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工事中ーーーー2020/04.03




百済第30代武王(=余璋)在位600年-641年
諱は璋、『三国遺事』王暦には武康、献丙の別名が伝わっている。『隋書』には余(徐)璋の名で現れる。
武王には、宝公主という娘とその弟があった。この宝公主が日本書記にいう宝皇女=皇極(斉明)天皇であり、その同母弟が孝徳天皇である。
これの裏をとり、乙巳の変から白村江の戦いまでの歴史を再構築する目的で以下詳述する。
武王、602年8月新羅の阿莫山城(全羅北道南原市)を包囲したが、新羅真平王に敗れる。聖王の報復戦ならず。
隋の煬帝が高句麗を攻めようとしたとき、百済は南から高句麗を攻撃する陽動作戦を提案した。煬帝はこれをたいへん喜んだ。煬帝が100万ともいわれる大軍を出発させると、「どちらが勝つかわからない、ここはしばらく様子をみよう。」と、二股をかけて、国境に兵を送っただけで戦わなかった。国と国との約束は守らない。嘘をつくのは息を吸うことの如し。煬帝はひどく怒った。日本でも、推古天皇のとき中臣連と田中臣が対外政策で口論をした。田中臣は言った。「百済はこれタ反覆しき国なり。道の間すらもなを欺く。おおよそ彼のもうすところ、皆あらず。ゆえに、百済につくべからず。」と中臣連が言う「新羅を討ち、百済に付こう」という中臣連に反論する。なんといっても、タ反覆しき国、朝に言っていたことが夕方には覆っているということだろうか、また、道すがらの間でもなおウソをつくというのが、よく分かっている臣もいたのだなあと思われて、とても面白い。
612年高句麗/乙支文徳(ウルチムンドク)将軍の薩水大捷、隋に大勝利。
唐が興ると621年に朝貢を果たし、624年に〈帯方郡王・百済王〉に封される。

伝説では新羅真平王の三女・善花(そんふぁ)姫とのロマンス、薯童ホ(ドン)説話の持ち主。
維基百科,自由的百科全書 善花公主(선화공주):朝鮮半島三國時代的新羅國公主,為新羅真平王的第三個女兒,又稱三公主。「善花公主(ソンファコンジュ):朝鮮半島三国時代の新羅国の王女、新羅の真平王(チンピョン)の三番目の娘である。三公主(サムコンジュ)とも称される。
善花公主(王女)は王宮を追放されたことから廃位された。このために『三国史記』からは削除されたのだろう。正史にはまったく記されていない。だが、13世紀末に高麗の高僧一然(1206年 - 1289年)によって書かれた私撰の史書『三国遺事』に記されている。
『三国遺事』では、新羅の真平(ちょんぴょん)王に男子なく、一女は徳曼(とんまん)、二女は天明(ちょんみょん)、三女が善花(そんふぁ)と三人のお姫様がおられた。徳曼(とんまん)王女は後の善徳女王(そんどんにょわん)で、善花はその末妹になる。金春秋(きむちゅんじゅ)は天明(ちょんみょん)の子供で真骨(ちんごる)であったが、父王が廃位されたために聖骨(そんごる)に落ち、王になることができなかった。しかし、後に推戴されて共立王になり三国統一を成し遂げる。善花姫は三国史記には書かれないため史実上重要視されていないばかりか存在すら疑われていた。しかし、日本の歴史にも関係があり、実はとんでもなく重要なことなのであるが、善花姫が物語にしか残っていないのは残念である。
薯童(ソドン)説話とは武王と善花姫の恋の物語である。

薯童ホ(ドン)説話
「百済国の第30代の王様は武王という者である。彼の母は寡婦で都の 南池 の近辺に家を建てて住んでいた。そなんな中で池の龍と交わって子供が生まれた。いつも 薯いもを掘って売り、 暮 らしを立てていたので薯童(いもわらべ) と呼ばるようになった。
その頃、新羅国の都に 真平王の第三王女で 善花姫 というとても美しいお姫様が住んでいた。薯童はその噂を聞いて、髪を剃り坊主の姿で都に上り、「善花姫様はこっそりと嫁入りなされて、夜には薯童様と交わって去る」という 童謡を作って子供たちに歌わせた。その童謡が王様の耳に入り、善花姫は遠く離れた所に流されることになり、都を発った。
善花姫は旅の途中でやってきた薯童(そどん)と出会い、あの童謡が神のお告げであったのだと信じ、一緒に百済国に辿り着き、一緒に暮らすことになった。そこで善花姫が持参した黄金を取り出して薯童に与えると、彼は黄金の値打ちが分からず、「これは何ですか」といった。善花姫は、「これは黄金です。これだけあれば百年の富でさえ大丈夫です。」というと、薯童は笑いながら「こんなものなら小さい時から薯を掘っていた所にいくらでもある」と言った。二人がそこへ行ってみると、たくさんの黄金があった。その黄金を真平王に贈ると王はたいへん喜んだ。ある日、薯童が百済王になったあと)王様が夫人(善花王后)を連れて獅子寺に参る途中、龍華山の下の大きい池から弥勒仏三尊が浮 かび上がってきた。〔弥勒仏三尊の出現〕 王様夫妻はそこに寺を建立することを発願し、知命法師に相談すると、法師は神秘な力で一夜のうちに池を埋め平地 にしてしまった。そこに弥勒三尊を本尊とし、会殿、塔、廡廊を各々三カ所に建て寺名を弥勒寺と名付けた。新羅国の真平王がいろいろな工人を送ってきて助けてくれた。」
 薯童ホ(ドン)説話は日本に伝搬し、そっくりな説話が大分県で伝承されています。
炭焼小五郎物語(炭焼長者説話)
「炭焼長者(真名野長者)説話は日本全国に広く伝承されているが、その伝承の故郷は大分県三重町。
 豊後国(三重町)の玉田の里に子供が生れ、幼き名を藤治と言い、三歳に父、七歳に母と死に別れ、孤児とな
る。炭焼き又五郎に育てられ、その跡を継いで名を改め炭焼小五郎と呼ばれるようになる。 〔炭焼小五郎誕生〕
 その頃、奈良の都に大臣の娘で玉津姫というとても美しい姫様が住んでいたが、顔に黒い痣が出来て結婚する相
手が無く嘆き悲しんでいた。三輪明神に祈ると、「汝が夫有りと雖も、遠く山海を隔つ。是より西国、豊後三江の
山里に炭焼きの小五郎という者なり。吾が名も知らざる山賤なり。然れども此の者と嫁せば富貴自在にて、長者と
なるべし」というお告げがある。  〔神のお告げ〕
 玉津姫は炭焼小五郎を訪ね、都を出て豊後に下り、神の導きによって三重町に着く。 〔姫君の下向〕
 玉津姫は炭焼小五郎と出会い、神のお告げで都からはるばる下った話をすると、炭焼小五郎は困惑する。そこで
玉津姫が持参した黄金を取り出して炭焼小五郎に与えて買い物に行かすと彼は黄金の値打ちが分からなく、池で遊
んでいる鴛鴦に投げつけて手ぶらで帰ってきた。玉津姫が「あれは黄金という大事な宝物です」というと炭焼小五
郎は笑いながら、「こんなものは池の周りや炭焼き窯にいくらでもある」という。二人が池に行ってみると、池に
はたくさんの黄金があった。 〔結婚・黄金発見〕
 その時、池の中から金色の亀が浮かび上がってきた。亀は、「あなた方夫婦にこの宝を差し上げよう」と言っ
て、金色の鴛鴦に姿を変え、西をさして飛び去った。神のお告げの通りその池で顔を洗うと姫は黒痣がとれ美人と
なり、小五郎は美男子と生れ変わった。 〔亀の出現〕
 小五郎と玉津姫は黄金を集め、あっという間に長者となる。世間の人は小五郎を真名野長者と言うようになる。
〔長者〕
 長者夫婦は山王神のお告げ通りきれいな女の子をもうけ、般若姫と名づける。その翌年、百済の船頭・龍伯が一
寸八分の黄金の千手観音を持ってきて般若姫の守り本尊とし差し上げる。長者夫婦は唐国の天台山に黄金三万両を
送った。 〔黄金送り〕
 天台山では百済の僧・蓮城法師に薬師観音の像を持たせて日本に送り、長者は薬師観音を迎え喜んで朝夕祈念す
る。(伝説では蓮城寺<内山観音>を建立する) 〔蓮城法師の来朝〕」
大分県の「真名野長者伝説・物語」と韓国:金賛會著より抜粋


