HOME-TOPへ
NO441・・・・ 松浦佐用姫物語
(まつらさよひめものがたり)
佐賀県唐津市 (唐津・呼子・厳木)


沖行く船に領布(ひれ)振る佐用姫(唐津市鏡山頂上)
松浦佐用姫は、肥前の国に伝わる伝説の主人公です。鏡山のことを別名「ヒレフリ山」とも呼びます。

海に向かって領布振る女

 時は、飛鳥時代を更に飛び越えて「古墳時代」にまで遡る。
肥前国の松浦潟を眼下に見る山(鏡山)に登った女が、海に向かって、身につけていた領布ひれを大きく振った。この時代、領巾を振れば、いかなる願いも叶うと信じられていたからである。
            
                  
                               写真は、鏡山から望む唐津湾。手前の海岸線は虹の松原
 女の名前は佐用姫さよひめといい、そこから南方へ20キロほど離れた篠原村(旧厳木町)に住む豪族(長者)の娘であった。姫が見つめる先には、港を出て行く船団を統率する大伴狭手彦おおとものさでひこがいた。
「あなた、私を残して、どこにも行かないで!」
 届くわけもない声を振り絞りながら、姫は領布を振り続けた。船団が沖の高島を回り、水平線の島陰に消えようとする時、「爺い、旦那さまを新羅しらぎ(朝鮮半島)に渡らせてはなりませぬ。追いかけて引き止めましょうぞ」と供の末造を促した。
「無理でがすよ、姫さま」
 止める末造を振り切って、佐用姫は山を駆け下りた。

愛する人は大伴大連の御曹司

 山を下りて砂浜に出るとすぐ、大きな河口が姫の行く手を遮った。栗川くりがわ(現在の松浦川)である。昨日まで愛しい狭手彦さでひこと、三月みつきにわたって暮らした陣営跡であった。
 思い起こせば、あれは弥生半ばの頃だった。篠原村の長者屋敷で夕飯の支度中に父に呼ばれた。
「明日から大王おおきみの命により、新羅に渡られる狭手彦きみのお世話をしなければならぬ。そなたもついてくるように」ということであった。
 狭手彦の父は、ヤマト政権の中枢にあって、越前の男大迹王おおどのおうを天皇(継体)に即位させた大連おおむらじ・大伴金村おおとものかなむらである。狭手彦の任務は、政権が朝鮮半島で手を結ぶ百済くだら伽耶かや諸国を脅かす新羅しらぎを叩くための派兵であった。


佐用姫生誕の地と伝わる厳木の山里

 当時の北部九州では、新羅に通じる筑紫国造つくしのくにみやつこ磐井いわいが勢力を拡大中であった。狭手彦の身に思わぬ災いが降ってこないとも限らない。篠原の長者は、この度の狭手彦の警護が命がけであることを覚悟していた。
 緊張が高まる中で、佐用姫は狭手彦の身の回りの一切の世話を言いつけられた。例え短い間であっても、2人は夫婦も同然である。凛々しい若武者姿に惹かれた姫は、狭手彦を心から夫として慕うようになった。

船を追って、北へ北へ

 いよいよ別れのときがきた。
「嫌でございます。一時なりとも、貴方と別れて暮らすことなどできませぬ。行かないでください」
 一晩中泣き崩れる姫を抱いて、狭手彦もともに泣いた。翌朝、鎧姿の夫を見送った後、佐用姫は家人の末造を伴って鏡山に登ったのだった。


鏡山全景

 山頂で領布を振ったあと、急ぎ山を下りた佐用姫が河口に着いたとき、狭手彦の軍船の姿は既に見えず、末造に櫓を漕がせて向こう岸へ。
「急ごうぞ、爺い」

恋焦がれて石になる

 佐用姫は、裸足のままで北に向かって走った。息も絶え絶えながら、佐用姫と末造が呼子の浜にたどり着いた時、前方を大きな島がふさいだ。
「あれなるは加部島(かべしま)と申します」
 漁師が、櫓を漕ぎながら教えてくれた。


