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はじめに

  一貫した鉄則(解析メソッド)

方向→距離→地勢→地名を優先順位とします。


方位・距離は原文通り。


*現代の主流的な考え方です。 例:邪馬台国畿内説の内藤湖南のように「南は東であるべきか」などは論外。

原文のコンポジションにスポットをあてます。

*コンポジション 構成・構造・組立て・構図

地域固有の里数を定義します。

 A;  中国(前漢)の公里数  =0.4156km  「長安里」
 A;  漢書西域の里数 = 0.24948km  「西域里」
 B;  中国(西晋)の公里数  =0.434km  「洛陽里」
 B;  倭域の里数  =0.06km  「倭里

*4列目のように長安里・西域里・倭里の固有の名前で定義しています。固定値です。従来の説である長里・短里などの中国の度の規定値でなく、西域には西域の、倭地には倭地に特有の一里の値がありました。Google Earthによる距離実測法によります。A Bのイニシャルは同時代のグループの意味です。西域里は中国里の3/5の値になります。
*中国の度量衡=http://www.allchinainfo.com/trivia-of-china/4841
*一里=300歩:一歩=6尺:一尺=23.04cm(後漢)一里=1800尺=にすれば一里となります。

中国の里をキロメートルにすると、時代ごとにわずかに長くなっている。
漢代の一里・漢書地理志に適用!
一尺=23.09cm
一歩=六尺=1.354m
一里=三百歩=415.62m

三国時代 魏の一里・魏志倭人伝に適用!
一尺=24.12cm
一歩=六尺=1.44.72m
一里=三百歩=434.16m

南朝時代(南宋・梁)
一尺=24.48cm
一歩=六尺=1..469m
一里=三百歩=440.64m
 
さて、本題に入ることにします。
狗奴国が二か国あることはTOPページで実名を簡単に書きました。が、そこに到達するプロセスは二重、三重の壁を越さなければなりません。はじめに、わたしは魏志倭人伝を全文を6つの段落に分けました。なぜ、6つの段落にわけたのか、それは魏志倭人伝の訓読を何度読んでも分かりません。 原文からでてくる構文と構造式を訓読文では分析できないからです。小著「卑彌呼Xファイル」では現代語訳を6つに分けて紹介しています。1.帯方~九州編、2.会稽編3.九州編 4.帯方編Ⅰ 5.九州番外編 6.帯方編Ⅱと見出しをつけていますが、これでは、6つに分けた理由はよくわからないと思います。
「倭人伝は倭地を地域別に俯瞰していると総合的に判断し、全文をエリア別に6つにわけ、ブロックのはじめ分節の冒頭に見出しをつけた。」と、リーディングガイドに書いています。たしかにエリアに区分しているのですが、その理由には踏み込んでいません。そこで、6つに分けた真意をより詳細に述べてみたい思います。

私は、以上、6つのブロック(意味段落)に区分しましたが、これは意外と簡単です。代名詞がないところが切れ目ですが、こればかりではありません。主格が変わります。
主格とは、文法で、文や句の中で名詞・代名詞などが述語に対して、その作用・性状の本体を表しているときの語格のことをいいます。さて、この6つの段落に、それぞれ異なる主格があるのです。
1番目のブロック帯方~九州編の主格は、帯方から倭地(奴国)までの間の諸国((女王国以北の地域)
2番目のブロック会稽編の主格は会稽の水人(入れ墨をしている蛮族という意味での広義の倭人)
3番目のブロック九州編の主格は、九州の地、女王国以て北の領域
4番目のブロックの帯方編Ⅰ主格は倭国-1
5番目のブロックの九州番外編主格は女王国東渡海。
6番目のブロックの帯方編Ⅱ(倭国-2)主格は年号(景初と正始)
この6つのブロックの主格は人称だったり、場所であったり、国名、年号だったり違いがあり、さまざまですが、きれいに主格が分かれます。


もちろん、より理解していただく助けになるように書き進めたいと思います。 たとえば、至という文字は従~至~と、自~至~という前置詞構文です。至しかない一文は、従か自が省かれた脱略形であることを説明します。また、又又構文、有構文、在構文、其其構文、行構文などは、中国語に特有な構文です。分岐に関わる重要な条件文なのです。これらのキーワードが、6つの段落構成にどのように影響しているかを解説します。中国語は孤立言語で、棒書きですから文字配列(構造式)が重要な要素だからです。

 原文の文字の意味だけではなく、構成をつぶさに当たらなければ、魏志倭人伝を間違って解釈していても気がつくことはないでしょう。つまり、翻訳が間違えていると、違った解釈が派生してしまいます。誤訳が原因で戦争になったり、歴史が変わってしまう事例は多々あります。誤訳が増幅されて、とんでもない解釈が生まれます。間違いの上塗りが重なって、しまいには卑彌呼が天照大御神だ、なんてことになってしまいます。原文の真意がどんどん遠ざかってしまいます。こうした、まっかなフェイクが捏造されてしまっています。それどころか、卑弥呼の墓が箸墓であるとの論争も実におかしな話で、魏志倭人伝から離れて独り歩きしています。わたしは狐とタヌキの化かしあいように感じます。巻向遺跡が卑弥呼のいた所だというのも印象操作を加えています。梅の種など何百個出土しようが卑彌呼と何の関係もありません。すべてが邪馬台国畿内説のウソの上塗りです。

 そうしたわけで、原文により準拠する、言い方を変えると、原点に戻ることが大事です。『三国史事典』の著者、渡邊義浩氏(わたなべ・よしひろ)は「三国志は邪馬台国を記録するために著された史書ではないのである。」と、書いています。そのカテゴリーの中で考えることが大切なわけです、原点に戻るということでは、ある意味、三国志から見ることがたいせつです。海の向こうの歴史や地理に視点を置くことをも意味します。、『三国志』巻三十 鳥桓(うがん)・鮮卑・東夷伝の扶余伝、韓伝などにも目を通して、東北アジア史を知ることも必要です。三国志からは邪馬台国は一か所だけに書かれるだけです。邪馬台国は中国からみれば公孫燕を仲介して支配していた辺境の封地にすぎません。中国では前漢の武帝のころが最大領域を支配していました。その頃、倭地は楽浪郡に組み込まれ100余国が従属していました。それから200年たったころは支配地域が強勢となり、だんだん支配地域が減っているのです。ですから、魏になって通行する国は30カ国になっているのです。下に、そのことが分かる東夷伝の序文を紹介します。
 中国や朝鮮の歴史・文化まで視野を広げないと魏志倭人伝の理解は難しいといえます。

書式として、できるだけ原文と、その出典を明記するようにしています。原文は読まないで、眺めるだけでいいのですが、要点にかかわるところは目を通してください。

「倭」という一語の用例には、魏志韓伝の韓伝に倭韓と並列に書かれたところがありますので紹介します。

烏丸鮮卑東夷傳第三十 
 ->  ->  ->  -> 韓伝〔韓傳〕

桓靈之末,韓濊彊盛,郡縣不能制,民多流入韓國。建安中,公孫康分屯有縣以南荒地為帶方郡,遣公孫模、張敞等收集遺民,興兵伐韓濊,舊民稍出,是後倭韓遂屬帶方。景初中,明帝密遣帶方太守劉昕、樂浪太守鮮于嗣、越海定二郡,諸韓國臣智加賜邑君印綬,

「桓帝と霊帝の末(後漢末期)には韓、濊(わい)が強勢になり、郡や県は支配することができず、住民の多くが韓国に流入した。(後漢最後の献帝の)建安年間(196~219)に公孫康が楽浪郡の屯有県以南の荒地を分けて帯方郡と為した。公孫康(こうそんこう)は公孫模(ぼ)や張敞(ちょうしょう)等を派遣して遺民を集めて兵を興し、韓や濊を伐ったので、元の旧民(阿残=楽浪国人)がわずかながら、少しずつ出てきた。この後、倭と韓はついに帯方郡に属した。景初中に、明帝は密かに帯方太守・劉昕と楽浪太守・鮮于嗣を派遣し、海を越え二郡を定めた。諸韓国の王には邑君の印綬を与えた。」

倭人伝は烏丸鮮卑東夷傳の韓伝を読んだあとに読むべきですよ。倭人伝のコンビネーションブロックで、いわば必須と言えるのです。
 韓は、馬韓54か国・弁辰12か国・弁韓12か国の三韓です。ここでは「倭韓」となっています。倭は韓と並列表記されていますよね。そこで、倭を単独で抽出すると、韓と対立する用例とみなすことができます。はじめのプロセスとしては、倭は領域(エリア)であると判断できます。倭人伝に代入すると、倭とは、九州の30カ国の領域となるのです。わたしは倭とか倭地とかの語彙が地点なのか領域なのか重視します。それは、地点か線なのか平面なのかという問題で、プログラムに取り込んで描画するさいには、重要な属性となるからです。(例えば王城と王城なら距離がとれます。しかし、国境だったらエリアとエリアの境ですから距離を取ることができません。

*二郡 楽浪郡と帯方郡のこと。
*郡縣 前漢の直轄支配制。遼西郡治、遼東郡治・玄菟郡治・楽浪郡治を置いて地域の王を封じていた。
*遺民 中国から逃亡してきた流民
*舊民・旧民 箕子朝鮮の時代からの楽浪人のこと。
*桓靈之末 第十一代桓帝(在位146年~168年))と第十二代霊帝(168年~189年)の治世をさし、転じて後漢末意味する汎用句となった。おおよそ西暦178年~184年の間をさしている。184年には黄巾の乱がおこり、やがて董卓などの台頭の戦国時代に入ります。
*臣智(こち)は韓諸國に与えた官名。渠帥(きょすい),臣智,有險側,樊濊,殺奚,邑借の序列があり、渠帥は大王、臣智は王と同じで邑君に相当する。



図版出典『新説 その後の三国志』 坂口和澄著 宝島社


 また、ここでは帯方郡の経緯が書かれています。帯方郡とは、西暦204年に公孫康(こうそんこう)が楽浪郡の南部(屯有縣)の擾乱を収めて新設した郡です。そのとき倭と韓が公孫康に初めて服属したということです。公孫康(こうそんこう)がどのように倭韓を制圧したのでしょう。公孫模(ぼ)と張敞(ちょうしょう)等は公孫康配下の将軍です。帯方郡で挙兵して、倭に進軍した武将であったことは見逃せません。是の後、倭韓は遂に屬したのです。帯方に遂に倭韓は服属したのですから、遂の一文字から分かることは、公孫の武力侵攻があってのことです。それ以前倭韓は従属していなかったと見るべきでしょう。公孫の武将たちに倭人は大きな被害を被っています。西暦204年から30年間は公孫に支配され、公孫氏が滅びるや即座に卑彌呼が替わって倭地を支配したと見るのです。

『三国志』公孫度伝
(原文)度字升済,本遼東襄平人也。度父延,避吏居玄菟。同郡徐栄為董卓中郎将,薦度為遼東太守。
(訳文)公孫度は字を升済といい、もともとは遼東襄平の人である。公孫度の父の公孫延は役人になることを避けて玄菟郡に居た。同郡の徐栄が董卓の中郎将となり、公孫度を遼東太守にするよう薦めた。

『三国志集解』武帝紀
(原文)徐栄,玄菟人。為董卓中郎将。見公孫度伝。
(訳文)徐栄は玄菟の人で、董卓(とうたく)の中郎将であった。『公孫度伝』に見える。

*『後漢書』袁譚伝
(原文)康,遼東人。父度,初避吏為玄菟小吏。
(訳文)公孫康は遼東の人である。父の公孫度はむかし役人を避けて玄菟の小役人となっていた。
*『三国志』公孫度伝 (原文)度字升済
*遼東の公孫氏と三国大乱時代:董卓192年頃→袁紹(えんしょう)197年頃→曹操(そうそう)207年~に服属。
 公孫康207年、袁紹の子、袁煕と袁尚兄弟が曹操に追われて遼東部に逃れてきたとき、首を切って曹操に差出し、襄平候、佐将軍に 任命される。

系譜[編集]

公孫延
 
公孫度
 
公孫康
 
公孫晃
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
公孫恭
 
 
公孫淵
 
公孫脩
 
 
 

名前の上をタップしてください。Wikiにリンクしています。
*公孫琙の琙(ユ)と日本語にありません。中国語のまま読むことにします。

中国皇帝 年号 王・族長 事跡


公孫延 公孫延、役人の追及を逃れ、玄菟郡に移住する
 桓帝 167   公孫琙  玄菟太守公孫域、王夫台將二萬餘人の玄菟郡寇掠を擊破


公孫琙 公孫豹、玄菟郡の官吏に登用される
霊帝
公孫域 公孫琙、高句麗王伯固と協力して富山の賊を平定する
 靈帝 174   公孫琙  復奉章貢獻。夫餘本屬玄菟
    公孫度  公孫豹(琙の子)と同名で玄菟太守公孫域の庇護を受ける
霊帝 184 公孫度 公孫度、高句麗王男武と戦う
霊帝
公孫度 公孫度、冀州刺史となるが流言により罷免される
献帝 189 公孫度 公孫度、董卓に属す徐栄の推薦で遼東太守となる
  189  公孫度  夫餘王の尉仇台は遼東に属した。(夫餘伝)
献帝 190 公孫度 公孫度、遼東侯・平州牧を称す



公孫度、遼東郡を分割し、遼西中遼郡を置く



公孫度、渡海して東莱郡を征服し、営州刺史を置く
献帝
公孫度 公孫度、楽浪・玄菟郡を勢力下に置く
献帝 196 公孫度 王烈・管寧・ヘイ原らが遼東に難を避ける
献帝
公孫度 曹操、上表して公孫度を武威将軍・永寧郷侯に任じる



公孫度、任命を不満とし、印綬を封印する
 献帝 200     公孫度、扶余国王尉仇台に一族の娘を娶せ、帯方に国を作らせる。
 献帝 201     高句麗が玄莬を包囲した。扶余王尉仇台は二万余人の兵と州と郡の兵と一緒に撃破
献帝
公孫度 ヘイ原、遼東を去り、北海に帰る
献帝 204 公孫度 公孫度死す、長男の公孫康が後を継ぐ


公孫康 公孫康、楽浪郡の南に帯方郡を置く



公孫康、帯方郡の移民を募り、韓ワイを討ち、ついに倭と韓を征圧する。
献帝 205 公孫康 曹操の武将張遼、海岸沿いに北上し公孫康の部下柳毅を破る
献帝 206 公孫康 公孫康、亡命してきた<>烏丸の速附丸を斬る
献帝 207 公孫康 公孫康、亡命してきた袁尚・袁煕を殺害し、首を曹操に送る



曹操、上表して公孫康を左将軍・襄平侯に任じる
献帝 209 公孫康 公孫康、高句麗を攻める



高句麗王伊夷模の兄抜奇、公孫康に帰順する



高句麗王伊夷模、公孫康に追われ、都を移す
献帝
公孫康 この頃、公孫康没し、弟の公孫恭が後を継ぐ
献帝 218 公孫恭 王烈、遼東の地で没す


公孫恭 公孫恭、公孫康の長男晃を人質として送る
曹丕 221 公孫恭 曹丕、公孫恭を車騎将軍に任じ、公孫康に大司馬を追贈する

223 公孫恭 管寧、曹丕の招きに応じ、遼東を離れる
曹叡 228 公孫恭 公孫恭、甥の公孫淵に位を追われる


公孫淵 曹叡、公孫淵を揚烈将軍・遼東太守に任じる
曹叡 232 公孫淵 呉の孫権、周賀・裴潜を遣わして公孫淵に勅書を届ける



公孫淵、宿舒と孫綜を遣わして孫権に朝貢する
曹叡 233 公孫淵 孫権、張弥と許晏を遣わして公孫淵を燕王に封じる
曹叡


公孫淵、張弥と許晏を殺害し、首を魏に届ける
曹叡


曹叡、公孫淵を大司馬・楽浪公に封じる
曹叡
公孫淵 曹叡、毌丘倹を楽浪郡南に派遣して呉と高句麗に備える
曹叡 236 公孫淵 公孫淵、曹叡の入朝命令を拒み、魏に反旗を翻す
曹叡 237 公孫淵 毌丘倹、遼東に侵入したが、出水に逢い兵を引く



公孫淵、自立して燕王を称し、元号を紹漢と定める



公孫淵、鮮卑の単于に働きかけ、魏の北辺を荒らさせる
曹叡 238 公孫淵 魏の司馬懿、4万の兵で遼東に侵入する



公孫淵、孫権に謝罪し、救援を求める



公孫淵、襄平城で司馬懿に包囲される



公孫淵、襄平を脱出して逃走を図り、司馬懿に斬られる



劉昕と鮮于嗣、海路朝鮮半島に渡り、楽浪・帯方郡を平定する
曹芳?

公孫晃
公孫淵の兄、洛陽の獄中で妻子と共に金屑酒を飲み自害


日本のことは序文ですでに書かれていた!

陳寿は日本をどこから眺めたのか?
なぜ、日本が日の出に近い国なのか?---1)

なぜ、陳寿は日本に特に注目したのか?

なぜ、日本が女国なのか?
どうして、日本人は異面だったことを知ったのか?---2)

日本が地図上のどこにあったのか、すでに陳寿は知っていた。

答えはすべて『魏志倭人伝』の序文と東沃沮伝にありました。新現代語訳を解説とします。(2019/09/16)

1)魏志倭人伝 東夷傳:序文
「・・・而公孫淵仍父祖三世有遼東,天子為其絕域,委以海外之事,遂隔斷東夷,不得通於諸夏。景初中,大興師旅,誅淵,又潛軍浮海,收樂浪、帶方之郡,而後海表謐然,東夷屈服。其後高句麗背叛,又遣偏師致討,窮追極遠,踰烏丸、骨都,過沃沮,踐肅慎之庭,東臨大海。長老說有異靣之人,近日之所出,遂周觀諸國,采其法俗,小大區別,各有名號,可得詳紀。雖夷狄之邦,而俎豆之象存。中國失禮,求之四夷,猶信。故撰次其國,列其同異,以接前史之所未備焉。

新現代語訳:
公孫淵が父祖から三代にわたり遼東にいたため、天子はそこを中華から遠く離れた地域となし、海外のことを(公孫氏に)委ねてしまった。こうして夏王朝の後裔諸國(日本)と、通行ができなくなってしまった。景初中、大興師(司馬懿仲達)を遠征させ、公孫淵を誅殺した。(景初二年238年8月)また、それ以前に(238年春)密かに軍を海を渡らせて楽浪郡と帯方郡を制圧した。その後、海の表ははひっそりと静かになり、東夷は屈服し従属した。その後、高句麗が背いて叛乱を起こした。また、偏師(毌丘倹)を派遣してこれを討伐した。(247年)(高句麗東川王を)追い詰めて遠く、極まるところまで追撃した。烏丸、骨都,沃沮を通り過ぎ、肅慎之庭(挹婁)を越えて、東に大海と接する地に行き着いた。そこの長老の説明によると、日の出る所の近い所に異面の人(入れ墨をした人)がいるという。ついにその諸国を巡って、その法俗を採録してみると、身分の大小の区別があり、それぞれ国名を持っている。夷狄の邦(大きな国)といえども、祭祀礼儀のことわりがある。中国はすでにその祭の儀礼を失ってしまったが、(孔子が)それを四夷に求めたことは、なお信じることができる。ゆえに、次に、その国を選んで、我が国と同じことやら違うことなど、前の正史が備えていなかったところに接ないで補うものとする。

*異面=委面=倭面=黥面文身(入れ墨をした人=倭人)
*(孔子が)それを四夷に求めた=なぜ孔子なのか:
『漢書 卷二十八下 地理志第八下 燕地条』の「然東夷天性柔順 異於三方之外 故孔子悼道不行 設浮於海 欲居九夷 有以也夫 樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云」で、書いたのは如淳は3世紀中頃の人物。

2)濊傳:
正始六年,樂浪太守劉茂、帶方太守弓遵以領東濊屬句麗,興師伐之,不耐侯等舉邑降。其八年,詣闕朝貢,詔更拜不耐濊王。居處雜在民間,四時詣郡朝謁。二郡有軍征賦調,供給役使,遇之如民。

「正始6年、楽浪太守劉茂と帯方太守弓遵は高句麗に属する領東の濊を興師(王頎)にこれを討たせた。不耐候は邑を挙げて投降した。闕(宮城)に詣でて朝貢したので帝は詔書を発して不耐候を不耐濊王となした。不耐王に城郭はなく、民間の中に雑じって居た。帯方郡・楽浪郡に時に応じて詣でており、軍や賦調・使役の供給などを行い、郡の民のごとく遇した。」

*闕(けつ)中国で、宮門の両脇に設けた物見やぐら。

3)魏志倭人伝 東沃沮傳:
「毌丘儉討句麗,句麗王宮奔沃沮,遂進師擊之。沃沮邑落皆破之,斬獲首虜三千餘級,宮奔北沃沮。北沃沮一名置溝婁,去南沃沮八百餘里,其俗南北皆同,與挹婁接。挹婁喜乘船寇鈔,北沃沮畏之,夏月恒在山巖深穴中為守備,冬月氷凍,船道不通,乃下居村落。王頎別遣追討宮,盡其東界。問其耆老「海東復有人不?」耆老言國人嘗乘船捕魚,遭風見吹數十日,東得一島,上有人,言語不相曉,其俗常以七月取童女沈海。又言有一國亦在海中,純女無男。又說得一布衣,從海中浮出,其身如中國人衣,其兩袖長三丈。又得一破船,隨波出在海岸邊,有一人項中復有面,生得之,與語不相通,不食而死。其域皆在沃沮東大海中。

以下新現代語訳:
「母丘儉(ぶきゅうけん)は高句麗を討った。高句麗王宮(東川王)は沃沮に遁走した。遂に進師(王頎)を進めてこれを撃った。沃沮の邑を皆破り、三千余の首を切った。宮は北沃沮に逃げた。北沃沮は溝婁(ばいろう)という別名があり、南沃沮から八百里ほど離れている。その風俗習慣は北沃沮も南沃沮も同じで挹婁と接している。挹婁(ゆうろう)は船に乗って略奪することを好み、北沃沮はこれを恐れていた。夏には常に山の巌の穴の中にもぐって守備をし、冬の月は凍結するので船が通らないので下の村落に住んでいる。
母丘儉は王頎を別動隊として派遣し、宮(東川王)を、その東界の最も遠い所(日本海)まで追った。そこの耆老に、王頎は「海の東に、さらに人がいるのかどうか?」と問うた。耆老は言うのには、そこの(沃沮の)国人はかつて、船にのって漁をして数十日風に遭遇して東のある島に着いた。その島には人がいて言語は互いに分からなかった。そこでは常に七月に童女を海に投げ込む風習をもっていた。また、ある国が海中にあり、女ばかりで男がいなかった。海中から浮き出て、その身は中国人の衣服をきているようだった。その両袖は三丈もあった。また、破船が浜辺に漂着したが、首筋に面(入れ墨)がある人間が一人、生きていたが、言葉が互いに通じず、食をとらずにとうとう死んでしまった。その地域は沃沮の東の大海の中にある。」



沃沮からみて、はじめて日の出の方向にある国が日本だと言えるのですね。日出る国の語源としては、これが初見ではないでしょうか?

