HOME-TOPへ

NO331_J・・・魏志倭人伝 文法構造で解読する

帯方郡から邪馬台国までのブロック 


 魏志倭人伝は明らかに計算されています。そこで、魏志倭人伝をプログラムのように構造的に分析してみました。大きな囲みが親ブロック、小さな囲みを子ブロックと見立てます。
親ブロックが全体のプロジェクトです。小さな囲みは、子ブロックです。これを、入れ子構造といいます。
下のように罫線で原文(紹興本)を囲ってみました。漢文の訓読みの誤訳や誤解釈を排するのには、はなはだ好都合なな方法だと言えます。
 連続する「其」がどこを受けているのか、また、「至」をいたると読んではいけない、「行」をいくと読むことは間違い、又を再びと訳すのは誤訳!・・・などの部分はカテゴリーを変えて、おいおい書いていきます。
 いままで、おざなりにされてきた狗奴国の真実の在りかと名称を明かすことが目的ですので、そこに特化した説明になります。とくに邪馬壹國が主題ではありません。わたしは、どうして現代の知識人が邪馬壹國だけを突出して議論するのか不思議でなりません。まあ、新井白石が『古史通或問』でヤマタイコクと読み下し、大和に特定したのですが、晩年になって似た古地名である山門郡(瀬高町)に変えました。大和説から九州説になったのですね。(晩年の書『外国之事調書』)、日本のことですから、日本の古地名から探ろうとしたのでしょう。いずれにしても固有名詞をすべて音借文字だと考えたのです。日本の地名の音を聞いて漢字の音でリプレースしたというわけです。伊都国が怡土國に不彌国が宇瀰國、奴国が那珂郡の那に因むとか、これらのワードがみな中国人が音借文字で変換したという前提での一つの推理なんです。中国には54言語、いまは方言といいますが、文字は共通ですが、発音はそれぞれ地域ごとに異なっていました。そんな環境の中で地方の発音を中央語の発音に相当する文字に変えるようなことは中国人はしません。漢文にルビをふるような例はありません。発音は規定しない。つまり、漢字という文字は地域ごとに自由に発音していいのです。固有名詞が音借による表記だという思考に反対です。もともと、魏志倭人伝は日本書紀を参考にしようがないのです。当の新井白石が死ぬ前の享保9年(1724年)にある人にだした手紙に、「魏志は実録に候、日本紀などは、はるか後にこしらえたて候事ゆえに、おおかた一事も尤もらしき事はなき事に候」と、日本紀には、真実らしいことは一つもないと書き残しています。

『三国志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条 陳寿著 (280年ー297年頃)
 ->  ->  ->  -> 倭人傳             紹興本準拠

親ブロック

倭人在帶方東南大海之中依山㠀爲國邑舊百餘國漢時有朝見者今使譯所通三十國

子ブロック_A
從郡至倭
<從郡>循海岸水行歷韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里
<從狗邪韓國>始度一海千餘里至對馬國其;大官曰卑狗副曰卑奴母離所居絶㠀方可四百餘里土地山險多深林道路如禽鹿徑有千餘戸無良田食海物自活乗船南北市糴
<從狗邪韓國>南渡一海千餘里名曰瀚海|至一大國官亦曰卑狗副曰卑奴母離方可三百里多竹木叢林有三千許家差有田地耕田猶不足食亦南北市糴
<從狗邪韓國>渡一海千餘里至末盧國有四千餘戸濱山海居草木茂盛行不見前人好捕魚鰒水無深淺皆沈没取之

<從末盧国>東南陸行五百里到伊都國官曰爾支副曰泄謨觚柄渠觚有千餘戸

王皆統屬女王國/郡使往來常所駐


子ブロック_B
<自伊都国>東南至奴國百里官曰兕馬觚副曰卑奴母離有二萬戸
孫ブロック(まごブロック)

<自奴国>至不彌國百里/官曰多模副曰卑奴母離有千餘家

<自郡>南至投馬國水行二十日/官曰彌彌副曰彌彌那利可五萬餘戸

<自郡>南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月/官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮可七萬餘戸

 自女王國以北其戸數道里可得略載
孫ブロック(まごブロック)

 其餘旁國遠絶不可得詳次;斯馬國次;巳百支國次;伊邪國次;都支國次;彌奴國次;好古都國次;不呼國次;姐奴國次有對蘇國次;蘇奴國次;呼邑國次;華奴蘇奴國次; 鬼國次;爲吾國次;鬼奴國次;邪馬国次;躬臣国次;巴利国次;支惟國次;鳥奴國次;
 
奴國此女王境界所盡

其南有狗奴國男子爲王其官有狗古智卑狗不屬女王
自郡至女王國萬二千餘里


 全文にかかる主語は、大ブロックの冒頭の文字列、「倭人在帶方東南大海之中依山㠀爲國邑舊百餘國漢時有朝見者今使譯所通三十國」です。其はここを係り受けします。「其南有狗奴國男子爲王其官有狗古智卑狗不屬女王」の其は帯方になりますので要注意です。陳寿の文法法則で文字列に「其」が連続している間、其、其、其・・・・とつながり切れない限り、其は、冒頭の文字列の主語「帯方」を共有します。
倭人在帶方東南大海之中依山㠀爲國邑舊百餘國漢時有朝見者今使譯所通三十國

「倭人は帯方の東南にあり、大海にある数ある島に住み、それらの国は山によってなり、漢の武帝のころ、もともと百カ国もあり、朝見するものがあった。今、所を使って通じるところは三十カ国である。」

これから記すことは、以下の国邑30か国です、という宣言文なのです。
国は王がいるところ、邑には長官がいます。前漢には併せて100カ国がったものが、後漢末期になった時には、たった30か国しか服属していないということがポイントです。

譯の字は驛の間違い!

 訳中に誤字を指摘しておきます。使所の譯(訳)は、(駅)の誤字とみなします。隷書体から楷書体に転記されたさいに、あるいは写本の時に写筆ミスが起きたと考えます。驛所は中国における郵驛亭のようなもので、驛所なら通行のカテゴリーに使えますが、訳所という語彙では意味をなしません。この転写誤記は東夷傳全般にわたっています。訳すとは人為的行為ですから、人称代名詞になるはずです。譯長、、譯者、通譯などはよいとして、譯所はへんだということです。史書には驛の文字は相当大量に譯に転記ミスがあります。

*郵驛亭 周王朝の頃に高速馬を使って緊急に簡本(竹簡)を届けるため、街道に亭(休憩所)、舎(宿舎)、館(宿屋)、舖(駅)などの通信システムがありました。十里一亭(≒4.3km:漢書百官公卿表 班固著)

上の、全文のうち、親ブロックの定義がグローバル定義となり、その条件が子ブロックを拘束します。 子ブロックの前段をAブロックとし、後段をBブロックとします。 AとBに分けた分岐条件は、意外と簡単です。 Aの場合は、至の文字の前に、【距離】が書かれています。 Bの場合は、至の文字の後に【時間】ないし、【距離】がきています。 分岐条件としてはこれで十分です。(至と到の文字の使い分けがありますが、文法上は同一です。 )
Aブロックは、従~至~の構文ですが、至だけしかない一行はみな「従~」が省略されています。従~至~は、その途中の状態や様子が書くことができ、いわば3次元的要素が記入されます。従~至~が前置詞ですから、距離または時間が名詞術語となります。「千里」だけで、「千里です」とか、「千里あります」と訳すのです。
従+【場所A】+方位+至+【場所B】の構文について面白い文章がありました。
《西域傳》的書籍 電子圖書館より。于窴國の条
「建武末,莎車王贤强盛,攻并于窴,徙其王俞林為骊歸王。明帝永平中,于窴將休莫霸反莎車,自立為于窴王。休莫霸死,兄子广德立,後遂灭莎車,其國轉盛。从精絕西北至疏勒十三國皆服从。而鄯善王亦始强盛。自是南道目葱嶺以東,唯此二國為大。」
現代文の訳を入れてみます。
建武の末に莎車王・賢が強勢となり、于窴国を攻め、王を移し俞林を骊歸王にした。明帝の永平中、于窴に将軍休莫霸が莎車に反旗を翻し、自ら于窴王となった。休莫霸が死んで、兄の子である广德が立ち、その後、莎車はついに滅んだ。于窴国はますます盛んにり、精絕から西北にある疏勒までの十三カ国がみな服従した。しかし、鄯善王がまた強勢になりはじめた。この南道の目葱嶺(そうれい・パミール高原)より東は、ただこの二国だけが大国となっている。
上記の赤い部分です。
从精絕西北至疏勒十三國皆服从。は従精絕西北至疏勒十三國皆服従。と从はなんじゃ?となるからです。从は従の簡体文字なのです。書き換えると、「精絕西北至疏勒十三國皆服。」となります。
この一行の文字列の最初の従が、従A至BのーどこAから~どこBまでの前置詞として使われています。最後にある従は「したがう」という本来の意味での従です。服従の合成語として使われています。従が異なる字義で、一つの文章に使われています。面白い例文ですね。
ちなみに、建武(けんぶ)は、後漢の光武帝劉秀の治世に行われた最初の元号です。25年 - 56年です。新の王莽(おう もう、前45年 - 23年)の失政で西域は統制不能になり、西域は匈奴の離反など群雄割拠のありさまになっていました。後漢の光武帝になって、ようやく西域を中国の統制に戻そうと働きかけるようになったのです。光武帝の末の西域は莎車國に取って代わって于窴国(ホータン)と鄯善王(ローラン)が二大強国だったという状態だったというのです。

郡は帯方と同じ場所です。

郡は帯方郡治所のことです。「自郡至女王國萬二千餘里」という、郡は魏略では帯方、御覧魏志でも帯方と記されています。
『魏略』:「自帯方至女國万二千余里」
『御覧魏志』:「自帯方至女国万二千余里」
帯方と略していますが帯方郡治所のことです。測定ポイントがなければ12000里といった距離を出せません。また、女王国または女國も地点としなければなりません。
自郡至~と従郡至~の違い

自~至~と従~至の違いが、里程論にはすご~く重要です。

従至の構文で倭の場所は伊都国を終点として完結しています。従~が皆省略されています。
区間距離の合計は、総距離に一致するを式化する。自~至~は至の後ろに直線距離しか表現できません。
従~至の構文の距離も直線距離です。点と点を直線で結ぶ星座表のようなイメージです。
区間距離は「余」が付いている場合15%増しにして整数化します。
自や从が至の構文からかなりの確率で省略される:
魏書 倭人伝の『魏略西戎傳』の引用14 打開字典 倭人傳:
「北新道西行,東至,且彌國、西且彌國、單桓國、畢陸國、蒲陸國、烏貪國,皆并屬車師後部王。王治于賴城,魏賜其王壹多雜守魏侍中,號大都尉,受魏王印。轉西北則烏孫、康居,本國無增損也。」
上の例文の北新道/西行/東至/○○國、○○國、○○國・・・・・・・皆并屬車師後部王。の文字列を分析します。訳は次のようになります。
「北新道を西に行列している、東から○○國、○○國、○○國・・・・・・・までの国々はみな車師後部王に併属している。王は于賴城を治め、魏は其の王に壹多雜守魏侍中という身分をあたえ、大都尉と号して魏の王印を与えた。西北に転じるとそこは烏孫、康居がある。本国は無增損である。」
このように訳しますが、行/○東至/ 右の文字配列○の個所にある文字が脱字されています。从(従)を入れることによって上のように訳すことができます。
西に並ぶ国は目線の地点東から西方向に並ぶわけですから、東から並ぶ状態を重ねています。西行+从+東+至+○○國、○○國、○○國・・・・・・・、このように配列構造を定義できます。一見述語部のようですが、主語を形成する名詞句となります。
  
これは魏志倭人伝の不彌國以下の配列構造に適用することが可能です。まずは略字を探って、略字を代入してみます。
●●至不彌國百里/官曰多模副曰卑奴母離有千餘家
<自郡>
南至投馬國水行二十日/官曰彌彌副曰彌彌那利可五萬餘戸
<自郡>南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月/官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮可七萬餘戸

上記の●●は省略されているので構文定義に従って挿入する文字は「自西」でもいいし、「自奴国」でもいいのです。

     区間里数  区間計算値
余里を整数化・15%増し
 從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓国七千餘里。 7000余   8050
 始度一海千餘里、至對海國。 1000余   1150
 又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國。*狗邪韓国から放射式  1000余  1150
 又渡一海千餘里、至末盧國。        *狗邪韓国から放射式(距離は通算)  1000余  1150
 東南陸行五百里、到伊都國。(余なし)  500  500
  区間距離の合計は総距離に一致する。  合計  12000 (a+b+c+d)x1.15+e=12000

従至のAブロックの始まりは郡治所、終点は伊都国で、この間が12000里になります。この間はエリアとしては倭韓の領域を通貫しているのです。
狗邪韓国は倭地の最初の到着地点です。また、到の文字がありますので狗邪韓国も倭地となります。



Bブロックは、自~至~の構文が省略されています。自~至~は、【距離】と【時間】の要素しか説明できません。地点から地点を示すだけですので、二次元的な要素しか書けません。スタート地点は伊都国になります。Aブロックのスタート地点は郡でしたが、ここから起点が変わっています。そして、孫ブロックになると、奴国が起点になります。ひ孫ブロックは奴国を起点にしています。

ここで言えることはAブロックは、「ぼくんちから駅の間に愛ちゃんの家が100メートルも歩くとあるんだよ。」、なんて表現できます。従~至~の構文の特徴です。要するに、Aブロックは行程(道行き)やその間の様子(状態)を書くことが可能ですが、Bブロックは自~至構文です。立体的な状態は書けません。書きたいときは、文節を違えて文を繋げます。文をいったん区切って、平叙文でもって繋いでいます。

Bブロックは距離のみ表記できます。自~が省略されています。
fからiまでの国々は奴国から再配置されます。
余里の余は15%に割り振ります。


       区間里数  比定地
[自伊都国] 東南至奴國百里。 伊都国を始点に東南。 12000 神崎郡
田手川下流 
 [自奴国]東行至不彌國百里。 奴国から東に切り替わる  12100 久留米 
h  投馬國、[自郡]南至投馬國水行二十日。 不彌國から東に並ぶ 12800 日田 
 邪馬壹國、[自郡]南至邪馬壹國水行十日陸行一月。 投馬國から東に並ぶ 13800 別府・大分 
 j  from "神崎"to "別府と大分の中間"  Bブロック合計  1800 12000x0.15 
   自郡至女王國萬二千。  A・Bブロック合計  13800
12000+J



緑の線は八方位線です。
区間距離の合計は総距離に一致する。これを式に展開します。邪馬台国は大分になります。
ま東の方位線と114kmの交点は大分城址に近いところになります。




女王国東渡海の場所。女王国は伊都国と郡からの距離は同じ。よって、女王国=伊都国です。そこで起点を【吉野ヶ里】においてま東に直線を引いた終点が渡海の出発点となります。シミレーションでは別府になります。



日本は女國と正史にあるの謎!