父の真平王が領土を拡張し、とうとう漢江の河南に風穴をあけて東海に進出したから、百済も坐していられなくなった。
616年隋が唐に滅ぼされると手のひらをかえして626年に高句麗と和親を結び、こんどは盛んに新羅を攻め立てるようになった。善花王后の宮中の異変はこうした最中にあったのだろう。
2009年1月14日に弥勒寺址石塔(ミルクサソッタップ))の解体修理によって発見された金製舎利奉安記に、「百済第30代王・武王(ムワン)の沙宅后が富を喜捨して寺を建てた」と書かれていた。沙宅后は佐平沙宅積徳の娘である。弥勒寺が完成したときにはすでに善花は王后ではなくなっていた。佐平沙宅をはじめとする反新羅派のクーデターによって善花は廃位させられた。が、殺されることはなく離宮に幽閉されていた。
 そんな最中に、632年、弥勒寺(全羅北道益山市)を建立した。この寺の建立は新羅の陰謀と曲解されて、善花姫は家臣の讒言によって幽閉されてしまったという信ぴょう性が高まった。新羅の真平王が工人を送って建立を助けたのは善花が后であったからだ。善花姫の息子たちは母が亡くなり、義慈王(うぃじゃ)が立つと、さっそく追放された。

日本書紀 巻第二十四 皇極天皇紀
元年十一月:「百濟弔使傔人等言、去年十一月、大佐平智積卒。又百濟使人擲崐崘使於海裏。今年正月、國主母薨。又弟王子兒翹岐及其母妹女子四人、內佐平岐味、有高名之人卌餘、被放於嶋。
「百済の弔いの使者に従う者らが言った。「去年の11月、大佐平(だいさへい)智積(チジョン)が死んだ。また、百済の使人が崐崘(こんろん・西域の国)の使者を海に投げ捨てた。今年の正月に國主の母が亡くなり、また(皇極の同母)弟王子の兒翹岐(アギョンギ)およびその母の義妹四人、内佐平岐味(キミ)など名高い人四十余人を島に追放しました。」

書記「皇極紀・元年条 ここに、遠島されたのは、ソンファ姫の子、兒翹岐である。ここに母善花王后の王子・・・と記されている。母の妹、冬服妹も含めて重臣を、ともども四十余人を島に追放した。追放令の数か月後に大使として倭国に勅使として派遣することに特赦した。これが義慈王二年二月に死罪以外はみな許したという記述が三国史記に残る。追放の処罰を日本に勅使(サシン)に変更したのである。重臣の内佐平とは王室を補佐する人事を担当する最高官職である。その高官ら40余人、家族もろともとなると少なくとも300人を超す大集団だったろう。翹岐は日本にやってきて2年後、皇極天皇が史上初の譲位によって孝徳天皇として即位する。驚くことに乙巳の変((645年)の2日後であったという。と書記にある軽皇子は中大兄の皇子の叔父にあたるので、翹岐こそが軽皇子の別名なのである。
「天豐財重日足姬天皇四年六月庚戌、天豐財重日足姬天皇、思欲傳位於中大兄而詔曰、云々。中大兄、退語於中臣鎌子連。中臣鎌子連議曰、古人大兄、殿下之兄也。輕皇子、殿下之舅也。方今、古人大兄在而殿下陟天皇位、便違人弟恭遜之心。且立舅以答民望、不亦可乎。於是、中大兄深嘉厥議、密以奏聞。天豐財重日足姬天皇、授璽綬禪位。策曰、咨、爾輕皇子、云々。輕皇子、再三固辭、轉讓於古人大兄更名、古人大市皇子。曰、大兄命、是昔天皇所生而又年長。以斯二理、可居天位。於是、古人大兄、避座逡巡、拱手辭曰。奉順天皇聖旨、何勞推讓於臣、臣願出家、入于吉野、勤修佛道、奉祐天皇。辭訖、解所佩刀、投擲於地。亦命帳內、皆令解刀。卽自詣於法興寺佛殿與塔間、剔除髯髮、披着袈裟。
由是、輕皇子、不得固辭、升壇卽祚。于時、大伴長德字馬飼。連、帶金靫、立於壇右。犬上建部君、帶金靫、立於壇左。百官臣連國造伴造百八十部、羅列匝拜。是日、奉號於豐財天皇曰皇祖母尊、以中大兄爲皇太子。」