 公孫氏が倭に侵攻したのが204年です。204年~238年までおよそ30年間、倭は公孫康(こうそんこう)に侵攻されていたのです。(その後釜が卑彌呼なのです。)あらたな外来種が弥生人を捕虜とし、奴隷にしたのです。弥生文化は一挙に崩落しました。

これは鍛造鉄器で武装された外部集団に敗れたという一大事件があったことを表出しています。大方のを歴史家は倭が侵略されたことを見逃しているのではないでしょうか?銅剣については刃さえあれば中広でも武器としての使用に十分耐えると言われています。銅剣の大量隠蔽は公孫軍による武装解除だったと私は考えるようになりました。青銅器文化が滅ぼされたのです。およそ100年の文明衰退後、古墳時代が幕あけしたのです。大和王朝史から歴史を見すぎていると見えてこないでしょう。
銅矛は柄がなく、銅鐸の付属物です。銅剣は刃があれば武器として使用できます。荒神谷遺跡(こうじんだにいせき)島根県出雲市斐川町神庭の銅矛16本はその形態や北部九州産の青銅器に見られる綾杉状のとぎ分けがあることから、16本とも北部九州で製作されたものとみられています。

女國(じょこく)はどこか?


古墳時代前期は鉄器部族の国家形態が成立してきた過渡期です。新王朝は、弥生人を蝦夷(えみし)と呼んで蔑視しました。4~6世紀、蝦夷征討とは奴隷狩りだった様相が垣間見られます。大古墳の造営には労働集約が必要です。蝦夷(えみし)が苦役を課せられて造営されたのです。弥生時代の文化は3世紀末に断絶したと考えられる痕跡が山鹿市の方保田東原遺跡(かとうだひがしばるいせき)にあります。そうした痕跡からは倭が公孫軍から、侵略されたことは事実でしょう。私は九州の人口が1/2に減ってしまったと推測しています。なんと、女しかいない国になっていたようなのです。

魏志倭人伝には、大人なら皆、4,5人、下戸でも2,3人の婦人をもっていたとあります。男女の人口比からみると、やはり女性が多かったことは否定できませんね。



(女しかいない国の参考文献;三国志魏書三十烏丸鮮卑東夷伝 東夷伝 東沃沮:「一つの国が有ります。亦やはり海中に在り、女だけで男はいません。」(母丘儉(ぶきゅうけん)第一次高句麗討伐と同年王頎の伝聞・西暦244年の伝承)

公孫の武将たちが砦(都護)「を築いたとしたとしたら吉野ヶ里(伊都国)がそのうちの一つです。吉野ヶ里の南内郭には突出部(馬面・角楼)に物見櫓跡があり、有明海に向かった南方向を威圧するかのように4基立てられています。また、2つの入り口の主要通路は屈曲し、見通しがきかないように防御構造にして、敵が環濠の内部に入りにくくしています。北内郭も同じ機能と性格をもち、中国式の城柵であることは明らかです。これらの施設は祭祀場とみるにはふさわしくありません。わたしは、やはり軍事施設だったと思います。

吉野ヶ里の土塁(城柵)が中国式であることについて、

「有明海北岸地域では、中国城郭の城壁や入り口に付属する突出部(馬面・角楼)のように、環壕を外側へ突出させた部分をもつ環壕集落跡が集中しているが、他の地域では見られない。佐賀平野(吉野ケ里遺跡など11遺跡16環壕)、久留米市、八女市、日田市に、中国の城郭構造が反映されたと考えられる環壕集落が分布している。ただし、突出部の内側に物見櫓を設けたのは吉野ケ里遺跡のみです。上記の大麻が使われていた衣類が出土しています。」iRONNA(七田忠昭2018/09/24より抜粋)


吉野ヶ里と神崎地方の集落をはじめとして、北九州一帯が公孫軍に占領されたのです。簡単にいえば、卑彌呼は238年公孫滅亡のあと、その後釜((あとがま)になっただけということです。同時に、帯方郡の実勢力は、公孫軍から仇台扶余軍にシフトしたというわけです。
公孫氏が滅亡する一年前に、明帝が帯方太守、楽浪太守の二軍ともなって海を渡って派兵しています。邑国の王に金印紫綬を与えるなど、詔したうえで公孫康が分割した帯方地域を後漢・魏の郡として存続させることを決定したのです。ですから、公孫淵の誅殺以前に二郡は平定されているのです。倭韓は後漢の遼東太守公孫氏の支配体制から魏の支配体制を受け入れた流れを読むのです。中国の東夷政策が入れ替わっただけということです。これを契機に倭韓は曹魏の支配下に入ったのです。また、韓国の諸王に印綬をあたえ侯王にしました。238年、景初2年に卑弥呼が明帝から「金印紫綬」を受けたことは倭人伝に書かれていますが、帯方や韓の周辺の諸侯王への印綬綬拝も卑弥呼が徐する以前から、たくさん行われていたのです。魏も直轄支配するほど力はなかったのです。そこで、卑弥呼は公孫氏が領有した地域である倭韓を引き続き占有したということになります。魏が女王卑彌呼を封じ、卑弥呼は倭韓を封じていたという関係になります。曹魏は卑弥呼を倭韓を孫受けさせていたのですね。そして、卑弥呼を女王に共立した国が倭国であって、邪馬台国ではないということも言えるのです。倭国、女王国、邪馬台国はロケーションが違うばかりか、その支配被支配の関係があります。洛陽>帯方郡治>倭国>女王国>邪馬台国(並び諸国)「となります。ここは後で嫌というほど詳述します。

「女王国」の元字は「女国」

 魏略は日出所國を「女国」としています。「女国}は魏志倭人伝では「女王国」と表記します。つまり、女国=女王国です。女国には”Queen”という意味は全くありません。これとパラレルに考えると、女王國というのは単なるネーミングで、女王の支配する領域という定義付けは意味を失うということです。
魏略が女王とだけ書くところは、女国とは定義を異にします。「女国」と「女王」ということばを、厳格に区別しなければならないのです。同様に、魏志倭人伝でも、「女王国」と「女王」を区別する必要があります。魏志倭人伝では、①「女王之所都」、➁「不属女王」、③「此女王境界処尽盡」、④「詣女王」、⑤「去女王四千余里」、⑥「倭女王遣・・・」、⑦「倭女王曰:」、⑧「倭女王卑彌呼」など、八か所出現します。この女王を女王国とどう区別するのかが問題です。この女王二文字はロケーションでみると帯方になります。
维基文库 魏略輯本 (逸本)
作者:魚豢 三國
輯者:張鵬一

「女王之南又狗奴国・・・」、というのは帯方の南と同義になります。すなわち、女王とだけ記すばあいは、「女王の為政地」、あるいは、「女王の居る所」と解釈します。魏志倭人伝を対照すると、「郡」に置き換えることができます。
以下の三文節を対照して、証明してみます。
一、『魏志倭人伝』:  「自郡至女王國萬二千餘里」
二、 『魏略』(逸文):  「自帯方至女國万二千余里」
三、 『御覧魏志』:    「自帯方至女国万二千余里」

一、の郡に対応するのは魏略では帯方、御覧魏志でも帯方です。郡が帯方であることに疑問はありません

狗奴国は帯方の南

この女王という言葉がキーとなり、さらに、Greatな結果がでます。狗奴国は帯方の南という結論が得られます。以下、魏略と魏志を対照してみます。

一、魏略(逸文)「女王之南又有狗奴國女男子為王其官曰狗右智卑狗不属女王也」: 訳;帯方の南にまた狗奴国があり、男子を以て王となしている。その官名は狗右智卑狗といい、帯方には属していない。
*女王=帯方
*女男の女は以の転写間違い。・・・訂正後;「拘奴國以男子為王」

二、魏志:「南有狗奴國男子王為其官有狗古智卑狗不属女王」 :訳;帯方の南に狗奴国があり、男子を王と為し、狗古智卑狗といい、官名をもっていて、帯方には属していない。
*其=郡=帯方郡
用語の定義:
*女国=女王国=伊都国

*女王=帯方=倭国
魏志倭人伝のなかに、女王国は五か所、女王は八か所つかわれています。この定義をしっかりと踏まえておきましょう。魏略は日出処=倭地を「女国」としています。魏志倭人伝は「女国}を「女王国」と置き換えています。
魏略が女王とだけ書くところは、場所に置き換えると帯方になります。女王南というのは帯方南と同義です。



女王国は「おんなのおうこく」

四、 《後漢書》
[南北朝] 420年-445年
《列傳》 《東夷列傳》
18 打開字典顯示相似段落 東夷列傳:
「又有北沃沮,一名置溝婁,去南沃沮八百餘里。其俗皆與南同。界南接挹婁。挹婁人憙乘船寇抄,北沃沮畏之,每夏輒臧於巖穴,至冬船道不通,乃下居邑落。其耆老言,嘗於海中得一布衣,其形如中人衣,而兩袖長三丈。又於岸際見一人乘破船,頂中復有面,與語不通,不食而死。又說海中有女國,無男人。或傳其國有神井闚之輒生子云。」
「また北沃沮がある。一名、置溝婁ともいう。南沃沮と800里離れている。その俗は皆南沃沮と同じである。境は南に挹婁に接している。挹婁人は夜明けに船で襲って略奪行為する。北沃沮はこれを恐れ、毎年夏にはいつでも岩穴に隠れ、冬になると船が通れなくなるので、ようやく下の村に住む。その老人が言うのには、かつて海中にある衣を拾い上げた。その衣服は中人の衣で、しこうして両袖が三丈もあった。また海岸に難破船があり一人の男が乗っていた。うなじや体にかけて入れ墨があり、言葉が通じず、食べないので死んだ。また、老人が説明するには、海中に女國があり、男の人がいない。あるいは、その国には神がいて、井戸をのぞくとたちまち子供が生まれると伝えられる。」

魏略と御覧魏志、後漢書が女國と記し、女王國とは記していないのは何故なのか、あまり争点にならないのが気にかかります。

どうして、『魏略』と『御覧魏志』は「女國」と記したのでしょうか?

女しかいない国の参考文献;三国志魏書三十烏丸鮮卑東夷伝 東夷伝 東沃沮:「また、ある国が海中にあり、女ばかりで男がいなかった。」(母丘儉(ぶきゅうけん)第一次高句麗討伐と同年王頎の伝聞・西暦244年の伝承、日本を女國と記録したのはこの資料を引いているのです。
三国志魏書三十烏丸鮮卑東夷伝 東夷伝 東沃沮
「王頎別遣追討宮,盡其東界。問其耆老「海東復有人不」?耆老言國人嘗乘船捕魚,遭風見吹數十日,東得一島,上有人,言語不相曉,其俗常以七月取童女沈海。又言有一國亦在海中,純女無男。又說得一布衣,從海中浮出,其身如中國人衣,其兩袖長三丈。又得一破船,隨波出在海岸邊,有一人項中復有面,生得之,與語不相通,不食而死。其域皆在沃沮東大海中。」
以下自前の訳文:
「王頎を別動隊として派遣し、宮(東川王)を、その東界の最も遠い所(日本海)まで追った。そこの耆老に、王頎は「海の東に、さらに人がいるのかどうか?」と問うた。耆老は言うのには、そこの(沃沮の)国人はかつて、船にのって漁をして数十日風に遭遇して東のある島に着いた。その島には人がいて言語は互いに分からなかった。そこでは常に七月に童女を海に投げ込む風習をもっていた。また、ある国が海中にあり、女ばかりで男がいなかった。海中から浮き出て、その身は中国人の衣服をきているようだった。その両袖は三丈もあった。また、破船が浜辺に漂着したが、首筋に面(入れ墨)がある人間が一人、生きていたが、言葉が互いに通じず、食をとらずにとうとう死んでしまった。その地域は沃沮の東の大海の中にある。」

女国は「日の出る所にある諸国」と東夷伝序文ですでに書かれていた!


陳寿は日本をどこから眺めていたのか?
なぜ、日本が日の出に近い国なのか?---1)

なぜ、陳寿は日本に特に注目したのか?

なぜ、日本が女国なのか?
どうして、日本人は異面だったことを知ったのか?---2)

答えはすべて『魏志倭人伝』の序文と東沃沮伝にありました。新現代語訳を解説とします。(2019/09/16)

1)魏志倭人伝 東夷傳:序文
「・・・而公孫淵仍父祖三世有遼東,天子為其絕域,委以海外之事,遂隔斷東夷,不得通於諸夏。景初中,大興師旅,誅淵,又潛軍浮海,收樂浪、帶方之郡,而後海表謐然,東夷屈服。其後高句麗背叛,又遣偏師致討,窮追極遠,踰烏丸、骨都,過沃沮,踐肅慎之庭,東臨大海。長老說有異靣之人,近日之所出,遂周觀諸國,采其法俗,小大區別,各有名號,可得詳紀。雖夷狄之邦,而俎豆之象存。中國失,求之四夷,猶信。故撰次其國,列其同異,以接前史之所未備焉。

新現代語訳:
公孫淵が父祖から三代にわたり遼東にいたため、天子はそこを中華から遠く離れた地域となし、海外のことを(公孫氏に)委ねてしまった。こうして夏王朝の後裔諸國(日本)と、通行ができなくなってしまった。景初中、大興師(司馬懿仲達;しばいちゅうたつ)を遠征させ、公孫淵を誅殺した。また、密かに軍を海を渡らせて楽浪郡と帯方郡を制圧した。その後、海の表ははひっそりと静かになり、東夷は屈服し従属した。その後、高句麗が背いて叛乱を起こした。また、偏師(毌丘倹;ぶきゅうけん)を派遣してこれを討伐した。(高句麗東川王を)追い詰めて遠く、極まるところまで追撃した。烏丸、骨都,沃沮を通り過ぎ、肅慎之庭(しゅくしん)を越えて、東に大海と接する地に行き着いた。そこの長老の説明によると、日の出る所の近い所に異面の人(入れ墨をした人)がいるという。ついにその諸国を巡って、その法俗を採録してみると、身分の大小の区別があり、それぞれ国名を持っている。夷狄の邦(大きな国)といえども、祭祀礼儀のことわりがある。中国はすでにその祭の儀礼を失ってしまったが、(孔子が)それを四夷に求めたことは、なおさら信じることができる。ゆえに、次に、その国を選んで、我が国と同じことやら違うことなど、前の正史が備えていなかったところに接ないで補うものとする。
中国で失ったが日本に残っていることが信じられるということについて、
禮とは、礼の旧字だが、字源では祭事の意味である。
会意形声。「示」+音符「豊(「豐」の略体ではなく、元来からの文字)」。「豊」は「壴(鼓)」に形よく供え物をならべた様。形よく整えられた祭礼を意味する。そすると、中国はすでにその祭の儀礼を失ってしまったが、(孔子が)それを四夷に求めたことは、なおさら信じることができる。中国では絶えてしまった「形よく整えられた儀式」、すなわち周道が日本に残っているというのが信じられるといっているのです。会稽編であった禹祭のことを思い出してください。こいのぼり、ひな人形、きつねの嫁入りなどは禹祭の残滓ではないでしょうか。なんと4000年前の風習ですよ。



*異面=委面=倭面=黥面文身(入れ墨をした人=倭人)

2)魏志倭人伝 東沃沮傳:
「毌丘儉討句麗,句麗王宮奔沃沮,遂進師擊之。沃沮邑落皆破之,斬獲首虜三千餘級,宮奔北沃沮。北沃沮一名置溝婁,去南沃沮八百餘里,其俗南北皆同,與挹婁接。挹婁喜乘船寇鈔,北沃沮畏之,夏月恒在山巖深穴中為守備,冬月氷凍,船道不通,乃下居村落。王頎別遣追討宮,盡其東界。問其耆老「海東復有人不?」耆老言國人嘗乘船捕魚,遭風見吹數十日,東得一島,上有人,言語不相曉,其俗常以七月取童女沈海。又言有一國亦在海中,純女無男。又說得一布衣,從海中浮出,其身如中國人衣,其兩袖長三丈。又得一破船,隨波出在海岸邊,有一人項中復有面,生得之,與語不相通,不食而死。其域皆在沃沮東大海中。

以下新現代語訳:
「母丘儉(ぶきゅうけん)は高句麗を討った。高句麗王宮(東川王)は沃沮に遁走した。遂に師(王頎)を進めてこれを撃った。沃沮(よくそ)の邑を皆破り、三千余の首を切った。宮(位宮)は北沃沮に逃げた。北沃沮は溝婁という別名があり、南沃沮から八百里ほど離れている。その風俗習慣は北沃沮も南沃沮も同じで挹婁(ゆうろう)と接している。挹婁は船に乗って強奪することを好み、北沃沮はこれを恐れていた。夏には常に山の巌の穴の中にもぐって守備をし、冬の月は凍結するので船が通らないので下の村落に住んでいる。
母丘儉は王頎を別動隊として派遣し、宮(東川王)を、その東界の最も遠い所(日本海)まで追った。そこの耆老に、王頎は「海の東に、さらに人がいるのかどうか?」と問うた。耆老は言うのには、そこの(沃沮の)国人はかつて、船にのって漁をして数十日風に遭遇して東のある島に着いた。その島には人がいて言語は互いに分からなかった。そこでは常に七月に童女を海に投げ込む風習をもっていた。また、ある国が海中にあり、女ばかりで男がいなかった。海中から浮き出て、その身は中国人の衣服をきているようだった。その両袖は三丈もあった。また、破船が浜辺に漂着したが、首筋に面(入れ墨)がある人間が一人、生きていたが、言葉が互いに通じず、食をとらずにとうとう死んでしまった。その地域は沃沮の東の大海の中にある。」

《隋書·東夷傳·倭國》:大業三年、其王多利思比孤、遣使朝貢。使者曰:「聞海西菩薩天子重興佛法、故遣朝拜、兼沙門數十人來學佛法。」其國書曰:「日出處天子,致書日沒處天子,無恙。」云云。帝覽之不悅、謂鴻臚卿曰:「蠻夷書有無禮者、勿復以聞。」
「大業三年(607)、その王のタリシホコは使者を派遣し朝貢した。使者は『海の西の菩薩のような天子が手厚く仏法を興隆させていると聞きましたので、朝拝に(私を)派遣するとともに、出家者数十人が仏法を学ぶため来ました。』と言った。その国書にいう。『日が出るところの天子が書を日の没するところの天子に届けます。お変わりありませんか。云々』 帝(煬帝)はこれを見て喜ばず、鴻臚卿に『蛮夷の書で無礼のあるものは二度と聞かせるな』と言った。」
*日出る国は東という方向を示しただけと分かりました。旧唐書で日辺にあるをもって日本と号したとあるので、The Rising Sun、の意味に変わってしまったようです。こうして、言葉の意味は時代時代の流行に左右されるのですね。

梁書の女国(地理誌の劣化が激しい見本)

《梁書》《卷第五十四列傳第四十八 諸夷海南諸國 東夷 西北諸戎》629年(貞観3年)成立

維基 -> 梁書 -> 卷第五十四列傳第四十八 諸夷海南諸國 東夷 西北諸戎
50 漢靈帝光和中,倭國亂,相攻伐歷年,乃共立一女子卑彌呼為王。彌呼無夫婿,挾鬼道,能惑眾,故國人立之。有男弟佐治國。自為王,少有見者,以婢千人自侍,唯使一男子出入傳教令。所處宮室,常有兵守衛。至魏景初三年,公孫淵誅後,卑彌呼始遣使朝貢,魏以為親魏王,假金印紫綬。正始中,卑彌呼死,更立男王,國中不服,更相誅殺,復立卑彌呼宗女臺與為王。其後復立男王,並受中國爵命。晉安帝時,有倭王贊。贊死,立弟彌;彌死,立子濟;濟死,立子興;興死,立弟武。齊建元中,除武持節、督倭、新羅、任那、伽羅、秦韓、慕韓六國諸軍事、鎮東大將軍。高祖即位,進武號征東將軍。
漢靈帝光和中,倭國亂,相攻伐歷年,乃共立一女子卑彌呼為王。彌呼無夫婿,挾鬼道,能惑眾,故國人立之。有男弟佐治國。自為王,少有見者,以婢千人自侍,唯使一男子出入傳教令。所處宮室,常有兵守衛。至魏景初三年,公孫淵誅後,卑彌呼始遣使朝貢,魏以為親魏王,假金印紫綬。正始中,卑彌呼死,更立男王,國中不服,更相誅殺,復立卑彌呼宗女臺與為王。其後復立男王,並受中國爵命。晉安帝時,有倭王贊。贊死,立弟彌;彌死,立子濟;濟死,立子興;興死,立弟武。齊建元中,除武持節、督倭、新羅、任那、伽羅、秦韓、慕韓六國諸軍事、鎮東大將軍。高祖即位,進武號征東將軍。

*公孫淵誅殺は景初二年ですから、三年は梁書の誤記です。

51 其南有侏儒國,人長三四尺。又南黑齒國、裸國,去倭四千餘里,船行可一年至。又西南萬里有海人,身黑眼白,裸而醜。其肉美,行者或射而食之。

52 文身國,在倭國東北七千餘里。人體有文如獸,其額上有三文,文直者貴,文小者賤。土俗歡樂,物豊而賤,行客不齎糧。有屋宇,無城郭。其王所居,飾以金銀珍麗。繞屋為緌,廣一丈,實以水銀,雨則流于水銀之上。市用珍寶。犯輕罪者則鞭杖;犯死罪則置猛獸食之,有枉則猛獸避而不食,經宿則赦之。