写真は、田島神社境内に建つ佐與姫神社

「早く、早く」、佐用姫は、加部島の中でも一番高い天童岳(112㍍)によじ登っていった。
「私の念力で、愛しきお方の軍船を引き戻させましょうぞ」


天童島頂上で領布を振る佐用姫

 狂女と化した姫は、黒髪を逆立てながら、沖に向かって叫び続けた。
「かくなるうえは、神のご加護を」
 山を下りると、岬に建つ田島のもりへ。「何とぞ、狭手彦きみを我れの手に戻したまえ」と祈り続けた。
「姫さまは、何処に・・・」、祈り続けて七日七晩。祈祷所に姫の姿が見えない。主人を捜しまわる末造。
「爺い、私はここにいますよ」、振り向くと、そこに人がうずくまったような大きな石が転がっていた。
「可哀想に、泣き疲れて、とうとう硬い石になりなさったか」
 末造もまた、佐用姫の“亡夫石ぼうふせき”に寄り添ったまま動かなくなってしまった。この石、現在も田島神社境内の佐與姫神社さよひめじんじゃに安置されている。

佐用姫が泣き崩れて化したという、佐與姫神社御神体の“亡夫石”

(完)

《万葉集》に歌われた佐用姫
大伴佐提比古(おほとものさでひこ)の郎子(いらつこ)、特に朝命(てうめい)を被(かがふ)り、使を蕃国(とつくに)に奉(うけたまは)る。
艤棹(ふなよそひ)して言(ここ)に帰(ゆ)き、稍蒼波(ややにさうは)に赴く。
妾(をみなめ)松浦〔佐用比売〕、この別るるの易きを嗟(なげ)き、彼(そ)の会ふの難きを嘆く。
即ち高山の嶺(みね)に登りて、遙かに離れ去(ゆ)く船を望み、悵然(うら)みて肝(きも)を断ち、黯然(いた)みて魂(たま)を銷(け)す。
遂に領布(ひれ)を脱ぎて麾(ふ)る。傍(かたはら)の者涕(ひとなみだ)を流さずといふこと莫(な)し。
これに因(よ)りてこの山を号(なづ)けて領巾麾(ひれふり)の嶺(みね)と曰(い)ふ。

及(すなは)ち、歌を作りて曰はく

この「前文」に続いて以下の5首が続きます。

遠つ人松浦佐用姫夫恋(まつらさよひめつまごひ)に領巾(ひれ)振りしより負(お)へる山の名(巻5 871)

後(のち)の人の追ひて和(こた)へたる:山の名と言ひ継げとかも佐用姫(さよひめ)がこの山の上(へ)に領布(ひれ)を振りけむ(巻5 872)

最後(いとのち)の人の追ひて和へたる:万代(よろづよ)に語り継げとしこの岳(たけ)に領布(ひれ)振りけらし松浦佐用姫(巻5 873)

最最後(いといとのち)の人の追ひて和(こた)へたる二首:海原(うなはら)の沖行く船を帰れとか領布(ひれ)振らしけむ松浦佐用姫(巻5 874)
行く船を振り留(とど)みかね如何(いか)ばかり恋(こほ)しくありけむ松浦佐用姫(巻5 874)

