきてよかったと喜ぶ日本教信者者がいるのですよ。
 邪馬台国論者にも魏志倭人伝の解釈するバックボーンが古いのですから、とうぜんいろいろと曲解(誤訳)を引きずっています。
いわば、(日本という)井の中の蛙さんたちは、そのほうが、きっと居心地がいいのでしょうね。


倭国は女王卑彌呼の〇東沃沮に、第二の狗奴国を丸都城、高句麗の第二遷宮地とします。第一の狗奴国は百濟でソウル市を首都とします。


吉野ヶ里の北郭
文献;
1) 204 健安中・公孫康は屯有県以南の荒地を分けて帯方郡とした。(韓伝)・公孫康は公孫模、張敞等を遣わし旧住人を集めて、兵を興して韓と濊を征伐した。(韓伝)
2)正始八(247)年、玄莬太守の王頎が帯方に到着し官についた。倭女王卑彌呼と狗奴国王卑彌弓呼(高句麗・東川王)はもとより敵対しており和平することはなかった。(王頎は)倭載斯・烏越等に使者を送り、郡治に詣でさせて狗奴国(高句麗)を共に攻撃する状を(王頎が)説いた。(倭国は参戦に同意したので王頎は)その攻撃状を塞曹掾史張政等らを(洛陽)を派遣し皇帝に届けた。よって(皇帝曹芳は)、難升米に黄幢を拝假する詔書を出し、激の告喩を為した。(魏志倭人伝)・・・卑彌呼の居る場所は帯方郡の領域の中だと想像させる訳です。つまり、王頎が使いを送って郡に来るように命じてから、もし倭国があった場所が水行10日陸行1か月だったら、いったい郡治に詣でるのにどのぐらいの所要日数とになろうか。使者が到着して、それから出発するのですから、2か月と20日後に倭国の倭載斯・烏越等が帯方郡治に詣でるということになりますよ。倭国のロケーションは帯方郡治(太守の居る所)とは離れていないと解釈したほうが自然です。

歴史では、公孫康(こうそんこう)が帯方郡を新設、同時に倭と韓を服属させたとあります。公孫模、張敞等を派遣して倭地を属させたのですが、 この二人がが武官ですと、兵をともなっています。武力制圧されたとも考えられます。そして、吉野ヶ里に拠点としての都督をつくった可能性を否定できません。
2)公孫氏の軍が帯方に城壁(城柵)を築くと同時に、倭地にも城柵を築いたという推測はなりたつと思われます。
3)一の画像の帯方郡内ある環濠?と突出部の特徴がよく似ています。吉野ヶ里の北内郭が共通の設計である可能性があのではないかと考えます。いまのところ、google Earth,
google mapだけでしか見ることができないのが現状です。ひょっとすると公孫康の最後に誅殺された襄平城の輪郭も似ているかもしれませんね。いまのところ匂いがするというだけですが、あまりにも似ていことを発見したのでご参考になりますよう祈ります。4)きわめて似ているとおもいましたのでご照覧ください。北内郭は公孫氏の築城スタイル?と似ているとしか言えません。目下のところ考古学上の検証ができません。北朝鮮にあるので資料も発掘されたのかどうかも不明です。河川の氾濫でなにも残っていないかもしれません。それにしても、無視できないほどよく似ていますよね。この溝跡は500m×600mと大規模なもので、楽浪土城(郡治)とほぼ同じ規模という点は共通していて興味がわきますが、少し広い範囲の航空写真を見ますと、低平地に位置している点や、周辺各所に河川の蛇行跡があり二つの蛇行跡がたまたま重なった可能性もある点なども注意しなければならないと思います。いずれにせよ、当地の情報が欲しいと思いました。ただ、ここは絶好の船着き場であると判断できます。南大同江という支流に船を出しいれし、外洋にでることができるからです。


安岳郡 北朝鮮黄海南道 一、黄海道鳳山郡沙里院面にある唐土城が旧帯方郡治址=曹魏の帯方郡治が【沙里院】だとしますと、アナック市に近いこの遺跡?は卑弥呼の宮城か?
一、沙里院の西南14.46kmほどのところにある環濠と思われる画像(上)をご覧ください。下の画像はそのMAP




さて、公孫氏の築いた襄平城がはたししてどんな城だったのか探ってみます。中国系の城はウォール(壁)で囲み、その中に宮城のほか、貴族や庶民生活の場、町があります。いわゆる平城で平地に造られます。他方朝鮮式山城は完全な戦闘用の城です。山を背景にもった場所に石垣や水溝で囲むようにして作ります。戦いのときだけ庶民を中に入れます。普段の民の生活は城の外になります。
中国式の城の特徴ですが平地にあって全体を壁で囲むような方式になります。
遼陽市、新城は女真族・金のときヌルハチの根城だったところが怪しいのです。太子河の北側にあり、中国式城跡です。全体の形はひし形になっています。卑弥呼の宮城は公孫式築城であったという可能性があります。



外側の周辺道路は一辺約1km、内側の歩道は長辺がだいたい750mです。
1115年に遼から自立して金を建国した。16世紀末に建州女直から出たヌルハチはこれら13部族を統一して、1616年に後金を建てた。

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