53 大漢國,在文身國東五千餘里。無兵戈,不攻戰。風俗並與文身國同而言語異。

54 扶桑國者,齊永元元年,其國有沙門慧深來至荊州,說云:「扶桑在大漢國東二萬餘里,地在中國之東,其土多扶桑木,故以為名。」扶桑葉似桐,而初生如筍(タケ),國人食之,實如梨而赤,績其皮為布以為衣,亦以為綿。作板屋,無城郭。有文字,以扶桑皮為紙。無兵甲,不攻戰。其國法,有南北獄。若犯輕者入南獄,重罪者入北獄。有赦則赦南獄,不赦北獄。在北獄者,男女相配,生男八歲為奴,生女九歲為婢。犯罪之身,至死不出。貴人有罪,國乃大會,坐罪人於坑,對之宴飲,分訣若死別焉。以灰繞之,其一重則一身屏退,二重則及子孫,三重則及七世。名國王為乙祁;貴人第一者為大對盧,第二者為小對盧,第三者為納咄沙。國王行有鼓角導從。其衣色隨年改易,甲乙年青,丙丁年赤,戊己年黃,庚辛年白,壬癸年黑。有牛角甚長,以角載物,至勝二十斛。車有馬車、牛車、鹿車。國人養鹿,如中國畜牛,以乳為酪。有桑梨,經年不壞。多蒲桃。其地無鐵有銅,不貴金銀。市無租估。其婚姻,婿往女家門外作屋,晨夕灑掃,經年而女不悅,即驅之,相悅乃成婚。婚禮大抵與中國同。親喪,七日不食;祖父母喪,五日不食;兄弟伯叔姑姊妹,三日不食。設靈為神像,朝夕拜奠,不制縗絰。嗣王立,三年不視國事。其俗舊無佛法,宋大明二年,罽賓國嘗有比丘五人游行至其國,流通佛法、經像,教令出家,風俗遂改

 扶桑國とは高句麗です。貴人第一者為大對盧,第二者為小對盧,第三者為納咄沙。貴人の最上位者が大對盧(てでろ)といっているところです。これは高句麗の内官制です。また、北の獄では男女を配し、生まれた子供は男子は8歳、女子は9歳で奴隷とするとあり、国が奴隷を供給してしたことが明らかです。つまり、扶桑國は奴隷制があったのです。
南朝斉永元元年=499年=北魏:太和23年(471年:崎玉稲荷山古墳鉄剣)
南朝宋大明二年=458年戊戌 「かつて罽賓國にいた比丘五人が游行して扶桑国にいたった。仏法が広まり、経像、出家の風習など風俗がついに改まった」仏教伝来の記録としてみることができそうです。(479年宋滅びる)(日本史:513年百済五経博士を献じる。)

55;慧深又云:「扶桑東千餘里有女國,容貌端正,色甚潔白,身體有毛,髮長委地。至二、三月,競入水則任娠,六七月產子。女人胸前無乳,項後生毛,根白,毛中有汁,以乳子,一百日能行,三四年則成人矣。見人驚避,偏畏丈夫。食鹹草如禽獸。鹹草葉似邪蒿,而氣香味鹹。」天監六年,有晉安人渡海,為風所飄至一島,登岸,有人居止。女則如中國,而言語不可曉;男則人身而狗頭,其聲如吠。其食有小豆,其衣如布。築土為牆,其形圓,其戶如竇云。

私訳:「扶桑の東に女国がある。容貌は端正で、肌の色ははなはだ清くて白い。髪は長く地に付くほどである。二、三月になると競うように入水して妊娠する。六、七月には出産する。女人は胸の前に乳がなく、首のうなじに生えるうぶ毛の根元は白く、毛の中から汁がでて、それで授乳する。百日もすると歩くようになり、三、四年で成人になるなり。人を見ると驚いて避けて、一方的に男性を怖がっている。鹹草(アシタバ)を獣のように食し、男の身体は犬のようで、その声は吠えるているように聞こえる。食べるものは小豆で、着るものは布のようである。土を築いて土塀をつくり、その形は円で、その住まいは穴のようだったと伝える。」
天監六年=梁の武帝蕭衍の治世=506年=北魏正始3年(日本史:513年百済五経博士を献じる)
扶桑国と女国が別項になっていること、女国の子育てについては首をかしげるような内容ですが、、そう伝え聞いた話として初出とみることができます。
扶桑國が高句麗、女國が日本となるでしょう。肌の色が白く、三、四年で成人になるという慧深は高句麗の僧侶です。本当に日本に渡来したかどうか疑わしいですね。罽賓國は西域のスキタイ印欧部族の国家です。


詔: 皇帝のもっぱらにする権限で出す命令。

始皇帝は天下太平を成し遂げたとき、自称を「余」から「朕」。命令を「制」から「詔」に、呼称を「王」から「陛下」にしました。もっぱら、詔をだすのは皇帝であって、その他の者が詔を発することはありません。したがって詔は主語かなくても皇帝が詔を発していることに変わりはなく、訳すときに主語を違えてはならないのです。「相攻撃状,遣塞曹掾史張政等因齎詔書黄幢拝假難升米爲檄告喩之」この訳し方は「塞曹掾史の張政たちを派遣して、それにより、(先に帯方郡まで届いていたが送られていなかった)詔書と黄幢をもたらし(狗奴国との戦いの軍事的指導者である)難升米に拝仮し、檄文をつくって難升米に告喩した。」。・・・張政が詔書と黄幢をもたらすことはありえないのです。たとえ、張政が勅使であってもです。ですから私は誤訳とみなします。「その攻撃状を塞曹掾史張政等は(曹魏)に遣使を送り届けさせた。よって(皇帝曹芳は)詔書をもたらし、難升米に黄幢を拝假させ、激の告喩をなした。」と訳します。簡単にいえば、張政が遣使として洛陽にでむいた。よって(皇帝曹芳は)詔を齎したのですね。詔をだしたのは皇帝曹芳に限られるのですよ。



倭の意味

倭:
《說文解字》
[東漢] 100年-121年 許慎著
[又名:《說文》]
《卷九》
《人部》
4964 打開字典顯示相似段落 人部:
倭:順皃。从人委聲。《詩》曰:「周道倭遟。」


説文解字では「従順なさま。詩経に曰く“周道倭遟(周への道は曲がりくねり遠い)”。」と解説されています。 康熙字典によれば、さらに人名にも使用され、例えば魯の第21代王宣公の名は「倭」であると書かれています。さらに、重要なことは「委聲」とあり、委と同じ音韻だと書かれています。聲は声ですから、倭の発音は委と同じだったと記されています。

『漢書地理志』倭人の項」如淳の注には「如墨委面」という文字がはっきり記事になっていたのでしょうが、現在では書き換えられたか、逸失のため如淳曰くの「如墨委面」の原文は確認できません。

この注を書いたのは如淳は3世紀中頃の人物(魏)で、顔師古の注は、「樂浪海中有倭人。分爲百餘國。以歳時來獻見云。」を対象にした注釈である。この漢書の倭人は、元は如墨委面と注されていたことを踏まえておこう。
倭とは『委』が転じたものでしょう。音が同じだったと《說文解字》にはかいてありますが、顔師古は倭と委の音は違うと、これを否定しています。

如淳曰、「如墨委面 在帯方東南万里」
 臣讃曰「倭是国名 不謂用墨 故謂之委也」
 師古曰「如淳云『如墨委面』 蓋音委字耳 此音非也 倭音一戈反 今猶有倭国
魏略云『倭在帯方東南大海中 依山島為国 度海千里 復有国皆倭種』」

、師古が言う。『魏の如淳が、「如墨委面が東南万里にある」と書いたようだが、どう注釈すればいいのか?』
讃が答える。『倭がその国でしょう。墨の文字はいま称さないので、委が倭を意味しているのでしょう。』
師古が言う。『如墨委面の委の字は耳で聞くと、「倭」の反切りと同じはない。昔からいまだにもってずっと倭といっているではないか。魏略には「倭は帯方郡の東南の大海の中にあって、山の多い島々から国がなっている。海を渡ること千里、又国があるが、皆倭種である。」と記録している。だから、如墨委面は国名だとしても、倭国と書き換えるべきだろう。』

*顔 師古(がん しこ、581年 - 645年)は、中国・初唐の学者で、本貫は、琅邪郡臨沂県(山東省臨沂市)で、『漢書』100巻の注釈をつけた学者である。師古は300年前に書かれていた「如墨委面 在帯方東南万里」の意味がよく理解できなかったので思案している。とくに、委と耳の発音が同じで、倭と違うというのは試行錯誤しているのである。結論的には如墨委面が倭人の旧名であると判断して、原本の如墨委面を倭国と注を入れて、師古が、如墨委面という文字を倭人に代えたのである。
如墨委面が委国になり、さらに倭国に変わっていることが分かる貴重な記録であり、意味のない注釈ではないのである。如墨委面という語彙は倭に替えられたので、いまは一切見ることができません。その後、正史のほかで委面とか異面とかはみな倭人を意味することになったのだろうと思われます。

《史書》《漢書》《志》《地理志》《地理志下》
[新 - 東漢] 36年-111年
103 打開字典顯示相似段落 地理志下:
「玄菟、樂浪,武帝時置,皆朝鮮、濊貉、句驪蠻夷。殷道衰,箕子去之朝鮮,教其民以禮義,田蠶織作。樂浪朝鮮民犯禁八條:相殺以當時償殺;相傷以穀償;相盜者男沒入為其家奴,女子為婢,欲自贖者,人五十萬。雖免為民,俗猶羞之,嫁取無所讎,是以其民終不相盜,無門戶之閉,婦人貞信不淫辟。其田民飲食以籩豆,都邑頗放效吏及內郡賈人,往往以杯器食。郡初取吏於遼東,吏見民無閉臧,及賈人往者,夜則為盜,俗稍益薄。今於犯禁浸多,至六十餘條。可貴哉,仁賢之化也!然東夷天性柔順,異於三方之外,故孔子悼道不行,設浮於海,欲居九夷,有以也夫!樂浪海中有倭人,分為百餘國,以歲時來獻見云。」

「玄菟・楽浪の二郡は、武帝のとき置かれ、いずれも朝鮮・濊貉・句驪などの蛮夷であった。殷の政道が衰えると、箕子は去って朝鮮にゆき、その民に礼儀と農蚕・機織仕事を教えた。楽浪・朝鮮の民が禁制の八か条を犯したときは、殺害には即時に殺すことで償い、傷害には穀をもって償い、盗みには男ならばこれを没収して家奴とし、女ならば婢とし、自ら贖おうとすれば、一人につき五十万銭を要した。罪を免れて庶民に復しても、風俗としてなおやはりこれを羞じ、嫁のやりとりに讎(つぐな)いがなく、さればその民ついに相い盗まず、家の戸締りもせず、婦人は貞節をねじけかたよることがなかった。その農民は飲食をするに籩豆を用い、都邑では往々役人や内郡の商人にならい杯器を用いて食事をした。郡は初め役人を遼東郡から採ったが、民を閉じ蔵(かくさ)ないのを見た役人や往来する商人が、夜になると盗みをしたために、民俗はしだいにそこなわれ、今や禁を犯す者がますます多く、これにつれて禁制も六十余の多きに至った。仁賢の感化は何と貴いものであろう。」

上記の漢書地理誌が記す紀元前100年頃の楽浪海中の倭人の国とは東夷の端にある国のようです。ところが、3~5世紀頃の倭国となると、およそ楽浪海中にある委面の国とは異なってきます。地理的な情報がおよそ百年ごとに愚鈍な史書官によって劣化しているのでしょうか?

『後漢書』「巻八十五」の「東夷伝」の「第七十五」
安帝永初元年(107年) 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見

『翰苑』「蕃夷部」「倭国」の条(唐代の張楚金作)
安帝永初元年 倭面土國王師升等獻生口

北宋版『通典』(『後漢書』を参考にして書いたと考えられる模写版)
安帝永初元年 倭面土國王師升等獻生口

『唐類函』の「百十六巻」の「邉塞部一」の「倭」の条(明代成立) 
安帝永初元年(107年) 倭國土地王師升等獻生口


范曄著の『後漢書』の成立は、432年である。この貢献は、後漢の安帝永初元年(西暦107年)は誤りで、東普の第十代皇帝の安帝の隆安年間(西暦413年)である。この晋の安帝は在位396年~403年で、旧唐書倭国伝の「倭国は、古の倭奴国である。・・・其の王、姓は阿毎(āměi)氏なり」 を前提に考えると、初めに後漢書が安帝を早とちりしたと分かるのである。
生口とは慮、現代語では捕虜であり、戦勝した証拠として捕虜を献上して褒美にあずかる一連の行為が含まれます。過去の、たとえば5年前の戦争捕虜を献上してもだめで、まだ勝ったという興奮がさめないときに献上してはじめて褒賞を得られるのです。107年の前年に東北アジアで大きな戦争があったと見なければなりません。この倭国は遼西にあった國で、師升とは尉仇台(百濟本紀での肖古王)です。すると、後漢書が年号の間違いを犯し、その後の史書がその間違いをそのまま右に倣えしているのです。

413年 倭国、東晋・安帝に貢物を献ずる。(『晋書』安帝紀、『太平御覧』)
421年 宋 永初2  讃、宋に朝献し、武帝から除綬の詔をうける。安東将軍倭国王。
(『宋書』夷蛮伝)
・・・この貢献と除綬は倭国王讃です。そこで、倭國王帥升とは倭王讃のことであることもはっきりしました。
さらに、隋書を参照してみよう。「漢光武時遣使入朝自稱大夫 安帝時又遣使(・・・・・・) 朝貢謂之倭奴國」・・・・光武帝が金印を贈ったのは「委(・)奴国」107年で、晋の安帝のときの朝貢したのは「倭(・)奴國」413年年だったが、これを同一な国だと思いこんだ結果だと思われる。さらに、「又遣使あり」と二度目の朝貢であるような書き方である。この二つの朝貢の間は305年間になり、その間、倭の朝貢の記録が全くなっかたとみなせる。この通りだとすると、奴国は金印徐綬後、朝貢を継続しなかったことになる。

旧唐書「倭国日本伝」で日本という表記がはじめて中国正史に登場した(八世紀)。 その一箇所に、「日本国は倭国の別種なり。其の国、日辺にあるを以って、故に日本を以って名となす」とある。別種とは違うということだ。「日本国は倭国とは違う」、この意味するところは日本という国号を与えたとき、以前の倭国とは違うということを認識したということである。
前漢のときの委奴国が日本列島にあったという、あの委奴国が倭国だったという事実に、やっと気づいたのが、武則天が日本という国号を与えた時だった。(702年)。
翌大宝2年(702年)5月に遣唐大使、粟田真人(執節使)が唐の武則天から天皇の称号と、日本という国号を得た。これより独立国、中国の化礼慕外の国になった。8世紀に至るまで、なんと倭国が日本列島にあるとは一顧だにされず、中国の史書家の話題にもならなかったのだ。
これより、旧唐書「倭国日本伝」、で日本という表記がはじめて中国正史に登場したわけである。「日本国は倭国の別種なり。其の国、日辺にあるを以って、故に日本を以って名となす。」と書いた。
日本が、いままで思っていた倭国とは別種である。いままでの倭国と場所が違う国だ・・・ということを中国が初めて分かったと汲み取れるのである。
その後の倭国の書き方は次のように一変した。

『旧唐書』倭国伝 倭国は古の倭奴国である・・・其の王、姓は阿毎(āměi)氏なり。
『新唐書』日本伝 日本は古の倭奴国である。
『宋史』日本国伝 日本国は、もとの倭奴国である。
『元史』日本伝  日本国は東海の東に位置し、昔は倭奴国と称した。
『明史』日本伝  日本は古の倭奴国である。

まだ、倭奴國と書くところを見ると、まだ典籍を引くことには熱心なようです。日本は(倭国と違って、)いにしえの倭奴国だ・・・と書くのは、それでも格段の進歩があったと見るべきだろう。
左記の類書では、「倭面土地王」、「倭面土国王」「倭面国」などと表記されている。

漢書地理史   如墨委面 ・如淳の注:逸失
金印       委奴國
後漢書      倭国
翰苑       委面土國
唐類函      倭国土地
旧唐書      倭奴国
新唐書      倭奴国
 委が倭に転じている。奴と土が互換されている。奴は「ド」という読みの音写文字であるとすると、都の共通文字が浮かび上がる。委土と連ねると伊都になる。金印に刻印された「委奴國」は「伊都国」だったようです。

倭の解釈の紆余曲折、なぜ学者は曲説を唱えるのか?

一条兼良は、『説文解字』に倭の語義が従順とあることから、「倭人の人心が従順だったからだ」と唱え(『日本書紀纂疏』)、後世の儒者はこれに従う者が多かった。
江戸時代の木下順庵らは、小柄な人びと(矮人)だから倭と呼ばれたとする説を述べている。
新井白石は『古史通或問』にて「オホクニ」の音訳が倭国であるとした。
隋唐代の中国では、「韻書」と呼ばれる字書がいくつも編まれ、それらには、倭の音は「ワ」「ヰ」両音が示されており、ワ音の倭は東海の国名として、ヰ音の倭は従順を表す語として、説明されている。すなわち、隋唐の時代から国名としての倭の語義は不明とされていた。

江戸時代の木下順庵らは、小柄な人びと(矮人)だから倭と呼ばれたとする説を述べ、他にも「倭」を蔑称とする説もあるが、「倭」の字が悪字であるかどうかについても見解が分かれる。『魏志倭人伝』や『詩経』(小雅、四牡)などにおける用例から見て、倭は必ずしも侮蔑の意味を含まないとする見解がある。それに対して「卑弥呼」や「邪馬台国」と同様に非佳字をあてることにより、中華世界から見た夷狄であることを表現しているとみなす見解もある。

倭は「いやしい」という意味で、倭国は「いやしい国」となり、邪馬台国は「よこしまで、野蛮な下界に住む者の国」ということになり、いいネーミングとはいえない。中華思想にとりつかれた者から見れば、周辺はみな蛮族の国になる。

名詞「ちび」
対訳の関係完全同義関係

矮个ǎigèの概念の説明
日本語での説明 ちび[チビ]
背が低く,小さい人
英語での説明 shorty
a person who is short in stature
形容詞 ピンインǎi
‘矮’は「垂直体の背丈が低い」ことを示し,‘低’は「水平面からの距離が近い」ことを示す.したがって‘飞机飞得很低。’(飛行機はとても低く飛ぶ.)と言う場合に‘矮’を用いることはできない.
しかし、矮が倭字の本字だとみることが、そもそもずれているようです。


倭人という語がでてくる条は以下のとおり。

《儒家》相關討論
相關資源
《論衡》相關討論
[東漢] 80年 王充著 提到《論衡》
《儒增》
提到《儒增》的書籍 電子圖書館
50 打開字典顯示相似段落顯示影印本 儒增:
周時天下太平,越裳獻白雉,倭人貢鬯草。食白雉,服鬯草,不能除凶,金鼎之器,安能辟姦?且九鼎之來,德盛之瑞也。服瑞應之物,不能致福。男子服玉,女子服珠,珠、玉於人,無能辟除,寶奇之物,使為蘭服,作牙身,或言有益者,九鼎之語也。夫九鼎無能辟除,《傳》言能辟神姦,是則書增其文也。
後漢の王充が書いた論衡。ここでの倭人は南倭、中国南部の越裳(えつしょう)の倭人のこと。(前1040年頃)
《恢國》
10 打開字典顯示相似段落顯示影印本 恢國:
武王伐紂,庸、蜀之夷佐戰牧野。成王之時,越常獻雉,倭人貢暢。幽、厲衰微,戎、狄攻周,平王東走,以避其難。至漢,四夷朝貢。孝平元始元年,越常重譯,獻白雉一、黑雉二。夫以成王之賢,輔以周公,越常獻一,平帝得三。後至四年,金城塞外羗良橋橋種良願等,獻其魚鹽之地,願內屬漢,遂得西王母石室,因為西海郡。周時戎、狄攻王,至漢內屬,獻其寶地。西王母國在絕極之外,而漢屬之。德孰大?壤孰廣?方今哀牢、鄯善、諾降附歸德。匈奴時擾,遣將攘討,獲虜生口千萬數。夏禹倮入吳國。太伯採藥,斷髮文身。唐、虞國界,吳為荒服,越在九夷,罽衣關頭,今皆夏服,褒衣履舄。巴、蜀、越嶲、鬱林、日南、遼東,樂浪,周時被髮椎髻,今戴皮弁;周時重譯,今吟《詩》、《書》。
ここでの倭人は越裳(えつしょう)の恢國の倭人。(前1027年頃)

*獲虜生口千萬數 千万の捕虜を獲た。

《史書》
相關資源
《漢書》
[新 - 東漢] 36年-111年 提到《漢書》的書籍 電子圖書館
[又名:《前漢》]

《志》
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《地理志》相關討論
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《地理志下》
電子圖書館
103 打開字典顯示相似段落 地理志下:
玄菟、樂浪,武帝時置,皆朝鮮、濊貉、句驪蠻夷。殷道衰,箕子去之朝鮮,教其民以禮義,田蠶織作。樂浪朝鮮民犯禁八條:相殺以當時償殺;相傷以穀償;相盜者男沒入為其家奴,女子為婢,欲自贖者,人五十萬。雖免為民,俗猶羞之,嫁取無所讎,是以其民終不相盜,無門戶之閉,婦人貞信不淫辟。其田民飲食以籩豆,都邑頗放效吏及內郡賈人,往往以杯器食。郡初取吏於遼東,吏見民無閉臧,及賈人往者,夜則為盜,俗稍益薄。今於犯禁浸多,至六十餘條。可貴哉,仁賢之化也!然東夷天性柔順,異於三方之外,故孔子悼道不行,設浮於海,欲居九夷,有以也夫!樂浪海中有倭人,分為百餘國,以歲時來獻見云。
ここでの倭人は日本の民。

《後漢書》
[南北朝] 420年-445年 提到《後漢書》的書籍 電子圖書館
《列傳》
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《烏桓鮮卑列傳》
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33 打開字典顯示相似段落 烏桓鮮卑... :
帝不從。遂遣夏育出高柳,田晏出雲中,匈奴中郎將臧旻率南單于出鴈門,各將萬騎,三道出塞二千餘里。檀石槐命三部大人各帥眾逆戰,育等大敗,喪其節傳輜重,各將數十騎奔還,死者十七八。三將檻車徵下獄,贖為庶人。冬,鮮卑寇遼西。光和元年冬,又寇酒泉,緣邊莫不被毒。種眾日多,田畜射獵不足給食,檀石槐乃自徇行,見烏侯秦水廣從數百里,水停不流,其中有魚,不能得之。聞倭人善網捕,於是東擊倭人國,得千餘家,徙置秦水上,令捕魚以助糧食。
ここでの倭人は遼江、鴨緑江にいた倭人。(余談として、檀石槐は幼いころ母親に育てられ、倭人ではないかと噂された?)