「作者不詳」の形をとりながら、実は大伴旅人の作品だとみられています。大伴旅人は大伴狭手彦の祖先なのです。


日本書紀での大伴連狭手彦磐井の君の弟

《宣化天皇二年》冬十月の壬辰の朔にあるように、筑紫君磐井とは大伴金村(かなむら)大連の長男、大伴磐(いは)となり、そして弟が大伴狭手彦(さてひこ)になります。
『日本書紀』宣化天皇 「二年(537年)の冬十月の壬辰の朔に天皇、新羅の任那に寇ふを以て、大伴金村大連を詔して、その子磐と狭手彦(さてひこ)を遣して、任那を助けしむ。是の時に、磐、筑紫に留まりて、その国の政を執りて、三韓に備ふ。狭手彦、往きて任那を鎮め、加えて百済を救う。」天皇、新羅のが任那を荒らしまわり略奪するので、大伴金村大連に命じて、その子磐(いは)と狭手彦(さてひこ)を派遣して任那を助けしむ。このとき
磐は筑紫にとどまって筑紫の国の政治を執り行い、韓国に対して防衛する備えをした。狭手彦は、韓に渡って任那を平和にし、また百済を救った。
重要なことは大伴磐の弟は狭手彦であることで、二人は大伴金村の子供であり、兄は筑紫に留まって統治を行い、弟が朝鮮に出兵したということである。宣化天皇2年(537)新羅に攻められた任那(みまなをたすけるため,朝鮮半島にわたり,任那をしずめ百済(くだら)をすくった。
欽明(きんめい)天皇23年(562)狭手彦は高句麗を討ち、多くの財宝をうばって天皇と蘇我稲目(そがの-いなめ)に財宝を献じたといわれる。名は佐提比古とも書く。大伴狭手彦(おおとものさてひこ)は朝廷の命を受け、任那・百済を救援するため、軍を率いてこの松浦の地にやってきました。狭手彦は名門大伴氏の凛々(りり)しい青年武将でした。
物資の補給や兵の休養のため、しばらく松浦の地に軍をとどめている間に狭手彦は土地の長者の娘の「佐用姫」と知り合い夫婦の契り(ちぎり)を結びました。
やがて狭手彦出船の日、別離の悲しみに耐えかねた佐用姫は鏡山(かがみやま)へ駆け登り、身にまとっていた領巾(ひれ)を必死になって打ち振りました。
軍船は、次第に遠ざかり小さくなっていきました。狂気のようになった佐用姫は、鏡山を駆け下り栗川(くりがわ=現在の松浦川)を渡って海沿いに北へ向かって走って行き、やがて加部島(かべしま=呼子町)の天童岳の頂き(いただき)に達しましたが、遂に舟が見えなくなるとその場にうずくまり、七日七晩泣き続けてとうとう石になってしまったと言われています。(以上松浦と佐用姫伝説)この松浦に伝わる伝承、佐用比売がひれを振り、別れを惜しんだ相手が狭手彦であり、その兄が筑紫の君磐井となると私は踏んでいます。
弟の狭手彦は松浦を後に韓土に渡り、百済軍と共に高句麗と戦い戦果をあげたことが記されています。『日本書紀』欽明天皇23年*562年)には、数万の兵を率いて高句麗(こうくり)を討ち、勝ちにのって宮に母入り、種々の珍宝を得て天皇に七織帳を奉献し、鎧や刀もろもろのほか美女二人を蘇我稲目(そがのいなめ)に献上しているとあり、二つの点で重要なのは高句麗の陽原王の宮を寇掠したこと、また、この時、蘇我稲目が中央朝廷に君臨していたという二点です。
この時の高句麗王は陽原王(ようげんおう、生年不詳 - 559年)は、高句麗の第24代の王(在位:545年 - 559年)*(15年間)。姓は高、諱は平成。陽崗上好王(『三国史記』高句麗本紀・陽原王紀の分注)、陽崗王(『三国遺事』王暦)ともいう。先代の安原王の長子であり、『魏書』には「成」の名で現れる。533年に太子に立てられ、545年3月に先王が亡くなると王位に就いた。
《欽明天皇》 6年9月にも男大迹天皇(継体)六年の条が引用される。ここでは大伴大連金村、住吉の宅に居りて、疾(やまい)を称して朝(つかえまつ)らず。