郡は帯方郡のことです。『三国志・・魏志倭人伝』「自郡至女王國萬二千餘里」、この郡は魏略では帯方、御覧魏志でも帯方と記されています。郡が帯方郡であることに疑問はありませんが、なんと、女王国には女國という別称がありました。

『魏略』:「自帯方至女國万二千余里」
『御覧魏志』:「自帯方至女国万二千余里」

魏略と御覧魏志が女國と記し、女王國とは記していないのは何故なのか、あまり争点にならないのが気にかかります。

どうして、『魏略』と『御覧魏志』は「女國」と記したのでしょうか?
(女しかいない国の参考文献;三国志魏書三十烏丸鮮卑東夷伝 東夷伝 東沃沮:「また、ある国が海中にあり、女ばかりで男がいなかった。」(母丘儉(ぶきゅうけん)第一次高句麗討伐と同年王頎の伝聞・西暦244年の伝承)日本を女國と記録したのはこの一件です。

「王頎別遣追討宮,盡其東界。問其耆老「海東復有人不」?耆老言國人嘗乘船捕魚,遭風見吹數十日,東得一島,上有人,言語不相曉,其俗常以七月取童女沈海。又言有一國亦在海中,純女無男。又說得一布衣,從海中浮出,其身如中國人衣,其兩袖長三丈。又得一破船,隨波出在海岸邊,有一人項中復有面,生得之,與語不相通,不食而死。其域皆在沃沮東大海中。」
以下自前の訳文:
「王頎を別動隊として派遣し、宮(東川王)を、その東界の最も遠い所(日本海)まで追った。そこの耆老に、王頎は「海の東に、さらに人がいるのかどうか?」と問うた。耆老は言うのには、そこの(沃沮の)国人はかつて、船にのって漁をして数十日風に遭遇して東のある島に着いた。その島には人がいて言語は互いに分からなかった。そこでは常に七月に童女を海に投げ込む風習をもっていた。また、ある国が海中にあり、女ばかりで男がいなかった。海中から浮き出て、その身は中国人の衣服をきているようだった。その両袖は三丈もあった。また、破船が浜辺に漂着したが、首筋に面(入れ墨)がある人間が一人、生きていたが、言葉が互いに通じず、食をとらずにとうとう死んでしまった。その地域は沃沮の東の大海の中にある。」

王頎は玄莬軍太守の時、母丘儉の命で東川王を朝鮮の東北海岸まで追撃しましたが、このとき、「女ばかりの国」が東の大海(日本海)にあると土地の年寄りから聞いたという経緯があります。事件は正始6年、西暦245年ですから、今から1770余年も前です。日本に関する中国正史での記録では最古になるでしょう。

日本のことを女國としているのは間違いありません。『後漢書』にも書かれています。
《後漢書》
[南北朝] 420年-445年
《列傳》 《東夷列傳》
18 打開字典顯示相似段落 東夷列傳:
「又有北沃沮,一名置溝婁,去南沃沮八百餘里。其俗皆與南同。界南接挹婁。挹婁人憙乘船寇抄,北沃沮畏之,每夏輒臧於巖穴,至冬船道不通,乃下居邑落。其耆老言,嘗於海中得一布衣,其形如中人衣,而兩袖長三丈。又於岸際見一人乘破船,頂中復有面,與語不通,不食而死。又說海中有女國,無男人。或傳其國有神井闚之輒生子云。」
「また北沃沮がある。一名、置溝婁ともいう。南沃沮と800里離れている。その俗は皆南沃沮と同じである。境は南に挹婁に接している。挹婁人は夜明けに船で襲って略奪行為する。北沃沮はこれを恐れ、毎年夏にはいつでも岩穴に隠れ、冬になると船が通れなくなるので、ようやく下の村に住む。その老人が言うのには、かつて海中にある衣を拾い上げた。その衣服は中人の衣で、しこうして両袖が三丈もあった。また海岸に難破船があり一人の男が乗っていた。うなじや体にかけて入れ墨があり、言葉が通じず、食べないので死んだ。また、老人が説明するには、海中に女國があり、男の人がいない。あるいは、その国には神がいて、井戸をのぞくとたちまち子供が生まれると伝えられる。」


女王国は領域ではなく、地点です。


 ここで、重要なことは、女王国を地点とみるか、領域をみるかの違いです。

自郡至女王國萬二千餘里は直線距離

この自~至の構文は、ある出発点から終点までということです。点から点ですから、その間は直線(二次元)です。そして、至の後ろには、距離か所要時間しかこないのです。肝心なのは、二次元ですから里数は地図上の直線だということです。
したがって、大ブロックでの「自郡至女王國萬二千餘里}は、はじめから女王国は地点として既定されます。そして、AとBのブロックのロケーションを拘束します。
この大ブロックの中にある地名は、すべて「郡と女王国の間」に存在するのです。
 ここは、最も重要なポイントですね。したがって、狗奴國も「郡と女王国の間」にあるのです。狗奴国もこのブロックの中にあるので例外ではありません。

 魏志では「奴國此女王境界所盡」と、奴国は女王の境界が尽きる所という書き方をしています。「女王国境界」ではなく、「女王境界」という書き方で使い分けをしているのです。一字の違いを厳密に考えれば、女王国はエリアではないのです。女王国とは倭地にあるきわめて重要な地点です。郡使が通い、常に留まるところだとすれば、それは伊都国のほかにありません。女王国は伊都国の別称として使われているというわけです。「東南陸行五百里到伊都國」と、ここでは至ではなく到の文字になっています。至より強調された文字になっています。また、「丗王皆統屬女王國郡使往來常所駐」とは、王たちがみな服属し、魏の郡使が常駐しているとしています。魏が帯方郡を中継して)な為政地が伊都国なのです。こうしたことで、「郡至女王国」が帰結として最後にきていると考えられます。結論として、女王国は領域ではなく、ある地点からの終点であるポイントなのです。また女王国を領域と考えると、どこが国境なのか定めないと区間距離は出せません。

12000里を総里程とみます。いわゆる「部分里程」は「総里程」に一致するというのは鉄則になります。そして、その方向は東南線です。

よく、帯方郡治所ー狗邪韓国ー對馬國一大国ー末盧国ー伊都国ー奴国ー不彌国と里程を順次つなげる考え方には不備があります。
一大国は東南の線上にはありません。一大国は其の南と書かれ、放射状に書かれているからです。一大國は順次に列することができません。一大国はパスしなければなりません。
また、不彌国も奴国の東と書かれています。東南の線上にはなく、方向を転じています。

又の字は又又又と三回まで主格を同じくすることができます。(説文解字)
狗邪韓国から東南に對馬國の次の行から又が2回続きます。これは又の主格狗邪韓国が代入されますから、對馬國、一大国、末盧國は狗邪韓国から放射状に記述されていることになります。

    |
 東南は基軸となる方位線で奴国が最南端です。奴国から東に基軸を転じます。この東のラインからすべての国は北側にあります。


帯方郡治所ー狗邪韓国ー對馬國(東南)
       狗邪韓国 ー一大国(壱岐)(南)
       狗邪韓国ーーーーー末盧国(東南)
このように狗邪韓国から放射状になるわけですが、東南の線上に一直線に並ぶあるのは、狗邪韓国ー對馬國ー末盧国ー伊都国ー奴国まで計5か国となります。
従~至~で書かれるAブロックの終点は伊都国ですよね。そして、自~至~で書かれる親ブロックの終点は女王國です。
そうなんです、Aブロックの終点は伊都国、総ブロックの終点は女王國、12000里と同じなのですよ。女王国=伊都国となるのです。

        
        伊都国=Aブロックの終点=東南12000里
        女王国==東南12000里
         奴国=12000里+100里=東南12100里
       


12000の総里程の最終地は、伊都国となります。古田武彦は総里程の12000里の最終地は不彌国であると言っていますが、これは鉄則に外れています。かつ、不彌国をその玄関にあたるとして、博多沿岸であるとしています。最終地が不彌国であり、かつ、玄関口であるというのは矛盾します。古田武彦は、”途中の方角、里程、日程のまま読む手法で見直しをする”ことを力説しています。この鉄則には大いに賛同してわたしなりに鉄則を貫徹したのですが、結果がまるで異ってしまいました。
 出発地点について、古田武彦は帯方郡治所をソウル近郊としています。1970年から2010年ぐらいの間の大勢的な説の一つだったのです。出発地と最終地も、見誤ったら区分里程が総里程に一致しませんし、一里の相対的距離の解も得られません。わたしは、大同江の南支流にある【沙里院】に想定しました。

 さて、12000里ちょうどの最終地が伊都国です。これとは別に、女王の境界は奴国で尽きます。それは、12100里のところです。
伊都国から再出発(リスタート)して奴国は東南100里と書かれていますから、東南線の上にあります。奴国は極南の境界であるとされるからです。



乍南乍東の南北の要素です。直角三角形辺Bの垂直線が南北の距離となります。
角ABは90度、直角三角形、挟角は37度です。詳しくは後節に。




至と到の文字の使い分けで区分できます。

第一の区間=郡から狗邪韓国まで
第二の区間=狗邪韓国から伊都国まで
中間の区間=伊都国から奴国まで
第三の区間=奴国から邪馬台国まで 
以下、比定地を書きますが、これはあくまでもシミレーションの結果として得られたものです。
   伊都国=吉野ケ里遺跡
   奴国=久留米市城島町浮島
   不彌国=久留米市市内
   投馬国=日田市小迫辻原遣跡
   邪馬台国=大分市
 魏志倭人伝東南1200余里
<從郡>循海岸水行歷韓國乍南乍東到、到の文字は上記のように金海市で区切らせます。



<從末盧国>東南陸行五百里到伊都國 二番目の到は伊都国です。伊都国に起点を変更して地勢を測定しなおすということです。榎説のように、伊都国からの放射説は取りません。が、その先の奴国からの方位・距離になります。なぜなら、奴国から東に転じているからです。

対馬を通過した東南線は末盧国に到達します。初めに日本列島に到達する地点となります。下の地図の赤のラインは第二区間の途中で海と陸の接点に当たります。



末盧国は糸島、前原だった!


末盧国はちょうど筑前前原駅の周辺です。郡から約690km。
「 又<從對馬國>渡一海千餘里至末盧國有四千餘戸濱山海居草木茂盛行不見前人好捕魚鰒水無深淺皆沈没取之」
*鰒=ふぐ=中国語での説明「河豚」
「潟が山と海の間にあり、人の背の高さより高い草木があって、前の人が見えないほどである。人々は海が浅かろうと深かろうと、潜って魚やあわびを好んで採っている。」
この国の状態が書かれているわけですが、会稽の倭水人とよく似ています。「今の倭の水人は潜って上手に魚や蛤(はまぐり)を採取する」・・・会稽の倭人との違いは「ふぐ」と「はまぐり」だけです。あわびは中国では豪華な珍味で、ふかひれ、つばめの巣と共に三大珍味の一つですが、長崎県が漁獲量は全国6位です。佐賀県は20位。
こうして軽視できないのが、「皆沈没」です。これは素潜りであることを示しています。ゴボウラ貝やイモガイは沖縄の水深30メートルに生息します。高価な交易品ですが、素潜りなら一般に5メートルが常識的限界ですから、沖縄の海女が命がけで潜水したのでしょうか。

末盧国の蘆
「末盧國有四千餘戸濱山海居草木茂盛行不見前人好捕魚鰒水無深淺皆沈没取之」
魏志倭人伝では、末盧国に前の人が見えないほどの草木が茂っている、という表現があります。末盧國ではその草木を彷彿とさせるのが蘆です。葦の類、ヨシまたはアシ(葦、芦、蘆、葭)でしょう。アシは河川及び湖沼の水際に群落し、茎は2m~6メートルまで成長します。 屋根材としても最適で茅葺民家の葺き替えに使われていますが、現在でも糸島産が全国各地に供給されています。

糸島は現在では半島ですが、古代は島であり、船越湾から博多湾まで船が通行していたといわれ、前原王墓の遺物などから交易で栄えた証拠が見つかっています。この水路の途中の志登には大港があったのです。
写真はアシで茎の長さは最大3メートルともいわれ、人の背の高さより上です。湿地帯で育つことが、大麻やカラムシなどと選別できる根拠です。
末盧國の名称は弁韓の12国のなかに弁辰瀆盧(とくろ)國という国名があります。・・・・瀆盧國と末盧國が対になる可能性はないでしょうか?、瀆盧國は現在の釜山と考えられますから、釜山ー糸島航路を連想させます。
弁韓の12国、以下
1.弁辰接塗國 2.勤耆國3.弁辰古資彌凍國(古嵯国)、4.弁辰古淳是國(乞飡国)、5.弁辰半路國(卓淳国)、6.弁辰樂奴國、7.弁辰彌烏邪馬國(大伽耶国)、8.弁辰甘路國、9.弁辰狗邪國(金官加羅国)、10.弁辰走漕馬國(卒麻国)、11. 弁辰瀆盧國(釜山)、12.弁辰安邪国(安羅国)
いわゆる任那の領土となります。安羅国のやや南に日本府を置いていました。
末盧の盧は蘆が元字か?!
 地勢を参考にしますと、この国は、歩く前の人が見えないほど草木が群集していたそうです。それは蘆(あし)でしょう。蘆・踋・趾・趺・足・蘆・葭・葦・芦・脚など、あしを宛がう音写としてすべて互換性があります。ヨシまたはアシ(葦、芦、蘆、葭、学名: Phragmites australis)は、イネ科ヨシ属の多年草。河川及び湖沼の水際に背の高い群落を形成します。群生するのは淡水なのですね。
末盧国は(海に面した)湿地帯だったのですよ。すると、末盧はまつろと読み、末蘆だった可能性もあると思えるのです。蘆(あし)は葦(あし)と同じですからね。本字が草書体だったら盧と蘆は見間違える可能性があります。
では、末蘆と読んだら、蘆国の端という意味になります。音読みは度外視したほうがいいのです。漢字は意味だけが重要だからです。いまでも、筆談ができるのは漢字の読みは違っていても意味が同じだからです。さて、末蘆国としたばあい、意味としては末のあしこくですから、その中心の「あしこく」はどこでしょう?こうした推理も面白いのです。
 たとえば、地名の場合、末盧国をまつらとカナをふって読ませていますが、松浦という古名が万葉集で「まつら」と読まれていたことから、すっかり、末盧がまつらと訓読されてしまいました。が、読み方で似ているだけで松浦に比定できるでしょうか。
伊都国が福岡市西区(旧怡土郡)であるというは、日本の文献の中で地名の音が似ているということからきています。かるた取りのようなこじつけにすぎません。文字の発音、すなわち音引きで日本の地名に当てはめるのは、初めから破綻しているのです。
末盧国松浦郡説では、呼子が秀吉の軍の終結地(名護屋城(現在の唐津市鎮西町))でもありましたし、明治からは軍港と使えるのは呼子だったようです。遡ること、万葉集では「松浦縣(まつらがた)。佐用比売(さよひめ)の子が領巾(ひれ)振(ふ)りし、山の名のみや聞きつつ居(を)らむ」(山上憶良)ほか、30種もあります。
宣化(せんか)天皇2年(537)大伴狭手彦(おおとものさでひこ)は朝廷の命を受け、任那を救援するため、軍を率いてこの松浦の地にやってきました。狭手彦は名門大連大伴氏の二男で凛々(りり)しい青年武将でした。

物資の補給や兵の休養のため、しばらく松浦の地に軍をとどめている間に狭手彦は土地の長者の娘の「佐用姫」と知り合い夫婦の契り(ちぎり)を結びました。

やがて狭手彦出船の日、別離の悲しみに耐えかねた佐用姫は鏡山へ駆け登り、身にまとっていた領巾(ひれ)を必死になって打ち振りました。

軍船は、次第に遠ざかり小さくなっていきました。狂気のようになった佐用姫は、鏡山を駆け下り栗川(くりがわ=現在の松浦川)を渡って海沿いに北へ向かって走って行き、やがて加部島(かべしま=呼子町)の天童岳の頂き(いただき)に達しましたが、遂に舟が見えなくなるとその場にうずくまり、七日七晩泣き続けてとうとう石になってしまったと言われています。