 魏志倭人伝では、会稽の倭人、南越の倭人が書かれています。詳細は「会稽の倭人編」をお読みください。
『漢書地理志』 136 打開字典顯示相似段落 地理志下:
「武帝元封元年略以為儋耳、珠崖郡。民皆服布如單被,穿中央為貫頭。男子耕農,種禾稻紵麻,女子桑蠶織績。亡馬與虎,民有五畜,山多麈嗷。兵則矛、盾、刀,木弓弩,竹矢,或骨為鏃」

「武帝の元封元年に略式の命令を以て儋耳(たんじ)、珠崖(しゅがい)を郡になした。民はみな中央に穴をあけて頭に通して被るだけの一枚の布を衣服としている。男子はの稲やカラムシのなど穀物の種を植えて農耕し、女子は桑蠶(かいこ)から糸を紡いで織りなしている。馬とトラはいない。みな、五種類の家畜を飼っており、山には鹿のなく声が多い。兵は矛、盾、刀、木弓弩を身に着けている。矢は竹で、骨の矢じりのあるものもある。」
ここでは、儋耳(たんじ)、珠崖(しゅがい)の倭人(前110年-105年)が書かれています。

脱字、誤植(転写ミス)について

三国志(ほんの一部に魏志倭人伝の記載)は、しっかりした書物になるまでの900年間で、およそ45回もの写本がされています。甲骨文字、金文、篆書(てんしょ)、隷書(れいしょ)、草書、行書、楷書という文字の歴史の流れがあります。草書は紙が普及してからの書体です。紙の上では筆を滑らかに動かすことができるようになり、はねや太い細いなどが自在に表現できるようになります。書き手の感情移入ができるようになり、文字に芸術性が加わりました。そして、リズミカルに素早く書くことが可能になり、後漢の頃には、実用書はすでに補助書体として草書が使われていたとされています。魏志倭人伝の原本も草書であるとされます。楷書は現在の明朝体の元となった書体ですが木版のプリント技術が普及してからの書体です。それを考えると、魏志倭人伝にも誤植があります。紹興本や紹煕本は楷書に転写されものですが、もとは筆で書かれた個性的な草書体です。写本すれば、誤植は避けられないといえます。たとえば、一大国の大→支、紹煕本の對海、海→嶋、紹興本の對馬、馬→㠀、魏略の女男→以男、東治が後漢書で東冶県に、後漢書の拘奴國、拘→狗、𤝔は弣(ゆづか)の誤記等々・・・・。

減筆について 
その一、 草書はおのずと画数が減っています。一筆書きが好まれたためでしょう。すばやく書くためには、三拍子ぐらいのリズムで一挙に書いてしまうので、3秒で一文字をかけるといいます。
その二、変略文字: 画数を減らすという方法の一つに減筆があります。減筆とは、つくりやへんを省いてしまいます。銅鏡の中に火鏡というのがありますが、銅鏡の象嵌では火竟と刻まれています。また、七支刀の支は枝が元字です。これらは、へんを省略しています。略しているのですが、元の字の一部を残していますが、一時的に使った変体ですから字書には出てきません。が、後漢の末期の「字書」には本字の下に、略体文字も記されています。例えば、児・兒の文字の略体は儿と記され、略体が実用的に使用できたようです。
その三、異体文字:陳寿は、おそらく竹簡や木簡に書いていたでしょう。紙は、後漢の宦官であった蔡倫(さいりん)が発明し105年に皇帝に献上したと言われていました。が近年古い遺跡から次々と文字の書かれた「紙」が発掘され、蔡倫の時代よりも300年ほど昔、つまり前漢の中期ごろから紙は使われていたことがわかってきました。紙はまだたいへん高価なものでした。三国志は全体で6万字という膨大な文字量ですよ。官職にない陳寿には皇帝の援助はありません。したがって、陳寿が書いた初筆原本が紙であった可能性はかなり薄いのです。すると、陳寿自身が草書でかいたということも根拠が薄れます。竹簡は幅が指の頭ぐらいしかありません。したがって、画数の多い文字は異体文字に置き換える必要があります。

異体文字の例
 魏志倭人伝を例にすると、邪、馬、卑、奴、狗、などです。これらは置き換えられた異体の文字と考えられます。いわば置換文字です。ですから、発音ではなく、形と意味の両面から元字を推測するか、ほかの用例をサンプリングするしかありません。まったくの異体字を置換したのですから、いわば”あてがい”文字です。元字はまったく発音が異なる例もあると考えたほうがいいのです。新井白石のように、末盧を松浦、伊都と怡土、不彌国を宇美とし、カタカナ風(万葉仮名)に読んで日本の古地名音が似ていることで比定地を選択する方法は実は言語学のカテゴリーに照らしてみると危ない方法です。中国語に万葉仮名の借字法は全く援用できません。
對馬が対島、対になった島、一大国が一支国、分岐した一つの国、侏儒国、小さい人が多い国、裸国、裸の人ばかりの国、黒歯国、口の中が黒い人が多い国(檳榔を噛む習慣か?)、女国、女の人ばかりで男がいない国、といったふうに、特徴を捉えたなんらかの意味表現が含まれていることを見なければなりません。こうして、援用すると不彌国は、あまり広くない国という意味でしょう。伊都国は、伊が都(管轄)する国ですから、四国の伊(後の阿波忌部)が支配する国となるでしょう。れらの地名について、私とて、古代の中国人になりきることができませんので、ヒントをだしたぐらいに思っていてください。



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邪馬台国は女王が都(ど)とする所です。

邪馬台国は女王が都とする所です。
「都」の研究 ~都は”みやこ”ではないことを証明する~                      

邪馬台国について、「南至邪馬壹國女王之所都」と書かれています。「邪馬台国、女王が都(みやこ)を置いているところである」と訓読します。それでは開くと、「女王が邪馬台国にいる」ことになります。それなら、女王は邪馬台国近畿説では近畿に、九州説では九州にいることになりますよね。ここは、女王の居る所として、論理的に重要な分岐条件となります。都について、ここはしっかりと定義を行い、それを踏まえて論を展開する必要があります。都(と、ど)とは禄採地のこと。和義では屯倉(みやけ)になるでしょう。現代語では植民地。
「邪馬台国は女王が禄採地にしているところです。」と訳します。都(首都)、すなわち女王卑弥呼の宮殿がある処のような意味はありません。
はじめに、「都(ど)」という意味を、1-3世紀の中国古語のほんらいの意味に戻すことにします。「みやこ」と読むと誤訳になることをこれから論じます。(2019.8.14)

  2世紀にあった古い中国の辞書《說文解字》から都の意味をさぐります。ここはキーポイントです。


都の用語解説
《說文解字》 説文解字(せつもんかいじ、拼音: Shuōwén Jiězì)
[東漢] 100年-121年 許慎著 提到《說文解字》的書籍
[又名:《說文》]
 ->  -> 說文解字>《巻七》
《邑部》
(日本語では”漢字の部首、偏(へん)の一、こざとへん。「防」「限」などの「⻖」。旁(つくり)の「おおざと(⻏)」と区別していう。 〔漢和辞典では一般に「阜」(八画)部に配列される〕「阜」の字を略した形)

 ->  ->  ->  -> 邑部
3987 打開字典顯示相似段落 邑部:
:有先君之舊宗廟曰都。从邑者聲。周禮:距國五百里為都。
3987:訳、「都(ど)は以前の君主の旧(初代からの)宗廟があるところを都といいます。部首”邑”(yì)”者”(zhě))と発音します。周禮では、それぞれ五百里離して都(と)となしています。

4072 打開字典 邑部:
:故楚都。在南郡江陵北十里。从邑呈聲。
4072訳、「:郢(てい)はかつての楚の都(ど)です。南郡・江陵(湖北省)の北十里にあり、部首邑”呈”と発音します。」

4009 打開字典顯示相似段落 邑部:
酆:周文王所都。在京兆杜陵西南。从邑豐聲。
上記の4009を訳すと:「:酆酆都城(fēng dū chéng ))は周の文王の都(ど)とするところです。京兆(郡)の(前漢宣帝の陵墓である)杜陵の西南にあります。部首邑(おおざと)”酆”と発音します。


*杜陵は西安市街南東部にあります。


:酆は杜陵の西南の西南にあることを地図で確認します。




①4009酆: 「酆周文王所都」
①’酆(酆都)は周の文王の都とするところです。
  豊邑(豐邑(ほうゆう)は西周の都だった。都をみやこと読んではいけないのですよ。酆邑は文王の時代、周公の都(と)で、京師は鎬京(こうけい)です。鎬京(こうけい)は陝西(せんせい)省西安市(後の長安)だとされています。

①酆:周文王所都。を構文配列すると、酆周文王所都」は「邪馬壹國女王之所都」と同じ文型です。!
場所 +支配者 +【所】+【都(ど)】
になります。

②邪馬壹國女王之所都。
邪馬台国+女王 +之所 + 都   ・・・やはり同じ構文になっています。

①’に準じて訳すと、②は邪馬台国は女王が都(ど)とするところです。・・・となります。
 文例  配   列   
 文型→ 場所   支配者+  所+     
 ①    周文王      酆は周の文王の都(ど)とするところです。
 ②  邪馬台国  女王  之所    邪馬台国は女王が之を都とするところです。

鎬京(こうけい)が首都でしたから、酆(酆都)は周の文王の京(みやこ)ではないのはあきらかです。邪馬台国もしかりです。これで詰みましたね。女王は邪馬台国にいなかったのです。それどころか、女王が大率を派遣して邪馬台国を支配監察していたのですね。

*酆都城:中華人民共和国 重慶市 豊都県、「豊都鬼城」=(もっとも冥途に近いと言われてい名所・鬼城)=MAP
*周の建国時首都:豊鎬(中国語)(豊京及び鎬京(こうけい)、:陝西省西安付近)(前1046年 – 前771年)
周の東遷:洛邑(前771年 – 前256年)

周は黄河の支流渭水流域にあった邑の一つで、はじめ殷の支配を受けていました。文王の時に宰相太公望などの補佐もあって有力となり、前1024年頃、文王の子の武王が殷の紂王を牧野(ボクヤ)の戦いで破り、華北一帯を支配しました。[首都]は渭水流域の鎬京(こうけい)に置きました。殷を滅ぼして中原を支配するようになってからは、中原統治の便を考慮して、河南省の洛陽(かつての洛邑)を[副都]としました。BC771年に周の[首都]の鎬京(こうけい)に犬戎(けんじゅう)という異民族が乱入し[首都]を奪ってしまいます。そして鎬京[首都]を奪われた周は洛邑(らくゆう=洛陽)に京師[首都]を移すことになります。これを周の東遷といいます。鎬京よりも洛邑は東に位置したのですね。この東遷を境にして西周・東周という言い方をします。


3987:では、都には封建君主の始祖の宗廟があって、宮処から500里(漢の里?207.5km)以遠にあるということが条件だと分かります。
*用語:*从=従:そえ。正の次の位。三親等内の親族。封建領主は大王の王族、貴族がなるのが通例。
*酆都大帝(ふぉんとうーたいてい) 泰山の東岳大帝の横に鎮座し、冥界(地獄)を司る最高神。

4072 打開字典 邑部:
郢,故楚都。在南郡江陵北十里。从邑呈聲。
4072訳、「:郢(てい)はかつての楚の都(ど)です。南郡・江陵(湖北省)の北十里にあり、部首邑”呈”と発音します。」

1.楚の首都は丹陽(河南省淅川県) 2.郢(湖北省荊州市荊州区)が都(ど)です。

なぜ、宮城から500里離れていないと都(ど)といわないのか? 答えは下にあります。
漢代之後 -> 宋明 -> 太平御覽 -> 州郡部一 -> 敘京都上
《敘京都上》
電子圖書館
6 打開字典顯示相似段落 敘京都上:
《周禮·大司徒》:以土圭之法測土深,正日影,以求地中。又曰:四縣為都。又曰:距國五百里為都。

「土圭之法で土を深く掘り、地中に映ずる日影が正しく吉ならば都を建国する。また、四県を都となす。五百里(207.5km)隔たったところを都となす」

*初出の「土圭之法」とは風水?「土圭」は、昔、中国で方角・日影を測る磁針を称した語。(デジタル大辞泉)
 ->  ->  -> 地官司徒
66 打開字典顯示相似段落 地官司徒:
以土圭之法測土深、正日景,以求地中。日南則景短多暑,日北則景長多寒,日東則景夕多風,日西則景朝多陰。日至之景,尺有五寸,謂之地中:天地之所合也,四時之所交也,風雨之所會也,陰陽之所和也。然則百物阜安,乃建王國焉,制其畿,方千里而封樹之。
地中に映ずる日影が短ければ暑く、長ければ寒い、東の日影が夕にあれば風が多く、西の影が朝に傾けば陰が多い、日影の長さは五寸あり、地中の天地が合し、四時(東西南北)の交わるところで、風雨が会うところで、陰陽が和すところ、百物大安なので、すぐにでも王国を立てるなりや。

都鄙の八則

 ->  ->  -> 天官冢宰
《天官冢宰》

58 打開字典顯示相似段落 天官冢宰:以八則治都鄙(とひ):一曰祭祀,以馭其神。二曰法則,以馭其官。三曰廢置,以馭吏。四曰祿位,以馭其士。五曰賦貢,以馭其用。六曰禮俗,以馭其民。七曰刑賞,以馭其威。八曰田役,以馭其眾。


「八つの規則をもって都鄙(とひ)を治める。一つには祭祀、その神を馭(ギョ)する、二つには法(官制)にのっとりその官吏を馭する、三つには廃置(異動)をもって官吏を馭する。四つには禄位(報酬)をもって士(兵)を馭する、五つには賦貢(税)をもって財政を馭する、六には禮俗(冠婚葬祭)をもって民を馭する、七つには刑罰と褒賞をもって威厳を馭する、八つには田役(屯田地の労役)をもって衆人を馭する」

*眾=众(zhòng)衆(多くの人)
都鄙(とひ)は他の都のから500里以上離れていて、在王畿之邊、京より遠い辺地にある領地なのです。
都の封建領主は、祖神を祭ることのほか、ほぼ行政のすべての任務があったことが分かります。
*馭(ギョ)するとは馬を馭するの用例からは治める、きちんと統制するという意味。

   
京師の用語解説:

京師に送る;”京師”とは天子のいるところ

*『儒家』『白虎通徳論』(東漢79年-
《白虎通德論》
[東漢] 79年-92年 班固著
《卷三》
《京師》

3 打開字典顯示相似段落顯示影印本 京師:
京師者,何謂也?千里之邑號也。京,大也;師,眾也。天子所居,故以大眾言之,明諸侯,法日月之徑千里。《春秋傳》曰:「京曰天子之居也。」《王制》曰:「天子之田方千里」。
4 打開字典顯示相似段落顯示影印本 京師:
或曰:夏曰夏邑,殷曰商邑,周曰京師。《尚書》曰:「率割夏邑。」謂桀也。「在商邑。」謂殷也。

3. 京師者とはなんといったらいいのだろうか? 千里ほどの邑をいうのです。京とは大きいという意味。師は眾(=衆・邑中の多くの人)という意味です。ゆえに天子のいる所です。大眾(京師)と言うのにはこれを明らかにしたのが諸侯法日月之徑千里です。明諸侯,法日月之徑千里。《春秋傳》では、京は天子のいるところなりと言っています。《王制》では、天子の田方千里のことを言うのだとしています。
4.京師は、夏では夏邑、殷では商邑、周では京師、と言っていました。《尚書》では、”桀で”は「率割夏邑」言い、殷では”商邑”と言っていました。

用語解説:
*京(みやこ・大の意味=天子のいる所)
*京師(千里ある邑・天子のいる所)
*眾(=众(衆)
*里=前漢以前の周代の距離単位か?。法日月を基にした千里とは何を指すのでしょうか?『周髀算経(しゅうひさんけい)』に「凡日月運行,四極之道。」とあるので日月の法は「一寸千里の法」に結びつきそうです。谷本茂が論じたところによると、一里は76m~77mとされます。さまざまな里程論では、これを『短里』と称して使われています。

先秦兩漢 -> 《算書》 周髀算經 [漢] 公元前50年-100年 ->  ->  -> 卷上
一寸千里の法:夏至の南中点の時に地上に垂直に立てた長さ八尺の棒の影の長さが一寸ちがう地点を千里とする測量方法。ただし、技術的に南北の距離しか測れません。

京師の用例:
『三國遺事』/卷第一 作者:一然 (1206年--1289年)
「定方以義慈王及太子隆等送京師。今云會(会)扶餘王隆。則知唐帝宥隆而遣之。立為熊津都督也。」
定方は義慈王及太子隆等を京師に送った。今伝える會扶餘王の隆である。唐帝は隆を許し熊津都督に為した。
*yòu(罪などを)寛大に許す,大目に見る.
もう一カ所、より詳細な記述があります。
「定方以王義慈。及太子隆王子泰。王子演。及大臣將士八十八人。百姓一萬二千八百七人送京師。」
「義慈王及太子隆等が王子泰、王子演、大臣88人、百姓12807人となっています。12807人の百姓は奴隷(生口)として連行したことです。
以上の高麗での『三國遺事』にある用例ですが、ここでの京師は唐の長安です。言えることは、京師でもって一単語でなのです。また、京城は王のいる所、王城になります。さらに付け加えると京都という用語は一つもありません。

上記の三國遺事の記載出来事は、下線の660年7月。
660年 唐の高宗、蘇定方に百済攻撃を命ず。新羅王にも派兵を命ず。
*660年7月11日 蘇定方・新羅軍、百済を攻略し、義慈王を面縛し、高宗に献じる。これ以後、新羅は次第に高句麗・百済の旧地を領有する。
660年12月 唐、契苾何力・蘇定方・劉伯英・程名振らに高句麗を攻めさせる。斉明天皇、百済の鬼室福信の要請に応えて、救援軍の派遣を決す。筑紫に向かうため、難波宮に幸して軍器を備える。(書記)

古代東アジア世界史年表
より
661年2月 百済の残賊(鬼室福信・僧道琛)、反乱し、泗沘城を攻める。倭国に質として滞在していた余豊璋を王となす。新羅王、救援のため、諸将を派遣する。また、唐の高宗、劉仁軌を救将として派遣する。
661年8月 将軍蘇定方、高句麗軍を浿江で破り、馬邑山を奪って平壌城を包囲する。
662年 鬼室福信に矢10万隻・糸500斤・綿1000斤・布1000端・韋1000張及び稲種3000斛を賜う。(書記)
663年 百済王豊璋、鬼室福信を殺害。(書記)
663年9月8日、劉仁軌の水軍、白江河口にて倭軍に大勝。また、周留城も攻略。百済王豊璋、高句麗へ脱出。扶餘忠勝・忠志らおよび倭国や眈羅国、降伏。遅受信のみ任存城によって降伏せず。
666年1月1日 高宗、泰山に到着。この日、泰山封禅
668年9月 唐に亡命した高句麗の泉男生、謀って高句麗を滅ぼす。(書紀 天智6・10月条)唐軍、高句麗の王都平壌を陥し、宝蔵王らを捕える。高句麗滅亡。
677年2月 唐、扶余隆を熊津都督帯方郡王とし、帰国させる。また、安東都護府を新城に移して百済故地を統括させる。このとき新羅強勢で隆は入国できず、高句麗に寄留していたが、そこで死去。のちに則天武后、百済義慈王の子の扶余隆の孫の敬に王位を継がせたが、故地は新羅・渤海・靺鞨に分割されていて、ついに国系は断たれる。

宗廟で祀られるのは開祖
周(しゅう、拼音: Zhōu、紀元前1046年頃 - 紀元前256年)は、中国古代の王朝。殷を倒して王朝を開いた。紀元前771年の洛邑遷都を境に、それ以前を西周、以後を東周と、2つの時期に区分される。国姓は姫(き)。周代において中国文明が成立したとみられる。周の伝説上の始祖は后稷と言い、帝舜に仕えて、農政に功績があったという。古公亶父の時代に周の地に定住したと言われている。

古公亶父には3人の息子があり、上から太伯・虞仲・季歴と言った。季歴の子の昌(後の文王、前1152年生 - 前1056年没)が誕生する際にさまざまな祥瑞が起こり、古公亶父は「わが子孫で栄えるのは昌の子孫であろうか」と言っていた。古公亶父が季歴に後を継がせたいと考えていることを知った太伯と虞仲は出奔して南の荊蛮の地に赴いた。太伯は句呉(こうご)と号して国を興し、荊蛮の人々は多くこれに従った。


前漢の高帝(劉邦(高祖)、在位:紀元前206年 - 紀元前195年)
魏の武帝(曹操、子の曹丕による追号)
呉の大帝(孫権、在位:222年 - 252年)
晋の文帝(司馬昭、武帝による追号)
前涼の武王・武穆王(張軌、在位:301年 - 314年)
前趙の光文帝(劉淵、在位:308年 - 310年)
後趙の武帝(石虎、在位:334年 - 349年)
前燕の文明帝(慕容皝、在位:337年 - 348年)
後涼の懿武帝(呂光、在位:384年 - 399年)
後秦の太祖(姚萇、在位:384年 - 393年)
北魏の太祖道武帝(拓跋珪、在位:398年 - 409年)
西涼の武昭王(李暠、在位:400年 - 417年)
北涼の武宣王(沮渠蒙遜、在位:401年 - 433年)
北燕の文成帝(馮跋、在位:409年 - 430年)
西秦の文昭王(乞伏熾磐、在位:412年 - 428年)
宋の太祖文帝(劉義隆、在位:424年 - 453年)
斉の太祖高帝(蕭道成、在位:479年 - 482年)
北周の太祖文帝(宇文泰、孝閔帝による追号)
唐の太祖景帝(李虎、李淵による追号)
閩の太祖昭武帝(王審知、在位:897年 - 925年)
十国呉の太祖(楊行密 在位:902年 - 905年)
後梁の太祖(朱全忠 在位:907年 - 912年)
呉越の太祖武粛王(銭鏐 在位:907年 - 932年)
大理国の太祖(段思平 在位:937年 - 944年)
後周の太祖(郭威、在位:951年 - 954年)
北宋の太祖(趙匡胤、在位:960年 - 976年)
西夏の太祖(李継遷、在位:985年 - 1004年)
遼の太祖(耶律阿保機、耶律億、在位:907年 - 926年)
金の太祖(阿骨打、完顔旻、在位:1115年 - 1123年)
元(モンゴル帝国)の太祖(チンギス・ハーン、在位:1206年 - 1227年)
明の太祖洪武帝(朱元璋、在位:1368年 - 1398年)
清の太祖(ヌルハチ、在位:1616年 - 1626年)