皇極天皇は中大兄皇子に譲位したいと詔(みことのり)を述べられたが中大兄はいったん退出すると中臣の鎌子連と密談しました。「古人大兄は、あなたの兄です。軽皇子は殿下の舅(しゅうと)です。古人大兄を天皇の位にのぼると、あなたは弟としてつつしみ、したがふ心を持つと後世に伝えられるでしょう。舅をもって天皇にすれば民衆の願いに答えたというになるでしょう。どちらにしても問題はないでしょう。これはすべて鎌足の入れ知恵です。
中大兄皇子は皇太子でありながら、どうして自らの即位を避けたのででしょう。乙巳の変の後遺症でまだ王位につくのは早い、かといって弟の古人大兄(後の天武天皇)にするのも嫌だ。弟の立場では謀反でも起こさない限り復権することができない。そこで、ひとまず叔父の軽皇子を立てておこう。こんな談合が中大兄と鎌足の間でなされたのでしょう。古人大兄は吉野に行き僧侶になりたいと即位を固辞します。蘇我の入鹿を殺したことを許せないという諸臣が古人皇子について吉野に下野したのです。つまり、壬申の乱の伏線ができていたのです。鎌足(藤原)包囲網がすでにできていたのです。実権を握り続けたのは中大兄皇子ですが、舅である翹岐(ぎょうき)にはかなり手こずったようです。翹岐すでに46歳、子を亡くす。書記は子の喪は親族が一切関わらないというのが百済、新羅の風俗であると云う。両親と兄弟親族が子の喪に望まなかった。日本書紀は慈悲なく、獣と何ら異なることはない・・・と書き、翹岐と妻、その一族を珍しく侮辱している。書記に書かれている謎を呼ぶ一文ではあるが、翹岐が異邦人であることを如実にしめしている。孝徳天皇は浪速に遷宮、難波の馬飼(うまかい)、犬上建部(いぬかみのたけべ)など有力氏族をすでに従わせていた。この馬飼(うまかい)の難波の民が入れ墨をしているという記述が残るが、入れ墨の記録としては史上最後の記述になるだろう。
翹岐が、勅使(サシン)として日本に来たときは妻子共々渡来している。子供の弔いに夫婦とも出ず冷淡で、犬畜生のようだと紀は書くからである。だが、母が弥勒寺建立に功があったように、この天皇はものすごく仏教に熱心で徳も高かったようである。
孝徳天皇は在位の間、仏教を広めただけでなく、民に公平な善政を実行している。あたかも行基と同一人物であるかの如くである。こうしたことで、中大兄、仏教推進派の蘇我氏を殺いだばかりなのに、この浮世離れした叔父に呆れてのことか、孝徳天皇を捨てて倭飛鳥河辺行宮に還ってしまう。
日本書紀文中より仏教を実践した記述の要点は以下のようである。
その1 墳墓を作ることは民を貧しくする。愚か者のすることでであり、葬りを隠せと 述べた。宝物を納棺するなど旧い墓制を改めようとした。
その2 流人や囚人の恩赦を国司に命じた
その3、2100余の僧侶、尼僧に一切経を読ませた。
その4 2700の灯明を宮中にともして高僧に経を読ませた。
その5 36の仏像を作った。また、命じて千仏の像や多くの仏菩薩の像を作った。
その6 221人の学問僧らを唐に送った。唐に派遣したのは一回だけではない。
その7 聖主(ひじり)の天皇(すめらみこと)と讃える表現がある。
その8 田を百姓に公平に分け与えた。(公地公民制・国郡制度・班田収授の法)(租・庸・調)など大化の改新である。貴族、豪族の冊封権を朝廷に返上することになり、貴族の反乱を生んだ。藤原氏排除という壬申の乱の伏線がここにあるのである。兵は紀伊(吉野)、近江、尾張、東国坂東などから続々と集結した・・・みな物部・大伴・蘇我をはじめとする旧氏族の軍勢である。)
その9  寺を作ることができなければ、朕は皆助けて作らせると言い、寺院の建設を奨励した。
その10 無量寿経を講話させた。
その11 処々に大道を作った。浪速大道は幅員は約23m~場所によっては40m以上もあった。現在の高速道路より幅の広い直線の道なので物議を呼んでいる。)
その12 京都の宇治橋を造るなど土木事業を盛んに行った。
その13 遣唐使を出した。道昭、浪速の出自で653-660 唐で三蔵法師に師事。この凡そ7年間。)
その14 七色の冠位13階を決めた。〔ななつのいろのとをあまりみしな之冠〕
難波で花を咲かせた聖徳というにふさわしい人物だが、実権は中大兄皇子の手にあった。641年武王が崩御。645年、任那国を以て百済に属け賜ふ。孝徳天皇大化元年の記事。ここで読めることがある。乙巳の変は蘇我氏の持つ任那の朝貢利権を奪い、任那を百済に併合するためだったのだ。




善花王女は新羅の真平王と摩耶夫人の娘で長女・善德女王と次女・天明王女に次ぐ末の妹である。

武王の寡婦で池の三国史記では義慈王は武王の元子《ウォンジャ》と書かれるが、出生(母)が不明である。元子とは長子である意味で立太子に予定された王子という意味はない。つまり、いつ世子になったのか不明である。正妃を貶めて廃位させ、その後に王后になった佐平沙宅氏の娘が産んだ子であろう。沙氏は百済八姓の一つで天下第一の大姓だ。おそらく義慈が庶子だったことが隠されたのだろう。

 朝廷の政変で沙宅氏が権力を掌握(外戚政治)した。沙宅積徳氏の娘の名前は弥勒寺(みるくさ)址(そ)石塔(たっぷ)の解体修理によって発見された金製舎利奉安記に「佐平沙宅積徳の娘が富を喜捨して寺を建てた」とあった。正妃であった善花妃が消されたのは、反新羅の門閥勢力のクーデターのせいだ。門閥制度の最大の欠点は姓氏に高低貴賤の区別を厳しく制度的に設けることである。妃は養女にしないと姓が変わらない。魏晋南北朝の時代の祖禰の業績で南朝の陳代まで十七代にもわたって代々高官についた王氏は一例にすぎないが、大姓豪族の子弟はその看板によって無能であっても手厚い俸禄を得ることができた。儒教とはこうした社会体制を正当化し、祖先崇拝と氏姓の序列のバックボーンなのである。