『万葉集』には佐用姫伝説について次の七首の歌が掲げられています。
松浦縣佐用比売(まつらがたさよみめ)の子が領巾振(ひれふり)し、山の名のみや聞きつつ居(を)らむ。
遠つ人松浦佐用比売夫(つま)恋に、領巾(ひれ)振りしより負へる山の名。
山の名と言ひ継(つ)げとかも佐用比売が、この山の上(へ)に領巾を振りけむ。
万代(よろづよ)に語り継げとしこの嶽(たけ)に、領巾振りけらし松浦佐用比売。
海原の沖行く船を帰れとか、領巾振らしけむ松浦佐用比売。
行く船を振り留(とど)みかね如何(いか)ばかり、恋しくありけむ松浦佐用比売。
音に聞き目にはいまだ見ず佐用比売が、領巾振りきとふ君松浦山。
『万葉集』の成立は、およそ八世紀後半と考えられています。『風土記』が成立した八世紀前半から、わずか数十年間で佐用姫伝説は愛情物語として万葉集に登場してくるのです。

沖行く船に領布(ひれ)振る佐用姫(唐津市鏡山頂上標高283㍍)
松浦佐用姫物語はこちらをご覧ください。 
朝鮮に出兵する恋人を佐用姫が見送った情景が目に浮かぶようです。朝鮮との往来が頻繁だったのは呼子港だったことは「確かです。しかし、3世紀後半松浦が末盧国だとする決定打にはなりませんが・・・。佐用比売が涙の別れと告げた相手である狭手彦(さてひこ)とはいったい何者でしょう。名門といわれるのは確かです。大伴金村の次男なのです。父の金村大連公は男大迹王(おおどのおおきみ)を近江で探し出し、継体天皇に即位させた功臣です。大伴氏の本系は遠祖は天忍日命(あめのおしひのみこと)、またの名を神狭日命:(かむさひのみこと)、又の名を天押日命(:あめのおしひのみこと)です。大伴氏は高皇産霊神→天忍日命おしひのみこと)→天津彦日中咋命→道臣命と伝えられていますが、『古屋家家譜』によると、高皇産霊神→安牟須比命─香都知命─天雷命─天石門別安国玉主命─天押日命おしひのみこと)─天押人命─天日咋命─刺田比古命─道臣命ー味日命ーー推日命ー大日命ー角日命ー豊日命ー武日命ー建日命ー建持連命ー味日命室屋大連公ー金村大連公ー狭手彦連公となっています。かくして、狭手彦の遠祖は天忍日命おしひのみこと)ですね。)狭手彦から後の分枝氏族は判氏(ばんし)と名乗り甲斐国に移動しています。さて、安房國一之宮安房神社の上の宮の奉祭する天太玉命(あめのふとだまのみこと)は下の宮の天忍日命(あめのおしひのみこと)はと兄弟神されています。(安房神社下の宮(摂社)の由緒より)忌部氏も大伴氏も太祖は天押日命でした。同じだったのです。すなわち阿波国(現徳島県)で強勢となった忌部の分枝氏族が東遷したのが安房神社です。忌部氏は伊国(阿波の旧國名)が本貫地です。
*ーから姓(かばね)がついていることに注目します。それ以前は~命です。その後は~連公となっています。この違いは、天皇位が確立したということを意味するでしょう。姓(かばね)とは氏族に付けられた称号で、臣、連、公、村主、国造、県主などで、階級を表すのです。姓(かばね)が朝廷から授けられるようになったのです。つまり日本書紀のうち、実在天皇がいつ頃からなのかという論議の一助になります。

阿波国一宮 大麻比古神社(徳島県鳴門市大麻町板東字広塚13)の由緒書き
『古屋家家譜』と対比すると猿田彦大神とは高皇産霊神と見て取れます。わたしは猿田彦大神を高祖とお呼びすることにします。高皇産霊神は別名、高御産巣日神(たかみむすひほかみ)またの神名は高木神です。天照大神の別名は神産霊神(かみむすひのかみ)です。高天の原の三柱(みはしら)の神になります。、次に二柱の神が誕生します。ここまでは国産みという意味で国祖です。みな獨神(ひとりがみ)となりますが、ひとりがみとは国の始祖ということです。整理すると阿波を開拓したのは天富命(あめのとみのみこと)で、天太玉命の孫、遠祖猿田彦大神こと高皇産霊神の七世になります。


大伴神社 大伴系 長野県佐久市望月字御桐谷227
住吉大伴神社 大伴系 京都府京都市右京区龍安寺住吉町1
日置神社 大伴系 富山県中新川郡立山町日中65
宇都可神社 大伴系 三重県伊賀市内保
越知神社 大伴系 福井県福井市河水14-22
爾佐神社(相殿) 在地系 島根県松江市美保関町千酌1061
安房神社 下の宮 忌部系 千葉県館山市大神宮589
下立松原神社 忌部系 千葉県南房総市白浜町滝口1728
日前國懸神宮 境内 國懸宮末社 大伴系 和歌山県和歌山市秋月365
天押日命・天忍日命(あめのおしひのみこ)とを祀る神社の一表(大伴系・忌部系の区分は著者の独断)

延喜式内名神大社 安房国一宮 旧官幣大社 『安房神社』
さて、里程論にもどります。
第三の区間は奴国を起点にして描くことができます。1800里=108kmの間隔です。

邪馬台国は別府と大分の中間!


BブロックはAブロックと起点が異なっています。Aブロックは郡に起点をおきますが、Bブロックは伊都国に起点をおくという、重要な転換がされているのです。くどいようですが、言い換えると、初めは方位磁石を朝鮮の帯方郡において測定し、次に九州の伊都国(吉野ヶ里)に磁石をおいて測定しているということなのですよ。立ち位置のロケーションが違うのです。至と到の文字をたがえている理由ですが、どのようにこれを読み取るのか、こうして図式化することで分かります。到の文字配列を構造的にとらえるのです。到の文字が、目的地ついたという完了を示したものだという説は当たっています。


伊都国を始点に東南100里のところに奴国があります。その奴国を起点に東に転じて、不彌国、投馬国、邪馬台国が東方向に並びます。

Bブロックの初めの奴国は、それでも、12000里より100里先になりますが、東南線上であることに変わりはありません。
奴国は伊都国から100里ほど延長したところにあるのです。そこで、東南線上100里、わずか6kmの所ですから、奴国と伊都国はきわめて近いところにあります。そして奴国がその最南端に位置するのです。あとで触れることになるのですが伊都国の津(波止場)は久留米の筑後川の沿岸にありそうです。


12000里の始点は帯方郡で、大同江の南支流の傍、沙里院付近、終点の女王国は九州の吉野ヶ里です。つぎに、伊都国を始点にして、奴国を東南線上に、次に奴国を起点にしてからは東方向に変わり不彌国、投馬国、邪馬台国と東の線上に描くことができます。


さらに、この鉄則を紐解くには、けっこう精妙でトリッキーな表記が潜んでいることを知らねばなりません。~余里という「余」ですが、付けているところと、付けていないところがあるのです。

区分距離の合計は、総距離に一致する。総距離は、12100里。地域ごとの距離は、12100里を案分した仮想値です。


  Aブロックには、東南に並ぶ国々は帯方郡治所ー狗邪韓国ー對馬國ー末盧国ー伊都国の5ポイントだけでした。それぞれに、7000余里、1000余里、1000余里、1000余里、500里の5つの距離が書かれています。合計10000余里+500里になります。それぞれ、10000里までは余里が付属しています。そこで余によって切り捨られた距離の数値を足してみましょう。余を15%に換算しますと、その総距離は、11500里になります。最後の500里には余がついていません。そのまま、500を足しこんでみます。11500里に500里を足せば、ちょうど12000里になります。

~余里の余は15%に相当する実数。


餘(余)を文章のレトリックでは、「あまりである」とか、「ほどである」と訓読しますが、プログラムには馴染みません。余を「~より少し多い数」のように解して計数化するわけです。余の相当分は15%増しにしてみます。

こうして、12000里の終点は伊都国【吉野ヶ里】だとしますと、Bブロックは、【吉野ヶ里】よりも北側にあり、かつ、東南のラインからは東側にまとまっている国々です。ところで12000にも余里がついています。
区分距離の総和は、12000里に一致しました。12000は固定値で、結果値と定義します。
余がつくのは、なんらかの別な意図があってつけたのです。それは、その先の延長された距離と考えます。
12000余里の余里が切り捨てた数値は、15%の1800里です。 Bブロックの最終地は【邪馬壹國】ですので、【女王国】と【邪馬壹國】の距離は1800里となります。
 すでに計算済みの値ですので、ここでは詳しく述べませんが、一里はメートルの長さに換算しますと、ちょうど60mになります。郡ー女王國まで12000里、そのGPS上の距離は723kmでした。一里60.25mです。郡からから狗邪韓国(釜山)まで、8050里、486kmです。やはり、60.37mです。誤差が一メートル以下です。(8050里は7000余里の値)、狗邪韓国から末盧國までは、11500-8050で3450里になります。これは海上ですよ。GPSでの距離は206kmです。演算結果は、59.71mです。海上の区間での距離も、60mから1m以内の差しかありません。

12000余里の余里が切り捨てた数値は、15%の1800里でしたね。1800里は一里60mでしたから約108kmになります。【奴国】から方位90度、すなわち東108kmは、大分県大分市になります。結論としては【邪馬壹國】は、九州の東北海岸に臨む所になります。ここは、よくよく吟味すると郡の領域の最遠地になります。

一里60mのリザルトは東夷伝の中で適用できる、有効な距離です!

 すべてGPSでの距離測定によって得られた実際の距離数を区間の里数で割れば、一里の仮数が得られます。この数値は一里60mです。誤差は小数点以下です。この方位は東南で方位角は143度です。
磁方位が3世紀半ばには磁方位東偏8度と仮定して、東南135度に8度をプラスしてあります。もし、コンパスを使用していたとのであれば、143度の方角が正しいということになります。シミレーションの結果は「あまりにもできすぎ」と唖然とするほどです。このラインがソウル、金海(キメ)、対馬北島、糸島前原、吉野ヶ里公園の上をぴったり通過するのです。下の画像は、中心点を【沙里院のやや北の街道】に、143度の方向に直線をGOOGLE MAPが描画したものです。
魏志倭人伝東南1200余里





では、上の表が出来上がるまでのプロセスをご覧ください。論より証拠ということですよね。
GPSでのMAPは再現性があります。ご自分でシミレートされる場合、
https://user.numazu-ct.ac.jp/~tsato/webmap/sphere/concentric/で試してください。これよりも、もっと精度の高い地図システムを使えるプロバージョンがあるのでしたら、吉野ヶ里から方位を322.6°距離720kmで実行してください。
グーグルの方位測定WEBでは3桁までなので、帯方郡治所の正確な位置はだせません。
323°では緯度38.24経度125.26
322°では緯度38.19経度125.1
GoogleEarth で緯度経度を入力して周辺サーチをしてみるのも良いでしょうが、なんであれ北朝鮮の地理ですので、そこに何があるのかよく分かりません。
帯方郡治所はこの間にあります。私は現在【沙里院】に比定しています。沙里院が港であることに気付いている人はあまり多くありませんが、50m幅の用水路が2kmほぼ直線にあり、南大同江に大型船が出入りできます。

スライドでお見せすることができませんが、PDFファイルにして格納しています。下のロゴをクリックしてください。ブラウザでPDFファイルが見られるように設定しておいてください。
開始するには、下の画像の上をクリックしてください。



 上記の大ロゴをクリックして、ご覧になりましたか?せっかく得た結果ですが、この里数の計算値は、倭人伝の親ブロックの中でしか使えません。この関数内だけに有効な変数ですから、ローカル定義です。このブロックの外にでれば、値はリセットされてしまいます。 しかし、Aのブロックの中は、里数はすべて直線距離だったということは、演算の結果からも証明されたのです。では、韓伝ではどうでしょうか。同じような数値が適用できるのでしょうか。まだ、未確認です。しばらくしたらトライしてみます。 さて、三国志の全般は長里で書かれています。中国の領域は絶対里数、公里で書くのが大方のルールだったのですが、中国の領域外は里数を図るすべがありません。西域では、だいたいラクダの商隊が一日で進む距離が30kmでしたので、ほぼ30kmごとに隊商宿(キャラバン・サライ)が置かれていました。 いずれにしても、公里(絶対値)を使って測ることはできません。それでも、里数で距離を示すのが正史のルールだったら、どうしたらいいのでしょうか? ここでは詳述しませんが、西域伝では、このキャラバンサライの間を100里として里数長安の里数の3分の2と定めました。いわゆる短里は使われていません。
後漢書の范曄は西域伝や魏志倭人伝のローカルな里数がよくわからなかったに違いありません。ですから、後漢書をサブテキストにするととんでもないことになります。後漢書の史料批判はあとでたっぷりいたします。後漢書とその後の正史を信用して魏志倭人伝の里程解釈にあてこむのは愚の骨頂というものです。まあ、范曄という人は、まさに、いい加減な人物だったのです。

一里60mの検証してみた!

全長12000里 総距離723kmのリザルト値は一里60.25mでした。この距離は後漢での一里415mの14.518%になります。アバウトには、14.5%。

では、韓伝ではどうでしょうか。同じような一里60mの数値が適用できるのでしょうか。韓伝に書かれた里程には倭人伝で導き出された距離比定値を論理的には適用できませんよね。烏丸鮮卑東夷傳の内容は、以下のような構成となっています。1)夫餘、2)高句麗、3)東沃沮、4)挹婁、5)濊、6)韓7)、倭、
 上記の配列では韓伝は倭伝より先に書かれています。ただ、東夷伝の流れでは後続の倭人伝が、前に書かれる韓伝の里数にも用いられているとしたら、これはかなり変則です。倭伝で詳細を得た結果を、韓伝に適用できるのかは実際に検証するしかありません。だた、倭人伝のカテゴリーの12000余里、その中に韓土も含んでいます。下の定義が上の定義を決めるのですから。ここで止まって、よく、考えてみると、ひとつ大きな見落としがあったのですよ。小さいところは見えても、大きなところは見えないのです。韓伝とか倭人伝とかのインデックスは、後世の学者が便宜的につけたもので、原文にはないということです。そこで気づくことは、韓伝と倭人伝と区別したのは間違いで、最初から一つのロケーションのカテゴリーで書かれていたのです。もし、改めて編成し直すと、倭韓伝と一括りにすべきだったのです。
烏丸鮮卑東夷傳第三十に、「是後倭韓遂屬帶方」とありました。その後、倭韓はついに帯方に属したと言っています。倭韓という、もう一つの大大ブロックが仕掛けられていたのです。
すると、韓伝と倭人伝を、一つのまとまりとして読まなければならないのです。


東夷傳に相当する序文------330字



倭韓遂属帯方  
韓伝------1521字
+  
倭人伝------1984字
 
   
上の大大ブロックのイメージですが、もともと韓伝と倭人伝は一つの倭韓伝として読むべきだったのです。

『魏志東夷伝』 韓伝
「韓在帯方之南 東西以海為限南與倭接 方可四千里有 三種一曰馬韓二曰辰韓三曰弁韓 辰韓者古之辰國也」

「韓は帯方郡の南にある。東西は海をもって限りとなし、南は倭と接す。およそ四千里四方。三種あり、一は馬韓と言い、二は辰韓と言い、三は弁韓と言う。辰韓はいにしえの辰国である。」
上記の、方可四千里にはわたしが割り出した定数である一里60mは適用できるでしょうか。まずは、朝鮮半島の東西の海の間を試しに測定してみることにします。一里60mですと、4000里は、240kmになります。
です。下の図を見ると、結果がでました。一里60mは倭韓の両エリアで適用できるのです。

辰国というのは、今の牙山市あたりにあった月支国を王都にして三韓を統べる国でした。この大王は中国西域から渡来した王・準氏でした。その辰国の後が辰韓だというのです。辰韓は弁辰と弁韓を合わせた領域ですから、24か国に分かれていました。弁辰は12か国、後に新羅となります。辰国の王族が新羅の先祖というわけです。どういうわけか慶州に遷宮したということですね。「辰韓者古之辰國也」からは、こうした韓半島の古代国家の由来もつかんでおいた方がよいのですよ。新羅が辰国の末裔なら、新羅が三韓を統一した動機はいにしえの辰国の復興だったとも思えます。