朝鮮
金官伽倻の太祖(金首露、在位:42年 - 199年)
高句麗の太祖大王(高宮、在位:53年 - 146年)
高麗の太祖(王建、在位:918年 - 943年)
朝鮮の太祖(李成桂、在位:1392年 - 1398年)
ベトナム
前黎朝の太祖(黎桓(レ・ホアン)、在位:980年 - 1005年)
李朝の太祖(李公蘊(リ・コン・ウァン)、在位:1010年 - 1028年)
陳朝の太祖(陳守度(チャン・トゥ・ド)、在位:1225年 - 1258年)
黎朝の太祖(黎利(レ・ロイ)、在位:1428年 - 1434年)
莫朝の太祖(莫登庸(マク・ダン・ズン)、在位:1527年 - 1529年)

京邑(けいゆう)について 

 《三國志》 [西晉] 265年-300年
《魏書二十二》
《陳羣傳子泰》
9 打開字典顯示相似段落 陳羣傳子... :
泰字玄伯。青龍中,除散騎侍郎。正始中,徙游擊將軍,為并州刺史,加振威將軍,使持節,護匈奴中郎將,懷柔夷民,甚有威惠。京邑貴人多寄寶貨,因泰市奴婢,泰皆挂之於壁,不發其封,及徵為尚書,悉以還之。嘉平初,代郭淮為雍州刺史,加奮威將軍。蜀大將軍姜維率衆依麴山築二城,使牙門將句安、李歆等守之,聚羌胡質任等寇偪諸郡。征西將軍郭淮與泰謀所以禦之,泰曰:「麴城雖固,去蜀險遠,當須運糧。羌夷患維勞役,必未肯附。今圍而取之,可不血刃而拔其城;雖其有救,山道阻險,非行兵之地也。」淮從泰計,使泰率討蜀護軍徐質、南安太守鄧艾等進兵圍之,斷其運道及城外流水。安等挑戰,不許,將士困窘,分糧聚雪以稽日月。維果來救,出自牛頭山,與泰相對。泰曰:「兵法貴在不戰而屈人。今絕牛頭,維無反道,則我之禽也。
」勑諸軍各堅壘勿與戰,遣使白淮,欲自南渡白水,循水而東,使淮趣牛頭,截其還路,可并取維,不惟安等而已。淮善其策,進率諸軍軍洮水。維懼,遁走,安等孤縣,遂皆降。

泰玄伯は青龍中(233年 - 237年)、散騎侍郎に除されていた。正始中(240年 - 249年)は徙游擊將軍・幷州勅使になった。加えて、振威將軍,使持節,護匈奴中郎將に叙され、夷民を懐柔し、天子の恩恵がはなはだしいことを知らしめた。京邑には貴人が多く、寶貨を寄進してきたので、泰玄伯は奴隷の市を禁止しないことを城壁の壁に告知し、奴婢の尚書を返還した。こうして、ことごとく現状に戻した。嘉平初(嘉平1年7,8月),代郭淮為雍州刺史・加奮威將軍に上進した。蜀の大將軍姜維(きょうい)は衆を率いて麴山に二城を築き、使牙門將の句安を使者にだし、李歆等にこれに対して守らせ、人質を取っていた羌胡(きょうこ)に諸郡を侵攻させた。これに対して、征西將軍の郭淮と泰玄伯は防戦を謀った。泰曰く:「麴城は堅固な城であるといえども蜀から非常に遠いので軍糧を運ぶために、羌夷(羌胡)はその勞役を必ず嫌うだろう、今は兵糧を絶っておけば麴城(ちゅうじょう)を無血で奪えるだろう。山道は険しく阻害しており、また、兵(大軍)が救援できる地形ではない。郭淮(征西将軍・都督雍涼諸軍事)指揮下の陳泰・徐質(討蜀護軍)・鄧艾(南安太守・参征西将軍事)らは、其の兵糧を運こぶ道を絶ち、城外流水(洮水)を流して包囲し、突破を許さなかった。將士句安らは困窮し、雪を集めて水の代わりとし、渇きをしのぐ程だった。はたして、牛頭山からの軍量の支援を求めた。泰玄伯は曰く、「今、牛頭(首領)を絶てば、兵法では戦わずして勝つという道理に反することはないだろう。もはや敵は籠の鳥である。・・・中略・・姜維は怖れて遁走した。蜀の南安太守鄧艾らはみな投降した。」

*延熙十二年(えんき・蜀の劉禅の治世・249年) 麴山の戦い(ちゅうさん):秋、姜維(きょう い)は再度北へと軍を進める。姜維はまず彊川より隴右に出て、為翅の麴山に二つの城を築くと、そこに句安、李歆の二将を置いて備えとし、羌胡の人質を集めるとともに、自らは隴右河西諸郡へ侵入し、圧力を掛けた。この姜維の行動は、諸郡県の魏からの離反を誘うと共に、交通の要衝である為翅を押さえ、魏軍が容易には洮水へと達せられないようにする意図があった。敵の鋭鋒を恐れ、援軍が前進を躊躇して後方で勝機を待つという態度は、涼州の人々がかつて苦しめられた状況と同じである。彼らの怒りは魏へと向く、姜維はそれを狙っていた。
*青龍(せいりゅう)は、三国時代、魏の明帝曹叡の治世に行われた2番目の元号。233年 - 237年。青龍5年は3月に改元されて景初元年となった。

 ここでの、京邑は泰字玄伯が赴いた地は并州(へいしゅう)の晋陽Jin yangと思われる。
・幽州(ゆうしゅう)  薊Ji
・青州(せいしゅう)曹魏
・冀州(きしゅう)  鄴(ぎょう)
・并州(へいしゅう)晋陽Jin yang
・徐州(じょしゅう) 小沛
・兗州(えんしゅう) 曹魏
・豫州(よしゅう)  曹魏  許都(河南省許昌市)・沛国Pei
・司州(ししゅう)・司隷Si li 雒陽Luo yang・
・雍州(ようしゅう )雍州と涼州を統合 長安
・涼州(りょうしゅう) 漢陽Han yang 
・揚州(ようしゅう) 孫呉 建業
・荊州(けいしゅう)孫呉  襄陽
・益州(えきしゅう) 蜀漢(劉備) 成都
・交州(こうしゅう) 孫呉  交趾Jiao zhi

以上、三国時代の全14州と主要都城=京邑
*「許都」という呼び名は、196年に長安から洛陽まで逃れてきた献帝と側近達を保護した曹操が、洛陽が炎上していたため、天子の行幸(仮宮)という形で「許」を暫定の京師としたことからついた通称。



「京都に詣でる」について:
 春秋戦国時代と三国時代では「京都」の意味が変わっていた。

京都(けいと)の【用例】

電子圖書館
《先秦兩漢》 《史書》 《後漢書》 [南北朝] 420年-445年
《志》
《五行四》

27 打開字典顯示相似段落 五行四:
順帝永建三年正月丙子,京都漢陽地震。漢陽屋壞殺人,地坼涌水出。是時順帝阿母宋娥及中常侍張昉等用權。
訳:
順帝永建三年正月丙子(128年)京都漢陽に地震があった。漢陽の家屋は倒壊し死者がでた。地は裂け、水が湧き出た。この時、順帝は阿母宋娥と中常侍張昉らと用權(ようけん)に居た。

解説:
順帝(じゅんてい)は、後漢の第8代皇帝。永建年間は(126年 - 131年)です。
順帝(じゅんてい)の首都は洛陽でした。
しかし、漢陽は中国、後漢時代の天水郡(現在の天水市)の別名。漢陽郡。74年(永平17年)、天水郡は漢陽郡と改称されています。涼州(りょうしゅう)にある漢陽Han yangのことです。長安の西に位置します。
ですから、漢陽は順帝のいわゆる”みやこ”ではありませんね。
用語:
*地坼涌水出=地割れと液状化現象
*順帝 劉保,後漢,第8代皇帝,在位期間 125年12月16日 - 144年9月20日,永建3年(128年)、相次ぐ天災(頻発する地震と蝗害(こうがい);いなごの大量発生による災害)を受けて巡察や救貧政策が採られた。9月、鮮卑が漁陽に侵攻した。12月、太傅の桓焉が免職となった。この年に車騎将軍の来歴が罷免された。
*中国の蝗害は日本では想像できないほどその規模はすさまじく、大災害として農民に恐れられていた。イナゴの大群は数百万匹に達し真っ黒な雨雲のように太陽を覆って飛来し、広大な草原や耕地を荒れ地に化してしまう。かつて南京攻略の日本軍を蝗軍と揶揄した例がある。

《史記》
[西漢] 公元前109年-公元前91年 司馬遷著
《列傳》《黥布列傳》
12 打開字典顯示相似段落 黥布列傳:
七年,陳。八年,雒陽。九年,長安。
《漢書》
[新 - 東漢] 36年-111年 提到《漢書》的書籍 電子圖書館
《傳》
49 打開字典顯示相似段落 韓彭英盧... :
六年,朝陳。七年,朝雒陽。九年,朝長安。

”京都”が漢陽なのですから、周代では京都は天子の居る所と定義できません。

しかし、京都は三国時代には皇帝のいる処に変化しています。

京都(けいと)の【用例】は5世紀ごろ後漢書で現れてくる熟語ですが、どう訳したらいいのでしょうか。
漢代之後 -> 魏晉南北朝 -> 三國志 -> 魏書三 -> 明帝紀
明帝紀: 二年春二月乙未:・・・「俾逆臣董卓,播厥凶虐,焚滅京都
董卓が火を付けたのは洛陽であるので、三国時代には天子のいる宮処を京都といっていたのですね。曹操がこの廃墟となった洛陽から許都に移ったことを遷宮と言わず、許都遷都としています。黄巾の乱の蜂起(184年)による漢朝の動揺から西晋による中国再統一(280年)までを三国時代といいますが、この時代には皇帝のいる宮城を京師とはいわずに京都と称してしたのです。
明帝紀:
丙寅,司馬宣王圍公孫淵於襄平,大破之,傳淵首于京都,海東諸郡平。冬十一月,錄討淵功,太尉宣王以下增邑封爵各有差
 「司馬宣王(司馬懿仲達)が襄平城を破り公孫淵を襄平で破り、公孫淵の首を取ったことを京都に伝えた。海東諸郡(楽浪郡・帯方郡)を平定した。冬十一月に公孫淵を討ったことを記録し、司馬懿以下にそれぞれ差異をつけて禄を与えた。」、明帝に知らせたのですから、京都が首都であることに相違ないと思われます。

   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
では魏志倭人伝を見てみましょう:「 王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯」
上記の魏志倭人伝よりの抜粋に京都という語がありますよね、ところが京都へもう出ていた国がほかにもありました。「毎年のように使いを送り、京都に貢献していた」それは扶余伝に書かれています。以下、その原文。

《魏書三十》
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《夫餘傳》
電子圖書館
3 打開字典顯示相似段落 夫餘傳:
夫餘本屬玄菟。漢末,公孫度雄張海東,威服外夷,夫餘王尉仇台更屬遼東。時句麗、鮮卑彊,度以夫餘在二虜之間,妻以宗女。尉仇台死,簡位居立。無適子,有孽子麻余。位居死,諸加共立麻余。牛加兄子名位居,為大使,輕財善施,國人附之,歲歲遣使詣京都貢獻。正始中,幽州刺史毌丘儉討句麗,
ここでは、壹與が共立される前に、简位居が死に、麻余が共立され王になったのですが、牛加の位居に国人の人気が集まり、麻余は誅殺されたのですね。
ところが、牛加の位居は実権をもったはずですが、倭人伝では壹與を共立したとされています。倭人伝では「更立男王,國中不服,更相誅殺,當時殺千餘人。復立卑彌呼宗女壹與,年十三為王,國中遂定」と書かれている真相です。
国中不服さらに相誅殺というのは麻余が殺されたということです。

年年京都に貢献していたのが事実なら九州の伊都国王より上手がいたということになります。

     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

主な長城・関の一覧

長城本線の東端、老龍頭

明代・慕田峪長城

明代の長城西端にあたる嘉峪関の門
※東から西の順。

北京以東
虎山長城
遼寧省丹東市にあり、明代長城の支線の東端にあたる。
老龍頭長城(ろうりゅうとう)
山海関にほど近い長城。ここで明代長城の本線は海中に没する。
山海関(さんかいかん)
河北省秦皇島市にあり、明代長城本線の東端にあたる。
黄崖関長城(こうがいかん)(天津市薊州区)
北京周辺
※北京近辺で訪問できる場所

司馬台長城(しばだい)
険しい山の上に築かれている。あえてあまり修復されていない。
金山嶺長城(きんざんれい)
慕田峪と司馬台の間にあり、司馬台とお互いに徒歩で行き来できる。
蟠龍山長城
あえて全く修復せずに公開された長城。崩れかかった長城の上に歩道だけを整備して公開された。
古北口長城(こほくこう)
大榛峪長城(だいしんよく)
黄花城長城(こうかじょう)
慕田峪長城(ぼでんよく)
八達嶺に次ぐ著名な見学地。ロープウェイが存在するため登りやすい。
箭扣長城(せんこう)
八達嶺長城(はったつれい)
もっとも有名な見学地。ツアーのほか北京市内からの路線バスも頻繁にあり、多くの観光客が押し寄せる。
水関長城(すいかん)
居庸関 ・居庸関長城(きょようかん)
八達嶺長城のすぐ北京寄りにある。元代に建築された雲台が著名。2006年に修復後公開された。
挿箭嶺長城(そうせんれい)
北京以西

明・長城の狼煙台(楡林市)
老牛湾長城(ろうぎゅうわん)
楡林鎮北楼(ゆいりんちんほくろう)
三関口長城(さんかんこう)
トングリ砂漠長城
丹峡口長城(たんきょうこう)
嘉峪関(かよくかん)
甘粛省嘉峪関市にある関で、明代長城の西端にあたる。
河倉城(かそうじょう)
玉門関(ぎょくもんかん)
甘粛省敦煌市にある関で、嘉峪関よりは西にあり、漢代長城はここを西端としていた。
陽関(ようかん)
玉門関と共に「二関」として設置され、玉門関のすぐ南にあるのでこう呼ばれた。


「臺(たいtái)に詣でる」、について。

《魏晉南北朝》
《道德真經註》
[三國 (220年 - 265年)] 王弼著
《巧蓺》
2 打開字典顯示相似段落 巧蓺:
陵雲臺樓觀精巧,先稱平眾木輕重,然後造構,乃無錙銖相負揭。臺雖高峻,常隨風搖動,而終無傾倒之理。魏明帝登臺,懼其勢危,別以大材扶持之,樓即穨壞。論者謂輕重力偏故也。・・・

訓読;「陵雲臺の樓觀の精巧たるは、先に眾木の輕重を稱りて平らげ、然る後に構えて造れば、乃ち錙銖も相い負く無し。臺の揭ぐること高峻にして、常に風に隨いて搖れ動きたると雖ど、而して終には傾倒の理無し。魏の明帝は臺に登れるに、其の勢の危きを懼れ、別に大材を以て之の持するを扶けんとするに、樓は即ち穨壞す。論者は輕重の力の偏りたる故なりと謂う。」

現代語訳;「凌雲臺(りょううんだい)の楼観は精巧です。先に平らな多くの木を秤りを軽重をぴったり合わせます。しかる後に組み立てますから、そこで、ごくわずかな重さの違いもないので木と木がはがれることがありません。”臺”が高く険しくても風に従って揺れ動いても倒れることがないのはこのためです。魏の明帝がこの凌雲臺に登りましたが。風の勢いが強く危ないと思って別の大材を以て支え、倒れないようにしようとしたが、高楼はたちまち崩れ落ちてしまった。論者は軽重の偏りが原因だと言う。」

*銖錙 (しゅし) 。昔、中国の量目で、100粒の黍 (きび) を1銖とし、24銖を1両、8両(または6両とも)を錙としたところから》わずかなこと。また、ごく小さいこと。漢代の斤を226.67グラムと仮定すると、銖は約0.590グラムに当たる。
*揭 jiē:くっついているものを)はがす,めくる,


中国风水墨楼台(想像参考図)

「闕(けつ)に詣でる」、について

《太平御覽》[北宋]977年-984年/《四夷部二·東夷二》 建武中,東夷諸國皆來獻見。二十五年(49年),夫餘王遣使奉貢,光武厚荅報之,於是使命歲通。至安帝永初五年(111年),夫餘王始將步騎七八千人寇鈔樂浪,殺傷吏民,後復歸附。永寧元年(120年),乃遣嗣子尉仇台印貢獻,天子賜尉仇台印綬金綵。順帝永和元年(136年),其王來朝京師,帝作黃門鼓吹、角抵戲以遣之。桓帝延熹四年,遣使朝賀貢獻。永康元年(167年),王夫台將二萬餘人寇玄菟,玄菟太守公孫域擊破之,斬首千餘級。至靈帝熹平三年(174年),復奉章貢獻。夫餘本屬玄菟,獻帝時(189年- 220年),其王求屬遼東云。

尉仇台が闕(けつ)に詣でて貢獻した。尉仇臺が京闕(けいけつ)に詣でた。
闕(けつ)とは、*闕(けつ):祠廟,陵墓などの門前の両脇に張り出して左右対称に設けられた望楼のことを言います。一般には門を挟んで二つ並んでいる楼観のこと。京闕は天使のいる洛陽の闕になります。
中国の双闕
中国の双闕(そうけつ)

用例;
《鮮卑傳》
2 .「建武三十年,鮮卑大人於仇賁率種人詣朝貢」
「建武30年、鮮卑の仇賁にいた部族長は諸部族長を率いて闕に詣でて朝貢した。」
3..「黃初五年,步度根詣貢獻」
「黃初五年,步度根は闕に詣でて朝貢した。
《烏丸傳》
「弟阿羅槃等詣朝貢」
「弟阿羅槃らはに詣でて朝貢した。」

《濊傳》:
正始六年,樂浪太守劉茂、帶方太守弓遵以領東濊屬句麗,興師伐之,不耐侯等舉邑降。其八年,朝貢,詔更拜不耐濊王。居處雜在民間,四時詣郡朝謁。二郡有軍征賦調,供給役使,遇之如民。
「正始6年、楽浪太守劉茂と帯方太守弓遵は高句麗に属する領東の濊を興師(王頎)にこれを討たせた。不耐候は邑を挙げて投降した。闕に詣でて朝貢したので帝は詔書を発して不耐候を不耐濊王となした。不耐王に城郭はなく、民間の中に雑じって居た。帯方郡・楽浪郡に時に応じて詣でており、軍や賦調・使役の供給などを行い、郡の民のごとく遇した。」
ここでは、不耐候が闕に詣でたとありますが、朝貢です。天子から王号を賜っていますので闕に詣でるとは京都に詣でたことと同意です。

*「詣朝貢」がワンフレーズで使用されています。

詣;用例

詣でるの用語はいずれも皇帝の居る所に行くこと。

《魏書三十》の中に35カ所つかわれています。
檢索範圍: 魏書三十 檢索類型: 段落
條件1: 包含字詞"詣" 符合次數:35.
共19段落。第1頁,共2頁。 跳至頁1 2
《魏書三十》
《烏丸鮮卑東夷傳》
2.「烏丸大人郝且等九千餘人率衆詣闕」
《烏丸傳》
1.「袁紹與公孫瓚連戰不決,蹋頓遣使詣紹求和親,助紹擊瓚,破之」

《鮮卑傳》
2 .「建武三十年,鮮卑大人於仇賁率種人詣闕朝貢」
 「後烏丸校尉耿曄將率衆王出塞擊鮮卑,多斬首虜,於是鮮卑三萬餘落詣遼東降。」
3.黃初五年,步度根詣闕貢獻
《軻比能傳》
2.比能數款塞,詣州奉貢獻。
《烏丸傳》
3.「魏畧曰:景初元年秋,遣幽州刺史毌丘儉率衆軍討遼東。右北平烏丸單于寇婁敦、遼西烏丸都督率衆王護留葉,昔隨袁尚奔遼西,聞儉軍至,率衆五千餘人降。寇婁敦遣弟阿羅槃等詣闕朝貢,封其渠帥三十餘為王,賜輿馬繒采各有差。」
《夫餘傳》
3.「正始中,幽州刺史毌丘儉討句麗,遣玄菟太守王頎詣夫餘,位居遣大加郊迎」
《高句麗傳》
2.「莽不聽,詔尤擊之。尤誘期句麗侯騊至而斬之,傳送其首詣長安。莽大恱,
5.「自伯固時,數寇遼東,又受亡胡五百餘家。建安中,公孫康出軍擊之,破其國,焚燒邑落。拔奇怨為兄而不得立,與涓奴加各將下戶三萬餘口詣康降,還住沸流水。」

倭人伝には11文字
2.「其使中國」
 「已葬,舉家水中澡浴,以如練沐」
 「其行來渡海中國,恒使一人」

3.「王遣使京都」
「傳送文書賜遺之物女王」
6.「景初二年六月,倭女王遣大夫難升米等郡,求天子朝獻,太守劉夏遣吏將送京都
7.「正始元年,太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉詔書印綬倭國」
「遣倭載斯、烏越等郡說相攻擊狀」」
「壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還,因臺」
3-7はいずれも倭国が朝貢した記録と読み取る必要があるだろう。

奉:用例

《烏丸傳》
3.「後樓班大,峭王率其部衆,樓班為單于,蹋頓為王。」
《軻比能傳》
2.「太和二年・・・比能數款塞,詣州貢獻。」
《東夷傳》
1.「魏興,西域雖不能盡至,其大國龜茲、于寘、康居、烏孫、踈勒、月氏、鄯善、車師之屬,無歲不朝貢」
「魏が起こって西域までもが圏外ではなかった。その大国である龜茲、于寘、康居、烏孫、踈勒、月氏、鄯善、車師之屬國等は奉朝貢をしない年はなかった。☛毎年奉朝貢したの意味。