さて、皇極天皇とはあめとよたからいかしひたらしひめという、”あめ”のがついた和風諡号の天皇であり、天が冠となる諡号がなにを意味しているか、また、天がなり諡号とどう区別できるのか論じた説はありません。
諡号のなかに別(わけ)と禰子(ねこ)を抽出して別王朝と禰子王朝の二系統の王朝があったと考え方はあるが、”あめ”のある王朝とない王朝の違いについてはまだ聞いたことがないのです。は継体を意図区切りとして王統が断絶していると考えていますが、継体以後、もう一度断絶していると考えています。
それは欽明天皇です。継体天皇の血統ではないと考えるのは一つには、欽明天皇の諡号にあめがあるからです。
「あめくにおしひらきひろにはのすめらみこと」、下の図表で確認できます。どうですか、あめの・・・という天皇諡号は、欽明、皇極、孝徳、天智、天武と4名です。
継体の後は安閑が子とされますが、安閑には子供がいません。つぎの宣化と欽明は継体の弟とされます。

天のは天孫直系を意味することは、古事記神代で明らかだが、なぜ7世紀中の諡号に再び登場しているかというと、その裏をとらなければならない。その事実を探ると、皇極は宝のイニシャルがあるように、武王と善花の子なのだった。百済王族の中でも宗室にはいる身分である。また、豊の文字が、皇極、孝徳、斉明まであって、天智にはない。皇極、孝徳は母を同じくする姉弟であり、新羅の金春秋とは従妹(いとこ)になる。(斉明は皇極の重祚)


 羅唐に敗れ、洛陽に連行された武王の子であるが義慈王とは母親が違うことになる。そうして、白村江の戦い(663年)を見る必要があるだろう

孝徳天皇

漢風諡号 漢風諡号
よみ
和風諡号
(日本書紀)
和風諡号
よみ

(尊称)
諱(尊称)
よみ
西暦 在歴 和暦 西暦 年号 和暦
 26  継体  けいたい 男大迹   おおど                        
 27 安閑   あんかん
子なし
広国押武金日   ひろくにおしたけかなひ   継体 >
目子郎女
                   
 28 宣化   せんけ
継体の子
武小広国押盾   ひろくにおしたけかなひ   継体> 
目子郎女
                   
29  欽明   きんめい
継体の子・宣化の異母弟
 国排開広庭  あめくにおしはらきひろにわ    継体>手白髪命    32y                
30   敏達  びだつ
欽明の子
 渟中倉太珠敷  ぬなくらのふとたましき   欽明 >
石比賣命
   14                
31  用明   ようめい
欽明の子・異母弟
橘豊日
 たちばなのとよ    欽明>
堅塩媛
   3                
 32 崇峻   すいしゅん
欽明の子・異母弟
泊瀬部
 はつせべ    欽明>
小姉君
篤敬三寶
三宝を厚く敬った
   4                
33 推古 すいこ
《女性》
欽明の子・崇峻の同母妹
豊御食炊屋姫
とよみけかしきやひめ 額田部
ぬかたべ

欽明>
手白髪命
592 37y 12 8 628 3 7
34 舒明 じょめい 息長足日広額 おきながたらしひひろぬか 田村
たむら
彦人大兄皇子>糠手媛皇子 629 13y 1 4 641 10 9
35 皇極 こうぎょく
《女性》
豊財重日足姫 あめとよたから.いかし,ひ,たらしひめのすめらみこと
たから
茅渟王>
吉備姫王
雨乞い・大雲経を読ましむ
642 4y 1 15 645 大化 1 6 14
36 孝徳 こうとく
皇極の同母弟
万豊日 あめよろづ,とよ,ひのすめらみこと
かる
法興寺にて自ら袈裟を着る 645 10y 大化1 6 14 654 白雉 5 10 10
37 斉明 さいめい
皇極の重祚
豊財重日足姫 皇極と同じ。
たから
655 7y 1 3 661 7 24
38 天智 てんじ 命開 あめみことひらかすわけのすめらみこと 葛城
かつらぎ
668 4y 1 3 671 12 3
39 弘文 こうぶん 大友
おおとも
671 2y 12 5 672 7 23
40 天武 てんむ 渟中原瀛真人 あまのぬなはらおきのまひと 大海人
おおあま
673 14y 2 27 686 朱鳥 1 9 9
41 持統 じとう
《女性》
高天原広野姫 たかまのはらひろのひめ 讃良
ささら
當勤心奉佛法也
心底仏法に勤めた。
686 12y 朱鳥1 9 9 697 8 1
42 文武 もんむ 珂瑠
かる
697 8y 8 1 707 慶雲 4 6 15

和風諡号に「天」があるのは欽明、皇極(同:斉明)、孝徳、天智、天武の5人であることを確認してください。わたしは皇極(斉明)、孝徳が同母、天智と天武は異母兄弟ではないかと思えてなりません。もし天智と天武が皇極の子であれば、天が諡号に盛られることに違和感を感じます。
さて、日本の天皇という系譜はいつから始まったのだろうか?男大迹王、継体天皇が初代ということになるでしょう。国宝「隅田八幡神社人物画像鏡」和歌山県橋本市の隅田八幡神社が所蔵が癸未年(503年)継体天皇10年、男大迹が意柴沙加宮にいたとが明かすように、継体天皇が史実上、天皇といえる初の大王とわたしは思います。
推古天皇三十二年「夫れ仏法、西国より漢にいたりて、三百年を経て、すなわち伝えて百済国にいたりて、わづかに一百年になりぬ。しかるにわが王、日本のすめらみことの賢哲を聞きて、仏像および内典を貢上りて百歳にも満らず。」、皇極から100年?ほど前は推古天皇です。推古天皇にも「豊」の文字があります。豊は豊葦原が語源というころからすると、百済王純系を意味するのではないかと推理します。豊葦原の瑞穂の国 (とよあしはらのみずほのくに))が沸流百済の発祥地です。日本ではなく、これは仁川(インチョン)のことです。)弥鄒忽区(ミチュホル)は、大韓民国仁川広域市の区。「弥鄒忽」とは仁川の古名です。
また、「豊葦原中津國」は、ソウル(慰礼)のことです。