韓国東西400里
インチョンを始点に方位98度、方4000里、即ち240kmの線を引いてみます。
左右方向(四方の一辺)は、黄海(西海)と日本海(東海)との間の距離と、
ちょうどぴったりです。


壱岐方300里
一支国、壱岐島、「方可三百里」、300里ちょうどです。(~余がありません。)一里60mで300倍は、18kmです。バルーンとバルーンの線は、18km、南北でとった一辺の線。一里60mだと、ぴったりですよ。あっぱれ!壱岐國の王都は”前の原遺跡”に違いないでしょう。
対馬方400余里
赤い線は27.6km。(余を15%増しにします。400余里は460里とします。(400x1.15x0.06=27.6km)
「大官曰卑狗副曰卑奴母離所居絶㠀方可四百餘里」、対馬は北部を上島(かみじま)、南部を下島(しもじま)と言います(現在名)。方四百余里は、余がついていますから余の公式で絶対値、460里として計算します。一里60mとして、27.6kmです。下島にぴったり当てはまりますが、対馬全体の天地幅にはとどきません。原文をよく読むと、ヒクという大官とヒナモリという副大官が居る所の絶島が方四百余里、と書いているのですね。下島だけの距離だったわけです。魏志倭人伝では、大官が下島に居たことが判別できるのです。対馬が上島と下島とがあり、代官は下島におり、下島の大きさが方400余里です・・・というのです。さすがは陳寿さん、神技っていう感じですね。あっぱれ!
(江戸時代ですが下島の東海岸の厳原(いづはら)が対馬藩の城下でした。)魏志倭人伝は、どこも混乱していないですね。
対馬、方4千餘里が下島だけだった・・・みなさん拡散お願いします。

『三国志魏書』馬韓伝
【 韓在帶方之南 東西以海為限 南與倭接 方可四千里
一里0.06kmで方4000里、240kmを描画してみます。餘里とは書かれていません。

韓国方四千里

狗邪韓国を起点に方4000里、ちょうど240kmを円で描画。ソウルの南、水原(スウォン)まで。ソウルは韓の領域に含まれていません。つまり、ソウルには伯濟国があり、韓には入っていない可能性があります。韓地は水原(スウォン)より南側あたりになります。
つぎに、方4000里の対角線の距離を見てます。帯方郡と馬韓の国境を測定します。
上の図の方4000里の対角線の長さを出す式は(対角線)=(1辺)×√2です。√2の値は1.414、式のリザルトは5656.85里です。郡ー狗邪韓国の距離7000余里からリザルトを引きます。
実数8050-5657=2393の結果値は、郡と韓国の国境までの距離となります。2393里はkmに直すと、2393に0.06を乗じて143.6kmです。483km-143.6=339.4km 金海から339kmが韓国と帯方郡の国境です。下の図のピンクの円周の下が韓国の国境です。意外にも、ソウルの西北30kmぐらいに帯方郡が迫っていたのですね。


金海(キメ)市には大駕洛國太祖王妃普州太后許氏維船之地(대가락국태조앙비 보주태후허씨유주지지)と刻まれてい祠があります。また、金官伽耶国王系図での太祖のスロワンヌン)があります。7000余里は1.15をかけて実数の値=8050里とします。8050x0.06km=483kmです。金海(キメ)市から半径483kmを円を描画します。
郡治所の位置を狗邪韓国から逆描画してみるという作業です。この円周が沙里院あたりをさしています。一里60mが正しい証明ができたことになります。また、同時にピョンヤンの南の赤い丸、ここが沙里院を指しています。すなわち、沙里院周辺が帯方郡の郡治所跡なのです。関連して言えることは、郡がソウルだと考える人には里数の解明ができません。短里(66m~67m)を用いることはとうていできないからです。ここにおいて、多くの過去の邪馬台国論が郡をソウルとしている説は破綻します。郡はスタートの起点ですから、ソウルを起点にした里程論は成立しないことは明らかです。
帯方郡治所を測定する。
帯方郡治
平壌は●です。平壌の南100kmぐらいが帯方郡治所になります。このシミレーションの意味は大きいです。東夷傳全体が一里60mで適合するということです。

 一里は60mは再現性があるので確実な定数としてみなせます。

ご自身で実験してみてください。
Google 方位測定=URL:https://user.numazu-ct.ac.jp/~tsato/webmap/sphere/concentric/

トピックス:卑弥呼の墓は直径23m!
 魏尺では一歩は六尺で144.72cm、卑弥呼の塚は、100歩+余歩で直径約144mと考えられています。ですが、西域は西域の、東夷には東夷の長さ単位が用いられていることはすでに例証してきました。卑弥呼の墓は中国本土にはないのですよ。みなさん、こうして中国の度(長さ)の単位そのままのメートル数値で換算するのは間違いだと気づくはずです。倭人伝の一里は60mで、一里は300歩、300で逆算すると一歩は20cm、100余歩は余を15%として、なんと23mにすぎないことになります。直径23mの円墳として卑弥呼の墓を探すようにしてください。
6尺=一歩
10尺=一丈
300歩=一里
1800尺=一里
順位 古墳名 墳丘規模
全長(約m)
所在地
1 仁徳天皇陵古墳(大山古墳) 世界文化遺産 構成資産 486 大阪府堺市堺区大仙町
2 応神天皇陵古墳(誉田御廟山古墳) 世界文化遺産 構成資産 425 大阪府羽曳野市誉田
3 履中天皇陵古墳(石津ヶ丘古墳) 世界文化遺産 構成資産 365 大阪府堺市西区石津ヶ丘
4 造山古墳 350 岡山県岡山市新庄下
5 河内大塚山古墳 335 大阪府羽曳野市南恵我之荘・松原市西大塚
6 五条野丸山古墳 310 奈良県橿原市見瀬町・五条野町
7 ニサンザイ古墳 世界文化遺産 構成資産 300以上

大阪府堺市北区百舌鳥西之町

8 渋谷向山古墳(景行陵) 300 奈良県天理市渋谷町
9 仲姫命陵古墳(仲津山古墳) 世界文化遺産 構成資産 290 大阪府藤井寺市沢田
10 作山古墳 286 岡山県総社市三須
11 箸墓古墳 280 奈良県桜井市箸中
12 五社神古墳(神功陵) 275 奈良県奈良市山陵町
13 ウワナベ古墳 255 奈良県奈良市法華寺町
14 市庭古墳(平城陵) 250 奈良県奈良市佐紀町
メスリ山古墳 250 奈良県桜井市高田
16 仲哀天皇陵古墳(岡ミサンザイ古墳) 世界文化遺産 構成資産 242 大阪府藤井寺市藤井寺
行燈山古墳(崇神陵) 242 奈良県天理市柳本町
18 室大墓古墳(室宮山) 238 奈良県御所市室
19 允恭天皇陵古墳(市野山古墳) 世界文化遺産 構成資産 230 大阪府藤井寺市国府
20 宝来山古墳(垂仁陵) 227 奈良県奈良市尼ヶ辻町
21 太田茶臼山古墳(継体陵) 226 大阪府茨木市太田
22 墓山古墳 世界文化遺産 構成資産 225 大阪府羽曳野市白鳥
23 巣山古墳 220 奈良県北葛城郡広陵町
24 ヒシアゲ古墳(磐之媛陵) 219 奈良県奈良市佐紀町
西殿塚古墳(手白香皇女陵) 219 奈良県天理市中山町
26 佐紀石塚山古墳(成務陵) 218 奈良県奈良市山陵町
27 川合大塚山古墳 215 奈良県北葛城郡河合町川合
28 築山古墳 210 奈良県大和高田市築山
西陵古墳 210 大阪府泉南郡岬町淡輪
太田天神山古墳 210 群馬県太田市内ヶ島
31 津堂城山古墳 世界文化遺産 構成資産 208 大阪府藤井寺市津堂
32 桜井茶臼山古墳 207 奈良県桜井市外山
陵山古墳(日葉酢媛陵) 207 奈良県奈良市山陵町
34 コナベ古墳 204 奈良県奈良市法華寺北町
35 御廟山古墳 世界文化遺産 構成資産 203 大阪府堺市北区百舌鳥本町
36 摩湯山古墳 200 大阪府岸和田市久米田摩湯町
白鳥陵古墳(軽里大塚古墳) 世界文化遺産 構成資産 200 大阪府羽曳野市軽里
新木山古墳 200 奈良県北葛城郡広陵町三吉
島の山古墳 200 奈良県磯城郡川西町
神明山古墳 200 京都府京丹後市
両宮山古墳 200 岡山県赤磐市
箸墓は大きすぎて候補から真っ先に脱落しますね。しかし、古墳とは、5世紀半から以後のものが大半で、中には須恵器が出土したりしてますよね。卑弥呼の墓とは3世紀中半です。上のリストの古墳はすべて卑弥呼の塚=墳墓ではありません。



沙里院

帯方郡郡治所は【沙里院】でいいでしょう。=初めて見る帯方郡の起点ですかね。魏志倭人伝の郡より12000余里のスタート地点です。

黄海道地域に分布する楽浪・帯方郡の塼室墓(せんしつぼ)が分布する地域と一致すると思われます。すなわち、黄海北道燕灘郡(よんだんぐん)金鳳里,黄海南道信川郡セナル里,黄海南道三泉郡楸陵里,黄海南道殷栗郡雲城里など、このエリアは中国貴人の墳墓が700基もあると云われています。

黄海南道(上)

帯方郡は《晋書》の地理志に拠ると,帯方,列口,南新,長岑(ちようしん),提奚(ていけい),含資,海冥(かいめい)の7県を統轄したことになっていますが,この7県が現在のどこに比定されるかについては列口、帯方県以外はほとんど不明です。






帯方県については,現在の黄海道鳳山郡沙里院面にある唐土城が旧帯方郡治所址と推定され,そこからは多くの瓦,塼,泉(銭)などが発見されており,それらは旧楽浪郡時代の出土品と同種である。特筆すべきことは,その付近の墳墓群に,1912年〈帯方太守,張撫夷塼(ちょうぶいせん〉という銘のある塼室墓(せんしつぼ)が発見されたことで,その結果,在来不明であった帯方郡の位置を推定する重要な手がかりを得ました。人口は帯方県に多く、帯方県が一番繁栄していました。イ・ビョンドはまた1911年、日本人学者らが黄海道,鳳山郡で発掘した ‘帯方太守 張撫夷の墓’ を根拠に帯方郡の治所である帯方県が鳳山郡だと規定しました。

楽浪郡、帯方郡の地里は楽浪塼室墓の研究が参考になります。楽浪塼室墓の集中している場所が郡治所のあった場所として有力です。知っておくとためになる帯方郡の知識です。高久健二氏の研究論文 PDF転載 下の大きなロゴをクリックしてでPDFを参照してください。
楽浪・帯方郡塼室墓の再検討 [論文要旨] 朝鮮民主主義人民共和国の平壌・黄海道地域に分布する楽浪・帯方郡の塼室墓について,型式分 類と編年を行い,関連墓制との関係,系譜,および出現・消滅の背景について考察した。 【キーワード】楽浪郡,帯方郡,塼室墓,横穴式石室 はじめに ❶塼室墓の分類と編年 ❷塼併用木槨墓と塼室墓の関係について ❸塼室墓・石材天井塼室墓・横穴式石室墓の関係について ❹塼室墓の系譜 ❺塼室墓の出現と消滅の背景 おわりに 高久健二 TAKAKU Kenji
「黄海南道安岳郡路岩里古墳では「建武八年西邑太守」「西邑太守張君塼」銘塼が発見されており,被葬者が西邑太守の張氏であったことがわかる。官職の西邑太守については判断材料がないが,後趙の建武八年(342年)という楽浪・帯方郡滅亡後の年号をもっているので,遼東韓玄菟太守領佟利と同様に虚号の可能性もあるだろう。かつて安岳郡は銀川郡を含んでおり大同江に面していた。漢四郡の帯方郡を安岳に比する場合もある。東に遂安郡・延山郡、南に瑞興郡・鳳山郡、西に沙里院市・黄州郡、北に祥原郡と接する。」
オレンジ色のエリアの北側が銀川郡で、分割前は安岳郡(Anak)だった。

上の地図はMAP上に主要な地域をバルーンで示しています。線はソウル方向です。
「1949年に黄海道が南北に分割されて黄海南道(ファンヘナムどう、朝鮮語チョソングル表記:황해남도〔ファンヘナムド〕)となり現在に至っています。
安岳郡 - 안악군【安岳郡】Anak-gun (アナク=クン)は平野の農産物の中心地で米、麦類、トウモロコシなどを産出し、付近は鉄産地で赤鉄鉱を産出し鉄鉱石は黄海製鉄所(松林市)へ送っていました。郡内には高句麗(こうくり)時代の壁画古墳の安岳1号、2号、3号墳があり。2004年、世界文化遺産に登録されました。
安岳3号墳 1949年朝鮮民主主義人民共和国の黄海南道安岳郡安岳面兪雪里で発見された高句麗時代の壁画古墳。複雑な石室構造をもつ。石室には被葬者夫妻の座像,舞楽図,騎馬行列,文人・武人像,牛舎・馬厩や装飾文様が描かれ,壁面には,357年の墓碑銘ものこる。被葬者は高句麗に亡命した燕の武将冬寿とする説が有力である」(百科事典マイペディアの解説)

楽浪土城は楽浪郡治所(太守のいた所)ですが、帯方郡治所はどこでしょうか。
上の図を見る限り、智塔里土城が有力です。智塔里遺跡(ちとうりいせき)
朝鮮民主主義人民共和国,黄海北道鳳山郡智塔里にあり,主として櫛目文土器(新石器)時代から原三国時代にわたる遺跡。瑞興川右岸の沖積地にあって,そこに残る古唐城もしくは唐土城を帯方郡治所跡とする説が早くからあった。この土城は現在,智塔里土城と呼ばれているが,1954年にその付近に原始の遺物が散布することが知られ,57年に発掘調査された。土城内の第I地区では,櫛目文土器時代の平面方形の竪穴式住居跡1基が検出され,そこから櫛目文土器や各種の石器が出土している。(世界大百科事典 第2版の解説)
一方、公孫氏の総都督はどこでしょうか?
さて、公孫の襄平城、いまの遼陽市です。公孫氏が帯方に総督府をおいていたとしたらそれは公孫流の城跡となるでしょう。それをみつけることは容易ではありませんが、私なりの推定地はオレンジ色のバルーンの所です。後漢の帯方郡治所とは15kmほど離れています。帯方郡は7県に分かれ、帯方県 列口県、南新県 長岑県、提奚県 含資県、海冥県でした。また、大同江はかつて列水とも言われていましたが、大同江河口の南河岸に列口という地名がありますが、現在に残った地名と思われます。鉄の産地でしたから、とうぜん積み出す港が必須ということになります。南大同江に隣接していて水路がなければなりません。
環濠の形が人工的な感じを与えます。単なる川が合流してできた蛇行でしょうか?
吉野ヶ里の北郭の外観によく似ています。

この環濠は未調査のため遺跡調査がなされていません。ただ、安岳郡の真ん中平野部にあることが重要でしょう。



邪馬台国の位置は「東行」で決まり!