《倭人傳》
6.「其年十二月・・・・帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米次使都市牛利,汝所獻男生口四人,女生口六人、班布二匹二丈,以到。」
「景初2年12月・・・帯方太守劉夏は女王卑弥呼の大夫難升米、次使都市牛利を奉献させた。(明帝曰く)汝の所領で捕らえた虜4人と女の慮6人、班布二匹二丈を以て洛陽についた。」
7.「正始元年,太守弓遵遣建中校尉梯儁等,詔書印綬詣倭國」
「正始元年、太守弓遵は建忠校尉梯儁を奉賀貢獻させた。皇帝は詔書と印綬を詣でた倭国に拝假した」

島根県立古代出雲歴史博物館にある年号銅鏡、景初三年の銘文のある銅鏡が展示されています。この鏡は島根県神原神社古墳から出土した三角縁神獣鏡ですが、卑弥呼が賜った鏡の一つではないかと言われています。41文字があり、なんと、この中に京師という文字が記されています。


「景初三年、陳氏この鏡を制作する。ある経述によると、もと京師だった杜の地で作り出され、この鏡をもつものは、役人(吏人)であれば三公の位に登り、女性ならばよい子孫に恵まれ、金石のごとく長寿を保つと刻まれているなり。」

 おみくじの大吉みたいな内容じゃありませんか。男なら出世し、女なら子宝に恵まれる。三角縁神獣鏡の銘文がこんな内容だったんですねえ。この鏡、縁起物のようですね。よく女性の古墳から出土するわけがすっきりしました。それよりも京師という文字と杜の文字があったことのほうが驚きです。学んだばかりの文字が、三角縁神獣鏡にあったのですから。ポイントとしては杜地が元”みやこ”であったこと、かつ前漢宣帝の陵のあった地だと解釈します。

注:兮:漢文の助字、置き字。古詩によく見られ、語調を整える。呉音 : ゲ、漢音 : ケイ
*三公:周においては、太師、太傅、太保の3官職が三公と呼ばれていた。周では宮廷の庭に槐(えんじゅ)の木が植えられ、三公は政務の際に槐に向かって座す定めであったため、三槐とも雅称される。または、三台星にちなんで三台とも。秦や前漢では行政を司る丞相(大司徒)、軍事を司る太尉(大司馬)、監察・政策立案を司る御史大夫(大司空)の3官が三公と呼ばれ、後漢以降は司徒、太尉、司空と名を改められた。
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《西南夷列傳》
電子圖書館
8 打開字典顯示相似段落
西南夷列... :南越破後,及漢誅且蘭邛君,并殺筰侯,冄駹皆振恐,請臣置吏。乃以邛都為越巂郡,筰都為沈犁郡,冄駹為汶山郡,廣漢西白馬為武都郡。

南越を破った後、および漢が(西南夷の)且蘭(しょらん)の邛君(きゅうくん)を誅し、併せて筰侯(さくこう)を殺した。冄駹(ランマン在今四川茂汶地区古代南西部の国)は恐れ震え、(降伏し)臣になり、史を置くことを請うた。これをもって邛都(きゅうど)を越巂(えつすい-ぐん/ユェシー)となし、筰都(さくど)を沈犁郡となし、冄駹を汶山郡とし、廣漢西白馬を武都郡と為した。

   

解説:秦末から漢の初めにかけて、現在の雲南省の一帯には西南夷と総称される諸族が小さな国に分かれて住んでおり、後の越巂郡の地は邛(きゅう)と呼ばれていた。古代中国の少数民族の国名。今の四川省にあった。現在の広東省及び広西チワン族自治区には南越があり、西南夷諸国は漢と南越の両方に通交していた。武帝の元鼎4年(紀元前113年)頃に南越と漢が戦争状態に入ると、漢は西南夷諸国を動員して南越と戦わせようとしたが、諸国は従おうとしなかった。武帝の元鼎6年(紀元前111年)に独力で南越を滅ぼした漢軍は、雲南地方に侵入して小国の王を殺し、各地に郡を立てた。その例が筰都を沈犁郡になし、邛都を粤巂郡(越巂郡)となした。都を郡に改名したのは、都は封建制の邑(国)名称だったからで、漢が直轄支配にしたということです。

用語:

*且蘭(しょらん)県:歴史上,雲南,貴州方面の政治・軍事の要地で〈滇南(てんなん)の門戸〉と称せられたが,古くは,西南夷の地であった。前2世紀漢の武帝によって牂牁(しようか)郡がおかれ、少数民族の首長をもつ且蘭(しよらん)県の地となった。

*越巂郡(えつすい-ぐん)は、中国の漢代から唐代まで、現在の四川省西南部と雲南省東北部にまたがって置かれた郡である。越嶲郡、粤巂郡とも書く。上記の西南夷列.で、越巂郡の地は邛(きゅう)と呼ばれていたことが分かる。


以下の文字は”旁(つくり)”がおおざとの単語を集めています。おおざと「邑」は人の居住地・地名などを表す文字を作ります。
三省堂の大辞林での意味は:
①むら。集落。
②中国,西周および春秋時代初期の城壁で囲まれた都市国家。また,諸侯の封土をさす。

 小篆体
(しょうてん
   漢字データーベース  說文解字第六篇下 金壇段玉裁注 成立年代 清 
     有先君之舊宗廟曰都。左傳曰。凡邑有宗廟先君之主曰都、無曰邑。周禮大司徒注曰。都鄙者、王子弟公卿大夫采地。其都畍曰都。鄙、所居也。載師注曰。家邑、大夫之采地。小都、卿之采地。大都、公之采地。王子弟所食邑也。大宰八則注曰。都鄙、公卿大夫之采邑。王子弟所食邑。周召毛耼畢原之屬在畿內者。祭祀者其先君社稷五祀。按據杜氏釋例。大曰都。小曰邑。雖小而有宗廟先君之主曰都。尊其所居而大之也。又按左氏言有宗廟先君之主曰都。改云有先君之舊宗廟。則必如晉之曲沃故絳而後可偁都。恐非左氏意也。左氏與周官合。从邑。者聲。當孤切。五部。周禮。歫國五百里爲都。此周禮說也。周禮載師注引司馬法曰。王國百里爲郊。二百里爲州。三百里爲野。四百里爲縣。五百里爲都。大宰注曰。邦中、在城郭者。四、去國百里。邦甸、二百里。家削、三百里。邦縣、四百里。邦都、五百里。
佐傳曰く、おおよそ先君主の宗廟があるものを都といい、無いものを邑(い)という。
周禮(しゅうらい)大司徒の注に曰く、都鄙(とひ)の主は王子や子弟、公卿や大夫の采地(さいち)で、都畍(とかい)を都鄙といい、それらの者が居るところである。

載師の注に曰くには、家邑は大夫の采地、小都は卿の采地、大都は公主のもので、王の子弟が食邑とするところなり。
杜氏の釈例によると、大きいものを都といい、小さいものを邑というが、小さいといえども先の君主の宗廟があるものは都という。百里が郊、二百里が州、三百里が野、四百里が縣、五百里を都となす・・・ここからは、都は方五百里とみることができます。

*采地とは与えられた所領だが、都鄙八則からみると、都鄙者は地方の首長(候王)といえる。ほとんど人事、収税、警察件ほかほぼ全権をもっている。

*畍 =文解字・巻14 田部には「境なり」とある。都畍は都の境(さかい)の意。→9138 打開字典 田部::畍:境也。从田介聲
     五酇爲鄙。見遂人。五百家也。又周禮都鄙、王子弟公卿大夫采地。其畍曰都。鄙、所居也。按大司徒以邦國、都鄙對言。鄭注以邦之所居曰國、都之所居曰鄙對言。春秋經傳鄙字多訓爲邊者。葢周禮都鄙歫國五百里。在王畿之邊。故鄙可釋爲邊。又引伸爲輕薄之偁。而鄙夫字古作啚。冣目云俗儒啚夫翫其所習、可證也。今則鄙行而啚廢矣。从邑。啚聲。兵美切。古音在一部。故鄙否通叚用也。
     國也。鄭莊公曰。吾先君新邑於此。左傳凡偁人曰大國。凡自偁曰敝邑。古國邑通偁。白虎通曰。夏曰夏邑。商曰商邑。周曰京師。尚書曰西邑夏、曰天邑商、曰作新大邑於東國雒皆是。周禮。四井爲邑。左傳。凡邑有宗廟先君之主曰都、無曰邑。此又在一國中分析言之。从囗。音韋。封域也。先王之制。尊卑有大小。从卪。尊卑謂公矦伯子男也。大小謂方五百里、方四百里、方三百里、方二百里、方百里也。土部曰。公矦百里伯七十里、子男五十里。從孟子說也。尊卑大小出於王命。故從卪。於汲切。七部。凡邑之屬皆从邑。

     國也。周禮注曰。大曰邦、小曰國。析言之也。許云。邦、國也。國、邦也。統言之也。周禮注又云。邦之所居亦曰國。此謂統言則封竟之內曰國曰邑。析言則國野對偁。周禮體國經野是也。古者城?所在曰國、曰邑。而不曰邦。邦之言封也。古邦封通用。書序云。邦康叔。邦諸矦。論語云。在邦域之中。皆封字也。周禮故書。乃分地邦而辨其守地。邦謂土畍。杜子春改邦爲域。非也。从邑。丰聲。博江切。九部。
     周制。天子地方千里。分爲百縣。縣有四郡。逸周書作雒篇曰。千里百縣。縣有四郡。高注六月紀云。周制。天子畿內方千里。分爲百縣。縣有四郡。郡有監。故春秋傳曰。上大夫受縣。下大夫受郡。周時縣大郡小。至秦始皇兼天下。初置三十六郡以監縣耳。按作雒篇與周禮不合。鄭注月令但云。四監、主山林川澤之官。百縣、鄉遂之屬。是不從作雒說也。故春秋傳曰。上大夫受縣。下大夫受郡是也。各本少受縣下大夫五字。今從水經注河水篇所引補正。趙簡子曰。克敵者上大夫受縣。下大夫受郡。見左傳哀公二年。至秦初。天下置三十六郡㠯監縣。戰國策。甘茂曰。宜陽、大縣也。名爲縣、其實郡也。秦武王時巳郡大縣小矣。前此惠文王十年。魏納上郡十五縣。後十三年。攻楚漢中。取地六百里。置漢中郡。吳氏師道云。或者山東諸矦先變古縣大郡小之制。而秦效之。是也。至始皇卄六年。始置三十六郡。三十六郡者、錢氏大昕曰。地理志。河東、太原、上黨、東郡、潁川、南陽、南郡、九江、鉅鹿、齊郡、琅邪、會稽、漢中、蜀郡、巴郡、隴西、北地、上郡、雲中、鴈門、代郡、上谷、漁陽、右北平、遼西、遼東、南海皆曰秦置。長沙國曰秦郡。河南曰故秦三川郡。沛郡曰故秦泗水郡。五原曰秦九原郡。鬱林曰故秦桂林郡。日南曰故秦象郡。趙國曰故秦邯鄲郡。梁國曰故秦碭郡。魯國曰故秦薛郡。數之適得三十六。下文揔之曰。本秦京師爲內史。分天下作三十六郡。此確然不易者也。史記始皇本紀。二十六年。分天下爲三十六郡。而略取陸梁地爲桂林、象郡南海、乃在三十三年。裴駰以爲不當在三十六之內。因舍三郡。以內史、鄣郡、黔中、足之。內史別於三十六郡不待言。故鄣郡雖見於志注、而不系之秦。黔中郡見昭襄王三十年、而志不之數。不可爲典要也。史記之三十六與漢志同。乃揔攝後事而言之。故漢志、說文、高誘吕覽注、應劭風俗通、皇甫謐帝王世紀、司馬彪郡國志皆言。秦分三十六郡。裴氏不從漢志之目。而唐人作晉書乃造秦四十郡之說。前此無言之者。从邑。君聲。渠運切。十三部。按釋詁曰。郡、乃也。此未得其說。疑𨙻之誤也。
     歫國百里爲郊。杜子春注周禮曰。五十里爲近郊。百里爲遠郊。玉藻說郊祭曰。於郊、故謂之郊。从邑。交聲。古肴切。二部。按周禮故書作蒿。假借字。

郊は首都から百里隔たっている。杜子春が周禮に注を入れたところによると五十里は近郊、百里は遠郊。玉藻は郊國で言われていたがゆえに郊祭というと説いた。部首は邑、音は”交”。目録は古肴切の分類は二部。
     周邑也。在河內。左傳隱十一年。王與鄭人蘇忿生之田。溫、原、絺、樊、隰郕、欑茅、向、盟、州、陘、隤、懷。杜曰。絺在野王縣西南。按郗者本字。絺者古文假借字也。前志河內郡波縣。孟康云有絺城。後志亦云河內波有絺城。按許但云河內、不云某縣者。有所未審也。从邑。希聲。丑脂切。十五部。


そこで、倭人伝に都(ど)の意味を返すことにします。

 こうして、分かりやすくしますと、「女王が都を置いてるところである」は、女王が支配する封地です。が、正しく、邪馬台国に女王はいないというのが結論になります。

ただ、都の意味は後漢書5C以後、天子がいる所といった意味に変わっています。都が今日でいう首都とか宮という意味が一般的な意味に変化しているので、多くの学説のなかで見過ごされてきたと言えます。ただ、2011年に読んだ本、「岩元学説 邪馬台國への道」2011年5月31日発行 著者:岩元正昭・・・で第二章 「都の一字が導く卑彌呼遷都の事実」の中で『「說文解字』に載る「都」字について」という所説が載っています。先行する日本での初出文献ということで紹介します。

このページの活用について、

ページの中段から魏志倭人伝の原文のリンク先が載せてあります。ブラウザのページ内検索をご利用になれます。
例えば、「倭国」という語は何処に何か所書かれているのか、「狗奴國」、「女王國」、「女王」、「倭地」、「倭人」、「郡」、「又」、「行」などは?いくつ何処に書かれているの? これを目で探していては正確に何か所に書かれているのか判別するのはたいへんですよね。また、「倭地」という語は、「会稽」と「九州の外」の二つのロケーションブロックの中でヒットします。つまり、検索結果でヒット文字はカラーでハイライトされています。そこで、倭地という語が複数の別々のブロックのなかに使われていることが分かります。倭国という文字のばあい、いったんブロック内の原文の文字をマークして検索欄にコピペするといいでしょう。国という字が國になっています。また、IMEでは出てこない文字も多いので、コピペのやり方をお勧めします。
検索用のシンプルページを用意してあります。ページ内検索は、けっこう面白くて為になりますよ。倭国という言葉は3か所、女王國は5か所、邪馬台国は1か所しかでてきません。やってみてください。
下のアンダーラインをクリックしてみてください。


魏書 韓伝全文


 ->  ->  ->  -> 倭人傳

至を深堀りする。

至と到は全く同じ意味だということは説文解字の下の説明を対比すればわかります。
至は「鳥飛高下地也」と注釈されています。(下の小篆、上段をご覧ください。))この文字の象形は羽を広げた鳥の絵図で地面に足をつけている状態です。「鳥が高い所から地面に着地する象形なり」でしょう。ある地点から鳥が舞い降りて地面に止まる様なのですから、空中から一直線に来るわけです。へんな言い方ですが空中で寄り道はできないのです。
 こうして、曲がりくねった道程をしめさず、直線を表現すします。
また、従~至の構文が使われています。始点から終点まで途中の状態が高下です。従~至は3D表現ができるという例文にもなります。(3D=立体的、スリーディメンション)
  至   飛從高下至地也。凡云來至者、皆於此義引申叚借。引申之爲𢡆至、爲極至。許云到、至也。臻、至也。徦、至也。此本義之引申也。又云親、至也。寴、至也。此餘義之引申也。从一。一猶地也。一在下、故云。象形。謂?也。不、象上升之鳥、首鄉上。至、象下集之鳥、首鄉下。脂利切。古音讀如質。在十二部。不上去而至下。句。來也。瑞麥之來、爲行來之來。凡至之屬皆从至。
   到  至也。大雅曰。靡國不到。論語兩言民到于今。釋詁曰。到、至也。从至。刀聲。都悼切。二部。
”到”は、中国語では目的を達するという補語としても使われます。

女王国=奴国 (プロパティ=地点=吉野ヶ里東南6km)

女王=①女王という人称代名詞、②女王の支配するエリア

=九州の30カ国の領域(プロパティ=エリア)

倭国=中国に朝見して封じられた国であること。地点としては、帯方郡帯方県・【沙里院】の南にある一国で女王がいる土城。

倭人=「黥面文身した人」(入れ墨をした人=民族という概念ではありません。)

倭種=「黥面文身した人々」 入れ墨をした人々(人種・民族を問わない)

倭地=「黥面文身した人々が住む領域」(プロパティ=エリア・九州のほか複数国あります。会稽、侏儒国、裸國、黒歯國なども倭地です。)

従A至B=前置詞(介詞)~から~まで。
 A地点よりB地点までの間。前置詞構文。その間の様子や状況が書けるので三次元的構文(【用法】Between A_place and B_place) 現代の中国語では簡体文字”从”になっていますが用法は同じです。大部分のセンテンスで従Aが省略されてます。

自A至B=前置詞(介詞)~から~まで。
 A地点からB地点まで。前置詞構文。二次元的構文で、間は直線のみ。後続する修飾句とは区切る。(【用法】From A_place to B_place)
大部分のセンテンスで自Aが省略されてます。

=軍隊が常に駐屯する所.

=関所、一つの城の形態をもつ。

=中国における街道の中継地。『漢書地理志』西域伝に、次のように書かれています。「郵驛亭置如中國。從安息繞海北到其國,人民相屬,十里一亭,三十里一置」、
西域の手前まで武帝の作った河西回廊には驛や小さな関が置かれていました。街道沿いの馬を休める休憩所、宿場、関所などで、里数を示す役割をもっていました。
誤字を指摘しておきます。魏志倭人伝の「使譯所」の譯(訳)は、驛(駅)の誤字とみなします。草書から楷書に転記されたさいに、あるいは写本の時に転記ミスが起きたと考えます。驛所は中国における郵驛亭のようなものですが、驛所なら通行のカテゴリーに使えますが、訳所という語では意味が通りません。
*郵驛亭周王朝の頃に高速馬を使って緊急に簡本(竹簡)を届けるため、街道に亭(休憩所)、舎(宿舎)、館(宿屋)、舖(駅)などの通信システムがありました。十里一亭(≒4.3km:漢書百官公卿表 班固著)
《説文解字》
[東漢] 100年-121年 許慎著
《卷四》
《言部》
1713 打開字典 言部:
:傳譯四夷之言者。从言睪聲。

《說文解字》
[東漢] 100年-121年 許慎著
《卷十一》
《馬部》
提到《馬部》
6154 打開字典 馬部:
:跨馬也。从馬奇聲。
6202 打開字典 馬部:
:置騎也。从馬睪聲。
驛とは乗馬を置くところです。

譯は驛の誤字か?

使驛=公文書を配達する役人のこと。 『三国志東夷伝倭国条』の【使譯所通三十國】を、『後漢書』は【朝鮮使驛通於漢者三十許國】とし、「使驛」としています。

東夷伝第三十全般にわたって、譯の字は六ケ所あり、そのすべてが驛の転写ミスとは考えられません。
漢書地理誌では譯長という官名があります。
ここでは三)に譯人という名詞があります。史譯(りやく)とは、官吏譯とすれば譯を司る役人と取れます。使譯は譯人を使ってとなり、漢字文化圏では通訳ではなく、木簡・竹簡などを郵送業務を担当する者と解されます。
一)《軻比能傳》太和二年,豫夏舍詣比能女壻鬱築鞬部,舍為鞬所殺。
豫は夏舎に譯を使わし、比能の女婿に詣でて、弓袋庫を築くことに気がすすまなかった女婿を弓袋のある所で殺すように伝えた。

二)《東夷傳》然荒域之外,而至,非足跡車軌所及,未有知其國俗殊方者也
荒れた地域の外なるも、重ねて譯を送り・・・

三)《夫餘傳》以金銀飾帽。人傳辭,皆跪
 以て、金銀飾り帽子、譯人辞を伝え、みな趺坐した。

四)《韓傳》郡即以鑡為,從芩中乘大船入辰韓
郡はすぐに”のべがね”を譯にした。芩から大船で辰韓に入った。

五)分割辰韓八國以與樂浪,吏轉有異同,臣智激韓忿
辰韓八国を分割し、以て楽浪郡に編入した。史驛が異同があり、転じることを伝えると、臣智(古爾王)激して、韓怒る。

六)《倭人傳》 今使所通三十國
いま史驛?通じる所三十カ国

一から六までをまとめると、譯とは公文書を配達する役人。または郵便物のことです。
*郵驛亭 周王朝の頃に高速馬を使って緊急に簡本(竹簡)を届けるため、街道に亭(休憩所)、舎(宿舎)、館(宿屋)、舖(駅)などの通信システムがありました。十里一亭(≒4.3km:漢書百官公卿表 班固著)
都護治所=西域における鎮の呼び方。

浮屠(ふと)=普通名詞では仏教僧のこと。固有名詞ではゴータマ・シッダッタ(巴: Gotama Siddhattha)・漢訳では瞿曇悉達多を指す。つまり釈尊のことを浮屠(ふと)としている。
浮屠經=仏教の経典。
臨兒國=コーサラ國?
引用:魏志倭人伝、後半部分
11 打開字典 倭人傳:
臨兒國,浮屠經云其國王生浮屠。浮屠,太子也。父曰屑頭邪,母云莫邪。浮屠身服色黃,髮青如青絲,乳青毛,蛉赤如銅。始莫邪夢白象而孕,及生,從母左脅出,生而有結,墮地能行七步。此國在天笁城中。天笁又有神人,名沙律。昔漢哀帝元壽元年,博士弟子景盧受大月氏王使伊存口受浮屠經曰復立者其人也。浮屠所載臨蒲塞、桑門、伯聞、疏問、白疏間、比丘、晨門,皆弟子號也。浮屠所載與中國老子經相出入,蓋以為老子西出關,過西域之天笁、教胡。浮屠屬弟子別號,合有二十九,不能詳載,故略之如此。
「臨兒國、浮屠經が伝えるにはその国の国王が浮屠を生んだ。浮屠は太子なり。父は屑頭邪、母は莫邪という。浮屠は黄色の服を着て、髭は青絲の青い乳(螺髪(らほつ)のようだった。蛉は銅のように赤かった。はじめ母の莫邪は白象の夢を見て妊娠し、子を産んだ。母の左の脇腹から生まれた。生まれると印結があり、地上に降りると七歩ばかり歩むことができた。この国は天竺城の中にあり、天笁は加えて神人がおられた。名を沙律と言いました。昔、漢の哀帝元壽元年(前2年)に博士は弟子景盧を受けいれ、大月氏王・使伊存口を受け入れた。浮屠經が曰くには復び立つ者は其人であるという。浮屠所に掲載された、臨蒲塞、桑門、伯聞、疏問、白疏間、比丘・晨門らは皆弟子と称されている。浮屠所が載せるには中國老子經が相出入し、けだし老子の教えがが西の玉門関を出ることとなった。関を過ぎて天笁の西域にまで胡(西域)の諸国を教化した。浮屠に属する弟子は別に29名の名前を名乗っていたが、詳しく載せることができないので、このように略載した。」