《継体天皇》6年冬12月条「大伴の大連金村、四県割譲を百済の使いに勅告する役目を物部大連麁鹿火(あらかひ)にさせようと謀ります。麁鹿火(あらかひ)が難波の館を出て向かおうとすると、妻が諫めます。「もし四県をさいて他国に渡してしまえば長き世に渡って謗りをうけましょう。」麁鹿火(あらかひ)は答えて「お前の言うことはよくわかるが、天皇の勅命に背くことになってしまう。」、妻は、続けて「それでは、あなた様は病気だといつわり勅宜の使いをしてはなりません」、麁鹿火(あらかひ)は妻のいさめに従いました。しばらくして、やはりうわさが流れました。「大伴大連金村と穂積臣押山(大伴氏分一族)は百済から賄賂を受け取っていたのだろう」、と。これは今でいえば売国奴という批難でしょうか。金村は四県割譲が失策の責任を恐れました。やがて、物部大連尾輿(おこし)と蘇我稲目によって辞任させられ、半島経営から消えていきます。
さて、大伴氏の先祖神は甲斐にいましたが、欽明天皇の時代には大伴大連金村は紀伊国名草郡、現在の和歌山市周辺に移動しています。紀伊水軍の本拠地であり、みずからは住吉に屋敷を持っていと伝えます。物部麁鹿火(あらかひ)は難波に館を持っていたこと、また、大伴大連金村は紀の川下流そばの紀伊国国分寺跡あたりに館をもっていたと推測します。半島への対外出兵には数百隻の船が必要です。物部氏が大和川、淀川水系の海賊を従え、大伴氏は紀の川水系の海賊を統括していたのではないかと推定します。紀の川は奈良県内では水源地である「吉野」に因み「吉野川(よしのがわ)」と呼ばれます。奈良県と和歌山県が仲が悪いのはひょっとするとこんなところに原因がありそうですね。
さて、この妻の切なる訴えが実は重要なのです。
《継体天皇六年夏四月》「夫住吉大神、初以海表金銀之國高麗・百濟・新羅・任那等、授記胎中譽田天皇。故、大后息長足姬尊與大臣武內宿禰、毎國初置官家爲海表之蕃屏、其來尚矣。抑有由焉、縱削賜他、違本區域。綿世之刺、詎離於口。」大連、報曰「教示合理、恐背天勅。」
「それ、住吉の大神、はじめて海の向こうの金銀の国、高麗、百済、新羅、任那のの国々を胎中誉田天皇にお授けになりました。ゆえに大后息長足姫尊、大臣武内宿禰と、国ごとにはじめて屯倉(みやけ)をおいて、海の向こうの蕃屏(ばんき)として今日に至っています。やはり、もし他国に譲り渡してしてしまえば、もとの境がなくなってしまい、どうやって取り戻すことができましょうか。」・・・この物部麁鹿火(あらかひ)の妻(夫人)の言う言葉を借りれば、おおよそ任那は住吉の大神が応神に国を譲ったことになるのです。応神は瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)、結婚した相手は住吉の大神の三人の娘のうち、真ん中の姫です。名を木花佐久夜比賣とも、多岐都比売命(タギツヒメノミコト)、とも豊玉姫とも言われ、この女神ですが、異なる実家の氏(うじ)をもっていましたから、それぞれ宗族を率いていました。こうして、宗像大社では沖津宮・沖ノ島、中津宮と祖神ごと祭宮が分かれるのです。『日本書紀』本文・第一の一書・第三の一書では、2番目に化生した多岐都比売命(タギツヒメノミコト)、中津宮に祀られ、宇佐神宮では本殿二之御殿(中央)に比売大神として祀られています。住吉の大神とは辰国の大王で、馬韓の月支氏国、いまの牙山(あさん)に宮処をもち、日本書紀では胸形の宮とします。これが古事記の芦原中津國平定、「大国主の国譲り」の段の真相です。ここでの大国主は大山津見神(おおやまつみのかみ)となります。別に胸形の大神、猿田毘古神という名前をお持ちです。伊勢神宮・外宮の御祭神 豊受大御神は大山津見神の長女です。三女伸の長女、辺津宮の「市杵島姫神(イチキシマヒメ)」にあたり、古事記では下照姫の別名です。天照大神の長男、少名毘古那神と結ばれています。豊受大御神は天照大神とは嫁と姑の関係です。
*宗族(同じ祖先の名を継承する一族)