 邪馬台国のロケーションは、其南という方位だけで決め手を欠いて未解決問題でした。今回、下の子ブロックの中に、孫ブロックをつけて、もう一つ、決め手となる条件があることを示してみます。
それは、「行」の文字です。東行至不彌国の行ですが、「東に行きて不彌国に至る百里」と、訓読するから分からなくなるのです。行は、東に並んで・・・とか、東に列している・・・とか「行列」しているという意味で捉えます。そうしますと、「東に不彌国、投馬国、邪馬台国が列をなしている」という条件ブロックだと見ることができます。
方向を見る立ち位置は奴国で、そこから東にABCと並んでいるという状態なのです。
東至不彌国ではなく、東行至不彌国と、行の一字を挿入していることに着目します。
「行」は、日本語では「行く」、英語では[Go]と訳しています。中国語では「Go]の意味は「去」です。
魏志倭人伝では、去が一か所使われています。
「又有侏儒國有其南人長三四尺女王四千餘里」
「また侏儒国があり、その南に位置する。人の身長は三、四尺で、女王国から離れること四千里である。」というのが通訳です。去を離れると訳しています。うまく訳していますねえ。離れているなら、「離」でしょう。去は「行くこと女王國四千里」と訳すのがいいのです。
つまり、去が日本語の行くにあたるので、その他の魏志倭人伝の「行」は行くと訳してはいけませんね。では、どういう意味に訳したらよいのでしょうか。

行は静的述語です。形容動詞ともいうのでしょう。西域伝に少なからず使われていますので用例をもって説明したいと思います。『魏略西戎傳』から行の用例として二行抜粋してみました。これは、行という意味が「行列している」というのが本来の意味だということ教えてくれます。

その1、「南道西,且志國、小宛國、精絕國、樓蘭國皆並屬鄯善也。」
「南道を西に行列している且志國、小宛國、精絕國、樓蘭國はみな鄯善(ローラン)に並属している」 このように、訳すのが適切なのです。

その2、「中道西尉梨國、危須國、山王國皆並屬焉耆,姑墨國、溫宿國、尉頭國皆並屬龜茲也。」
中道を西に沿って並んでいる尉梨國、危須國、山王國は皆、焉耆(えんぎ)に並屬している。姑墨國、溫宿國、尉頭國は皆、龜茲(クチャ)に並属している」
*焉耆國(えんぎ、漢音:えんき、拼音:Yānqí)西域都護治所の北東400里、中央アジア・タリム盆地の北東縁にある淡水湖、ボステン湖(中国語: 博斯腾湖)の周辺にある。焉耆国は匈奴や烏孫のような(遊牧民族)ではなく、城郭に住む魚農民族であった。

その1では、行列していると訳し、その2では、沿って並んでいると訳しましたが、どちらも同じです。どちらも、「西行」でもって、国々が東から西に並んでいる状態を示す静的述語となります。

魏志倭人伝の「東行」という二文字は次のBブロックの、孫ブロックにあります。
東に列をなす・・・、東に沿って並んでいる、東に行列している・・・とか訳すのが正しいのです。並ぶのならば、当然、複数国でなければなりませんよね。
ここがすごく重要で、この説の醍醐味なのでが、つぎの原文によくよく目を通してください。東に在るのは不彌國だけじゃないんです。複数国にする必要があるのですから、投馬國と邪馬台国も含めなければなりません。そこで、はじめて行の条件がなりたつのです。くどいようですが、行の一字を条件式として見たうえで、図式化するということです。

子ブロック_B

<自伊都国>東南至|奴國百里□官曰兕馬觚副曰卑奴母離;二萬戸
孫ブロック

<自奴国>東至不彌國百里|官曰多模副曰卑奴母離;千餘家

<自郡>南至投馬國水行二十日|官曰彌彌副曰彌彌那利可五萬餘戸

<自郡>南至邪馬壹國|女王之所都水行十日陸行一月/官伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮可七萬餘戸

 自女王國以北其戸數道里可得略載
 
 Bブロックを現代語訳する!
「伊都国から東南にある奴国まで100里あります。兕馬觚という長官と卑奴母離という副長官がいて、二万戸持っています

奴国から不彌国と投馬国と邪馬台国が東に列をなしています。(始めに列する)不彌国は百里で、長官は多模、副長官は卑奴母離で、千余家の戸数を持っています。(次に列する) 投馬国は、帯方郡から南に水行20日ほどの距離で、長官は彌彌、副長官は彌彌那利といい、五万戸以上持っています。 (次に列する)邪馬台国は、女王が封地として支配している国で、帯方郡から水行10日陸行一か月で、伊支馬、次に、彌馬升、次に彌馬獲支、次に奴佳鞮という長官がいて、およそ7万戸以上持っていると言えます。

女王國から以北はその戸数と道里を得ることができたので、略して載せました。
(自女王國以北其戸數道里可得略載)

① 女王国=伊都国の等式が成り立ちます。また、奴国から東に転ずる方位と別に女王国東というフレーズは100里ははなれた平行線となります。
②帯方郡(曹魏)の総督府が伊都国になります。

図A:
また、有は人称が主語になっていますので、「持っている」と訳しました。これは、存在の有ではなく、所有の有構文なのです。可は可能の可で、~といえる、という可能の表現の調子で訳しました。
 訳には表現されていませんが、
1、郡から東南のライン
2、奴国から東のライン=女王国以て北のライン
3、郡から南水行10日陸行一月のライン
3、郡から南水行20日のライン

方位の要素が3つあるのです。1-3でに比定地は九州の中にあって、畿内にまでとどかないのです。

奴国を起点に方位を東に取り直すのです。新規に方位をとるということは一番重要ことです。Bブロックを読み直してください。ここにAブロックとは違った分岐があるというです。
 奴国の東南6km 起点として、方位93度、108kmのラインを引いてます。Bブロックのリザルトでは、奴国から方位ポイントに取り直すのです。
こうして、上の図のようなラインが引けます。この到達点は、大分市西市街周辺になります!

上のBブロックを補注しながら訳すと次のようになります。
「伊都国から東南、奴国まで100里あります。兕馬觚という長官と卑奴母離という副長官がいて、二万戸持っています

<奴国から>東に、不彌国と投馬国と邪馬台国が列をなしています。不彌国は100里で、長官は多模、副長官は卑奴母離で、千余家を持っています。 投馬国は、帯方郡から南に水行20日ほどの距離で、長官は彌彌、副長官は彌彌那利といい、五万戸以上持っています。 邪馬台国は、女王が封地として支配している国で、帯方郡から水行10日陸行一か月離れていて、伊支馬、次に、彌馬升、次に彌馬獲支、次に奴佳鞮という長官がいて、およそ7万戸以上持っていると言えます。

女王國から以北はその戸数と道里を得ることができたので、略して載せました。

奴国から東に国が並ぶのか検証してみます。

ブロック内は女王国を起点にしていますが、この線を図式するために帯方郡からの起点にした二線が交わる所というように、三角形の計算式がシステムとして組み込まれています。
はじめに、南至投馬國水行二十日の水行20日は距離に換算することができます。水行十日陸行一月も表現を変えた距離です。a+B+108kmで計

方位素語とは、方位を示す最小の語ということで、分析します。
南という単語は、12カ所
東は10カ所
北 5カ所
南北 が2カ所
西 はゼロ
東北 ゼロ

方位線の数は合計6種類になります。
魏志倭人伝の全文は方位線は8方位以上必要ありません。
整理すると以下のようになります。
南=8
東=6
北=3(北岸=1・以北=2)
東南=4
南北=2
乍南乍東1
西=0
東北=0

南が圧倒的に多い方位素だということは、北方のある地点から観察していることが明らかです。西と東北がありません。北が3カ所ありますが、北岸、以北の複合語用例になっています。
以て北は、緯線のような水平線です。南北は経線のような垂直線です。従って、『乍南乍東』は経線と緯線の組み合わせです。ここで気づくことは、内角90度の直角三角形の図形が描けます。底辺、高さ、斜辺の一辺が分かれば、『三角関数』を使って長さを計算できます。乍南乍東の総距離を求めるには、高さと底辺の合計値でいいわけです。下に図解しています。





奴国を起点に不彌国・投馬国・邪馬台国のラインを表記していると見ます。もともと奴国はi帯方郡から東南のライン上にあります。では、南水行10日陸行一月のラインはどう関係するのでしょうか。邪馬台国と投馬国は奴国から列しているますが、水行10日陸行一月のライン、水行20日のラインがオーバーラップしていると考えます。
水行10日陸行一月も距離に置き換えます。


東の方向の方位をきめる!




1、郡から東南のライン=C
2、女王国から東のライン=A
3、郡から奴国までの南北距離=B
4、歷韓國乍南乍東の乍南の乍南の通算合計が辺B、乍東の通算合計が辺Aとなります。

こうして、女王国東のライン(A)が描けます。【伊都国=吉野ヶ里遺跡】より東に延長すると、久留米市ー日田市ーを通過し、杵築に到達します。久留米市ー日田市ー大分、このラインが女王國以て北のラインになると考えられます。

<自郡>南至投馬國水行二十日、<自郡>南至邪馬壹國水行十日陸行一月は、ラインBになります。ローカルな倭地固有の里数を日数を以て表記したことになるのです。船行一日=Xという距離の単位とみるわけです。


水行一日37.8km陸行一日14.4kmの算出方法


 


Bの距離は高さh=9663里になります。下の図は帯方から投馬国までの距離を求めるための参考図です。この不等辺三角形の高さhは9663里となります。右の斜辺Bは12100里、角度cは127度、これを代入して左の斜辺Cを求めます。投馬国は南水行20日ですから、水行一日の里数が出すことができます。


邪馬台国を大分、投馬国を日田という前提で計算します。
①辺a右、邪馬台国まで、12000X0.15(12000余里の余の値)=1800里
➁辺b左、奴国ー日田の距離は上の1800の45%、811里とします。(投馬国=日田を前提とします。)

 投馬国
 邪馬台国
帯方奴国間すなわち斜辺Bが12100里になっていなくてはなりません。(伊都国まで12000里)
辺Bは帯方ー奴国間、12000里+100里、12100にたいして、12099になっていますのでOKとします。
結果:
右図、辺Cが帯方ー投馬国間の結果値です。12604里です。
まず、12604里が水行20日の里数とし、水行一日は630里、小生の定理一里0.06kmで換算すると水行一里は37.8kmとなります。

邪馬台国は水行10日分、6300里を左の辺C13260里から引きます。結果値は6960里です。この値を陸行一か月、29日で割ります。陸行一日は240里、kmでは14,4kmです。



底辺aは郡から奴国までの南北距離にます。
水行~日 =水上のA点とB点を結んだ(直線)距離を表す単位//水行一日は37.8km(帯方ー投馬国まで全長756km)
陸行~日=陸上のA点とB点を結んだ距離単位//陸行一日は14,4km(帯方ー邪馬台国まで全長796km)
*29=陰暦の朔望月
*馬行一日=馬に乗ってA点からB点まで到達する距離単位=164.12km*はじめにの章に詳述




倭奴国は倭国から遠く離れたの極南の境にある。

 親ブロックは、はじめから「郡至女王國至萬二千余里」と条件をはめているのですから、女王國は終点でした。ですから、孫ブロック内の国々は、みな女王國=奴国よりもより北にあるのです。 わたしは、奴国を久留米市の筑紫川の東岸付近と比定します。


この孫ブロックには、さらに、子の上位ブロックの条件が重なります。「女王国よりも北にある」というのです。 奴国も投馬国も邪馬台国も戸数を書いていますよね。ですから、「女王國以北」に当てはまるのです。 方向の分岐式として、奴国より東で、投馬国と邪馬台国は帯方郡から南で、女王國より北の領域にあるのです。
具体的に言えば、久留米市ー国東半島南部のラインよりも北にあるということです。下の図図をご覧ください。


東のラインは国東半島の南側の海岸で、東に海が開けているところです。邪馬台国は、間違いなくこの周辺にあります。


奴国を起点に方位を東に取り直すことは一番重要ことです。Bブロックを読み直してください。ここにAブロックとは違った分岐があるというです。
 奴国を起点として、方位90度、108kmのラインを引いてます。Bブロックのリザルトでは、奴国から方位ポイントに取り直すのです。108は12000余里の余の分で15%の値です。



この赤い線が「女王国以て北」の区分ラインです。投馬国も邪馬壹國も、そしてまた狗奴国もみなこの線より上、北側になければならないのです。
こうしたことから、やっぱり邪馬台国は豊国の首都ともいえる宇佐に比定したいのですが、シミレーションの結果では大分になりました邪馬台国が7万戸ほどの人口を抱えるとなりますと、大分になります。やはり大分が地域学的にも有力になるのでしょう。国東半島、別府、大分は九州の中で文化や言語、早い話筑紫とは文化が違うと言われています。差別じゃないですが、九州じゃ公然の知られた事実なのですよ。秦氏が渡来し定住した最初の場所が豊国、大分県です。7世紀には播磨、奈良、京都に移動し、やがて平安京を築きました。さらに関東方面にも移動しています。いずれも養蚕で栄えた地は秦氏の末裔の可能性が高いのです。
九州から移動したのですから、九州が先に栄えていて畿内はその後になります。当時、丹の採掘でもっとも繁栄していたのは阿波徳島、伊予國だった可能性があります。わたしは伊都国の文字に伊の字があるのが気になってしかたありません。姫島は阿波や畿内へ向かう瀬戸内海航路の出発地であるばかりか、豊後水道を南に向かう航路の出発点でもあり、海路の経由地でした。


邪馬台国は大分市にあった!!上原館跡あたりに到達しています。
方位を90、真東にとると別府市ですが、108㎞の終点は別府湾の海上に抜けてしまいます。地域学的にも港が河に置けることも加味しないといけませんから、別府よりは大分の方に地の利があります。別府は水銀鉱山がありましたから、最有力地でしたが、大分にもあったようです。

図A
図B

図Bの緑の線は、奴国を起点にしたまひがしの方位線です。大分市を東西に通過しています。図Aと対比すると地域学とも一致点があります。ただし、距離は120kmとなります。
地域学からは、邪馬台国大分説が圧倒的に有利です。縄文から弥生にかけての遺跡が多いことが挙げられます。また、交易での良港があったと想定できます。

杵築や日の出は古代には良港があったことは、容易に考えられます。磁方位が東偏の時代です。杵築はやや西偏、82.6度になります。ちょっと杵築は方位の点で無理があります。
そこで、宇佐ですが国東半島のさらに西になりますから、杵築よりも無理がありますね。


文字から見る邪馬台国は宇佐

 古事記では、宮崎の美々卯を出発し宇佐に立ち寄った神武天皇に仮宮を用意したと書かれています。その宮の名前が、次のようになっています。宇佐八幡宮ができたのはおそらく初期は5世紀末ごろでしょうから、3世紀には無かったでしょうし、水銀朱鉱山もありません。
「足一騰宮」(古事記)
「阿斯・毘徒鞅・餓離・能・彌椰」(日本書記)
どちらも、「あしひとつあがりのみや」と読みます。
足とか阿斯とか文字が違いますが読みとしては「あし」で葦、蘆に通じます。
蘆国の一宮という意味に転化します。
では、あしこくはというと、今でいう古名「豊国」に当てはまりますよ。豊国の最大領域は、宇佐社の寺社領が佐賀県にまで及んでいたことから、糸島がかつては邪馬台国の属国だったことも否定できません。しかし、


あし→蘆→邪
あがり→騰→馬
ひとつ→”一”→壹
みや→宮→国




別名、「一柱騰宮」(日本書記)とも書かれます。
奈良の都も葦原と言われていたころがあったのですが、あしは悪しに通じるので吉野に変わったそうですが、地名の音読みで比定地を割り出すことは言葉遊びゲームです。
その周辺の環境や様子、いわゆる地勢は傍証にしかなりませんが、私は、方位、距離、地勢、最後に地名というふうに優先順位で検証し、地名は後回しにしています。ですから、投馬国と日田市の名称が似ていないということで、先に、否定してしまう愚を冒しません。中国が称する地名と倭人が称していた地名が一致するということはないのです。方位、距離を度外視して、地名が似ているということだけで邪馬台国比定地を決めた新井白石の説はもうめちゃめちゃなんです。学問的には評価できません。その証拠に、新井白石は九州に”山門”という地名を見つけてから、九州説に転向しました。