漢風諡号 漢風諡号
よみ
和風諡号
(日本書紀)
和風諡号
よみ
関係   諱(尊称)
よみ
西暦 年号 和暦 西暦 年号 和暦
1 神武 じんむ 神日本磐余彦 かむやまといわれびこ  
2 綏靖 すいぜい 神渟名川耳 かむぬなかわみみ  
3 安寧 あんねい 磯城津彦玉手看 しきつひこたまてみ  
4 懿徳 いとく 大日本彦耜友 おおやまとひこすきとも  
5 孝昭 こうしょう 観松彦香殖稲 みまつひこかえしね  
6 孝安 こうあん 日本足彦国押人 やまとたらしひこくにおしひと  
7 孝霊 こうれい 大日本根子彦太瓊 おおやまとねこひこふとに  
8 孝元 こうげん 大日本根子彦国牽 おおやまとねこひこくにくる  
9 開化 かいか 稚日本根子彦大日日 わかやまとねこひこおおひひ  
10 崇神 すじん 御間城入彦五十瓊殖 みまきいりびこいにえ  
11 垂仁 すいにん 活目入彦五十狭茅 いくめいりびこいさち  
12 景行 けいこう 大足彦忍代別 おおたらしひこおしろわけ  
13 成務 せいむ 稚足彦 わかたらしひこ  
14 仲哀 ちゅうあい 足仲彦 たらしなかつひこ  
15 応神 おうじん 誉田 ほんた  
16 仁徳 にんとく 大鷦鷯 おおさざき  
17 履中 りちゅう 去来穂別 いざほわけ 忍歯王  
18 反正 はんぜい 瑞歯別 みつはわけ 履中の弟  
19 允恭 いんぎょう 雄朝津間稚子宿禰 おあさづまわくごのすくね 履中の弟  
20 安康 あんこう 穴穂 あなほ 履中の弟  
21 雄略 ゆうりゃく 大泊瀬幼武 おおはつせわかたけ 履中の弟(大長谷王・古)  
22 清寧 せいねい 白髪武広国押稚日本根子 しらかのたけひろくにおしわかやまとねこ 雄略の子  
23 顕宗 けんぞう
子なし
弘計 をけ(袁祁王・古(をけのみこ))弟 履中の子  
24 仁賢 にんけん
億計 おけ(意祁王・古(おけのみこ)兄 履中の子  
25 武烈 ぶれつ
子なし
小泊瀬稚鷦鷯
おはつせのわかさざき 雄略の子  
26 継体 けいたい 男大迹 おおど 直近の血縁なし  
27 安閑 あんかん 広国押武金日 ひろくにおしたけかなひ 継体の子  
28 宣化 せんけ 武小広国押盾 たけをひろくにおしたて 継体の子  安閑の妹 仏法を信じなかった。
29 欽明 きんめい 天国排開広庭 あめくにおしはらきひろにわ 継体の子 安閑の兄弟 
30 敏達 びだつ 渟中倉太珠敷 ぬなくらのふとたましき
不信佛法而愛文史
仏法を信じないで文学や歴史を愛していた。古事記と異なる処
欽明の第二子  
31 用明 ようめい 橘豊日 たちばなのとよひ 欽明の第四子  敏達の兄弟
 32  崇峻  すしゅん  泊瀬部  はつせべ 欽明の第一二子   敏達の兄弟  仏教を信じ、神道も尊んだ

*(注)大王の兄弟が王位を継ぐ、継体から三代、欽明から三代は兄弟継承です。世代でいえば継体と欽明は二世代、親子の時代差しかありません。
▼日本書紀 巻第二十 敏達天皇紀
石姬皇后武小廣國押盾天皇女(むすめ)也。天皇、不信佛法而愛文史。(欽明)廿九年、立爲皇太子。(欽明)卅二年四月、天國排開廣庭(欽明)天皇崩。元年夏四月壬申朔甲戌、皇太子卽天皇位。尊皇后曰皇太后。是月、宮于百濟大井。以物部弓削守屋大連爲大連如故、以蘇我馬子宿禰爲大臣。五月壬寅朔....→ このページで合計8件ヒット
▼日本書紀 巻第二十一 用明天皇~崇峻天皇
第四子也、母曰堅鹽媛。天皇信佛法尊神道。十四年秋八月、渟中倉太珠敷天皇崩。九月甲寅朔戊午、天皇卽天皇位。宮於磐余、名曰池邊雙槻宮。以蘇我馬子宿禰爲大臣、物部弓削守屋連爲大連、並如故。壬申
、詔曰、云々。以酢香手姬皇女、拜伊勢神宮奉日....→ このページで合計1件ヒット
▼日本書紀 巻第二十二 推古天皇紀
成。 二曰。篤敬三寶。三寶者佛法僧也、則四生之終歸萬國之極宗。何世何人、非貴是法。人鮮尤惡、能教從之。其不歸三寶、何以直枉。 三曰。承詔必謹。君則天之、臣則地之。天覆地載、四時順行萬氣得通、地欲覆天則致壞耳。是以、君言臣承、上行下靡。....→ このページで合計3件ヒット
▼日本書紀 巻第二十五 孝徳天皇紀
豐財重日足姬天皇同母弟也。尊佛法、輕神道斮生國魂社樹之類、是也。爲人柔仁好儒。不擇貴賤、頻降恩勅。天豐財重日足姬天皇四年六月庚戌、天豐財重日足姬天皇、思欲傳位於中大兄而詔曰、云々。中大兄、退語於中臣鎌子連。中臣鎌子連議曰、古人大兄....→ このページで合計3件ヒット
▼日本書紀 巻第三十 持統天皇紀
問訊。朕世亦如之、故當勤心奉佛法也。」是日、授宮人位記。三月壬申朔甲戌、宴公卿於西廳。丙子、天皇觀公私馬於御苑。癸巳、詔曰「若有百姓弟爲兄見賣者、從良。若子爲父母見賣者、從賤。若准貸倍沒賤者、從良。其子雖配奴婢所生、亦皆從良。」夏....→ このページで合計1件ヒット