*釈迦が生まれる際、その母は白象がお腹の中に入っていった夢を見て妊娠を知ったと言われている。浮屠が釈迦であることに間違いはない。釈迦の父であるガウタマ氏のシュッドーダナは、コーサラ国の属国であるシャーキヤのラージャで、母は隣国コーリヤの執政アヌシャーキャの娘マーヤーである。母のマーヤーは、出産のための里帰りの旅行中に、カピラヴァストゥ郊外のルンビ二で子を産んだ。この誕生に関して、釈迦はマーヤーの右脇から生まれ出て7歩あゆみ、右手を上に、左手を下に向けて、『天上天下唯我独尊』と言った(八正成道(はっしょうじょうどう)のうち降誕もしくは出胎)と物語られている。マーヤーは出産した7日後に死んだ。この子はシッダールタと名付けられた。シャーキャの都カピラヴァストゥにて、シッダールタはマーヤーの妹マハープラージャーパティによって育てられた。
*浮屠所で一つの意味単語と解した。仏教寺院のことだろう。
*いわゆる釈迦頭は青色だったことになりますね。
*母の名前、「莫邪」はマーヤーの音写のようです。中国文字は長音がありませんからマヤと単音化されます。父は屑頭邪は●●ヤーのような読みでしょう。ゴータマーとは一致しません。「臨兒國はコーサラ國でしょうが、これは音写とはいえません。どちらかというと意味転写です。沙律はバラモンの高僧でしょう。


こちらの仏様はタイのお釈迦様です。


*元寿(げんじゅ)は、中国、前漢の哀帝劉欣の治世に行われた年号。紀元前2年 - 紀元前1年。
元年:哀帝死去し、平帝劉衍が即位。太皇太后王政君により王莽がふたたび大司馬となる。
*説文解字 虫部:蛉:蜻蛉也。从虫令聲。一名桑桹。蜻蛉はトンボとかカゲロウのこと。トンボが赤かったという意味句がここに挿入される意味は私には分からない。玉部: 玲:玉聲の文字違いではないか?玉同士が触れ合って出す音のことらしいが、玉珠ではないか。頭の青い仏像が世田谷にあったが、頭の上部になにやら赤いボタンのようなものがついている。これは飾り物ではなく、肉髻珠(にっけいしゅ)ということだった。

螺髪(らほつ)=仏像の丸まった髪の毛の名称、縮れて右に渦巻く巻貝の形をした髪。如来の姿の三十二相八十種好のひとつ。
頂髻(ちょうけい)相、(肉髻(にっけい)相=頭頂に椀(わん)のような肉の盛り上がりがある)が、これは知恵を表すとされている。その椀の前面にある赤くて丸い珠のようなものが肉髻珠(にっけいしゅ)。蛉は銅のように赤かった。・・・はこれだろう。菩薩の宝髻にも装飾品が付けられている場合がよくありますが、これらのものとは全く性格の異なるものです。如来形には本来装飾品はつけないものなのです。肉髻珠は仏の智恵の光を表わす珠(たま)とされています。飾り物ではないので一言。

大都督(たいとど)=軍事総監 孫呉の周瑜、曹魏の司馬仲達、蜀の諸葛亮など軍の指揮権をもつ官織(身分制とは異なる)

=対象語を複数化し、かつ、その全部ということ。


例文:「大宛國,王治貴山城・・・・東至都護治所四千三十一里,北至康居卑闐城千五百一十里,西南至大月氏六百九十里。」
この上の文章に自~が省略されています。脱字を埋めてみましょう。
「大宛國,王は貴山城を治めている。,自貴山城東至都護治所四千三十一里,自貴山城北至康居卑闐城千五百一十里,自貴山城西南至大月氏六百九十。」
 こうして省略部分をいれて、「貴山城から都護治所まで東4031里」と読みます。
この例文にはもう一つ重要なヒントが隠されています。自貴山城北至康居卑闐城千五百一十里には、はっきりと康居卑闐城と王城の名前が記されています。このばあいは、大宛國貴山城から康居卑闐城まで1510里と地点と地点の径、すなわち直線距離です。

=一見して、この是という術語がないように見える文は名詞フレーズが術語になります。「です」が脱字になります。「AからBまで500m」・・・このフレーズを例にとると、500mが術語になりますので、「AからBまで500mです。」と訳すことができます。

(と)=封建制度下の辺境の行政地ないし封地(前漢の郡や県に相当。じみやこような意味はありません。後節:)

京師(けいし=皇帝のいるところ。宮城。

京邑(けいゆう)=州の主要な都城。郡太守を監察する勅使のいるところ。

津(つ)=波止場、船着き場、現代的には港でも可。

行来=ゆきき、往来

=行く、出発する(倭人伝の中に一か所あります。)

=至と同じ「~まで」と訳すが、途中の区切り地点が強調される。

=①経由する(歷韓國といえば朝鮮半島の街道を通過したということです)
   ②暦年とは暦の上での1年間。
」の研究 ~行は”行列の意味”、ということを証明する~               
行=①始点から終点までその空間を歩く。
   ②方向+行=並んでいる、列、の意味。
《說文解字》
《行部》
1265 打開字典 行部:
     人之步趨也。步、行也。趨、走也。二者一徐一疾。皆謂之行。統言之也。爾雅。室中謂之時。堂上謂之行。堂下謂之步。門外謂之趨。中庭謂之走。大路謂之奔。析言之也。引伸爲巡行、行列、行事、德行。从彳亍。彳、小步也。亍、步止也。戶庚切。古音在十部。凡行之屬皆从行。

彳=少し歩くなり走るなりして亍=止まる動作を繰り返すこと。左の動名詞を名詞にすると行程となります。歩行とは複数の区間を止まり止まりしながら歩くこと。転じて、点線、升目の行などの名詞になります。

*爾雅(じが、 拼音: Ěryǎ)は、中国最古の類語辞典・語釈辞典のこと。

:人之步趨也。从彳从亍。凡行之屬皆从行。
「人の目的地に向かって歩く、または走る」と、形容動詞として訳します。地点から地点へ歩くのですから、場所的概念です。どこからどこまでの場所のため、何時から何時といった時間の表現には使えません。趨:一スウ・シュ ①はしる。足ばやに行く。 ②おもむく。目的に向かって行く。「趨向」「趨勢」 類趣 二ソク ①はやい。すみやか。 ②うながす。
     走也。曲禮注曰。行而張足曰趨。按張足過於布武。大雅。左右趣之。毛曰。趣、趨也。此謂假借趣爲趨也。从走。芻聲。七逾切。古音在四部。
     趨也。釋名曰。徐行曰步。疾行曰趨。疾趨曰走。此析言之。許渾言不別也。今俗謂走徐、趨疾者、非。从夭止。夭者、屈也。依韵會訂。夭部曰。夭、屈也。止部曰。止爲足。从夭止者、安步則足胻較直。趨則屈多。子苟切。四部。大雅假本奏爲奔走。凡走之屬皆从走。

   𤘸  牛徐行也

𤘸:牛徐行也。とあり、「牛がのろのろと歩いている」。左の意味からは、牛の群れを言うようです。人以外の動物などにも使っているようです。


逆に、という文字から見てみますと、”歩”とは”行”なりと書かれています。「步:行也。行部曰。人之步趨也。步徐、趨疾。釋名曰。徐行曰步。从止?相背。止?相竝者、上登之象。止?相隨者、行步之象。相背猶相隨也。薄故切。五部。凡歩之屬皆从步。」
*趨 意味
行は同”歩”と訳してなんら問題はないのです。ところで、これは一つの意味しか書いていないのです。もう三つの意味があります。「引伸爲巡行、行列、行事、德行。」からは、行には①歩く②並ぶ③催す④行う・・・の4つの意味があります。
③の行列は、(横)列という意味です。英語で言えば”LINE”;ラインです。
以下、ラインという意味があることを說文解字から拾ってみます。


その1
1261 打開字典 廴部:
     長行也。本義訓長行。引伸則專訓長。方言曰。延長也。凡施於年者謂之延。又曰。延徧也。从㢟。厂聲。厂部曰。象抴引之形。余制切。虒延?皆以爲聲。今篆體各異。非也。厂延虒?古音在十六部。故大雅施於條枚。呂氏春秋、韓詩外傳、新序皆作延于條枚。延音讀如移也。今音以然切。則十四部。


𢌛:行也。从廴正聲。
「延は行です。部首は廴、発音は正と同じ。」
【延延】 とは長く続くさまですが、羊延と書けば羊の長い行列ということです。
日本語では日常語としてよく使わる例は【延延】 長く続くさま。があります。

廴部(いんぶ)の部首の意味は長い列というのが基本です。
《廴部》 廴部(いんぶ)
1259 打開字典 廴部:
廴:長行也。从彳引之。凡廴之屬皆从廴。

その2)
說文解字(せつもんかいじ)
《行部》
   𢓈  𢓈 行示也。大司馬。斬牲以左右徇陳曰。不用命者斬之。小子。凡師田、斬牲以左右徇陳。陸德明引古今字詁曰。徇、巡也。按如項羽傳。徇廣陵、徇下縣。李奇曰。徇、略也。如淳曰。徇音撫循之循。此古用循巡字、漢用徇字之證。此古今字詁之義也。从彳。勻聲。古勻旬同用。故亦作徇。詞閏切。十二部。司馬法。斬以𢓈。許引司馬法者凡八。


1255 打開字典 彳部:
𢓈:行示也。从彳勻聲。《司馬法》:「斬以𢓈。」
「均は行示です。部首は彳勻と同じ声音です。斬と同じ。」
この行示の用例は不用命者、命令に不服な者を処刑するという意味でしょうか。執行する?
行には、行為という用例があります。
〖斬〗 ザン・きる1.《名・造》罪人の首・手足などを切りはなす。切りころす。きる。 「斬に処す」

は静的述語です。西域伝に少なからず使われていますので用例をもって説明したいと思います。
『魏略西戎傳』から行の用例として二行抜粋してみました。これは、行という意味が「行列している」が本来の意味だということ教えてくれます。

その1、「南道西行,且志國、小宛國、精絕國、樓蘭國皆並屬鄯善也。」
「南道を西に行列している且志國、小宛國、精絕國、樓蘭國はみな鄯善に並属している」 このように、訳すのが適切なのです。

その2、「中道西行尉梨國、危須國、山王國皆並屬焉耆,姑墨國、溫宿國、尉頭國皆並屬龜茲也。」
中道を西に沿って並んでいる尉梨國、危須國、山王國は皆、焉耆に並屬している。姑墨國、溫宿國、尉頭國は皆、龜茲(クチャ)に並属している」

その1では、行列していると訳し、その2では、沿って並んでいると訳しましたが、どちらも同じです。どちらも、「西行」でもって、国々が東から西に並んでいる状態を示す静的述語となります。
東行、西行、などの例。一定の方向に列をなしている状態。

例文:自玉門・陽關出南道,歷鄯善而南行,至烏弋山離,南道極矣。
 玉門關と陽關をから南道を出て鄯善(シャンシャン)國を経て南方向に列して烏弋山離國があり、南道は、ここで尽きます。

*鄯善國は楼蘭(ローラン)の後継国となります。鄯善國はローラン遺跡のある場所近くと比定します。南道のゲートは鄯善國の南200里のところにあります。そこは且末との境でした。南道の国々はここを起点に距離を取ります。南道の終点は烏弋離国(うよくさんり)です。鄯善国から烏弋山離までの間に南道に沿って且末・精絶・于闐など主な国が複数あります。「行至」は、どこどこに着いた、というのではなく国々が行列している状態を示しめしますので、動詞句としては、至る(いたる)ではなく、有る(ある)になります。
南道の終点に烏弋山があります。書いていませんが、その間に且志國、小宛國、精絕國、樓蘭國があることを「行」の一文字でカバーしています。
以上は、魏志倭人伝の[東行至不彌國百里・・・・を解読するためのおさらいです。東行至A.B.Cという構文とみます。
「東行至不彌國百里官曰多模副曰卑奴母離;有千餘家南至投馬國水行二十日官曰彌彌副曰彌彌那利可五萬餘戸南至邪馬壹國|女王之所都水行十日陸行一月官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮可七萬餘戸。」上記」「」の中が、東行がカバーする一つの文節として訓読します。

こうして、東に列する国々は不彌國、投馬国、邪馬台国となります。次の、狗奴国を絞り込むで詳述します。

*矣は、置き字として読みません。終尾詞として使われた時の 「也・乎・矣・焉・與・歟・耶・邪・哉・夫・已・耳・爾・而已・也已・已矣・而已矣」などの字は 「なり・や・か・かな・のみ」 などと読むことが多い。

②=水行、陸行などについて。

これらは距離の単位です。水行~日という一つのパターンとみなします。

A.水行一日 =A地点とB地点を結んだ距離を日数に変換した単位=37.8km/一日倭里数に逆算すると630里。
B.陸行一日=陸の上のA地点とB地点を結んだ距離単位=14.4km/一日 倭里数に逆算すると240里。

C.馬行一日=馬で走ってA点からB点まで到達する距離単位=164km/一日西域里数に逆算すると657里。
乗行~日=船に乗って到達するまでの距離、乗行一日は単位。
船行~日=船に乗って到達するまでの距離、船行一日は単位

距離の単位ですが馬行が馬に乗って行くことを表す助数詞(量詞)とみます。
 水行は実際の古代舟が無風状態での速度を基本にした距離の単位です。陸行との差は、湖や海を経由するぐらいの違いしかありません。風に乗ると帆船は6倍の速度になります。ですから、当時の舟の実測速度はこの値とは参考程度にしかなりません。
陸上行~日、馬上行~日、乗上行、船下行とします。船の場合だけ下なのは昔は船に上がって乗るのではなく、船に降りて乗船していたからです。
 現代中国語での量詞について
 犬一匹など、匹を助数詞といいます。アジア言語では汎用的語法です。
中国語では、一瓶啤酒はビール1本、一日游程は旅程一日となり、語順が逆です。魏志倭人伝の量子の語順は中国の古代南方語文法パターンを使っています。呉方言は今の上海語の祖語だと言われていますが、このフレーズは南方の逆行構文です。*瓶【píng】啤酒【píjiǔ 】

以上の用例は、みな複合構文です。水行だけで使われていません。後ろに何日という文字列が必ず入ります。このフレーズはコンビネーションだということです。
例文として漢書地理誌・西域から一つ上げてみましょう。
「尉頭國・・・・西至捐毒千三百一十四里,徑道馬行二日」

この例文はつぎのように訳します。「尉頭國から西方向に捐毒まで1314里です。馬でまっすぐ二日の距離です。」

「徑道馬行二日」の徑は現代の直線です。径の意味は「ただちに。すぐに。まっすぐに。さしわたし。」です(辞書より)。直径とか半径、直情径行とか熟語にあたってみると、まっすぐの意味であることが読み取れます。さて、そこで気づかなくてはなりませんね。1314里は馬で2日の直線距離です、と言っているのですね。
馬2日は距離の代替的な表現です。別な言い方をすれば距離と互換性があるのです。尉頭国で馬行2日が「1314里」と書かれています。西域里は0.24948kmでした。一日当たり、657里、164.1kmです。一日馬行=164km(西域里換算)となります。西域の里については漢書地理誌西域の章をご覧ください。
馬行~日でも、里数で書いても同じリアルな実数です。漢書地理志の里は何処から何処までという、その間を直線で計測しています。よく水行はなんだ、陸行はなんだ、と、道程や旅程として考えるのは日本だけなんです。行を「いくこと」なんて訓読するから道行きで考える思考におちいっているのです。水行+数値+日のワンフレーズで考えましょう。
例文;
倭人伝の末尾に西域のエリアのことが付け加えられています西域伝といっていいのでしょうが、倭人伝のカテゴリーに書かれます。その中に、水行半年があります。
13 打開字典 倭人傳:
「澤散王屬大秦,治在海中央,北至驢分,水行半歲,風疾時一月到最與安息安谷城相近,西南詣大秦都不知里數。驢分王屬大秦,治去大秦都二千里。」
現代語訳:
「澤散王はローマに属し、其の(澤散王)王城は海の中央に在り、北には驢分がある。水行半年、風が速い時は一か月の距離にパルティアの安谷城の近くに至る。西南に安谷城から出発しローマ大都に詣でているが安谷城と大秦国の里数は知ることができない。驢分王はローマに属する。其の(澤散王)城はローマ大都から二千里である。」

「水行半年、風が速い時は一か月」の解釈では水行半年は定数、風が吹くときは変数で計算することになります。変数にあたる風の速さは不定ですが、半年が一か月に縮小されるので、6分の1になります。速度としては6倍です。さて、その前に船は帆を持っていたことが裏付けられますね。
澤散王の王城は安谷城から水行半年を無風状態での距離単位と定義します。この間の距離がわかれば水行一日の定数が出るはずですが、今のところ安谷城を明確にできません。水行半歲,風疾時一月到と水行という距離単位で書かれています。安息ペルシャの安谷城と澤散王城との距離に違いないでしょう。パルティア(ペルシャ=イラン)の安谷城はカスピ海の南端にあったと思われます。そこで、水行とはたとえば湖や海を経由していはいますが、陸上もあります。そこで水行とは単純に距離の単位として使用され、実際の行程において水上を行くという定義はできないです。言い換えると観念上の距離なのです。

澤散王城(たくさんおうじょう)の場所を推理する
*其のは二回、三回と後続の文字列に現れても最初の其の主格を共有します。其の(澤散王)城はローマ大都から二千里であると解読します。
澤散王城:ローマ市間は2000里、この澤散城:ローマ市間は2000里がです。
2000里は中国魏一里0.4156kmで換算すると839kmです。城は海の中央に在るということから推定するに、澤散国はギリシャ半島にある国のようです。
この等距離円周に一番ちかい古代都市は、パトラです。パトラはアテネの西、ペロポネソス半島の北西部に位置する港町です。あまり知られていませんが、パトラは西の玄関口で、ギリシャ第三の都市です。市内にはローマ時代からの遺跡が残る一方、今なお重要な輸出港としての役割も果たしています。




839kmの等距離円を描いてみた。澤散城:ローマ市間は2000里、中国魏一里0.4156kmで換算すると839km


下はPatra=パトラの位置を示す図です。澤散王城(たくさんおうじょう)はパトラでいいでしょう。
上の等距離円が届くギリシャの古代都市のうち絶好な位置にあります。


古代ローマ時代のオデオン遺跡(音楽堂)があります。

=倭人伝の里数は中国里ではなく、定義した数値一里60メートルです。ローカル定数ですので「倭里」と呼びます。

=場所が先に、有を挟んで、後ろに目的語がくる構文。

=場所が先に、在を挟んで、後ろに目的語がくる構文。語りても聞き手も知っている場合に多く使われるので、場所の地名が一般に知られている場合は有よりも在が使われます

=州ー郡ー県などの行政区分 郡太守が監察する。

 州の勅使が監察する(三国時代では州牧が新設される。)

=余=~すこし多い値。(~ほどである、~あまりであるといった文語的意味では数値化できない)

=列挙する

=~国境を通過すること。

=離れている、分かれている
    
接する隣国との国境を通過することです。「姑墨國、東通龜茲六百七十里」の例では、姑墨國の南城から龜茲國の延城までは861里。都護治所の烏壘城までは1211里あります。(この間350里)
つまり、東に向かって670里で通過するのは姑墨國と龜茲國の国境ということになります。


=互いに同一行為をすること。相攻撃とは、互いに協力して第三者と戦うというという意味。互いを攻撃し合うという意味ではない。

「又」字について

唐代發音: *hiòu
說文解字: 《又部》又:手也。象形。三指者,手之𠛱多略不過三也。凡又之屬皆从又。打開字典
宋本廣韻: 《廣韻·去聲·宥·宥》又:又猶更也。打開字典
康熙字典: 《康熙字典·又部·又部》又:《唐韻》于救切《集韻》《韻會》尤救切《正韻》爰救切,𠀤音宥。《說文》手也。象形。三指者,手之𠛱多,略不過三也。《韻會》偏旁作𠂇。又《廣韻》又,猶更也。又《韻補》叶夷益切,音亦。復也。《詩·小雅》人之齊聖,飮酒溫克。彼昏不知,壹醉日富。各敬爾儀,天命不又。富音偪。打開字典
反切: 于救 (《廣韻·去聲·宥·宥》)
英文翻譯: and, also, again, in addition

『說文解字』又字は手である。三本の指の者の象形である。手の列が多くても略して三本を過ぎることはない。
・・・3文節まで又を続けることができるが4つ又を連続させることができないということのようである。
又字の用法;
第一の使用法;文章中、すでに使用済みの文言を後ろに再使用したいばあい、その使用したい箇所に又字を置くことにより、件の文言はその位置に甦る。又字がその再利用したい語の代替詞として記入される。・・・漢文においては、常に又の字の右に再利用したい語句があるので、右と同様な機能をもつ。
第二の使用法;同じ語が立て続けに三度使用される場合、二つ目以降のそれを又字で代替する法を言う。

同じ語を繰り返し主格として再使用したいばあい、又の字を代替詞として使用する。このばあい、被代替句(述語部)はすでに読み終えた文章の中に形と意味をもって実在している。(以上岩元説引用P52)
再利用したい文言は又の字前にある。言い換えると、(主格=代替される語句は、又の字の前の文節にあり、その内容は又の文節に引き継がれ打ち消されることはない。)

[又]の字は文中では構文になります。したがって、又又構文とわたしは名づけます。
例文:
1)犯人WはAさんを拳銃で3発撃った。
2)また、Bさんを4発撃った。
3)また、Cさんを2発撃った。

上の文を読んで、次の問いに答えなさい。

1)犯人は何人ですか?
2)犯人が撃った人は何人ですか?
3)犯人は拳銃を何発撃ちましたか?