ところで、北海道のアイヌ語の”音”に因む地名はけっこう一致しています。北海道の地図「東西蝦夷山川地理取調図」は松浦武四郎(1818~1888)が踏破して、アイヌ人のガイドに聞いた地名をそのままカタカナで記したことから北海道の古地名の残存率が高いのです。しかし、とくに、朝鮮では三国時代の地名は、統一後は、すべて新羅語に変わっています。百済は現代ではペクチェと呼ばれていますが、日本側ではクダラと今日まで言い慣わしています。百済は、”ク多羅”のような別な古代地名の方言だったのです。地名や【人名】は、当時の高句麗語・百済語が消失しているので、言語的な遡及的研究ができません。日本流の”くだら”の発音が古代の伽耶語の方言だった可能性もあるのです。
 また、日本では、伽耶にちなむ地名が多いのですが、文字が転化をしています。日本語はカヤの一方言だったという説もあるのです。そうしたことで、安本美典の言うように、地名が古代からあまり変遷していないということを確率的に証明しても仕方がないのですね。こういうのは目くらましの統計ですね。





奴国との境が女王国の尽きる所

子ブロック_B

<自伊都国>東南至奴國百里/官曰兕馬觚副曰卑奴母離二萬戸
孫ブロック
<自奴国>東行至不彌國百里|官曰多模副曰卑奴母離;千餘家
<自郡>南至投馬國水行二十日|官曰彌彌副曰彌彌那利可五萬餘戸
<自郡>南至邪馬壹國/女王之所都水行十日陸行一月/官伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮可七萬餘戸
自女王國以北其戸數道里可得略載
孫ブロック
 其餘旁國遠絶不可得詳次有|;斯馬國次有|;巳百支國次有|;伊邪國次有|;都支國次有|;彌奴國次|;好古都國次有|;不呼國次|姐奴國次有|對蘇國次有|;蘇奴國次有|;呼邑國次|華奴蘇奴國次|鬼國次有|;爲吾國次;|鬼奴國次有|;邪馬国次|躬臣国次;|巴利国次;|支惟國次|鳥奴國次

奴國此女王境界所盡

 有構文では、場所が有の前に表記されるのでしたね。ですから、「次に鳥奴国あり」と訳してはいけないのですよ。「鳥奴国が次に有る」と訓読するのが正しいのです。

「次に鳥奴国があり、次に奴国がある。これが女王の領域の尽きる所である」と訳すのは問題があります。
「鳥奴国が次にある。奴国が此の女王の領域の尽きる所です。」と訳すのが正しいのです。

 すると、鳥奴国が次に有るで、区切りがつきます。くどいようですが、奴国が次次の最後ではないのです。いわゆる、奴国が重出している問題ですが、奴国が重複しているとみていいのです。奴国はその餘傍で遠絶している国々の中には入らないのです。

  
 上記のように、孫ブロックを省略しますと、子ブロックにある奴国の関連条件だけが残ります。
さて、女王国は奴国とほぼ同じ地点にあります。その差は100里、わずか6kmです。このことを念頭にして、次のように解釈します。
女王の尽きる境界は奴国の極南にあたります。また、女王国から以北というのも、奴国より以北というのですから、
奴国を含めて北側のエリアなのです。

女王国の定義とその特殊的性格について。

1)丗有王皆統屬女王國郡使往來常所駐;倭には三十人の王がおり、みな女王国に服属している。帯方郡の使いが往来していて、つねに女王国に駐在している。
2)自女王國以北其戸數道里可得略載;女王国の以て北にある国々はその戸数や道里はだいたい記載できた。
3)奴國此女王境界所盡; 奴国が女王の(支配している)領域の尽きる所である。
4)女王國東渡海千餘里復有國皆倭種;女王国の東(の地)から渡海し千余里ほどのところに再び国(日振島)があり、その人々は皆倭種である。
5)自女王國以北特置一大率檢察諸國諸國畏憚之常治伊都國;女王国から北には、(女王は)特別に大率を置き、諸国を検察しており、他の諸国はこの大率を畏れ憚(はばか)っている。大率は常に伊都国で治め、国の中での立場は中国における皇帝の刺史のようである。
6)王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯;伊都国の王が使いを出して京都(洛陽)・帯方郡・諸韓国に使者を送るとき、および、(伊都国に駐在する)郡使が倭国(帯方郡)に使いをだすとき、皆(王・大率・郡使ほか)全員で波止場に出向いて、奏上書や献上品を点検し、詣でた際に女王との間にくいちがいがないようにする。

1)上の6項の訳をお読みください。「伊都国の王が使いを出して京都(洛陽)・帯方郡・諸韓国に使者を送るとき、および、(伊都国に駐在する)郡使が倭国(帯方郡)に使いをだすとき、皆(王・大率・郡使ほか)全員で波止場に出向いて、奏上書や献上品を点検し、詣でた際に女王との間にくいちがいがないようにする。」
5項では女王国が(以て北の)諸国の王を服属させており、郡の使いが常駐していることから上位にある格別な国である。伊都国が遣使をだすとき、郡使も波止場に同行しているので、曹魏の官である郡使も伊都国に駐在していると考えられます。ただ、女王国とは伊都国の別称と館得ます。伊都国は女王国のエリアにある中心的な一国と見ることができ、また重要なのは女王国と伊都国の関係性です。女王国と伊都国をパラレルに見ることはできず、伊都国は女王国のエリアの中にあるということです。
2)以北という表現からは境界を意識できます。
3)女王国の境界が尽きるという表現では女王国の国境の南端として判断でき、つまり、国境を前提にする以上はエリアとして規定できます。
4)以て北の国々に大率を置いていると解釈すると、やはり女王国は諸国を含む広域のエリアとしての属性をもつ国と定義します。
里程論の骨組み
初めに考えなければならないことは国の字はエリアなのか、地点なのか?ということです。
第一に、国境線が描かれた白地図では距離を測ることができません。
隣接した国は国境は隣り合わせで一本の線で描かれますからその距離はゼロになってしまいます。末盧国、伊都国、奴国、不彌国など、それぞれ国境を接していると考えられます。あなた、隣接していますから、領域の大きさとも必要になってきます。かつ、そのエリアのどの地点と地点を結ぶ線なのかが決定しなければなりません。しかし、倭人伝の文脈によって国境線を引くことができません。もちろんそれは不可能です。つまり、エリアの中に特定の地点を定めないとなりません。みなさんは伊都国といったばあいでも土地名・怡土などに比定するわけですから、地点に置き換えて距離をなんとなく取っているのです。国という固有名詞で表現していてもをその中の緯度経度のある地点をもって里呈論を組み立てていることになります。
第二に倭人伝では「どこからどこまで何里」という前置詞をつかった距離の書き方をしています。では、地点から地点を結ばなくてはならないことになります。地図の手法としては国境線だけの白地図に目(測定地点)を入れるとになります。そこで、所説百家争鳴になっているわけです。考古学をはじめとして地域学、記紀などを総動員して説得力を競っているような感じがします。
ところが、『漢書地理志』西域でははこの辺では明快です。
「大宛國,王治貴山城,去長安萬二千二百五十里。戶六萬,口三十萬,勝兵六萬人。・・・略・・・」、このように大宛國の貴山城を基点にします。大宛國はエリアとして、その中の城のある場所を基点にして里数をかいています。
大宛國の貴山城は      
       陽関から4301里(2048km)
       陽関ー都護治所間 2748里(683km)
       都護治所から4301里(1733km)
上記のように貴山城が地点であるので測定が可能なのです。西域では全部の国の城郭名を記して距離を書いていますので解析ができます。貴山城を三角法で地点を地図上に割り出すことが可能なのです。
では、倭人伝はこうした書き方を略して、概略を書くといったかたちになっています。デフォルメしているのです。逆に考えると魏志倭人伝は漢書地理志に近い底本があったはずだと考えるられるのです。

第三に、こうして国の中に地点を推定しなければならないのです。これを比定地と称するようですが、これが百家争鳴の状態なのです。


其餘旁國も女王国の北側

「自女王國以北其戸數道里可得略載」の下の孫ブロックのは、其餘旁國を除いて、固有名詞が20カ国、初出します。これは、陳寿の魏志倭人伝だけに書かれています。ほかの正史にはありません。

自女王國以北其戸數道里可得略載
其餘旁國遠絶不可得詳次
1:斯馬國次有|2:巳百支國次有|3:;伊邪國次有|4:;都支國次有|5:;彌奴國次|;6:好古都國次有|;7:不呼國次|8:姐奴國次有|9:對蘇國次有|;10:蘇奴國次有|11:;呼邑國次|12:華奴蘇奴國次|13:鬼國次有|;14:爲吾國次;|15:鬼奴國次有|16:;邪馬国次|17:躬臣国次;|18:巴利国次;|19:支惟國次|20:鳥奴國次

奴國此女王境界所盡

女王国以て北のエリア・イメージマップ↓

以下に、新訓読を試みてみますのでお読みください。

女王國から以北はその戸数と道里を得ることができましたので、略して載せました。
遠く隔絶しており詳細を得ることができませんでしたが、其の(奴国)余傍の国が次に有ります。
1:斯馬國が次に有ます。2:巳百支國が次に有ります|3:伊邪國が次に有ります|4:都支國が次に有ります|5:彌奴國が次に有ります|;6好古都國が次に有ります|;7不呼國が次に有ります|8;姐奴國が次に有ります|9:對蘇國が次に有ります|;10:蘇奴國が次に有あります|11;呼邑國が次に有ります|12;華奴蘇奴國が次に有ります|13:鬼國が次に有ります|14;爲吾國が次に有ります;|15:鬼奴國が次に有ります|16;邪馬国が次に有ります|17:躬臣国が次に有ります;|18:巴利国が次に有ります;|19:支惟國が次に有ります|20:鳥奴國が次に有ります|


奴國は此の女王の境界が盡る所です。

 この訳文から、初出の国名は20カ国で、奴国は重複しています。奴国は女王国の東南100里ですkら、奴国が女王国の以北にあるためには、奴国が女王国としないと論理的な整合を得られません。奴国が此の女王の領域が尽きる境界です。と、あります。
以上の、20カ国は女王国の以て北のラインのにある国々になります。女王国より北のラインは上の図をご覧ください。
これらの20カ国が女王国の北側の領域にあり、かつ女王の領域にある国々だということは重要です。この20カ国は戸数や道里が書けなかった国々だと言っているだけなので、女王の卑弥呼が監察したということです。この領域定義は、倭国ではありません。

 魏の通じるところ、使驛所が通じるところが30か国でしたから、この20カ国はそれぞれ魏に服属する王がいました。次、次と書かれるということは、団子のようにひと塊にはなっていません。それぞれの地点を次々に並んでいるのですから、一本のロープに20のこぶをつけて、それを図上に広げたような状態であると言えます。それ以外の相関関係は分かりません。そのロープが曲がりくねっているのか、真っすぐなのか、円周のように丸いのかは不明です。これは、客観的には判定できないということと同じです。ただ、女王国の領域、奴国より北側、吉野ヶ里ー大分のラインより北にあることが重要です。


随書俀国伝では、大業四年(六〇八年)、上文林郎(鴻臚寺・外交部)・裴世清は九州に到着してから、次のように書き記しるしています。「又至竹斯國 又東至秦王國」、筑紫の東を行くと秦王国にいたる。「又經十餘國達於海岸 自竹斯國以東皆附庸於俀」、また、東に十余国を経ると海岸に達する、そして竹斯(筑紫)国の東は俀国が属国としている。


随書俀國伝で、「東に十余国を経ると海岸に達する」の所が妙に気にかかります。
俀國は筑紫の東、十余国を経由するのですね。
これをルートとみると、筑紫に秦王国ー東に俀国です。これは筑紫中央部から九州の東北海岸に達する道程ですね。このルートに十余国あり、みな俀國が従えていることになります。俀国とは、その勢力からして「豊国」ですよ。

私には、魏志倭人伝にでてくる20カ国がこの俀國傳の十余國とオーバーラップするのですよ。あなた、こう考えると、この20カ国が女王国以て北に収まるじゃありませんか。

さて、論を進めると、古の豊国の領地で図Aのラインを西から東に向かって20カ国を探せば行き当たるのですね。しかし、ご当地の遺跡や古墳などの分布、あるいは、古い神社などの伝承など、それこそ日本側の資料で裏をとらなければなりませんよね。ここには九州地方の郷土研究の出番がありますよね。1カ国だけでも有力な比定地があれば、ひも状ですからね、数珠繋ぎに問題が解けていく可能性があるのですよ。鬼という文字を含む国が2カ国ありますが、これが国東半島の鬼国と関連がありそうですね。国東半島は、女王国の以北に入りますからね。

狗奴国も女王国以て北にある!

倭人在帶方東南大海之中依山㠀爲國邑舊百餘國漢時有朝見者今使譯所通三十國
「女王國から東南奴国まで100里あります。兕馬觚という長官と卑奴母離という副長官がいて、二万戸持っています
孫ブロックを省略。
女王國から以北はその戸数と道里を得ることができたので、略して載せました。
孫ブロックを省略。
奴国が此の女王の領域が尽きる境界です
南有狗奴國男子爲王其官有狗古智卑狗不屬女王
自郡至女王國萬二千餘里

さて、本題とも言っていい狗奴国について説明することにします。
[其南有狗奴國男子爲王其官有狗古智卑狗不屬女王]が書かれている場所は、ABブロックと孤立させていますが、親ブロックに中に書かれています。狗奴国は「其南有狗奴國」と書かれていますが、その狗奴国の所在ですが、これも親ブロックの定義どおり、【沙里院】と【吉野ヶ里】の中間にあることになります。くどくなりますが、大方の説が、女王国の南であると断定していますので、ここははっきりと、女王国の北であるとダメ押ししておきます。
では、其のは何を受けているのでしょうか。出発点である帯方郡すなわち【沙里院】です。「□□其南有狗奴國」の□□の空白に何かを埋めるとすれば、□□=自郡です。「郡から其の南に拘奴國がある」と訳します。
この用例は、有の構文に求めることができます。□□は場所なのです。存在の有は場所が先頭にきて、目的は有の後ろにきます。(所有の有は人称が先に、目的が有の後になります。)
其が女王国であると、魏略や太平御覧に書いてあるじゃないか・・・という対照論法に対して、其のが郡にあるというのは、其の其の構文の法則では段落の冒頭に主語があります。わたしの説が、どれだけ論理的であっても、コンセンサスを得られるかどうかは分かりませんが、類書対比説よりも陳寿によって書かれた魏志倭人伝に軍配をあげることにします。
 仮に、女王国の南であるとします。ところが、女王国の極南の地点は奴国になるはずですよ。では、魏略や太平御覧は女王国を領域として考えているのです。あなたも、女王國を領域として考えていませんでしたか。もう一度、おさらいしますが、「郡至女王國萬二千里」の女王國は地点なのです。これは、親ブロックの全体の定義です。


 あなた、親ブロックの大シバリを忘れてはならないのですよ。狗奴国も143度のラインの間に在るのです。かつ、女王に従属していないのです。九州の9カ国をはじめとして、30か国はみな女王に従属していましたから、この2条件で、奴国ー邪馬台国96度ラインより北に存在しなければなりません。
ですから、□□は、出発地点が入るのです。よって、女王國ではなく、郡が入るのです。帯方郡の南になるのです。

それは、ソウル周辺にあった、慰礼城百済、すなわち伯濟國(ペクチェ)のことだと考えられます。伯濟國は(後漢書・馬韓伝では)馬韓の一国でしたが、しだいに周囲を攻略して、卑彌呼のころはかつては楽浪郡に従属していた諸国も手中にしていました。
 