*神功皇后胎中で新羅遠征したことから「胎中天皇」と言われた。応神天皇のことで別称は誉田別尊(ほむたわけのみこと)。
*大后息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)は神功皇后を指します。
*住吉の大神は大伴連金村です。しかし、住吉とは摂津国一之宮住吉大社があった所とは違うと考えられます。そして誉田(ほむた)天皇とは応神天皇の別称であることが判明します。「病気だといって、宣(みことのり)を伝えないようにしなさい。」と知恵を吹き込んだのは麁鹿火(あらかひ)の妻だったということが書かれています。(妻の名不詳)


国土交通省 近畿地方整備局》より



古墳時代の紀ノ川。紀の水門が岸壁港で、大型外航船の入港する波止場だった。大和川からは飛鳥への物量運搬はほとんどなく、大和への物流の拠点だったと推測できます。


現在の紀ノ川の流れ。おそらく河川工事によってストレートに水流を海に流れるように堤防を築いたのだろう。もちろん洪水の被害を免れるためだった。明治期に17回の洪水があり、おもに台風による被害で江戸時代から記録がのこされている。宝永2年(1705)6月16日の岩出横渡しによる上新出一本松から根来寺に向かう40名余の渡し舟が転覆し15名は助かり残りの人は水死し、その巡禮墓が満屋にあった、という記録がある。《紀の川の歴史 紀の川の風水害
《継体天皇》元年九月乙亥朔己卯、幸難波祝津宮、大伴大連金村・許勢臣稻持(いなもち)・物部大連尾輿(おこし)等從焉。天皇問諸臣曰「幾許軍卒、伐得新羅。」物部大連尾輿等奏曰「少許軍卒、不可易征。
*『先代旧事本紀』「天孫本紀」によれば宣化天皇の代に大連、物部奈洗(物部奈洗大連)。三公という概念からすると蘇我稲目(そがのいなめ)が消され、許勢臣稻持(いなもち)に替えられた可能性が高いと思われます。
男大迹天皇(継体)六年、百濟遣使表請任那上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁四縣、大伴大連金村輙依表請許賜所求。由是、新羅怨曠積年、不可輕爾而伐。
*物部大連尾輿(おこし)物部荒山の子。尾輿(おこし)の子に物部守屋。
於是、大伴大連金村、居住吉宅、稱疾不朝。天皇、遣靑海夫人勾子、慰問慇懃。大連怖謝曰「臣所疾者、非餘事也。今諸臣等謂臣滅任那。故恐怖不朝耳。」乃以鞍馬贈使、厚相資敬。」
『古事記』では袁本杼命(をほどのみこと)と記される。
さて、大伴の金村は欽明天皇が新羅を撃つことを提案したとき、物部大連尾輿から、「任那四県を百済の要求に大伴金村がたやすく返事をしてしまい、任那四県を譲渡してしまった。これによって新羅が怒ってしまった。今となっては新羅を攻撃するのは難しいことになった。金村の策は間違いだったと非難した。「諸臣みなが私を任那を滅ぼしたと言っているので畏まって朝廷に参上できません。」、こうして住吉の居宅に閉じこもって朝廷に出向かなかった。天皇は病気かと思われ靑海夫人勾子を慰問に向かわせた。青海夫人は天皇に真情をそのままお伝えした。天皇は「あなたは長い間忠誠を尽くしてきました。ゆえに衆人の言うことなどで憂いてはなりませんよ。」と、天皇は罪を問いませんでした。そればかりかますます恵みを賜い弥栄を深めました。
 ここでは、金村が朝廷で窮地にあり、ある意味実権が失われたことを意味するでしょう。物部大連尾輿は任那(加羅)の権益が主な関心で百済と新羅の抗争に巻き込まれたくないという姿勢が見て取れます。物部連毛野臣(けなのおみ)が安羅で任那を助けて、新羅からも百済からも防衛していたのですが、他方、金村は百済に任那四県を与えるみかえりに、任那の独立を百済を保証させようとしたのです。これは、しかし任那の王(干岐)から見れば金村にかすめ取られたように見えたのでしょうか。
磐井は筑紫に攻め来った毛野臣のにたいして、「いまこそ使者であろうと、昔はわたしの戦友であった。肩を擦り寄せ、肘を擦り合わせながら、一つの器を共にして同じものを食べていたじゃないか。どうしてそんなにたやすく使いとなって、わたしをお前の前に従わせようとするのか?
」かつては同じ軍営で互いに訓練を受け、同じ食事を食べたではないか。お前と私は一緒に敵と戦った仲ではないか!磐井の気迫に毛野臣は立ち往生してしまった。そこで天皇は大伴大連金村・物部大連麁鹿火(あらかひ)・許勢大臣男人の三人にあらたな将に誰を送ったらよいかと尋ねた。ここに、大村金村がいう。兵事において正直・仁勇によく通じている麁鹿火(あらかひ)意外にないでしょう。」という。天皇はそれを許した。金村にとっては嫡男である磐を討伐する事態に父の心境はいくばかりか推し量ることこともできない。
《継体天皇廿一年夏六月》天皇、詔大伴大連金村・物部大連麁鹿火(あらかひ)・許勢大臣男人等曰「筑紫磐井、反掩、有西戎之地。今誰可將者。」大伴大連等僉曰「正直・仁勇・通於兵事、今無出於麁鹿火(あらかひ)右。」天皇曰、可。