答えは:
1)1人
2)3人
3)9発

1)主語は共通で一人ですが、2)行為の回数や3)付随する数値は通算されます。

又は、順次、1)の主体が何らかの行為を繰り返えしますが、その中の要素としての回数や距離、時間といった実数は加重されていきます。撃った弾数は総合計になってますよね。


では、上の例を参考に、魏志倭人伝の原文にある又又構文を解きなさい。魏志倭人伝には2カ所あります。
さて、ここからは本番の問いです。

♦一番目の又又構文
<從狗邪韓國>始度一海千餘里至對馬國・・略・・
南渡一海千餘里名曰瀚海至一大國・・略・・
渡一海千餘里至末盧國・・略・・
<從末盧国>東南陸行五百里到伊都國・・略・・(注:又が無い)

上の文を読んで次の問いに答えなさい。

問1)狗邪韓國から対馬国まで何里ですか?
   答え:1000余里
問2)狗邪韓國から一支国まで何里ですか?
   答え:2000余里
問3)狗邪韓國から末盧国まで何里ですか?
   答え:3000余里
問4)狗邪韓國から伊都国まで何里ですか?
   答え:3000余里+500里
問5)又が代替する主語はなんですか?
   答え:<從狗邪韓國>・・・です。

♦二番目の又又構文
<女王國東渡海>千餘里復有國皆倭種
有侏儒國有其南人長三四尺去女王四千餘里
有裸國黒齒國復在其東南船行一年可至參問倭地絶在海中洲㠀之上或絶或連周旋可五千餘里

上の文を読んで次の問いに答えなさい。

問1)女王国東海岸から倭種の国まで何里ですか?
   答え:1000余里
問2)女王国東海岸から侏儒國まで何里ですか?
   答え:1000余里+4000余里=5000余里
問3)女王国東海岸から裸国・黒歯国まで何里ですか?
   答え:5000余里+船行一年
問4)又の代替する主語はなんですか?
   答え:<女王國東渡海>・・・です。

さて、正しい答えができたでしょうか?たぶん、まだ首をひねっている方が多いでしょう。重要なことは、又の字の論理式を知ることです。

*余里は15%増しで実数化します。1000余里は1150里として計算します。。余がない里程はそのまま実数とします。詳しくは後節。
「其」字について
代名詞です。
 文の構造では、其其構文となります。
同じ語を繰り返し借用して文を構成する語法。

A・・・・・
其・・・・・
其・・・・・
其・・・・・
B・・・・・
其・・・・・
其・・・・・
其・・・・・
其・・・・・

1)Aの下の其はAを代替する。
2)Bの下の其はBを代替する。

其が続く限り、冒頭の主語を共有することです。
其が冒頭の主語以外の任意の語を主語にとることはありません。例えば直前の文字列から主語を引用するという日本語の慣用的な用法は間違いのもとになります。

魏志倭人伝中の例

景初二年六月倭女王・・・・
其年十二月・・・・・
正始元年太守弓遵・・・・・
其年四年・・・・
其年六年・・・・・
其年八年・・・・・

其が冒頭の主語を代替しますので、其は年号となります。
以下のように、景初か正始が代入されます。

A:
 景初二年六月倭女王・・・・
其年十二月・・・・・(其の代替文字は景初)
B:
 正始元年太守弓遵・・・・・
其年四年・・・・(其の代替文字は正始)
其年六年・・・・・(其の代替文字は正始)
其年八年・・・・・(其の代替文字は正始)

重要なことは、上のように、A段とB段を分けることができます。其の切れ目で分けることができます。冒頭に其がないことだけで其の其の段落の区切りをつけることが条件です。本論ではこの段落を、ブロックとして囲み罫をいれて分かりやすく編集しています。
なお、其の其の構文が多発し、ウェイトが高いのは、会稽編、女王国編です。其の解釈の違いが解釈を根幹から変えてしまいます。ここはしっかりと原則を押さえてください。

=①徑三十里の用例。徑は径、直線で点と点を結ぶ。まっすぐな線のこと。副詞的用法では「まっすぐに」
   ②通道,小路,窄道 

周旋=ぐるっと一周する 

=~と(並列助詞),西域伝では、~の方向に。

=接する;国境を隣り合わせにしていると解釈します。その間にほかの国はありません。
例文:
大宛國・・・北與康居、南與大月氏接。
大宛國は北に向かって康居(こうきょ)、南に向かって大月氏(だいげっし)に接する。

=末の(季子とは末っ子のこと)

=~してもよい、~ぐらいだろう

=中国と蛮夷の境界(長城を指す場合が多い)

=もともと

=いつでも

方向+=一定の方向にまとまって

地名+=~を越えて

=すなわち、一つにくっついている様。則刀は刀を身に着けている。則攻、則退、則進などはすぐに、ただちになどと訳します。西域伝では「東則接漢」西域の東は漢に接している。とうぜん、といった規定の事実を強調している接続助詞、動詞があるばあいは関係補助詞だろう。則の後ろは修飾句になる。(注)これは私の解釈です。

南道西逾葱嶺,則出大月氏、安息之國也。「南道を西に越えると葱嶺である。すなわち大月氏と安息の国に出る。」
「安息東則大月氏」、この場合、安息の東は大月氏です。與、接、有よりも藩という意味だけでなく、

乍~乍~ ~したり、~したりする。乍東乍南(さくとうさくなん) 東に南に順次方向を変えること。


=転=方向を変える

=~において

=~順接・・「テ」「しかシテ」「しかウシテ」(讀み) 「そして」「それで」「そうして」(意味) して、

=逆接・・「しかルニ」「しかルヲ」「しかレドモ」 (讀み)「それなのに」「そうではあるが」「そうはいっても」~でも

轉北而東復=北に方向を変えて、再び東に・・・

=そこで,ようやく,やっと,…でこそ,(月氏乃遠去;月氏をようやく遠く去って)②なんと,予想外にも.③…は…である.≦是.

*蓋=(けだし)確信をもって思うに

=推挙する

(えん、紀元前1100年頃 - 紀元前222年)は、中国に周代、春秋時代、戦国時代にわたって存在した国。春秋十二列国の一つ、また戦国七雄の一つ。首都は薊(けい)で、現在の北京にあたる。

祖禰(そでい・そね) 禰の異字体=祢(でい・ね)  生きるを父と称し、死せるを考と称し、廟に入るを祢と称す。(春秋公羊傳)・父のおたまや。みたまや。廟(ビョウ)にまつった父。「祈・祈は同じ「しめすへん」です

上祖:宗廟の筆頭の祖先、例外なく国祖、開祖(王朝を開いた最初の王)となります。


宗族=同じ先祖を持つ一族。

=文中での一単語として出現する場合は原則的に男性です。「年已長大,無夫壻,有男弟佐治國。自為王以來,少有見者。」、男王との記述はないのですが、自為王の王は男性です。ですから、この王は卑弥呼ではありません。弟のことです。通説はみな卑弥呼が王になって以来と誤訳しています。
《說文解字》 [東漢] 100年-121年 許慎著
《卷二》《王部》
78 王:天下所歸往也。董仲舒曰:「古之造文者,三畫而連其中謂之王。三者,天、地、人也。(天地人の中を連ねる者)

大率(だいりつ)=扶余の十六品のうちの一官名、佐平の次の位、官服は紫の帯をつける。(女王国と倭国編に詳細:三國史記では二品は達率といい、32人いたとする)一大率=幾人かいる大率のうちの一人。(大率が複数人いることの意味取りすることが重要。)

文献:
随書八十一列伝第四十六東夷百済:
其國東西四百五十里,南北九百余里,南接新羅,北拒高麗。其都曰居拔城。
官有十六品:長曰左平,次大率,次恩率,次德率,次杆率,次奈率,次將德,服紫帶;次施德,皁帶;次固德,赤帶;次李德,青帶;次對德以下,皆黃帶;次文督,次武督,次佐軍,次振武,次克虞,皆用白帶。其冠制並同,唯奈率以上飾以銀花。



拝假=天子より官職を拝命される事。(岩元学説P240)


大夫=周代の内官制度 五等以下の六等の中でも中位にあります。君>卿>大夫>上士>中士>下士、俸禄に準じた身分階級で、いわゆる貴族(上流階級)。卿は大夫の3倍の俸禄、大夫は上士の二倍の俸禄が与えれれていました。
周王朝、戦国時代まで、朝廷では普通にあった、ありふれた階級です。

大人=鮮卑伝では「自檀石槐死後,諸大人遂世相襲也」とあり、鮮卑の部族長を大人と呼んでいた。

下戸=平民以下奴婢まで

=場所+薨(こう)じる、は普通の死に方、単独で薨の場合は暗殺、ないし誅殺されたこと。

=ひたすら、ただただ

(きん)=説文解字:走獸の緫名(そうめい)なり、厹に従ひ、象形、今(きん)を聲とす、禽、离(り)、兕(じ)は頭相ひ似たり。
=卜占のこと。夏殷周代の亀甲文字を生成した占い。鬼神は宗族の太祖(国を興した祖先)であり、悪語ではない。

大陰暦=月の満ち欠けを基準にして作った暦。1朔望月(さくぼうげつ)は29.5306日なので29日と30日の月を組み合わせて1年を12か月とし、30年に11回の割合で30日の月を二度続ける。季節とは合わない。儀鳳暦(ぎほうれき)は中国暦の一つで、中国・唐の天文学者・李淳風(中国語)が編纂した太陰太陽暦の暦法である。唐でのもともとの名称は麟徳暦(中国語)(りんとくれき)であるが、日本においては儀鳳暦と呼ばれ、飛鳥時代から奈良時代にかけて使用された(後節)。定朔法を用いており、優れた暦法とされる。なお、この暦において初めて進朔が採用された。

四分暦=中国暦のなかで太陽年の長さを365と4分の1日とする四分法にもとづく暦法のこと。古六暦・戦国四分暦・後漢四分暦などがこれに当たります。暦法は中国では次ように変遷しています。
19年7閏月の章法を採用し、1太陽年を365 1/4(= 365.25)日、1朔望月を29 499/940(≒7001295308500000000♤29.53085)日とする。
古六暦(こりくれき)BC1050~BC104
前漢太初暦   BC104~ AD85(これ以後、暦法の詳細が正史に記載される)
後漢四分暦 AD85~AD220
景初暦   AD237~AD444
元嘉暦   AD445~

(晋の秦始暦=魏の景初暦を踏襲)
(東晋を継承した宋は名称こそ永初暦に変更したものの晋の秦始暦=魏の景初暦を踏襲しましたが、元嘉暦に変更しました。)(梁:建元暦―→大明暦)

景初歴19年7閏月の章法を採用し、1太陽年を(≒365.24688日、1朔望月を(≒29.530599日とする。景初歴では19間年で7閏月と定めました。 景初元年4月から施行。

元嘉暦=中国では宋の元嘉二十二年(445)~斉(建元暦)を経て、梁の天監八年(509)の65年間。その前は永初暦、次は大明暦。日本でいつから用いられていたかについてははっきりしません。儀鳳暦との併用期間を経て、続日本紀の始まる文武天皇元年(697)からは儀鳳暦におきかわりました。19年に7閏月を置きます。
定数:平朔、平気、章法
1太陽年= 222070(紀日)÷ 608(紀法)=365.24671日
1朔望月= 22207(通数)÷ 752(日法)=29.530585日
1交点月= 1朔望月×939(会月)÷(939+80(朔望合数))=27.212188日

=広大な。莽平は広大な平地の意味。

=買い入れる;糴穀=穀物を買い入れる

=~です。省略されても名詞述語文となる例が多い。

一,二、三=数詞といいます。

本、個、匹、編など・・・日本語では助数詞といいますが、中国語では量詞といいます。物の数を表すときアジア言語の凡例的用法、類別詞ともいう。
             个【gè】はなんにでも使われるようです。タイ語の類別詞【ʔan】は小物だけですが用法は个【gè】と似ています。

朱丹=朱砂を石臼で粉末にして、硫化水銀を分離した天然のもの。朱の顔料には別に、鉄の生産の副産物として生成されるベンガラがある。(褐鉄鉱を酸化還元する過程でできる)


罽刀(けいとう)=魏志倭人伝に出てきます。「拝假倭王 齎詔賜金帛錦罽刀鏡采物」です。これは罽賓國=スキタイ族の作った刀です。敦煌の月氏が匈奴に圧迫されゾグディアナに移動、サカ族を追放して大月氏国をたてました。サカは大月氏国に征服された後、南下カシミール地方に罽賓国(けいひんこく)を建てます。漢書地理史より。

罽賓國:西域の一国、サカ族(スキタイ)の国家。
維基 -> 梁書 -> 卷第五十四列傳第四十八 諸夷海南諸國 東夷 西北諸戎
扶桑國者》宋大明二年,罽賓國嘗有比丘五人游行至其國,流通佛法、經像,教令出家,風俗遂改。
南朝斉永元元年=499年=北魏:太和23年(471年:崎玉稲荷山古墳鉄剣)
「南朝宋大明二年=458年戊戌、かつて罽賓國にいた比丘五人が游行して扶桑国にいたった。仏法が広まり、経像、出家の教えなど風俗がついに改まった」
仏教伝来の記録としてみることができそうです。(479年宋滅びる)(日本史:513年百済五経博士を献じる。)

生口(せいこう) =捕虜

■捕虜と読むことが適当なことが分かる例文、その一、
[東漢] 80年 王充著 提到《論衡》《儒增》「・・・鄯善、諾降附歸德。匈奴時擾,遣將攘討,獲虜生口千萬數。」
訳:「鄯善(ローランのこと)が降伏して漢に付いた。時に匈奴が邪魔をしたので將攘を派遣して討伐した。千万の捕虜を獲得した。

■捕虜と読むことが適当なことが分かる例文、その二、
《三國志》[西晉] (265年-300年)
《魏書二》《文帝紀》
20 打開字典顯示相似段落 文帝紀:
「・・略・・魏書曰:十一月辛未,鎮西將軍曹真命衆將及州郡兵討破叛胡治元多、蘆水、封賞等,斬首五萬餘級,獲生口十萬,羊一百一十一萬口,牛八萬,河西遂平。・・略・・旬日:,破胡告檄到,上大笑曰:「吾策之於帷幕之內,諸將奮擊於萬里之外,其相應若合符契。前後戰克獲虜,未有如此也。」己卯,以大將軍曹仁為大司馬。十二月,行東巡。是歲築陵雲臺。」
訳:「魏書に曰く、十一月辛未、鎮西将軍の曹真は諸将軍や州郡兵に叛いた胡が治める元多、蘆水、封賞を討伐することを命じた。五万余級を斬首、生口十万、羊百十万口(匹)、牛八万を獲た。河西はついに平定された。」・・・旬曰く「上大は笑って曰く:「吾は策を帷幕の中で立てたが、諸將が萬里の外に出て奮擊したのだが其相應が符契にあっていたので前後の戰で虜を克獲したのである。いままでなかった事である。己卯の年、大將軍曹仁は大司馬に取り立てられた。十二月,文帝は東に巡行し、この年、陵雲臺を築造した。*詣臺の臺。


*生口十万=虜十万口
*大司馬 軍権の最高統括者、諸将軍に命令、罰、褒賞を与える権限をもつ。
*文帝(ぶんてい)は、前漢の第5代皇帝在位期間:前180年11月14日 - 前157年7月6日
姓・諱 劉恒:諡号 孝文皇帝



景初二年の12月の生口四人女生口六人は公孫氏の軍の捕虜、正始8年の男女生口三十人は高句麗軍の捕虜と読むべきでしょう。その理由は、「今一つ考えられるのはこの粗末な献上物を難升米が差し出せたのは、十人の生口が公孫氏系の捕虜だったからである。であればこの生口献上が魏の明帝を最も喜ばせたに違いない。その上に難升米がこれ以上の方法で自分の立場を説明する方法がないのである。」・・・岩元正昭『邪馬台国への道』より。この岩元説をさらに推し進めると・・・・生口十人は難升米が公孫軍と戦い勝利したことの生証拠というわけです。明帝は北方から襄平城をせめ、南から卑弥呼軍を別動隊として挟撃作戦を立てていたのです。これがまんまと成功したことを喜んだのでしょう。北方軍の大興師(司馬懿仲達)はまだ帰還していません。ですから、なおさらのことだったのです。


奴婢=奴は男の奴隷、婢は女の奴隷のこと。商人によって売り買いされていた下層民。

 卑弥呼は婢千人もの持っていました。奴は男の奴隷、婢は女の奴隷です。卑彌呼の死にあたって徇葬者は奴婢百餘人です。男女の奴隷合わせて100余人と読み下します。元に戻すと、生囚は奴婢と同意とみることはできません。女王卑彌呼はたくさんの奴隷を所有していたことになります。アジア的奴隷制度が中国に4000年前からありましたが、徇葬されるのはほとんどが主人の所有する奴隷だったのです。中国および韓半島の徇葬は人間から人型埴輪などに置き換えられ、やがて仏教が影響して8世紀前半には著しく減少したのです。

*中国の将軍が蛮夷との戦いに勝利したとき、たくさんの敵の捕虜を連れ帰ります。戦争では毎度のことで、いわば戦利品なのです。褒賞や地位が跳ね上がるのはいうまでもありませんが、奴隷市場で商人に売りさばくことができました。


班布二匹二丈(はんぷ)=反物で、巾:約50cm、長さ:約23mの布ということになります。これは成人の5人分の衣服が作る量です。なお、布は絹でなく、麻か綿の類でしょう。幅は機織り機によって変わりますから、さまざまな寸法があったと思われます。
「漢書 食貨志」 に 「布帛(ふはく)は横二尺二寸を巾として、長さ四丈を匹とす」と記されています。
一尺 =十寸=23cm(漢代)
一丈 =十尺=2m30cm
一反 =二丈=4m60cm=成人の一人前の布の量に当たります。
一匹 =二反=四丈=9m20cm
=世の旧字体。十が3つ重なった介意文字で30の意味。30年を一代としていたので、世に変化しました。丗丗と2つ重ねると世世となり、代々の意味に転じます。
電子版などでは「有王,皆統屬女王國」と書き換えられしまいましたが、紹興本(しょうこうぼん)と紹煕本(しょうきぼん)では丗です。旧字での丗がオリジナルだとみて、丗王は三十王と分析します。
三十人の王があり、みな女王国に従属している。と訳します。一人の王だと「皆、みな」の意味が宙に浮くことになります。皆とありますから、王は複数でなければなりませんよね。代々の王と訳すと、一国に王は一人ですから、単数になってしまいます。30の数詞は、倭人伝の冒頭の「今使譯(驛・えき)所通三十國」と同期します。また、倭人伝全体で出現する国名は30です。女王国以て北の9か国、余傍の国、20カ国で合わせて29か国です。あれ、?1カ国足りませんね。そこで、狗邪韓国を加えると30か国です。論理的には狗邪韓国が倭地のグループ、すなわち女王国(伊都国)が管轄していたことになります。(三十國と書いていながら、王が丗なのは矛盾する?その疑問は原本がないので、分析できませんが、わたしは単純に文字数を減らすためだと思いますが。)


太伯:太(たい)伯(はく)は司馬遷の「史記一 本紀」に見いだせる。
周の古公の長子に太伯、次男に虞(ぐ)仲(ちゅう)があった。さらに太姜(たいきょう)という賢婦との間に李歴(りれき)という子があった。この李歴の子に昌(しょう)という子があり、この昌に聖なる瑞祥があった。
そこで古公は李歴とその子、昌にわが世を伝えようと欲していた。このため、太伯と虞仲は洛陽から、荊蛮(けいばん(荊州)の地に出奔した。そこで、蛮俗の如く文身断髪、入れ墨をして髪を切った。周の王に相応しくない風体になり、つまり、あえて李歴に王位を譲ったというのである。
聖瑞があったとされる李歴の子の昌は、周の聖王、「文王」である。「文王」の次が「武王」で、有名な「太公望」が軍師として登場してくる。周朝初期を、孔子はユートピアとして描きあげ、その禮を後代に見習うべき模範として伝えた。三国時代まで、周皇帝は天使として戦国諸王の上にたつ存在だった。

:大燕国は鮮卑が領有する前は、周の武王の弟、召公奭(しょうこうせき)が始祖である。周の「武王」が立ったのはおよそ、紀元前1046年。弟周公旦・太公望・召公奭らの助力を借りて牧野(ボクヤ)の戦いで商(殷)を滅ぼす。武王が殷の安陽を攻略した。周は現在の西安の西方にあった西域の小国であったが、西周を建国する。武王は姫氏、その言語はアルタイ語の一つでトルコ系種族だったようだ。
中国ではもともと服装や、生活習慣、思想の違う種族(人種ではない)を蛮、夷(い)、戎(じゅう)、狄(てき)などと称して中華と区別していた。平原の主流派の文化が中華であり、その他を辺境とした。時代とともに夷人が華人になったり、華人が辺境に取り残されて夷人にみなされたりした。中国には55もの小数民族があるといわれているが、みな蛮、夷、戎、狄となる。だが、隋の楊氏や唐の李氏、北魏の慕容は鮮卑族であった。元は匈奴、清は女真族など、多くは異民族王朝であって漢族王朝は、わずかに漢と宋と明しかない。


狗邪韓国が三十カ国に含まれるのか、よく議論される論点です。伽耶韓国は九州倭人とほぼ同じような貝輪を装飾にし、また、貝塚遺跡からは黒曜石の石器も出土しています。文献からは韓国の民も入れ墨をしていました。そうした意味で倭人でした。縄文・弥生時代に倭の文化圏だったのはたしかですが、3世紀ごろ伊都国の行政圏だったかは定かではありません。が、魏志倭人伝で重複を除いて、現れる国名の数は29で、狗邪韓国をいれないと30か国になりません。


上の図版は貝塚の出土分布図。조개(ちょげ)(貝)、흑요석(黑曜石, Obsidian)の文字がかろうじて読めます。おそらく中央の丸い輪は貝輪でしょう。
男性が使う大型の貝輪はゴボウラ貝が多いのです。出土した貝輪がゴホウラ貝だとしたら。ゴホウラ貝は暖かい海にしか生息しません。
朝鮮半島南部海岸に帯状に分布しています。さて、대외교류=対外交流と読めるところがあり、倭人との交流があったとみるか、あるいは、私のように倭人の居住地だったのか、ご自身で判断してください。
人骨と一緒にでている例があればもっとわかるのですがね。参照リンク→釜山東三洞貝塚展示館、この貝塚の場所を地図でみると、1600年~2000年ぐらい前の海岸線が分かります。現在より10km~20km海進しています。もう一つ、鳳凰洞遺跡貝塚展示館(金海会峴里貝塚)が釜山では有名です。

<工事中:続く>

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