楽浪太守劉茂が『三国史記』に現れるのは古爾王13年です。西暦246年、魏の第二次高句麗征討の年に当たります。

『三国史記』 「百濟本紀第二 古尓王」 古尒王 十三年 夏大旱 無麥 秋八月
魏幽州刺史毌丘儉與樂浪太守劉茂,朔方太守王遵,伐高句麗 王乘虛遣左將眞忠襲取樂浪邊民 茂聞之怒 王恐見侵討 還其民口

魏の幽州刺史母丘儉と楽浪太守劉茂並びに朔方太守王遵は高句麗を討伐した。王はそのすきを突いて佐将眞忠を派遣隣接する楽浪郡の遺民を襲って捕虜とした。劉茂がそれを聞いて怒ったので、王は報復を恐れて、連行した捕虜を元に還した。


さて、漢文の重箱構造をもう一度見てみましょう。
 
倭人在帶方東南大海之中依山㠀爲國邑舊百餘國漢時有朝見者今使譯所通三十國
A:從郡至倭
・・・・・・中略・・・・・・
B其南有狗奴國男子爲王其官有狗古智卑狗不屬女王

C:自郡至女王國萬二千餘里

   魏略逸文との対照
魏略輯本
作者:魚豢(ぎょかん) 三國 巻二一 引用は魏略逸文(翰苑、唐、雍公叡注)

女王之南又有狗奴国女男子為王其官曰拘右智卑狗不属女王也

「女王の居る所から南、また狗奴国があり、男子を以て王としている。その官は拘右智卑狗、女王には属さない。」

女王之南が女王国之南とは書かれていません。女王の南は要素として《場所》+《方位》です。「誰々さんの南」というのでは意味が成立しません。よって、上記の訳では、女王の南とは、女王の居る所の南と解釈します。三国志魏志の郡と同意とみると、女王の居る土城は帯方にありますね。郡=帯方=卑弥呼の居る所で間違いないことになりますね。

2_2「其南有狗奴國男子爲王其官有狗古智卑狗不屬女王」というように、魏志では其南となりますから、対照すると其のは魏略の”女王”と同じになるでしょう。女王は場所が属性(要素)です。したがって、女王という文字は人称代名詞でなく、「女王の居る所」と訳さねばなりません。
わたしは、女王の居る所は邪馬台国ではないことを明らかにしています。また、女王国は伊都国としています。
奴国は伊都国南6km、至近距離にあります。以上まとめると下の二項に落ち着きます。
1)女王が倭国および郡とマッチングしますが、女王国とはアンマッチです。
2)”其の”を奴国とする定説は完全なミスリードです。帯方か、郡にしないと誤訳になります。これによって狗奴国が熊本菊池川とか宮崎日向にされているのでしょう。

*(「女男子」の女は「」の転写間違い。
*女王之南を安易に女王国の南とするとその後の帰結がすり替えられてしまいます。
*魚豢(ぎょかん)作の魏略は、魏志より成立が早く、魏志倭人伝の種本とする説があります。残念ながら、失われてしまったため、他の書物に「魏略曰く」と引用される形の逸文の編集体しか残っていません。逸文の大半は翰苑(唐代、張楚金著)に付された雍公叡の注によるものです。三国志魏志の東夷の倭国伝のあとに西域伝がありますが、これも亡失したあと、北史などから復元したもので、原本の姿はまったく違うものと思われます。

女王国と女王の違いを理解するためにグループ化してみます。

魏書倭人伝:女王国(5カ所)
1_1:世有王,皆統屬女王國
2_1:自女王國以北,其戶數道里可得略載,
3_1:自郡至女王國萬二千餘里
4_1:自女王國以北,特置一大率檢察
5_1:女王國東渡海千餘里,復有國


魏書倭人伝:女王,および倭女王(6カ所),
1_2:南至邪馬壹國,女王之所都,
2_2:其南有狗奴國男子爲王其官有狗古智卑狗不屬女王
3_2:常治伊都國,於國中有如刺史。王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國,及郡使倭國,皆臨津搜露,傳送文書賜遺之物詣女王,不得差錯。
4_2:倭女王遣大夫難升米等詣郡
5_2:詔書報倭女王曰:
6_2:倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼


まとめ
3_2:の用語の定義
帯方郡の郡使=魏の官吏、(理由:郡とは漢の行政区分です。)
伊都国=女王国、郡使が派遣される対象国(後漢の封国)
王=伊都国王、(神崎地方の共立王)
女王=①倭女王=卑彌呼 ②女王のいる所or倭国
倭国=(沙里院;女王の居る所)、
京都=大きな都(ど)


狗奴国の文字列B:は、従郡至倭=A:と自郡至女王国萬二千餘里=Cの間にあります。
上のように配列構造シンプルにして読みとると、狗奴国はAとCにサンドウィッチされていますよ。以上を、図式にしてみましょう。


つぎに、Bのエリアをクローズアップしてみます。

狗奴国の実相
photo出典:平凡社刊:『韓国歴史地図』韓国教員大学歴史教育科著

赤い大きな囲みは、百済が後漢の時代に楽浪郡から奪い取った地域です。

『三国志魏書』 東夷 韓伝
景初中,明帝密遣帶方太守劉昕、樂浪太守鮮于嗣越海定二郡,諸韓國臣智加賜邑君印綬,其次與邑長。其俗好衣幘,下戶詣郡朝謁,皆假衣幘,自服印綬衣幘千有餘人。部從事吳林以樂浪本統韓國,分割辰韓八國以與樂浪,吏譯轉有異同,臣智激韓忿,攻帶方郡崎離營。時太守弓遵、樂浪太守劉茂興兵伐之,遵戰死,二郡遂滅韓。

「部従事の五林、楽浪もと韓国を統べるを以て、辰韓八国を分割し以て楽浪に与う。使訳が異同があることをを伝達すると、臣智激し、諸韓国は怒り、帯方郡の崎離営を攻める。時の太守弓遵、楽浪太守劉茂、兵を起こしこれを撃ち、(帯方)太守弓遵は戦死したが、二郡ついに韓を滅ぼす。」・・・と、魏志韓伝にあります。
さて、帶方郡崎離營とはどこでしょう?

臣智とあるのが、倭人伝での狗奴国男王、狗古智卑狗(くこちひく)、すなわち古爾王です。当時は馬韓の一国、伯濟國と言っていました。参照;「其官有狗古智卑狗,不屬女王。自郡至女王國萬二千餘里」

 この事件の韓八国がもと楽浪郡であった所領ですので、赤い丸囲いでのなかの爆弾マークがまとまってある地帯だと思われます。
帶方郡崎離營の場所についてはつぎのような説があります。
今日の学会では帯方郡をソウル付近とするが、如何なものか。楽浪郡を今の平壌に比定し、帯方郡をソウル付近とすれば、帯方郡治所所の位置は平壌からの距離よりも韓地からのほうがはるかに近いことになる。正始七年(246年)に太守弓遵が「崎の離営」で戦死する。馬韓に攻められたのである。
「埼の離営」とは帯方郡の徼(国境)であるから帯方郡より南に位置したと考えられる。帯方郡がソウルの位置(1900年初頭の通説)であれば「埼の離営」は韓地内につくられた砦ということになる。これはありえない想定である。恐らく「埼の離営」こそソウル付近にあっただろう。或は今の仁川(インチョン)辺りであろう。帯方郡は仁川より北にあり、平壌の南にあり、海に面している。やはり海州市は帯方郡治所に比定されるべきである。引用:岩元正昭・邪馬台国への道P202)
上記の徼について補足:
徼(ぎょう、きょう、よう、げき)
国境、めぐる、小道、砦、窺う、求める、掠める、向かう、微妙な、(繳と通じて)もつれる。
(邀と通じて)遮る、招く、迎える→①国境「徼外」国境の外、 ②もとめる。「徼幸・徼倖」幸せを求めること。
〔説文解字・巻二〕には「循(めぐ)るなり」とある。〔玉篇〕に「要なり、求なり」「邊徼なり」とある。
崎離營が帯方郡と馬韓の国境にあったはずであるというのは肯けます。したがって平壌とソウルの中間にあることも肯定できます。ただ、海に面しているかどうかは確定できません。したがって仁川付近であり、海州市に比定されるべきであるというのはやや飛躍した想定に思えます。ただ、崎離營がどこであるかは帯方郡と馬韓の国境付近であるというで十分なような気がします。




正始7年の攻防
高句麗の丸都城が母丘儉(かんきゅうけん)に攻め落とされて、東川王は逃亡し、東沃沮の不而王も降伏しました。楽浪・帯方郡の優勢な力を見せつけられ、魏に従属しようとした日和見な国が生まれたのです。部従事とは百済の朝廷に列していた官位をもつ豪族のこと。臣智とは百済第8代の古爾王です。古爾王が怒って、なんと帯方郡に攻撃をしかけたのです。この王が南の狗奴国の狗古智卑狗なのです。
 帯方郡との境にある崎離営に攻撃をしかけたのですから、狗奴国とは強大な軍事力をもっていたのです。これは正始7年(246年)の戦闘です。帯方太守の弓遵が戦死したと書かれています。崎離営とは図では上の方にある小さい丸囲みのところと推定されています。
 正始7年には南の伯済国に弓遵が殺されました。翌年の八年に玄菟郡太守だった王頎が帯方郡に異動してきました。卑彌呼は王頎に使者を送って、高句麗に対して相攻撃することを申し出たのです。
 
魏志倭人伝には元年、四年、六年、八年のことしか書かれていませんので、正始年間の弓遵が殺されたなどの東北アジアの大事件は記されていません。正始5年には楽浪・帯方郡の太守は、母丘儉の高句麗攻撃の別動隊として南沃沮のほうに出撃しています。王頎は逃亡した東川王を捕らえるため挹婁の近くまで追撃しました。正始八年、帯方に到着した王頎に卑彌呼は戦う意思を表示したのです。東夷伝の烏丸鮮卑東夷伝、高句麗伝、扶余伝、韓伝など、東北アジアの歴史にまで視野を広げないと、あなた、何もわからないのですよ。王頎が帯方に到官した経緯は、日本書記にはまったく記載がありません。また、女王國もかすりもしないのです。卑弥呼の行動範囲としては、帯方しかないのですよ。

 倭人伝には、正始8年に王頎が帯方太守に着任したことが書かれています。
246年、弓遵が戦死してしまったので、急を要する人事だったのでしょう。洛陽から勅使(太守)を送るには一か月はかかるでしょうが、玄菟郡太守だった王頎なら一週間もあれば到着できます。あなた、嫌味な言い方ですが、邪馬台国に女王がいたとする皆さん、到官まもない王頎に日本から使者を送れるのでしょうか。そんなことできるはずがないでしょう。水行10日、陸行一か月なんですよ、邪馬台国のあるところは。使者が来て、王頎到官の知らせを聞いてから、相攻撃の作戦を知らせるのに、往復で2か月以上かかるのですよ。

「正始八年(247年)、「太守王頎到官、倭女王卑弥呼と狗奴国男王卑彌弓呼とはもともと不和であった。卑彌呼は載斯、鳥越らを王頎に詣でさせて、相呼応して攻撃する書簡(相攻撃状)を届けた。」・・・よくよく読むと、帯方太守王頎とは書いていなかったのです。「正始八年、帯方太守の王頎が官に到着した」という通説の訳は、めちゃくちゃおかしいのです。「玄菟郡太守の王頎が帯方郡の官に着いた」、と訳すのが自然なのです。

 この時に、相攻撃しようとした敵国は、王頎が数年の間、母丘儉とともに戦ってきた高句麗のことです。
つぎに続く章では狗奴国が二か所にあり、それをなぜ狗奴国と倭人伝が記したのかを説明することにします。建国の経緯から語ることになりますので、次の章に譲ります。

 この章では、官に(中国から)任じられている侯王である「狗古智卑狗」の狗奴国と、卑彌呼が王頎に参軍を承諾したところの敵国である狗奴国と、二つの国があったということを簡単に記しておきました。

高句麗と百済は習俗みな同じ、兄弟国だった。

両国の王名が違うのですから、二つの国が異なるのは当然ともいえるのですが、狗奴国は句麗國という元名です。句麗國は高句麗と名称を替え、、その高句麗から派生した国が伯濟國だったのです。狗奴国が二か所に同時存在していたとするわたしの説は、妄想ではありません。北の句麗国は現在の集安市、南の句麗國は現ソウル市にありました。『魏書』百済伝では、「夫餘之別種」、百済は扶余の別種であり、「其衣服飲食與高句麗同」、その衣服や飲食は高句麗と同じであると書いています。百済と高句麗は同じ扶余からでていますが、高句麗は非常に乱暴な国(高麗不義、逆詐非一)で、内部がばらばらだったと書かれています。狗奴国とは句麗國の変体文字だったのです。句麗とはクリョと発音されていたと思います。母丘儉が戦った相手は、高句麗の東川王ですが、母丘儉の征討は245年に始まりました。卑弥呼が死んだのは247年冬か、248年春です。もう歴史上はっきりしているのですよ。倭国が狗奴国と戦ったということはですねぇ、朝鮮東北部の戦いだったのです。倭国が大和だという内向きな考えだけでは、語れないことが少しは分かっていただきたいと思います。記紀の暦年をこねくり回して、仮に、仮に、仮に、の積み重ねで推計学というのはおこがましいでしょ。記紀の暦年は年代の順列も歴代天皇歴もあやしいのです。平均在位年数などいくら計算しても、卑弥呼が天照大神には絶対になりません。もううんざりしますね。妖術は見破れば、すぐに消滅するはずなんですが。日本教の信者となるとそうはいかないようです。

 吉野ヶ里の東南6km 起点として、方位82.6度のラインを引いてます。Bブロックでは、奴国から方位ポイントに取り直すのです。なんであれ、このラインは、久留米市ー日田市ー杵築を一直線で貫通しています。
邪馬台国がこのラインの終点108kmにあるとすれば、それは杵築になります。
以北で東に列しているのですから、宇佐も近く、射程に入ります。杵築市の周辺探索をしてみましょう。
どうもこのへんに黒川遺跡(所在地:大分県杵築市大字日野字黒川) - 弥生時代の2000点を超える石器が出土、県内屈指の遺跡が発見されました。


所在地:大分県杵築市大字日野字黒川

・時 期:~3世紀
・時 代:旧石器時代~古墳時代初期
・形 状:-
・特 徴:-
・指 定:-

【概要】
黒川遺跡 くろごういせき。平成26年10月3-7日に埋蔵文化財の試掘を行った結果、弥生土器や小型の土坑が見つかり、遺跡として認定を受けた。平成27年1月から本調査を開始。

旧石器時代の石器、縄文時代~弥生・古墳時代の土器や石器が3000点以上出土、石器の出土量としては大分県でも屈指。石器3000点など、旧石器、縄文、弥生の3時代にわたる遺物が大量に出土した。


★伊都国は渡来人の要塞!鎮の中心地であり、行政地であり、今日でいう首都でした。
さて、古代の港は河の淵に船着き場をおかず、引き込みの水路(水溝)をつくって、その奥に波止場を作っていました。川が洪水になっても船が転覆したり流されないようにしていました。また、波止場が海に面していると満潮・干潮の影響がありますから、船を係留しておくことが難しいのです。満潮じゃないと出航できないなんていうことになったらとても不便です。そこで、古代人は海から川の数キロ奥に波止場を作っていました。また、川からは引き込み側溝か、天然の入り江を利用して船を係留しています。川の岸壁に船を置くと、氾濫したときに船が転覆、あるいは流されてしまいます。そうした津であれば潮の干満に関わらず凪ぎであれば、いつでも出航できたからです。3世紀のアジアの船は、構造船ではありましたが、丸木舟から発展したので、波切はありましたが、船が平底でした。あまり安定性がなかったのです。