天皇は大伴大連金村・物部大連麁鹿火(あらかひ)・許勢大臣男人の三人に命じて曰く、筑紫の磐井が西戎之地にあってそむいていることを隠している。いま、誰が率いて将軍とすべきだろうか。大伴大連等はみなことごく、麁鹿火(あらかひ)のほかに出るものはないでしょう、と。天皇は、よしとなされた。


1)任那四県割譲の地域: 任那の西部、赤い太線ラインです。継体6年四県割譲は西暦516年と推定します。すると継体の即位年が501年になります。古事記では「天皇のご寿命は43歳」と書いています。日本書紀が継体が57歳で即位と記すのは100%怪しくなります。継体天皇は25年冬11月に葬るとありますが、これは百濟本紀をとっているので、ほんとうは28年に亡くなられたのだと日本書紀は注を入れています。仮に紀28年没だとします。在位年は(501年~528年)、生年は(485-528年)になります。百済の第25代武寧王(在位501ー523年)とだいたい重なってきます。こうして、。四県割譲は、百済武寧王に対して行なわれたと考えなければなりません。国宝「隅田八幡神社人物画像鏡」の銘文を「癸未年(503年)八月某日、大王10年、男大迹が意柴沙加宮にいたときの斯麻がこの鏡が作った、と解すべき」と、私が考えたことにもだいたい整合してまいります。(西暦年を60で割って23が余る年が癸未の年となります。)武寧王が継体天皇に贈ったものということは外れないのです。それは、実在した(大王)ということで、史実上、継体天皇、天皇号は遡及して付けられた諡号であることはもちろんですが架空ではないということになります。
2任那の最大領域:《欽明天皇 元年夏四月》聖明王曰「昔我先祖速古王・貴首王之世、安羅・加羅・卓淳旱岐等、初遣使相通厚結親好」
貴首王之世とは374年-385年ですから、任那の初期の領域は上の図で”370年ごろ”のラインが任那の最大領域です。


《継体天皇》廿一年夏六月壬辰朔甲午近江毛野臣率衆六萬、欲往任那爲復興建新羅所破南加羅・喙己呑而合任那。於是、筑紫國造磐井、陰謨叛逆、猶預經年、恐事難成、恆伺間隙。新羅知是、密行貨賂于磐井所而勸防遏毛野臣軍。
「継体天皇21年夏六月壬辰朔甲午の日、近江の毛野臣(ケナノオミ)は六万の兵を率いて、新羅に奪われた南加羅(アリヒシノカラ)・喙己呑(トクコトン)を建てて、任那に復興することを願って筑紫に到着しました。ところが磐井は、弟の狭手彦を渡韓させて自らは筑紫に留まり密かに王のように振舞っていました。毛野臣にとってたとえ幼いころからの友人であっても許せなかったに違いありません。筑紫國みやつこの磐井は陰ではかりごとを企て反逆しました。そうこうしているうちに越年して、毛野臣は遠征が成功することが難しくなることを恐れました。これを知った新羅はすきを伺って財物をひそかに贈って毛野臣軍を筑紫にとどめておくように勧誘しました。
《継体天皇》17年夏5月に「百済の王武寧薨せぬ」とあり、武寧王が薨去しました、この年は西暦では523年。

於是、磐井、掩據火豐二國、勿使修職、外邀海路、誘致高麗・百濟・新羅・任那等國年貢職船、內遮遣任那毛野臣軍、亂語揚言曰「今爲使者、昔爲吾伴、摩肩觸肘、共器同食。安得率爾爲使、俾余自伏儞前。」遂戰而不受、驕而自矜。是以、毛野臣乃見防遏、中途淹滯。天皇、詔大伴大連金村・物部大連麁鹿火(あらかひ)・許勢大臣男人等曰「筑紫磐井、反掩、有西戎之地。今誰可將者。」大伴大連等僉曰「正直・仁勇・通於兵事、今無出於麁鹿火(あらかひ)右。」天皇曰、可。