日本書紀だけが明かしていた皇極と孝徳天皇の出生の真実
天萬豐日天皇 孝德天皇 序文
「天萬豐日天皇、天豐財重日足姬天皇同母弟也。」

あめよろづ,とよ,ひの,すめらみこと”、とは孝德天皇の和風諡号です。
”あめ,とよ,たから.いかし,ひ,たらしひめの,すめらみこと”、とは皇極天皇の和風諡号です。
漢風諡号では、「孝徳天皇は皇極天皇の同母の弟なり」となります。

始めに、日本書紀がこの二人の天皇の母親は同じだといっていることを踏まえてください。以上を無視される方は、この後ろを読む必要はありません。

▼日本書紀巻第二十四 天豐財重日足姬天皇 皇極天皇紀 
元年春正月丁巳朔辛未、皇后卽天皇位。以蘇我臣蝦夷爲大臣如故。大臣兒入鹿更名鞍作。自執國政。威勝於父。由是、盜賊恐懾、路不拾遺。乙酉、百濟使人大仁阿曇連比羅夫、從筑紫國、乘驛馬來言、百濟國、聞天皇崩、奉遣弔使。臣隨弔使、共到筑紫。而臣望仕於葬。故先獨來也。然其國者、今大亂矣。二月丁亥朔戊子、遣阿曇山背連比良夫・草壁吉士磐金・倭漢書直縣、遣百濟弔使所、問彼消息。弔使報言、百濟國主謂臣言、塞上恆作惡之。請付還使、天朝不許。百濟弔使傔人等言、去年十一月、大佐平智積卒。又百濟使人、擲崐崘使於海裏。今年正月、國主母薨。又弟王子兒翹岐及其母妹女子四人、內佐平岐味、有高名之人卌餘、被放於嶋。壬辰、高麗使人、泊難波津。丁未、遣諸大夫於難波郡、檢高麗國所貢金銀等、幷其獻物。使人貢獻既訖、而諮云、去年六月、弟王子薨。秋九月、大臣伊梨柯須彌弑大王、幷殺伊梨渠世斯等百八十餘人。
元年春正月丁巳朔辛未、皇后(皇極)が天皇に即位された。蘇我臣の蝦夷が大臣にしているように大臣の子である入鹿、別名鞍作も自ら国政を執ると言った。父の威光を借りて盗賊のように脅しているようで、これは路に「遺ちたるを拾わず」のたとえのように誰も見向きもしなかった。
筑紫國から驛馬(えきば)にのって来た者が伝えた。百済国は天皇が崩御したことを聞いて、弔使を派遣し、弔使に臣(大佐平智積のことか?)が筑紫に着いた。臣は葬式に参じることを望んで、一人で筑紫にさきに来ていた。しかし、百済の国の者が「今(百済の朝廷)は大乱の最中だろう」と云った。そこで、二月の丁亥朔戊子になって、阿曇山背連比良夫、草壁吉士磐金、倭漢書直縣、彼らの様子を百濟の弔使に尋ねた。その百済の状態を弔使が報じて言うのには、百濟國主(武王)の旧臣が言う、塞上(サイジョウ=義慈王)はいつも最悪である。(弔使の臣らを)帰国させたいと請願しても天朝は許さなかった。
百濟弔使、傔人らが言う、去年十一月、(義慈王は)大佐平智積が従えていた百濟使人と擲崐崘使(こんろんの使い)を海に追い返した。今年正月、國主母(善花皇后)が亡くなられた。又弟王子の兒翹岐(あぎょんぎ)と皇后の妹、女子四人、內佐平・岐味(きみ)、高名な人四十余人を島に追放された。壬辰(9日)に、高麗使人が、難波津に停泊した。丁未、高句麗の諸大夫を難波郡に派遣して、高麗國の封印した金銀等とあわせて獻物を貢献してきた。使人が貢獻を既に終え而して問うてみると、去年(642年)六月、弟王子(弟大陽王・第28代王に擁立した宝蔵王の父)が薨じ、秋九月、大臣伊梨柯須彌(大對盧 泉蓋蘇文(せんがいそぶん)ヨンゲソムン)が大王(栄留王)を殺し、併せて伊梨渠世斯(泉蓋蘇文の弟)等百八十餘人を殺した、と伝えた。

▼日本書紀巻第二十四 皇極天皇紀
元年(642年),秋七月甲寅朔壬戌、客星入月。乙亥、饗百濟使人大佐平智積等於朝。或本云、百濟使人大佐平智積及兒達率闕名・恩率軍善。乃命健兒、相撲於翹岐前。智積等、宴畢而退、拜翹岐門。丙子、蘇我臣人鹿豎者、獲白雀子。是日同時、有人、以白雀納籠、而送蘇我大臣。戊寅、群臣相謂之曰、隨村々祝部所教、或殺牛馬、祭諸社神。或頻移市。或禱河伯。既無所效。蘇我大臣報曰、可於寺々轉讀大乘經典。悔過如佛所說、敬而祈雨。庚辰、於大寺南庭、嚴佛菩薩像與四天王像、屈請衆僧、讀大雲經等。于時、蘇我大臣、手執香鑪、燒香發願。辛巳、微雨。壬午、不能祈雨。故停讀經。
秋七月甲寅朔壬戌(25日)のとき客星が月に入った。皇極天皇は大佐平(だいさへい)智積(ちしゃく)を朝廷で饗宴した。ある本に伝える、百済使人、大佐平・智積と子の達率(三品の官)、その子の名は欠けていて知らず。恩率の軍善の命・健兒(けんあ)が翹岐の前で相撲をとったことがあると伝える。智積らは宴がことごとく終わると退出して、翹岐の家の門まで行くと、そこで拝礼をした。丙子の日、蘇我臣の入鹿という賢い者が白い雀の子を獲た。この日、ある人が蘇我の大臣に白いすずめを籠にいれて上納した。戊寅の日、群臣がくちぐちに言う、村々の祝部が教える所、あるいは牛あるいは馬を殺し社神に祭り、あるいは、しきりに市を移す、あるいは河伯神女を祈祷するなどおこなった。しかし、旧来の雨乞いはことごとく験(しるし)がなかった。蘇我大臣が報告した。寺々で大乗経典を読経させ、仏教の所説によってざんげし降雨を祈願した。大きな寺の南の庭で、嚴佛菩薩像と四天王像を壇においてもろもろの僧を座らさせ大雲経を読経させた。蘇我大臣は香鑪を手に取って焼香をし発願(ほつがん)した。辛巳の日、微かに雨が降った。だが、壬午の日、祈雨は不能になり讀經は中止となった。
八月甲申朔、天皇幸南淵河上、跪拜四方、仰天而祈。卽雷大雨。遂雨五日、溥潤天下。或本云、五日連雨、九穀登熟。於是、天下百姓、倶稱萬歲曰、至德天皇。己丑、百濟使參官等罷歸。仍賜大舶與同船三艘。同船、母慮紀舟。是日夜半、雷鳴於西南角、而風雨。參官等所乘船舶、觸岸而破。丙申、以小德授百濟質達率長福。中客以下、授位一級。賜物各有差。戊戌、以船賜百濟參官等發遣。己亥、高麗使人罷歸。己酉、百濟・新羅使人罷歸。
元年,八月甲申の朔日に南の川上の淵に行幸され、四方に跪いて礼拝し、天を仰いて祈りを捧げると、たちまち雷が鳴りだし大雨が降りだした。とうとう五日間も雨が降り、天下を広く潤した。ある本は伝える。この五日の連速した雨は九つの穀類を実らせたと、。ここにおいて天下の百姓はともに万歳をして、至德天皇と三唱した。己丑の日、百濟の使い、參官などが退いて帰国した。なお、大船と紀州船3艘賜った。この日の夜半、西南に雷鳴が轟き、暴風雨になった。参官らは乗船した波止場に停泊していたが、岸に衝突して船は壊れた。丙申、(天皇は)百済の百済質、達率・長福に小徳の冠位をさずけ、中客以下に位一級の冠位授けた。賜物には差があった。戊戌、百済の参官らに船を賜い帰国させた。己亥、高麗の使人が退いて歸国した。己酉、百濟・新羅の使人が退いて帰国した。