吉野ヶ里遺跡の磁北線
出典:邪馬台国時代のクニの都 吉野ヶ里遺跡
七田忠昭著 新泉社 2017年

上記の図版では、墳丘墓と祭壇を結んだ線が地図上の北と6度ほど偏っています。
そこで、吉野ヶ里での方位偏差が6度と推定されます。
(注):この吉野ヶ里の構造物ラインの傾きが古代磁方位の偏差と一致します。下図の黄色のラインはGoogle Earthをつかって磁極から引いたラインです。距離は7472kmです。交差する中央斜線は沙里院から引いてきています。
吉野ヶ里遺跡のリアルな磁北

この【吉野ヶ里】当地の偏角はこの吉野ヶ里建設時の方位角だということをシミレーション画像をご覧ください。この方位線は磁極点から引いてきた線です。
はじめに比較画像です。

aは北の磁方位です。先はグリーンランドの東の小島になります。
bは奴国=みやき町の左護岸6kmの地点を指します。
Cは郡=帯方郡=サリウォンの東南の周辺地域を通過します。

奴国は佐賀県三養基郡みやき町大字白壁あたり。

 親ブロックは、はじめから「郡至女王國至萬二千余里」と条件をはめているのですから、女王國は終点でした。ですから、女王国の30国はみな奴国から東のラインより北側にあります。そのラインが図Aです。 わたしは、奴国を久留米市の筑紫川の東岸、切通川の付近と比定します。ここは奴国ですが、女王国(在伊都国)の津(波止場)に近かっただろうと推定します。津は波止場ということです。そして、女王の大率(官名)は、この波止場を利用していたのです。伊都国領内に扶余の常備軍が駐留していたのだろうと私は考えています。そして郡使とは漢人です。なぜなら、北内郭は中国式の城郭を模倣していますが、見たことがない人間では絶対に作れないと考えられています。1000戸と魏志倭人伝に書かれています。そういう人口からは兵力は最大300人ぐらいしかなかったのでしょう。弥生後期までの生活していた人々はいったいどこに消えてしまったのでしょう?わたしは外来種の襲撃があったものと考えています。男性はことごとく殺され、女子供は奴隷にされたのでしょう。場外に甕棺は移され、200年間続いた甕棺墓制は突然途絶えたのです。その後、現れた石棺は征服者の墓です。それから、100年後、前方後円墳が現れはじめ、古墳時代になったのです。あなた、古墳の主(埋葬者)が弥生人でないことが分かりますか。5世紀中ごろには九州から、東に延びて近畿までもが外来種に制圧されていました。日本人とは90%混血種なのですよ。
 
わたしは、伊都国とは吉野ヶ里にあったと思っています。その、兵器は本国から持ち込んだものが多いのですが、食糧や道具などの生産物は支配地から調達していたに違いありません。とくに有明海の海産物ですね。ほかの都護府と同様、吉野ヶ里は軍事、民生(租庸調)を兼ね備えた渡来人たちの為政地だったと考えられます。伊都国が治所であることは明らかです。伊都国という特別な領域(国)があったということです。「此の女王の境界の尽きる所」は奴国でした。女王の領域の最南端が奴国であるというのは、領域というカテゴリーではなんら矛盾しません。伊都国は、今日でいえば中国風基地で、それは吉野ヶ里です。「卑弥呼Xファイル」では、もっとリアルに書いていますので、ここでは詳述しません。が、松本清張説のように、吉野ヶ里が邪馬台国だ、ということは100%ありません。



距離方位だけで女王国の津をさぐりました。さて、さらに吉野ヶ里の水運をさぐってみます。吉野ヶ里には東側面に田手川が流れていますが、反対側西側にもかつてもう一本の水流がありました。現在は消失していますが、西側に流れていた田手川の本流だったと伝わります。吉野ヶ里の倉庫のあるエリアは、田手川の本流の川岸に接していたことになります。田手川の下流には、荒堅目遺跡があり、ここに津があったと考えられます。縄文時代晩期~弥生時代後期から人々の生活が営まれ、漁労と交易が行われていました。千代田町額田、下坂、渡瀬、神崎町倉戸、荒堅目地区一帯は文献記録や発掘調査の成果と地形等より、蔵戸と荒堅目一帯に神埼荘の「津」が置かれていたと考えれています。
この荒堅目遺跡は、縄文時代晩期~弥生時代前期より人々の生活が行われており、海を舞台にした漁撈と交易が営まれた集落と言えます。
ほ場整備事業施工前までは、非常に大規模な堀があり、戦前頃までは田手川・馬場川を利用した船による物資の運搬が行われていたそうです。
昭和57年から始まる県営ほ場整備事業に伴い発掘調査が行われ、非常に重要な成果がえられています。この遺跡は、貝塚を伴う集落跡であり、通常では残存しない木製品や骨などの有機質の遺物が多量に出土しています。祭祀用に用いられたと考えられる鳥形木製品・木剣・木戈や銅鐸を模した鐸形土製品などが見つかっています。
また、甕棺墓・土壙墓に埋葬された弥生人の墓地も調査されています。貝塚を伴うため、非常に良好な状態で多数の人骨が確認されてました。この人骨の人類学的な研究により、詫田西分遺跡の弥生人のほとんどは、渡来系形質を持つ人たちであったことが分かってきています。
有明海を介して、この地に新たな技術や文化と共に大陸から多くの人たちが訪れ、在来の人たちと生活をしていた様子を知ることができる遺跡です。

神埼市の南部地区に分布しています弥生時代の遺跡は、その多くに貝塚を伴っています。また、当時の最先端の文化と技術が、多くの渡来人と共に流入し定着した地であり、その後の吉野ヶ里を中心とする「クニ」が成立していったと考えられています。

私の考えでは、古代であっても大きな物資は船で港から港にダイレクトに輸送します。そのほうが輸送の人力がいらないのですから、コストもかかりません。吉野ヶ里倉庫から川船に乗せ、田手川を下って荒堅目に運び、外洋船に積み替えるのです。すると、吉野ヶ里は帯方や京都洛陽にも直行できる航路があったのです。魏の郡使は陸行1か月など地上を歩くことはなかったのです。


 ちょうど、切通川が中州をつくり、巾着のようになっていますが、3世紀のころは切通川の間は入江のようになっていたと思われます。朝鮮の沙里院(サリウォン)も南大同江から奥1000mぐらいの幅50mもある大溝をつくっていますし、漢江、昔は慰礼河とよんでいた河から1kmほど引き込みの水路がありました。その奥にある夢村土城も船着き場であったと考えられます。どちらも似たような形式をもっています。夢村土城遺跡は、現在のソウル市、オリンピック公園にあります。
さて、切通川は現在では巾着川のようになって、筑後川に注いでいますが、2世紀ごろは入江のようになっていたでしょう。この切通川の付近から西北6kmに伊都国=【吉野ヶ里】があったのです。この切通川はみやき町の南部になりますが、そこから東に6kmに不彌国があります。そこは佐賀県三養基郡みやき町となってますが、この切通川の巾着の中だけはなぜか福岡県久留米市城島町芦塚となっています。久留米市の飛び地なんですね。ところで、久留米市中央、御塚・権現塚古墳あたりが、とてもあやしいのです。久留米市の皆さん、筑後川の西部に首都があったのですから、東岸はあまり栄えていなかったのですね。わたしが不彌国に比定してもがっかりしないでください。奴国と不彌国も久留米市なのですから、これらを合計すると5万戸以上の大国だったのです。人口としては、なんと2~30万人に相当するのですよ。


これが、奴国だ!拡大図 青バルーンが奴国!


Photo出典:邪馬台国時代のクニの都 吉野ヶ里遺跡 七田忠昭著より
赤い星は著者が追加=奴国の位置
魏志倭人伝の夢 吉野ヶ里遺跡 七田忠昭 WEBリンク


吉野ヶ里から東南100里の終点・青いバルーン

不彌国は久留米市内

図1、不彌国の位置の拡大図です。青バルーンが不彌国!


ちょっとズームアウト下図を出します。


不彌国!実は、現在遺跡らしい遺跡が何にもないところです。もっとも、千余家しかないのですから、久留米市のような大人口の地域を想定する必要もないのですが、そうなんですか?と、自問自答してしまいます。ところで当地の評価は二の次というわけです。方位と距離を優先するのです。東岸は久留米市の北部で、ちょうどJR久留米駅と、西鉄久留米駅の間を東の北緯82.6°の線が通過します。この辺りには、日輪寺古墳があります。久留米市の大善寺まで南側、広川を渡る手前、下の◎のところ。御塚・権現塚古墳(おんつか・ごんげんづかこふん)があります。Wikipediaで調べてみると、御塚古墳と権現塚古墳は別々な古墳だったそうです。御塚古墳は3重の巨大な環濠で囲み直径が130メートル程あったとされています。権現塚には2重の濠を巡らせた円墳で、外堤の直径は約150メートル、墳丘は径55メートルだったそうです。こんな大きな古墳遺跡が2つもあったなんて、知らなかったのが恥ずかしい感じですね。どうも古墳時代と思われますが、




弥生時代中期は現在より、1~2メートル海面が高く、場所によっては5~10km海進していました。筑後川河口は大きな巾着型の湖(入り江)になっていたと思われます。だいたい、弥生時代後期になって現在の地勢になっているようです。
有明海の干満差は60cm~90cmと非常に大きいのです。筑後川も川面が高く、両岸にはそうとう湿地帯が広がっていたと想像されます。
余談ですが縄文時代からご先祖は有明海のムツゴロウを食べていたのです。ムツゴロウは熊本県と鹿児島県にまたがる八代海(やつしろかい)でのみ生息していました。

TWIT_ブレイク:  

伊都の~とは、輸入品のこと?
 秦の始皇帝の兵馬俑抗(へいばようこう)から発掘された弓(弩機)は、木の弓で張力を増すために、弓鞘に革ひもを捲き、その上に赤漆がかけてありました。中国では弩機という。伊都之尾羽張(いとのおはばり)と言うと、中国製の刀剣のことです。伊都之竹鞆と伊都尾羽張で、矢と剣がセットになります。この伊都は伊都国の伊都。帯方郡から、魏の使者が往来していたのが伊都国。伊都国で中国物品の揚陸していのでしょう。とうぜん伊都国に、この外来の弓や剣は集中していました。伊都の~・・・といえば中国から運ばれた製品という意味です。伊都之竹鞆(いとのたけとも)は、紀では稜威之高鞆(いつのたかとも)と記され、稜威(いつ)は伊都(いつ)と同じです。また、伊都は、伊斗、怡土など、いくつかの文字があります。
秦の剣は、隕鉄を用いて鋳造されていました。コバルトやクロームの含有率が高く、腐食しません。すべての兵の剣がそうであったとは思えませんが、秦の鉄剣だけは特別優れていました。
*短い弓であれば胡弓、馬上から振り向いて敵を撃つため短弓ともいわれる。中国の戦国時代に趙國が強くなったのは胡服・胡弓を用いる馬兵戦法にしたからだといわれています。矢じりはすでに鉄でした。
一方、秦の弩機は今でいえばアーチェリーのような形の弓で、60m以上の射程があったと言われています。足を弓に添えて腰をつかって弦を弾いているのが弩機で、弓隊がもつのが怒弓でしょう。(*推測)

*吉野ヶ里では、鉄の鏃(やじり)は見つかっておらず、木鏃のみ。また、弓は木製の短弓が出土していますが、中国、または朝鮮からの渡来品かどうか判別がつきません。甕棺の埋葬者に矢じりが刺さった跡がある骨が見つかっています。あえて言うなら、銅剣をはじめ武器類、伊都之竹鞆と伊都尾羽張はすべて地方豪族に持ち出されたのでしょう。さらに、おそらく盗掘にあったのですよ。




邪馬壹国は阿波・徳島」説は方位と距離に誤りがある。

Google Earthという最新テクニックを使っています。先端技術をつかっていますが、阿波・徳島」説は周髀算経・谷本茂氏の一寸千里の法一里76m~77mを正しい里の単位として採用しています。魏志倭人伝に書かれた方向・距離は正しいとして、修正したりしないという前提も、わたしの手法と同じですが、ただ、わたしの説とは方位と距離の取り方が違います。
12000里に短里76mでは、912kmになります。912kmでは、たしかに徳島に特定するしかないんです。ただし、郡からの方位がアバウトです。方位4分法の東南の方向とは14度ほど違います。14度の差は許容範囲なのでしょうか。また、いわゆる短里76m~77mで、どこもかしこもぴったりですと断言していますが、あえて疑問を呈してみます。


方向や距離は正しいという前提で最新兵器GoogleEarthを使ってシミレートし、邪馬台国=阿波徳島だと証明されたというのですが、一里76mの短里を用いたばあい、912kmですから確かに阿波徳島以外に候補地はありませんね。ただ、真東南より、-14.25度という少なくないずれがあります。東南の八方位の許容範囲でいいのでしょうか。方向がやや甘いように感じます。逆にいえば一里の距離が短里76mでなければ、阿波徳島にはならないのです。先行きがあっての後付け論と思われます。また、論者は「東南の方向にぴったりです」・・・と言っていますがぴったり合致しません。誘導してますよね。「東南の方向にぴったりです」・・・そこが一番疑わしいのです。一寸千里の法一里76m~77mを採用したら、北九州説も大和畿内説も否定されてしまうのです。また、会稽東治の東との交点だというのはなんですかね。項羽の城跡が会稽の本地だとは思えません。


項羽の出身地である会稽の下相城=江蘇省宿遷市宿城区【座標:33.564985,118.125252】を起点に真東の線を引いてみました。白い線です。しかし、徳島の上山町で交差しないのですが、なにか私のリトレースした方法に間違いがあるのでしょうか方向や距離を違えないで考えるということでしたが、「まひがし」というのは、方位90度ですが、なんと阿波徳島と遠く離れています。真東には当たりません。いったん疑問を呈しておきますが、一方的情報といわれても困ります。ここは、みなさんの判断にお任せします。多々ある説の中で、最新のテクニークを使って解決するといった場合、方向や距離を絶対に変えないという前提と矛盾していたら、はたして解決したと言えるのでしょうか?
。*浙江省紹興市の会稽の禹廟から真東(しんとう)も引いてみました。後漢書では、【稽東治之東】を【會稽東冶之東】に書き換えてしまいました。このの新解釈で会稽の東に邪馬台国があるという勘違いもさることながら、会稽の東をシミレートした結果は、ご覧のように日本本島に接しないのです。奄美大島を北の海上をかすめるのですが、・・・いままでの解釈がいかに方位におおざっぱだったのか知ることができます。


項羽の出身地である会稽の下相城=江蘇省宿遷市宿城区【座標:33.564985,118.125252】を起点に真東の線を引いてみました。その2図。
*赤い円周は半径1000km。

 ->  ->  -> 序

周髀算經 [漢] 公元前50年-100年での計測法は、夏至の日の南中点を利用したもので、南北方向の距離は取れますが、東西はとれません。また、夏至の日とは一年に一日しかありません。例えば、外国にある遠い地、漢書地理志西域のように50か所もの観測ができたでしょうか。夏至の一時に同時に計測結果を取れたでしょうか。そんなことはできません。あらかじめ、それぞれの場所で夏至の南中点の角度を観測データとして持っていないとならないわけです。
渾天儀による天文観測での二点間の距離は北極星を軸に、度数を観測するわけですから、遠くはなれていても二点間の距離は出せたものと思われます。ただ、移動式の渾天儀では精密な計測ができたかどうか疑問です。精度といえば小数点3桁ぐらいまでの角度が計測できないとピタゴラスの法則で距離をだすのは難しいのです。十二支方位盤程度の分割比例ではできません。



Ke!+San =直角二等辺三角形・直角三角形・二等辺三角形・不等辺三角形の各種計算が可能なWEBプログラム。
もう、朝日が昇りかけていますので、もう寝ることにします。ひとまず、おやすみなさい。




 HOME-TOPへ