継体天皇22年(528年)磐井は火国(のちの肥前国・肥後国)と豊国(のちの豊前国・豊後国)を抑えて海路を遮断し、また高句麗・百済・新羅・任那の朝貢船を誘致し、毛野臣の軍の渡海を遮りました。前段は磐井が毛野臣と対立した原因が書かれます。こうして、毛野臣を助けるために、朝廷から征討のため派遣されたのが、宗主の物部麁鹿火(あらかひ)のです。磐井の軍と交戦し、激しい戦いの末に麁鹿火(あらかひ)に斬られたという。古事記では「物部荒甲の大連、大伴の金村のの連二人を遣わして磐井を殺したまいき」とし、筑紫に金村も同行したとします。
『筑後国風土記』逸文(『釈日本紀』所引)によると、上妻県(かみつやめのあがた:現在の福岡県八女郡東北部)の役所の南2里(約1キロメートル)に筑紫君磐井の墓があったとします。その墓について詳述した後で古老の伝えとして、雄大迹天皇(継体天皇)の御世に磐井は強い勢力を有して生前に墓を作ったが、俄に官軍が進発し攻めようとしたため、勝ち目のないことを悟って豊前国上膳県(上毛郡:現在の福岡県築上郡南部)へ逃げて身を隠した。そしてこれに怒った官軍は石人・石馬を壊したと伝えます。
そこで後段で、じつは毛野臣は物部麁鹿火(あらかひ)の子であるとすると、金村が麁鹿火(あらかひ)に自分の子を征討することに天皇の前で合意したことになります。毛野臣を助けるのが父である麁鹿火(あらかひ)なら右に出るものがないのは当然です。磐井は大伴氏、その名は大伴磐です。一方、毛野臣は物部麁鹿火(あらかひ)の子である可能性が高いのです。そもそもが二人の大連の任那防衛の路線が違っていたのです。金森は百済に通じ、任那四県を割譲したのです。麁鹿火(あらかひ)は百済も新羅も信じなかったのです。天皇は麁鹿火(あらかひ)の方針をよしとしたのです。
百済は聖王になり、その王3年(525年)新羅と国交を結びます。新羅と同盟した理由は高句麗との戦が急を要していたのですが、百済は貴須王以来の任那との長年の縁を絶ちました。のらりくらりと会議するばかりで援軍をだしません。(口先だけ美辞麗句を言っていたのです、今でいう二枚舌外交ですね。百濟は毛野臣を無視します。)新羅の任那攻撃が激しくなったのは当然です。新羅と国境を接する喙己呑は新羅に毎年のように攻められ降伏し、南加羅は戦の準備もできず、卓淳国は国人二分していて王は自ら新羅に内応して殺されます。527年毛野臣は6万の兵を率いて南加羅,喙己呑 (とくことん) の二国を新羅から奪い返しました。
《継体天皇 元年》九月に、大伴金村大連を以て大連とし、許勢男人大臣をもって大臣とし、物部麁鹿火(あらかひ)を以て大連とする。」欽明天皇には、聖明王曰く、「昔わが先祖速古王・貴須王(近肖古王(346-375)と近九首王)の世に安羅・加羅・卓淳の早岐(かんき・王のこと)ら初めて使いを相交わし修好を結んだ、もって子弟となりて、常に盛んになることを願う。しかるに新羅に欺かれて天皇をお怒りなさしめて、任那をして恨みしむるは私の誤りである。」とかなんとか言ってますが、新羅とちゃっかり講和していました。

一方、百済に戻らず、または戻れずに九州に土着した百済の武将たちは、鷹の羽紋(たかのはもん)をもった氏族、阿蘇氏、菊池氏などで、九州各地に拡散しました。阿蘇神社、国造神社(こくぞうじんじゃ)、草部吉見神社(くさかべよしみ・日本三大下り宮の一つ)などを奉際した氏族です。阿蘇氏は350余分家、菊池氏は120余分家に達しています。彼らは、百済が羅唐に滅ぼされてからは本国の滅亡といううきめにあったと考えられます。落人になった彼らは天武朝に忠誠を誓って生き延びたのでしょう。東国武将だけだった防人(さきもり)が、九州の武将に入れ替わった時、ようやく身分や地位が保証されたのです。




 HOME-TOPへ
NO963_55・・・・


_