*客星が月に入った、凶兆なのか? 白い雀が縁起のいい鳥なのか?
*祈禱(キトウ)=祈ること
*翹岐(ぎょうき)、皇極天皇の実の弟。後の孝徳天皇のこと。
*、大佐平・智積、翹岐が日本に来た時に、一緒に来た官だろう。


元年(642年)秋七月甲寅朔壬戌、客星入月。乙亥、饗百濟使人大佐平智積等於朝。或本云、百濟使人大佐平智積及兒達率 闕名・恩率軍善。乃命健兒、相撲於翹岐前。智積等、宴畢而退、拜翹岐門。丙子、蘇我臣人鹿豎者、獲白雀子。是日同時、有人、以白雀納籠、而送蘇我大臣。戊寅、群臣相謂之曰、隨村々祝部所教、或殺牛馬、祭諸社神。或頻移市。或禱河伯。既無所效。蘇我大臣報曰、可於寺々轉讀大乘經典。悔過如佛所說、敬而祈雨。庚辰、於大寺南庭、嚴佛菩薩像與四天王像、屈請衆僧、讀大雲經等。于時、蘇我大臣、手執香鑪、燒香發願。辛巳、微雨。壬午、不能祈雨。故停讀經。
八月甲申朔、天皇幸南淵河上、跪拜四方、仰天而祈。卽雷大雨。遂雨五日、溥潤天下。或本云、五日連雨、九穀登熟。於是、天下百姓、倶稱萬歲曰、至德天皇。己丑、百濟使參官等罷歸。仍賜大舶與同船三艘。同船、母慮紀舟。是日夜半、雷鳴於西南角、而風雨。參官等所乘船舶、觸岸而破。丙申、以小德授百濟質達率長福。中客以下、授位一級。賜物各有差。戊戌、以船賜百濟參官等發遣。己亥、高麗使人罷歸。己酉、百濟・新羅使人罷歸。

 ▼日本書紀巻第二十四 皇極天皇紀
元年(642年)
秋七月甲寅朔壬戌(25日?)のとき客星が月に入った。皇極天皇は大佐平(だいさへい・てさぴょん)智積(ちしゃく)を朝廷で饗宴した。ある本に伝える、百済使人、大佐平・智積(ちしゃく)と子の達率(三品の官)、その子の名は欠けていて知らず。恩率の軍善の命・健兒(けんあ)が翹岐の前で相撲をとったことがあると伝える。智積らは宴がことごとく終わると退出して、翹岐の家の門を拝礼をした。丙子の日、蘇我臣の入鹿という賢い者が白い雀の子を獲た。この日、ある人が蘇我の大臣に白いすずめを籠にいれて上納した。戊寅の日、群臣がくちぐちに言う、村々の祝部所が教える牛あるいは馬を殺し、社神に供犠の祭り、あるいは、しきりに市を移す、あるいは河伯(神女)を祈祷するなど旧来の雨乞いはことごとく験(しるし)がなかった。蘇我大臣が報告した。寺々で大乗経典を読経させ、仏教の所説によってざんげし降雨を祈願した。大きな寺の南の庭で、嚴佛菩薩像と四天王像を壇においてもろもろの僧に府座させ大雲経を読経させた。蘇我大臣は香鑪を手に取って焼香をし発願(ほつがん)した。辛巳の日微かに雨が降った。壬午の日、祈雨は不能になり讀經は中止となった。
八月一日、南淵の川上に行幸してに跪いて拝むみ、天を迎えて而して祈ると、たちまち雷が鳴って大雨が降ってきた。天はとうとう五日間も降り続け、天下を広く潤した。この五日続いた雨で九種の穀類はみな熟し実った。これで天下の百姓たちはともども”至德天皇”と万歳をした。
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*皇極が行った跪拜四方とはおそらく仏教の儀式だろうか。至德天皇の徳の字が、意味するところは孝徳天皇と同じ。

兒翹岐(アギョンギ)が百済から筑紫に着いたという日本書紀の記述
▼日本書紀巻第二十四 皇極天皇紀
二年(644年),夏四月庚辰朔丙戌、大風而雨。丁亥、風起天寒。己亥、西風而雹。天寒、人著綿袍三領。庚子、筑紫大宰、馳驛奏曰、百濟國主兒翹岐・弟王子、共調使來。丁未、自權宮移幸飛鳥板蓋新宮。甲辰、近江國言、雹下、其大徑一寸。
二年夏四月の庚辰朔丙戌日に大風雨となり、寒風が吹き、己亥(8日)に西風となりあられが降った。天候が寒冷となった。人々は綿の上着を三枚重ねて被った。庚子(21日)、筑紫大宰(みこともちのつかさ)、驛馬をはせて奏上して曰く、「百濟國主の弟王子・兒翹岐(アギョンギ)が調(みつぎ)の使いとともに来れました」。丁未(28日)に仮宮から飛鳥の板蓋新宮に遷宮した。甲辰(25日)、近江國が言うには、あられが降り、其大きさは徑一寸もあった。
二年(644年),秋七月・・・是月、茨田池水大臭、小蟲覆水、其蟲口黑而身白。
八月戊申朔壬戌、茨田池水、變如藍汁、死蟲覆水。溝瀆之流、亦復凝結、厚三四寸。大小魚臭、如夏爛死。由是、不中喫焉。
二年秋七月、この月、茨田池の水があふれ、腐臭が起こった。小さい虫が水面を覆った。その虫は口が黒く、体は白かった。
八月には池の水は藍色(あいいろ)の汁のように変わった。死んだ虫が水を覆って、厚さ三四寸の塊となって水溝を塞いで、大小の魚も夏のときに朽ちて死んだように腐乱した。これではとうてい腹の中に入れることができない。
茨田池(まむたいけ)とは

寝屋川市の太古には茨田池があり、洪水に苦しんだ土地。水流は草香江に流れ出ていた。

書記によれば、仁徳天皇11年(342年)に茨田堤が築かれたという。日本最初の治水工事といわれる。仁徳13年に茨田屯倉がおかれ、この大工事は天皇の直轄事業になり、茨田連が秦人(はたびと)を使って工事をしたという。宣化天皇の元年5月には「河内国の茨田の郡の屯倉の穀を運ばしむ」とあり、ここが穀倉地帯に変貌していることが分かります。茨田は「萬牟田」とも記されるが、茨田連は呉の孫晧(そんこう)の末裔で、堤根神社(つつみねじんじゃ)で「彦八井耳命」という祖神を祀っている。寝屋川市はかつて茨田郡とも呼ばれ、秦村、太秦(うずまさ)村という古地名があった。秦氏の(役)えだちを得て完成させたのは周辺地名や秦氏関連史跡から、ほぼ事実だろうと思われます。寝屋川市太秦高塚町には高塚古墳がありますが、うずまさという地名は京都のほかに、ここにしかなく、驚くことに川勝町という町があり秦河勝にちなむのです。なぜなら、ここに秦河勝の史跡(寝屋川市史跡文化財)があり、秦河勝の墓と伝えています。秦の河勝は、推古天皇の御代、聖徳太子に仕えた人物です。皇極天皇3年(644年)に駿河国富士川周辺で、大生部多を中心とした常世神(とこよかみ)を崇める集団(邪教)を討伐しています。茨田の堤が作られたのは仁徳天皇紀に書かれていますが、じつは640年代末ごろの工事だったとわたしは思います。秦氏が豊国から京都に移住、朝廷で活躍するのはどうみても推古天皇のころだからです。書記は、皇紀を紀元前660年にまで引き延ばす必要があったのでしょう。同じストーリーを時代を超越してくりかえして、似たような話を重複させているのです。




大阪の5世紀の図版:草香江と堀江、淀川との関係図;


▼日本書紀 巻第二十二 推古天皇紀
百濟僧慧聰來之。此兩僧、弘演佛教並爲三寶之棟梁。秋七月、將軍等至自筑紫。四年冬十一月、法興寺造竟、則以大臣男善德臣拜寺司。是日、慧慈・慧聰二僧始住於法興寺。五年夏四月丁丑朔、百濟王遣王子阿佐、朝貢。冬十一月癸酉朔甲子、遣吉士磐金於....→ このページで合計1件ヒット
▼日本書紀 巻第二十五 孝徳天皇紀
皇造丈六繡像・丈六銅像、顯揚佛教、恭敬僧尼。朕、更復思崇正教光啓大猷。故、以沙門狛大法師・福亮・惠雲・常安・靈雲・惠至・寺主僧旻・道登・惠隣・惠妙、而爲十師。別、以惠妙法師爲百濟寺々主。此十師等、宜能教導衆僧修行釋教、要使如法。凡....→ このページで合計1件ヒット
▼日本書紀 巻第三十 持統天皇紀
「宜遣沙門於大隅與阿多、可傳佛教。復、上送大唐大使郭務悰爲御近江大津宮天皇所造阿彌陀像。」六月甲子朔壬申、勅郡國長吏、各禱名山岳瀆。甲戌、遣大夫謁者、詣四畿內、請雨。甲申、賜直丁八人官位、美其造大內陵時勤而不懈。癸巳、天皇觀藤原宮....→ このページで合計1件ヒット
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遣唐使と遣隋使の年表

西暦 王朝   主な出来事
600年   初の遣隋使が派遣される。しかし、派遣された人物は不明で、文帝との面会は叶わなかった。
607年   第二回遣隋使として、小野妹子が派遣され、日本と隋による国交が樹立。
608年   第三回遣隋使として小野妹子、高向玄理、僧旻、南淵請安ら8人、隋へ留学する。
614年   第四回遣隋使として犬上御田鋤が派遣される。しかし、618年に隋が滅んでしまい、これが最後の遣隋使となった。
630年   第一回遣唐使として、犬上御田鋤が派遣される。
653年   第二回遣唐使が派遣される。
654年   第三回遣唐使として、高向玄理が派遣される。
659年   第四回遣唐使が派遣される。
665年   第五回遣唐使が派遣される。
669年   第六回遣唐使が派遣される。
702年   第七回遣唐使として、粟田真人、山上憶良が派遣される。
717年   第八回遣唐使として、阿倍仲麻呂、吉備真備、玄昉、井真成が派遣される。
733年   第九回遣唐使が派遣される。
746年   第十回遣唐使、派遣中止。
752年   第十一回遣唐使として、藤原清河、吉備真備が派遣される。
759年   第十二回遣唐使が派遣される。
761年   第十三回遣唐使が派遣される。
762年   第十四回遣唐使が派遣される。
777年   第十五回遣唐使、派遣中止。
779年   第十六回遣唐使、派遣中止。
804年   第十七回遣唐使として、最澄、空海、橘逸勢、霊仙が派遣される。
838年   第十八回遣唐使として、円仁が派遣される。
894年   第十九回遣唐使、菅原道真の建議により、派遣中止。


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